ほのぼの鬼殺隊生活(完結)   作:愛しのえりまき

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大乱闘不死川ブラザーズからの人間ポンプ、のち大江戸捜査網。
人間ポンプ、隠密同心。平成世代以降の方はご存じないと思いますが、古くてすみません。


第二十五話 しなブラ~シシテシカバネ

 

 悲鳴嶼の提案で柱稽古が始まった。

ここ風柱邸でも大勢の隊士が連日不死川に挑み、叩きのめされている。

 

(心が折れそう……)

来て早々に不死川にボコボコにされ、炭治郎は廊下の隅で項垂れていた。

 

「待ってくれよ兄貴!俺、頑張ってきたんだよ。悲鳴嶼さんや倫道さんに鍛えてもらって」

どこからか、悲壮感漂う玄弥の声と匂い。炭治郎は匂いを頼りにこっそり近づいた。

 

(すごく緊迫した匂いだ!どうしたんだ玄弥?)

廊下の曲がり角から恐る恐る覗き込むと、玄弥が兄の不死川実弥と対面していた。兄弟の対面とは思えない重苦しい雰囲気だ。

 

「りんどうってのは水原のことかよォ?あんな胡散くせぇヤツに何を教わりやがったァ?小ずるく立ち回って、コソコソ逃げ隠れする方法でも教わったか?ま、呼吸も使えねえ愚図にはそんぐれぇが似合いだぜェ。テメェは今後鬼狩り名乗んじゃねえ。ついでに鬼殺隊も辞めちまえ」

倫道の名前を聞いた不死川はさらにイラ立ちを露わにし、玄弥を罵倒した。

 

「兄貴っ!倫道さんはそんな人じゃない!それに、俺……ずっと兄貴に謝りたくて」

倫道の名前を出したのはまずかったかと後悔しながら、玄弥は食い下がった。

 

「しつけぇな、俺には弟なんかいねえよ。気安く話しかけんじゃねェ、ぶち殺すぞテメェ」

不死川は玄弥を威圧し、容赦なく話を切ろうとした。

 

(不死川さん、何であんなにつらく当たるんだ?何があった?それに憎しみの匂いは少しもしない)

不死川の酷い態度に心を痛める炭治郎。しかし、玄弥を拒絶する不死川からは、怒りの匂いと、その態度とは反対に、何故か悲しみの匂いがした。炭治郎には何となく不死川の真意が分かった気がした。

 

(玄弥、頑張れ。俺は玄弥を応援する!不死川さんはきっと……!)

実の兄である不死川実弥を前にして、大きな体を縮め、おどおどと必死に話しかける玄弥の背中は痛々しく、炭治郎はただ見ていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

(誰か俺の噂話でもしてるのかな)

鼻をグズグズ言わせながら倫道は風柱邸の廊下を歩いていた。不死川と手合わせし、連携訓練をしてもらうために風柱邸に来たところだった。しかし本当の目的は別にある。

 

(あ、くしゃみ出る、もう我慢できねえ)

倫道が風柱邸の廊下を歩いていると、曲がり角に隠れてその先の様子を窺っている炭治郎の姿。倫道はくしゃみを我慢しながら炭治郎に声をかけた。

 

「おーい、炭治郎く……ぶぁッくしょい!こんちくしょう!!」

背後から声をかけられて炭治郎が振り向くと、倫道が丁度盛大にくしゃみをしたところだった。

 

「酷いですよ倫道さん……風邪、ですか?」

炭治郎はくしゃみの飛沫をモロに浴び、顔をしかめる。

 

「ああ、ゴメンゴメン。誰かが俺の噂でもしてるんじゃないかな」

呑気に現れた倫道が鼻水をすすりながら炭治郎に謝っていると、ピリピリした雰囲気で対面していた不死川兄弟も気付き、こちらに視線を向けた。今しがた倫道をけなしていた不死川は、倫道本人の出現に多少バツが悪そうな顔をして舌打ちした。

 玄弥の動向を探っていた不死川は、倫道が玄弥を継子同様にして鍛え上げたことは聞いていた。しかし、ただでさえ“いけ好かないヤツ”と思っていた倫道が、玄弥を戦わせようとしていることには強い怒りを覚えていた。

 

「テメェ、何しに来やがった?」

不死川が倫道を睨む。玄弥に鬼殺隊を辞めさせたい不死川にとっては、玄弥を鍛えるなどありがた迷惑、というより明確に邪魔者だ。したがって倫道に向ける視線には憎悪とも言える感情が込められている。一方の玄弥は、兄との仲を取り持ってくれるかもしれないと、縋るような視線を倫道に送る。

 

「何って、柱稽古の手合わせに決まってるじゃないですか!――ああ、それと」

笑顔を見せていた倫道は、一瞬真顔になる。

「かわいい弟さんが兄ちゃんと話したいって言ってたから話してやってくれませんか?よろしくお願いします!!」

倫道は再びニコニコと元気良く挨拶する。

 

(倫道さんっ!!)

何のひねりもない、ド直球勝負。倫道は微笑みながらも真正面から不死川の目をじっと見つめ、はっきりと言った。この兄がすんなり聞いてくれるとは思えないが、それでも一縷の望みに懸け、玄弥は息を呑んだ。

 

「テメェと訓練なんぞするか!それに俺に弟はいねェ。失せろォ」

不死川は不機嫌に言い放つ。

 

「えっ?今来たところなのにそんな!じゃあせめて玄弥と話すだけでもお願いしますよ」

倫道が穏やかに訴えかける。

「俺、これでも精一杯頑張ったんだぜ?上弦とも戦って……」

玄弥が震える声で絞り出した。

 

「まぐれで上弦一匹倒したぐれぇで調子乗んじゃねェぞ。おい水原!てめえはそこの愚図連れてさっさと帰りやがれェ。それに言っとくがな、いくら鍛えたところで愚図は愚図。そんな奴にかける時間と手間がもったいねえ、無駄死にするのが関の山だからなァ。ま、そんなに死にたきゃ勝手に死にくされ。心底どうでもいいわ」

重苦しい緊迫感が薄らいだ。もう興味がないとでも言いたげに、不死川は玄弥たちに背中を向け、ひらひらと手で追い払う動作をして歩き出した。

 

「そんな、兄貴!俺はずっと謝りたくて……認めて欲しくて……鬼を喰ってまで……!」

玄弥のこの言葉を聞いた途端、不死川の歩みが止まった。

 

「んだとテメェ、今なんつったァ?鬼を喰った……だとォ?」

周囲が再びヒリついた空気になった。先程よりもさらに鋭く、不死川の発する威圧的な雰囲気に、玄弥は思わず足がすくんだ。不死川の血走った目が大きく見開かれ、今にも玄弥を睨み殺さんとするほどの鋭い視線が向けられた。

 

 ふっと不死川の姿が消えた。

不死川は玄弥に二本貫手(二本の指で突く技)を放ち、両目を潰そうとしたのだ。

 

(やばい!)

不死川の二本貫手を、倫道が咄嗟に掌底でかち上げて受け逸らす。

 

 バチンッ!

 

 素手と素手がぶつかったとは思えないような重く大きな音がした。

 

(本気かよ不死川さん!そこまでして)

不死川の貫手を受けた倫道の掌はビリビリと痺れ、重い衝撃が残った。炭治郎は玄弥にタックルして不死川の攻撃から守り、廊下から庭へと一緒に転がり落ちた。倫道と炭治郎が危うく止めたが、棒立ちになった玄弥がまともに受けていたら間違いなく眼球は破裂して失明は免れなかった。本当に本気の攻撃だった。

 

「何するんだ?!玄弥を殺す気ですか!」

炭治郎が玄弥を後ろに庇って怒りの猛抗議をするが、不死川は歯牙にもかけず、倫道と炭治郎を交互に見やって冷笑し、自らも玄弥を追って庭へ降りた。

 

「殺しゃしねェ、ただ二度とお日様拝めなくするだけだァ。さすがに目ぇ潰せば再起不能だろうなァ……。ただし今すぐ鬼殺隊辞めるなら許してやる」

不死川は、歪んだ笑みを浮かべながら玄弥に迫った。

 

「話も聞かないのに、貴方にそんなことする権利ないだろ!」

炭治郎が怒る。

 

「不死川さん!そんなことしないで、玄弥と話してくれ!たった一人の弟じゃないか!」

倫道も庭へ降り、不死川の行く手に立ち塞がる。

 

 水原倫道に竈門炭治郎。

 

 鬼殺隊士の中で最も嫌っている二人が雁首揃えて目の前におり、玄弥を追い出す邪魔をする。この状況に、不死川はこれ以上無いほどにイラ立った。

 

 炭治郎は不死川の真意を匂いで推測する。どうしても生きていて欲しい、だから戦いから遠ざけたい。玄弥の行動には怒っているが、玄弥に怒っているわけでは決してないのだ。玄弥への思いはとても優しいものなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。炭治郎は余計にやるせない思いでいる。不死川と玄弥、双方の思いを痛いほどに分かっている倫道も、もどかしく思っていた。こんなに互いのことを思い合っている兄弟なのだから、わだかまりを解いて欲しかった。

 

「うるせえな、テメェらの知ったことか!兄弟のことに首突っ込むんじゃねえ!テメェらも再起不能になりてェのかよ」

不死川も怒りを募らせ、臨戦態勢になる。

 

「あっ!今兄弟って言った!さっきは弟はいないって言ったのに矛盾してる!なあ炭治郎君!」

「そ、そうですよ!玄弥は必死で頑張ってるんだ!辞めるのを強制するな!」

揚げ足を取る倫道に炭治郎が同調し、ピーピーと騒ぐ。

 

「うるせえ!!」

不死川は遂に倫道を殴りつけ、倫道は派手に吹っ飛んだ。

 

「うわっ暴力だ!自分の思うようにならないとすぐ暴力を振るう野蛮な人間!」

酷く殴られたように見えるが、倫道はパンチが当たる瞬間に顔を振り、受け流して威力を殺していた。ダメージは受けていないのだが、倫道はわざとらしく頬を押さえて喧しく騒ぎ立てる。

 

「暴力だァ?それがどうした、暴力の何が悪いんだァテメェ」

不死川の顔に血管が浮き、拳を握ってボキボキと指を鳴らす。

 

(ヤベえ、逆効果だった!)

少しは自重するかと思われた不死川を余計に怒らせてしまい、倫道は後悔した。不死川は倫道に飛びかかり、戦闘が始まった。

 

(兄貴!倫道さん!)

激しい戦闘、というより喧嘩が遂に始まってしまった。自分のことが原因で凄まじい格闘戦を繰り広げる二人に、玄弥はどうすればいいのか分からずおろおろしていた。

 

 突然始まった柱二人の争い。

 

 善逸をはじめ訓練に来ていた隊士たちは前後のやり取りを知らないが、柱同士のハイレベルな攻防に、最初は手出しもできずただ見ていた。

 

「うるせえんだよ!このお節介野郎が!帰れっつってんだ!」

「アンタが玄弥と話すまで絶対に帰らん!」

 

「帰れっ!ぶち殺すぞテメェ!」

「じゃあ玄弥と対話しろ!」

怒号を上げながら殴り合う不死川と倫道。最初こそ手合わせの様子であったが、そのうちただの殴り合いになった。

 

(手合わせ……じゃないよね?これ何の争い?)

怒鳴り合いながらの手合わせなど見たことが無い。お互いかなり感情的になっているように見え、隊士たちは戸惑う。

 

「おい、やっぱり何か様子おかしくないか?」「止めないとまずいんじゃ……」

不死川の猛稽古が無いのはありがたいが、かと言ってこの異常事態を傍観している訳にもいかない。何かを感じた隊士たちは、二人を分けようと覚悟を決め、必死で割って入った。

 

 不死川と倫道に群がり、押し潰すようにのしかかっていく隊士たち。だがしがみついても振りほどかれ、投げ飛ばされ、人間がこれ程簡単に飛ぶかと思われる程に、次々と隊士たちが宙を舞う。同じく二人を止めようとした玄弥も炭治郎も揉みくちゃになり、もう誰が誰と戦っているのかすらも分からない、グッチャグチャの大乱闘になっていた。

 

 乱闘の開始から数時間、流石に不死川も不死身ではない。早朝の自己鍛錬、朝からの激しい掛かり稽古、その上昼食も休憩も取らずに夕方まで荒れ狂えば動きも鈍くならざるを得ない。もともと憎しみや殺意があっての喧嘩ではない。どうしようもない、どこにもぶつけようのない互いの感情が行き場を失って衝突しただけだ。不死川も倫道も体力が尽きてきたがお互いに譲れない主張があり、相手には認めさせたかった。そんなわけで、グダグダになっても掴み合い、殴り合いを止めない不死川と倫道に隊士たちは手を焼いたが、まだ暴れる二人を何とか引き離した。

 

「良いか水原ァ!今後俺には関わるんじゃねェ!」

不死川は倫道に背中を向け、自室へ入ろうとよろよろと歩き出す。

 

「待ってくださいよ!用件が済んでない!玄弥と話すまで帰らんぞ!」

押さえていた隊士たちの一瞬の隙を突き、倫道が不死川に飛びかかった。

 

(あっこらっ!また騒ぎになっちゃうよ!)

制止を振り切り、押さえられない程の早さで倫道が飛び出し、取り逃がした善逸は焦った。だが倫道は疲労で足がもつれ、さらに隊士が倫道の足にタックルした。不死川の肩ではなく隊服のズボンを両手で掴み、そのまま倫道はバッタリと倒れた。不死川のズボンが足元まで落ち、褌が露わになった。

 

 倫道は死を覚悟した。周りの隊士たちも顔から血の気が引き、その場が凍りついた。不死川の怒りに再び火が付き、もう誰も止められない、その場の誰もが絶望した。ところが、予想された嵐は起きなかった。

 

「――おいテメェ、いつまでしがみついてやがる?」

不死川はそう言って倫道の手を振りほどいてズボンを引き上げ、舌打ちをしながら歩き去ろうとした。

 

「待ってくれ不死川さん!」

倫道は慌てて立ち上がると必死の思いを込めて呼び止めた。

 

「いい加減にしろよテメェ。まだやり合うつもりかァ!」

振り返った不死川の不機嫌な怒鳴り声が響く。倫道を制止するため周りに隊士たちが群がり、「止めてください!」と口々に諫める。

 

「アンタはそれで良いのか?!玄弥と腹割って話さなくて良いのかよ?!思ってることがあるならちゃんと言え!こうして生きて顔を合わせるのは当たり前のことじゃないんだぞっ!」

倫道が息を切らして叫ぶ。

 

「言葉にしなくちゃ伝わらないんだ!昔玄弥に言われたことなんて何とも思ってないんだろ?!“謝らなくていい、いつまでも気にしてんじゃねえ”って、どうして言ってやらないんだ!」

これを聞いた不死川が忌々し気に睨むが倫道は怯まなかった。原作での兄弟の悲しい別れを思い、倫道は盛大に鼻をすすりながらまた叫んだ。

 

「玄弥の気持ちを分かれ!あいつはもう護られるばかりの子供じゃない、立派な剣士だ!共に戦う仲間だ!何でそれを理解してやらねえんだよ!」

倫道のセリフに、不死川が目を剥く。

 

「はっきり言ってやったらいいだろ!!“お前を死なせたくないからだ”って!!玄弥に幸せになって欲しいんだろ?!だけどな、玄弥もそう思ってんだよ!自分はどうなってもいいなんて、幸せじゃないだろうそんなの!アンタにとっても玄弥にとっても!だから!だから……ちゃんと自分の人生も生きろ!」

倫道は涙を流し、ご丁寧に鼻水まで出しながら力一杯叫び続けた。

 

 隊士たちは誰しも、多かれ少なかれ自己犠牲の精神で隊務に当たっている。一般人や同じ隊士のため、自分の命を投げ出す者も多い。

 自分自身も幸せになって欲しい。倫道の必死の叫びはそんな隊士たちの心をも打つ。隊士たちは言葉を失い、その場は静まり返った。

 

(それ、本当なのか?本当に……兄貴がそんなことを)

不死川の思いを聞き、玄弥も別の意味で言葉を失う。そして腫れ上がった瞼を開き、成り行きを見つめた。

 

――「幸せになれ、自分の人生を生きろ」――。

 

 下弦ノ壱は親友と二人で倒したが、親友は不死川の腕の中で息絶えた。その親友が、不死川を心配して最後にかけた言葉だった。倫道が声を枯らして叫ぶその言葉に、不死川は呆然とした。

 弟の変化にも、不死川はもちろん気付いていた。不死川の心の中の玄弥は、不安そうに自分を見上げている子供の姿だ。だが目の前の弟は、わずかではあるが自分の背丈を追い越してすっかり逞しくなり、隙の無い立ち姿には強靭さが見えた。肉体的な強さだけではなく、柔軟でありながら一本筋の通った人間としての強さを身につけていた。入隊してからの短期間で、どれほどの鍛錬を自らに課したのか、その必死さが伝わった。普通の世界で生きるなら、兄として本当に喜ばしいことだった。だが、ここは人外の怪物と殺し合う世界だった。努力が報われる、そんな甘い世界ではない。人間の能力を遥かに凌駕する鬼を相手に、少しぐらい強くなったところで大した意味はない。

 冷たくあしらって、大怪我をしない程度に痛めつける。それでも分からなければ、半殺しくらいはしなければならない。そうなれば玄弥はさすがに諦めるだろう、不死川はそう思っていた。弟の玄弥が生きていてくれること、幸せでいてくれることだけが不死川にとっての幸せだった。鬼殺隊から追い出した真意が理解されなかったとしても、憎まれても恨まれてもそれで良かった。自分自身がどうなろうと、それすらどうでも良かった。

 だがこのバカが、話し合いをしろと泣きながら訴えてくる。このバカ自身には何の得も無い、ただの骨折りでしか無いはずなのに。

 

(こいつ……似てやがる。そういや、こんな風に殴り合いしたよなァ)

誰かに似ている。今までにも、こんなお節介なお人好しバカに会っている。一体どこで会ったのか、誰に似ているのか。

 

(あいつだよな)

唯一無二の親友で兄弟子。今は亡き、粂野匡近。不死川は本当は気付いていたが否定していた。認めたくはなかったが、もう認めざるを得ない。心を掴まれ、揺さぶられてしまっていた。

 優しそうな容貌、にこにこと能天気な笑みを浮かべながら、心の中には熱く激しい情熱の炎が燃えたぎる。鬱陶しいくらいに他人の世話を焼き、他人のことばかりを心配し、挙句に勝手に死んでしまったあいつに似ているのだ。

 

(匡近ァ、お前がこいつを寄越したのか?全く余計なお世話だぜ。お節介にも程ってモンがあるだろォ)

見て見ぬ振りをしていれば良いことだろうに、こいつは自分たち兄弟のために怒り、泣き、騒いでいる。そして、悲鳴嶼の教えもあっただろうが、弟をここまで変貌させたのはこいつなのだろう。

 

(テメェはホント、うるせえ同僚だぜ)

不死川は、少しずつ解れていく自分の気持ちに戸惑いながら、敢えて仲間とは表現しなかった。

 数時間の乱闘で疲れ、これ以上考えるのにも疲れた。不死川は大きくため息を付いて、柄にもなく微笑んでしまいそうになるのを堪えたが、少しばかり表情が緩むのは抑えられなかった。

 

「テメェもひでえ顔だな玄弥。こっち来い、薬がある」

不死川は玄弥に声をかけると、背中を向けて自分の部屋の方へ歩き出した。玄弥が戸惑ったように不死川を見つめ、それから助けを求めるように倫道を見た。倫道はその背中をポンと叩く。

 

「……うん」

玄弥はまだ少々戸惑いを残しながら、慌てて不死川を追いかけて行った。

 

「テメェら。今日の夕方の稽古は無しだァ。そん代わり、明日からまた血反吐を吐いてもらうぜェ」

不死川は背中を向けたまま隊士たちにそう宣言し、今日これからは地獄の稽古が無いと分かった隊士たちは歓声を上げた。

 

「水原、気が済んだろォ」

不死川の顔は所々腫れ上がっていたが、表情はスッキリとしていた。

 

「今日はこの位にしといてあげますよ」

涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら、倫道が憎まれ口を利く。

 

「うるせえ。顔洗ってさっさと帰れ」

不死川もぶっきらぼうに返して自室に入り、玄弥は倫道と炭治郎に向かってペコリと頭を下げ、不死川に続いた。

 

(不死川兄弟の仲を取り持った!ものすごく強引だけど)

炭治郎は、倫道を横目で見ながら感嘆した。倫道が言った、自分自身も幸せになること、それは炭治郎にも新鮮な驚きをもって響いた。

 

(だけど、気のせいかな?)

不死川が玄弥に心を開いてくれた。それはとても嬉しいことなのだが、炭治郎は倫道の様子が気になった。この人自身が、一番自分を犠牲にしている気がしてならなかった。焦燥感に駆られているような、どこか生き急いでいるように見えてならなかった。

 

(だとしたら……どうしてかな)

炭治郎は心のどこかに引っかかりを感じていた。

 

 

 

 

 その晩、不死川兄弟は数年ぶりに夕餉を共にした。

 

 

 

 

 倫道は、カナエ、しのぶと共に珠世と協力し、最終決戦に向けての共同研究を行っていた。また冨岡を説得して共に柱稽古に当たり、柱たちとの連携訓練にも参加し、忙しく動き回っていた。そして無限城での戦闘に耐えうると判断した強い隊士だけをわざと鳴女に捕捉させ、下級の隊士たちが見つからないよう、密かに警戒活動を続けていた。

 

 

 

 夜更けの街はずれを歩く一人の鬼殺隊士。時刻は既に午前三時を回っている。鬼の出現が途絶えていると言っても警備の任務が無くなる訳では無く、この隊士を含め、鬼殺隊は今夜も見回りを行っていた。

 

 その背後に光る二つの目玉。

 

 

 

 

 無限城の一角で、長い髪の女が琵琶の音を響かせる。新たな上弦ノ肆・鳴女だ。背後の壁一面に長い黒髪が食い込み、それがドクン、ドクンと不気味に脈打っていた。鳴女は無限城の一部と化し、この巨大な無限城を無惨の意のままに制御する中枢となっていた。それに加えて自身の分身である目玉の卑妖を放ち、産屋敷家や禰豆子、そして鬼殺隊士たちを探し出して居所を把握しようとしていた。最終決戦で全ての鬼殺隊士を無限城に転送し、皆殺しにするためだ。

 

 目玉の卑妖は眼球から直接ヒモ状の足が生えており、その足をウネウネと動かして地面を這い、見つけた隊士を追跡する。隊士は油断なく周囲に気を配るが、二、三十メートルの距離を保ち、巧妙に姿を隠して尾行するこの目玉には気付けなかった。

 

(見つけた……。また一人)

今夜も隊士を発見した鳴女は、目玉の卑妖を操り尾行を開始する。壁面のスクリーンには、目玉の卑妖から送られる視覚情報が映し出されていた。

 

 

 

 

(見ーつけた)

だが、その鳴女も気付かなかった。目玉の卑妖のさらに後ろに現れた、怪しく微笑む男の影。

 

(彼はまだ無限城に連れては行けない。居所は掴ませないよ)

男は音も無く動き出し、目玉を追った。

 

 隊士の後を追う二匹の目玉の卑妖だったが、標的の隊士が角を曲がったところで、一つはプツリと映像が途切れ、もう一つはあらぬ方向を映し出し、追っていた隊士の姿は画面から消えた。

 

「どーもこんばんは!またお会いしましたね!」

画面の外から能天気な声がした。

 

 画面がぐるりと回り、ニヤけた男の顔がアップになる。男は目玉の卑妖の足を握りしめ、変顔でマッスルポーズをしてそれを自撮りしていた。

 

(またこの男だ)

この声を聞いて、鳴女は頭痛を覚えた。この男によって、もう何十回となくこうしておちょくられた末に目玉の卑妖が潰されている。しかもこの男は、数日前には目玉の卑妖を捕まえてユーチューバーのように自撮りを始め、自己紹介をし、自宅の場所まで教えていた。

 

 男は水柱・水原倫道と名乗った。

 

 ただ単に嫌がらせをしているだけなのかと思ったが、そうではなかった。目玉の卑妖が潰される直前、信じられない事が起こったのだ。男は目玉の卑妖を介して覗き込むようにこちらに視線を向けた。その時確かに視線が合った。それだけではない。男は不敵に笑い、頸を掻き切る動作をこちらに見せつけた。それは、この目玉を放った鳴女とこの画像を見ている無惨への明確な挑戦の意志表示だった。あの男は、この目玉の正体も、どんな目的で放たれたかも知っていると考えて間違いない。

 

 

(もういい加減にして欲しい……)

鳴女は舌打ちする。今夜もまたこの男の邪魔が入った。スクリーンには、未だ男の顔や口の中のアップが映し出されている。新たに発見した隊士の姿を見失い、視界いっぱいの変顔を見せられて鳴女は辟易していた。

 

(柱とは言え、こいつはただの鬼狩りじゃない。一体何者?いや、それよりも)

倫道の正体を詮索するよりも、鳴女はある可能性にゾッとした。

(もしこんなところを……)

それは想像するだけで身震いする程の恐ろしい事態だった。

 

 

 

 

「リンゴをかじると、歯茎から血が出ませんか?」

などと言って、倫道は目玉の卑妖をかじる真似をしてまだふざけている。そこに、警備を終えて帰宅途中の斗和が通りかかった。何かを口に放り込もうとしている倫道に気付き、声をかけようと近づいた。

 

(倫道君?何か食べてんの……?ってキモッ!マジありえねえコイツ!)

近づいてよく見ると、倫道が口に入れようとしているのは鳴女の放った目玉の卑妖。斗和はドン引きしたが、先日の玄弥の件など色々と話したいこともあったので声をかけようと近づいた。

 

「躍り食い」

逃げようと暴れる卑妖を口に放り込む真似をしたり、やりたい放題の倫道は斗和に気付いていなかった。

 

「倫道君!」

あーん、と口を開けている倫道の背中を、わっ!と斗和が叩いたその時。つるりと手が滑って、目玉が倫道の口の中に飛び込んだ。

 

「ンゴッ!」

ゴックン!さらに、倫道は驚いた拍子に口に入った目玉の卑妖を飲み込んでしまった。

 

「!!……くぁwせdrftgyふじこlp!!」

「きゃああ!飲んじゃった!倫道君!!」

予想外の事態に斗和は慌てて倫道の背中を叩いた。倫道は目を白黒させていたが、すぐ落ち着いた。

 

「……大丈夫、心配ない」

倫道は不敵な笑みを浮かべると、ほっ!はっ!と掛け声をかけ、腰をくねらせる奇妙な動きをしてポンと腹を叩くと、おええ、と人間ポンプの要領で目玉の卑妖を吐き出した。

 

「あービックリした。危うく鳴女に内視鏡検査されるところだったよ」

倫道は逃げようとする目玉を潰し、斗和に笑いかけた。

 

「倫道君、だめだよあんな物食べて!」

真顔で怒る斗和。

 

(いや、斗和さんが急に驚かせるから飲み込んじゃったんだけどね)

倫道は思ったがそれは言わなかった。

「食べるつもりじゃなかったんだけど……。まあ飲み込むくらいは平気だよ。今の目玉は転送機能の無い廉価版だし。画像を撮って送信するだけで、悪さするような機能は付いてない。カプセル内視鏡みたいな物だから、何ならこのまま吐き出さなくても今日の夜には自然に出」

「あーもういい、ストップ」

 

うん◯と一緒にね、と言いかけた倫道を制し、斗和は汚くなりそうな話を打ち切った。

 

「朝餉、食べて行く?」

不死川兄弟との経緯を聞きたくて、斗和は倫道を誘った。

 

「ありがとう!是非!」

久しぶりにあの絶品焼きお握りが食べられる、と倫道は喜んで斗和について行った。

 

 

 

 

 

 

 壁面のスクリーンには、倫道の胃内に入り込んだ目玉の卑妖から、その様子が送られて大写しになっていた。

 

 鳴女は身体を突き抜ける恐怖感に怖気が止まらなくなり、スクリーンから部屋の入り口へと、恐る恐る視線を動かした。

 

「もっ……申し訳ございません!!」

恐れていた事が起きてしまった。鳴女は必死に叫び、わずかしか動かせない頭を精一杯下げた。

 正視に耐えない場面が大写しになっており、顔中に血管を浮き上がらせた無惨が、怒りの形相でスクリーンを見つめていた。

 

「無惨様、申し訳ございません!この男が邪魔を!」

画像は倫道の胃から逆流して食道、口腔内を通って体外に排出され、一瞬外の模様を映し出して消えた。

 

「鬼狩りどもの居所は掴めたか」

「はい、腕の立ちそうな者、階級が上の者を中心に三割ほどは。ですがこの男の邪魔が入り、それ以上が」

「腕の立つ者の所在は掴めたのだな?良かろう。……鳴女、お前は私が思っている以上に成長した。引き続き産屋敷と禰豆子を探せ。今度はこの辺りだ。……この男の事はもういい、放置しろ」

無惨は怒りを抑えながら地図を指差した。

 

 

 

 

 土柱邸の庭兼鍛錬場。

 

「朝餉の前にちょっと体動かしてくるから、倫道君は休んでて」

自宅に着いて刀を置くと、斗和はそう言って庭へ出て行った。倫道は仮眠を取ろうかとも思ったが、興味があったので見せてもらうことにした。

 

 斗和は荷車の荷台に向かうように、二本の柄の間に立つ。荷車を引く時とは丁度反対向きだ。

 

「フンッ!!」

荷車の荷台には重り代わりに五人の隠が乗せられている。斗和は荷車の柄を担ぐように、ショルダープレスのような体勢になって斜めに押し上げようとしていた。挙上する方向は真上ではなく斜め上なので全部の重さはかからないが、荷車自体と荷台の人間、合わせれば四百キロ近い重さがあるだろう。

 

(ロッキーの映画でこんなのあった……三人だったけど)

倫道は目を丸くして見つめる。

 

(おおっ!車輪が浮き上がってきた!)

荷車の各部がギシギシと軋む。荷台の前の方が持ち上がり、車輪がわずかに浮き上がる。倫道は、この光景にあ然とした。斗和がぐぐっと腕を伸ばし切ると荷台が大きく傾き、重りにされた隠たちは小さく悲鳴を上げる。隠が落ちそうになったので斗和はゆっくりと荷車を戻し、ふうっと大きく息をついた。

 

(ひええ……もうゴリラじゃん……)

倫道がドン引きしていると、視線に気付いた斗和が声をかけた。

 

「倫道君!今何か言ったでしょ?」

「い、いえ、姐さん!何でもありません!お疲れ様です!」

倫道は精一杯の愛想笑いを浮かべた。

 

 

 台所から良い匂いが漂って来る。斗和が卵焼きと焼きお握りを作ってくれていた。斗和は味噌汁やその他の物も作ろうとしたが何故か止められ、土柱邸付きの隠たちが作ったが、斗和は少し不満そうだ。

 

 倫道は斗和の厚意に甘え、一緒に朝餉を頂くことにした。倫道のリクエストで、斗和はご飯をわざわざ焼きお握りにして出してやった。以前斗和の焼きお握りを食べさせてもらった倫道はその美味しさに感動し、その後も度々この絶品焼きお握りをおねだりしていた。

 

「はいどーぞ」

斗和は焼き上がったお握りをまず一つ倫道に手渡した。

 

「ありがとうございます!」

顔を綻ばせてお握りに手を伸ばす倫道だったが、今日はいつものようにがっついて食べることはなかった。受け取ったお握りを大事そうに両手で持ち、なかなか食べずにじっと見つめている。

 

(あれ?何か気に入らなかったかな?)

少し心配になった斗和が声を掛けようとした時、倫道がやっと食べ始めた。

 

「……美味しい」

いつもと違って大分控え目に最初の一口を食べると、倫道は動きを止めてそう呟いて涙ぐんだ。

 

「美味しい?良かった!……倫道君どうしたの?そんなにお腹空いてた?」

斗和は、様子がおかしい倫道に思わず声をかけた。

 

「うん、お腹も空いてたけどお握りが美味しくて、慌てて食べたから気管に入っちゃった」

倫道は斗和の握ったお握りを久しぶりに食べられて嬉しかった。だが、味わうのはおそらくこれが最後になるだろう。そう思うと様々な思いが込み上げ、倫道はゲホゲホとむせる真似をして涙を誤魔化した。その後はすっかりいつも通りになり、一個目、二個目ともお握りをそのまま食べ、三個目はお茶碗に入れて出汁茶漬けにして頂き、十分に堪能した。これもまた絶品の粕漬けと卵焼きもマスカラスと奪い合いながら倫道は夢中で食べた。

 

 

 食べ終わって一息つくと、倫道は不死川と玄弥の間を取り持ったことを報告した。斗和は風柱邸にほぼ毎日行っており、不死川からも少し聞いていたが、その模様を詳細に聞いて苦笑していた。

 

「本当に良かったね。実弥さんも、倫道君のこと本当にうるせえ奴だって言ってたけど、感謝してるんじゃないかな。でも、玄弥君はやっぱり鬼殺隊を辞める気はないみたい」

「玄弥の想いを不死川さんに伝えてあげたかったんだよね。どうしても謝りたくて、あんなに必死になって頑張ったんだから。玄弥にとって良かったかどうかは分からないけど」

「大丈夫、二人とも感謝してるよ!私たちも頑張って、誰も死なずに無惨討伐しよう!」

斗和が拳を握って倫道を励ました。その前向きな言葉に倫道は少し驚く。出会った当初、斗和は物語への介入に積極的ではなかった。だが倫道と出会い、考え方に触れるうちに少しずつ変化していた。杏寿郎を助けた。不死川実弥と恋に落ちた。心臓の病気が完治した。そんな一つひとつが躊躇いを消していき、世界を変えるために頑張ったり、幸せを願っても良いのだとそう思えるようになった。

 

「倫道君、私たちどうなっちゃうのかな、無惨倒した後」

一息ついた斗和が、遠い目をしながら言った。

 

「どう……って?」

倫道が内心ギョッとしながら聞き返す。

 

「私たちって結局異分子じゃない?この世界からしたら。だから、目的を果たしたら、その反動でどうなるか……。弾き出されちゃうとか」

これを聞いた倫道は一瞬顔を曇らせる。

 

「倫道君?」

「まあ色々と介入して変えてしまったからね。正直この先どうなるかは俺でも分からない。でも大丈夫、斗和さんはこの世界の人だから」

 

「えっ?私たち二人とも転生者でしょ?倫道君と私、同じじゃないの?」

「同じだけど、斗和さんは大丈夫だと思うよ。良く馴染んでるし、この世界に欠けちゃいけないピースだと思う」

倫道はかすかに笑う。

 

(俺でも分からないってどういうこと?私が知らない、倫道君だけが知ってることがあるってこと?)

倫道のちょっとした言動に違和感を覚え、何かが引っかかる斗和。釈然としなかったが、倫道がすぐに話題を変えた。

 

「それに俺は隠密同心だから」

「オンミツドウシン?」

斗和は聞き返した。

 

「“大江戸捜査網”って時代劇に出て来るんだけど、町人に変装して陰ながら江戸の悪を成敗するんだよ。それで、隠密同心には心得があって……」

 

 心得之条 我が命我が物と思わず 武門之儀 飽くまで影にて、己の器量を伏し 御下命如何(いか)にても果たすべし

 

「何かカッコイイと思わない?己の器量を伏し、陰で悪を倒し、人々を守り助ける」

「それって、まさかとは思うけど……倫道君が隠に擬態して活動する理由って、もしかして?」

「そう」

ふふん、と倫道はドヤ顔をした。

 

(マジか。やっぱりアホだこの人)

斗和は呆れた。だがその影の働きは重要度を増し、この戦いの成否をも左右するほどだ。

 

「原作通りなら俺たちは勝てる。でも犠牲は一人でも減らしたいし、より確実に勝ちたい。そのために何でもするけど、それには影で動く方が都合が良い気がするんだ」

自分が居なくなった後、その痕跡も残りにくい。斗和はそこまでは読めなかったが、どこか思い詰めたような様子があるのを察し、敢えてそれ以上は何も言わなかった。

 

「そうだ、この前美味しいお茶頂いたんだ。お茶淹れてくるね」 

やや重くなった雰囲気を変えようと、斗和はしばし中座した。茶を淹れて戻って来ると、倫道は座ったまま目を閉じていた。

 

「もう……食べられない……」

倫道は安らかな寝息を立て、寝言まで言っている。

(何の夢を見てるのよ?それにしても罪の無い寝顔してるなあ。ちょっとイタズラ書きしちゃおうかな?)

もう会えない。この手料理も、もう二度と食べられない。無惨を倒す悲願に近づきながら、それはまた永遠の別れに近づくことでもあった。倫道は自らが消えていく、そんな別れの夢を見ていた。

 

 余りに無防備な寝顔に斗和が笑みを漏らしたその時、倫道の目からすっと涙が一滴零れ、頬を伝った。斗和は胸を衝かれた。

 

(口には出さないけど、倫道君もきっとつらい思いしてるんだよね……。あともう少し、無惨倒すまで頑張ろうね)

斗和は寝ている倫道に掛け物を掛けてやり、しばらくそのままにしておくことにした。

 

 倫道は何事も無かったようにすぐに起き出し、普段と変わらない呑気な様子で朝餉のお礼を言った。そして大いに迷ったが、佳成のことは結局言い出せないまま土柱邸を後にした。

 

 倫道はもう一つ斗和に言えなかったことがあった。

 

 隠密同心の心得之条は最後にもう一つある。番組のナレーションはその最後の心得を繰り返して終わり、それこそがもっとも有名な一節だ。

 

 シシテシカバネ ヒロウモノナシ

 

 子供の頃は全く理解できなかった。ただ言葉の音の響きが面白かった。成長してやがてその意味が分かった時、倫道は戦慄した。

 

「死して屍拾う者なし」。

 

 任務の途中で死んでも、その死体を拾って弔ってくれる人は誰もいないという意味だ。死体は誰にも顧みられることなく打ち捨てられ、手を合わせる者もなくただ野辺に転がって朽ちていくのみ。弔われることもないそれは、無縁仏にすらなれないのだ。

 

 倫道が自らを隠密同心と言ったのはその覚悟があってのことだ。

 

「シシテシカバネ、か」

倫道は独り呟き、研究を続けるため蝶屋敷に戻っていった。

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