仏壇の前で手を合わせているとポツポツと雨粒が窓ガラスを叩く音が聞こえてきた。
あの日以来、雨の日は嫌いだった。雨粒が無邪気に窓ガラスにまだら模様を描いていく過程を
私はぼんやりと眺めていた。
あの子が...ちまが事故に巻き込まれたのは今日のような雨の日だった。
あの日は昼過ぎまでは、とても良い天気で夕方頃に急に雨が降り出した。
傘を持たずにがっこうにちまは急いで我が家へ向かい走っていた。
きっと、何時ものように可愛がっていたハムスターの世話のことを考えていたんだろう。
家まで後五分ぐらいの道路。普段は交通量も少ない二車線の道路だった。
そこでちまは車に撥ねられた。
車を運転していた女はコンビニへ買い物へ向かう途中だったらしい。
雨が激しさを増す中、横断歩道のない場所から急にちまが飛び出してきた。お
という証言をしていた。
私には信じられなかった。
ちまが横断歩道のない場所を...いくら雨が降っていたとは言え、
いきなり道路に飛び出すなんて...。そんな子ではないはずだ。
しかし、実際にちまが倒れていた場所は横断歩道のない場所だない場所だった。
交通量も少なく、雨で通行人も疎らだったのだが、現場近くには二人の通行人がいた。
一人は職場に帰る途中だった男性。彼も傘を持っていなかったようで、
走って会社まで向かっている途中だったようだ。
彼は事故現場を通り過ぎて数十メートル進んだところでブレーキ音と衝突音を
聞いたというのだが、急いで会社に帰らなくてはならなかったためその場を立ち去った。
音をする方を振り返った時に現場に停車する車と傍に立ち尽くす女性の姿を見ていた。
もう一人は女子学生だった。
彼女は折り畳み傘を鞄に入れており、傘を差しながら帰宅する途中だった。
先ほどの男性とは真逆の方向に向かって歩いていたところで男性と同様に二種類の音を
聞いて現場の方を振り返った。
そこで彼女が見たのは車から降りてきた女性が、しばらく雨の中で立ち尽くしている姿だった。
つまり、二人とも事故発生後の目撃者であり、二人からは有力な証言を得られることはなかった。
事故現場の痕跡などからも運転手の女の証言は正しいと判断された。
その結果、横断歩道のない道を確認を怠って横断しようとしたと判断された。
運転手の女は罰金と執行猶予処分のみとなったのだった。
どうして。
あの子の命を軽々しく奪っておいて...。
死刑にしてくれとまでは私も言わないわ。でも、せめて実刑を与えてよ。
なんで?
許さない。私は許さない。
あの運転手の女を...。
あの目撃者二人も...。あの二人が見捨てずにしっかり見てくれていれば...。
許さないから。ちまの悔しさを。私の苦しみを絶対に思い知らせてやるわ。
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俺の頭の中では記憶の発掘作業が継続中であった。
道路交通法...横断歩道...歩行者の優先。
俺の口から発せられた言葉ではなかったと思うが、絶対にどこかで聞いたはずの言葉だった。
思い出せ。俺。
その時。頭の中で聞きなれない男の声が小さくだが聞こえ始めていた。
まるで、先の全く見えない洞窟の奥から聞こえてくる音のようだった。
『道路...条...なので...。』
その声は徐々に大きくなっていっているような気がした。
『交通法第三...横断歩道等における...今回の場合は適用されませ...。』
洞窟の奥から現れたのは男ではなかった。制服姿の女の子だった。
小柄な女の子は俯き加減で表情ははっきりと見えなかった。
その雰囲気とは相反した明るい色の彼女のロングヘアが暗闇の中で輝いているように見えていた。
女の子は顔にかかっていた乱れる髪の間から口をパクパクと鳴り響く男の声に合わせて
動かしているのが見えた。
『ですので、道路交通法第三十八条。横断歩道等における歩行者の優先については
適用されません。』
そこで俯いていた女の子はゆっくりと顔を上げ始めた。その口元はニヤリと
微笑んでいるように見えた。
その冷たい笑みを見た俺は、ようやく白昼夢から目を覚ました。
自由になったばかりの掌には目隠しをしていてもはっきりと分かるほどに汗をかいていた。
朧げな記憶の中で聞こえれ来た男の声。笑っていた髪の長い女の子。
何故笑い続けているのだろう。まるで...。
ああ。そうか。あの時に聞いたのか。
『社さん? お答えは? 』
スピーカーから催促の声が聞こえきた。自分の中ではそんなに時間は経っていないと
思っていたのだが、思っていたよりも時は進んでいたようだ。
「ああ。すまん。三十七条ではなく三十八条が正解だ。」
俺はなぜか謝りながら、奴に答えを伝えていた。
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私は自分自身の名前を呼ばれたので無意識の内に相槌を打つ形で返事をしていた。
相手が私の名前を知っていることに関しては、それほどの驚きを感じることはなかった。
自分が置かれている現況のインパクトに劣るということもあったが、
万が一にも人違いで捕まっていて、こんな目に合わされている方が嫌だ。
そんなことよりも今は別の大きな問題が発生していた。
その問題とは名前の次の質問だった。
『では、道路交通法において「横断歩道等における歩行者の優先」について述べられているのは
第37条ですか? 』
これがさっぱり分からず困っていた。ずっと考えてるけど、どこかで聞いたような気もしないでも
ないのだが、はっきりと思い出せない。
思い出されるのは、どこからか聞こえてくる雨音だけだった。
どうしてなのだろう。
いやいや。今は雨より答えだ...三十七条?
ああ。もうアカンわ。いくら考えても思い出せないし、答えもわからない。
こうなりゃカンで行くっきゃない。どうせ五分五分や。
もちろん死にたくはない。でも、考えたって分からないなら自分を信じるしかない。
私は意を決した。
答えは...イエスや!
私は首を縦に動かした。後悔は...なかった。