「君の名は。キルヒアイス」歴史の真実と芯の世界 作:高尾のり子
祭りが終わった後の宮水神社の鳥居から、宮水三葉は星空に向かって叫んだ。
「最高のイケメン男子に生まれ変わりますようにィ!!!」
「……はぁぁ……」
背後で妹の宮水四葉が小学生には不似合いなほどに、深々とタメ息をついていた。岐阜県飛騨地方の山奥から見上げる銀河の星々はあざやかに燦めいていた。
翌朝、宮水家の二階でジークフリード・キルヒアイスは目を覚ました。規則正しい軍隊生活のおかげで時刻は6時15分ちょうどだったけれど、寝ている布団の感触や見上げて見える天井が、まったく記憶にないものだった。
「………これは……いったい…」
落ち着いて起き上がってみるものの、かなり動揺している。左手を顎にあてて様子を見るように周囲を確認した。寝ていたのはベッドでもタンクベッドでもなくて和布団だったし、少佐としての艦内の士官室で眠ったはずなのに、窓から陽光が差している。
「惑星表面上にいるのか…?」
物音を立てないように窓際へ移動すると太陽を見上げた。
コンコン…
軽く窓ガラスを叩くと、耐圧ガラスではない民生向けの昔ながらのガラスのようで外と気圧の差があるとは思えないし、外は草木の緑が溢れていて、雀も飛んでいる。
「……いったい、どうなって……たしか、ティアマト星系へ向かっていたはず……眠っている間に連れ去られたにしては身体も拘束されていないし…」
そう言って手に触れて、さらに大きな違和感を覚えた。
「この手……」
ほっそりとした三葉の手だった。
「……この顔…」
窓ガラスに映る顔も三葉の顔で、手で触れると、感覚があった。
「これは夢? ………夢にしては現実感がありすぎている……とにかく、ラインハルト様に連絡を取る方法を考えなければ…」
自分の肉体のことより優先すべき事項があるので再び状況把握につとめる。もう一度、窓から空を見上げた。太陽がまぶしい。
「この空の色合い……大気がある……重力も、ほぼ1G……ティアマト星系にそんな惑星は……」
銀河系のどこに自分がいるのか、わからない。室内を見渡すと、雑然と物が置かれた女性の部屋だった。
「武器になりそうなものは……ないか……」
銃は当然としてナイフなども見つからなかった。仕方なく三葉が図工で使用していた彫刻刀を手にしておく。そっと静かに足音を立てず、部屋を出た。
「……木で作られた家か……」
どんなに足音を忍ばせようとしても、古い木造住宅なので階段をおりると軋む。その音を聴いて台所にいた宮水一葉が顔を出した。
「めずらしい、えらい早く起きてきたんやね。そんなら台所を手伝ってな。まず、寝間着やのうて、制服に着替えなさい」
「………」
「返事は?」
「…は、はい…」
彫刻刀を背中に隠して返事をして、とりあえず部屋に戻った。
「はぁぁ………あの老婦人は……この少女の家族………? そもそも私は、なぜ、この身体に……」
疑問だらけだったけれど、ともかくは言われたとおりに着替えを試みる。
「………制服は、これか……幼年学校のようなものか……」
ハンガーにスカートがかけられ、ブラウスとブラジャーは近くに落ちていた。目を閉じて寝間着を脱ぐと、手探りでブラジャーを着け、スカートとブラウスも身につけた。
「こんなものか……あとは靴下と髪を…」
落ちていた靴下を履き、寝癖のついた髪を整えると、階下におりた。
「し…失礼します」
「おはよう、三葉」
「お、おはようございます」
「……ん?」
ちょっと違和感を覚えた一葉だったけれど、鍋を火にかけているので頼む。
「火を止めて、お皿をだしてちょうだいな」
「は、はい」
ガスコンロは旧式のコックをひねるタイプだったので一目見て使い方はわかったし、手を伸ばすと身体が覚えているようで適切な力加減で火を消した。お皿も自然と手を伸ばした位置にあったものを出した。三人家族のようで、だいたいの食器類が3組あった。
「あ、お姉ちゃん、おはよう。今日は早いね」
四葉が挨拶してくる。
「え……うん、おはよう」
とりあえず挨拶を返した。
「お姉ちゃん、顔洗った?」
「お先にどうぞ」
「うん」
四葉が洗面所に行き、顔を洗い終わると同じ手順で洗顔して問う。
「私の歯ブラシは、どれでした?」
「その緑のヤツだよ。そんなこと忘れたの?」
「少し寝ぼけているようです」
「……だいぶ寝ぼけてるね」
歯を磨いて、台所に戻り、一葉を手伝って朝食の用意をした。
「今朝の三葉は、えらい役に立つね」
「いえ、それほどでも」
「………。ともかく、もう食べて学校に行ってらっしゃいな」
「はい」
「いただきます!」
四葉が手を合わせて箸を持った。
「………。いただきます」
三葉の手も同じような動作を真似してから、箸を持ってみた。そうして四葉と一葉が箸を使っているのを真似してみると、これも身体が覚えているようで自然と使えた。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした」
食器を片付けてから二階へ戻り、通学に使っていると思われるカバンを持つと、かなり軽いので不安になる。
「とりあえず、多めに入れておくか」
落ちていた教科書類を多めに入れて肩にかけると、華奢な肩だったので少し重く感じる。
「お姉ちゃん、まだァ?」
「はい、今すぐ!」
階段をおりて玄関に立つと、三葉の足に合いそうな革靴があった。履いてみると、ぴったり合うので本人のものだと確信できる。玄関から外に出ると、名取早耶香と勅使河原克彦が待っていた。
「おはよう、三葉ちゃん」
「おはよう、三葉」
「おはよう」
挨拶を返して平静を装いつつ、二人が歩いていく方向へ進んでみる。二人の会話から情報をえつつも、なるべく目立たないようにコソコソ歩いていると、選挙カーのマイクを使って演説していた宮水俊樹が叱ってきた。
「三葉! もっと胸を張りなさい!」
「はっ!」
俊樹の方を向いて、左右の踵をつけて背筋を伸ばし、両手を腰の後ろで組むと胸を張って直立不動になった。
「………」
「………」
「「「………」」」
あまりに見事な直立不動ぶりに周りにいた町民たちも通学中の生徒たちも驚いている。三葉の身体は凛とした気迫のある立ち姿をしていて隙がない、巫女服を着て舞うときとは別の神々しささえあるし、言われたとおりに胸を張ったことで若々しい胸部が強調されて美しく、すらりとした脚もギリギリまでスカート丈をつめていて自転車を立ちこぎすれば後ろから下着が見えるほど短くしているので腿の肌が眩しい。あまりの圧倒的な雰囲気に、叱った俊樹さえも予想していなかった反応ということもあって、かなり引いている。
「…わ…わかればよろしい。もう学校へ向かいなさい」
「はいッ!」
ぴたりと90度、踵を返して軍隊のような駆け足で学校へ向かう三葉の背中を見て町民たちが感心している。
「えらい厳しい躾けはりましたなぁ」
「今どきめずらしい、ええ子に育って」
「さすが町長さんの娘さんや」
「今期も宮水先生で決まりやな。教育パパさんの」
口々に褒め称えられると、俊樹も嬉しそうに赤面して照れる。
「い…いや…それほどでも。はははは」
勇ましささえ感じる娘の背中を見送ると、また票を集めるために演説を再開した。
朝のHRが終わり授業が始まる前に早耶香が声をかけてきた。
「三葉ちゃんも、お父さんの選挙のためとはいえ大変やね」
俊樹に胸を張りなさいと言われてから、ずっと姿勢正しく三葉の身体は背筋を伸ばしているので立っていも座っていても凛とした雰囲気が漂っている。言われて少し首をかしげて問う。
「選挙というのは政治的な代表者を選ぶ制度のことですか?」
「え…、うん、そういう言い方をすると、そうなるけど……今さら?」
「………」
ということは、ここは同盟領内ということなのか、たしかに、さきほどの父親が着ていたスーツも、よく同盟の政治家が着ているものと同じタイプの服装だった、ティアマト星系は同盟領側だったから、やはり同盟領土内のどこかの星系で居住可能な惑星にいるということか、それにしても生徒たちは髪の色も瞳の色も同じで、ほぼ同一民族に見える、ずいぶんと偏った入植の仕方をしているようだ、と考えている三葉の顔が無表情なので早耶香が心配になる。
「そんなマジメな顔ばっかりしてんと教室の中くらいリラックスしてよ」
「え、ええ。ありがとう、サヤチン」
周りと同じ呼び方で早耶香を呼んで安心させようと微笑む。その微笑み方が普段の三葉とは違って、穏やかで温かみがあって早耶香が同性なのにドキドキしてしまうほど、好感のもてる笑顔だった。教室にユキちゃん先生が入ってきて授業を始めるので、周りが出しているのと同じ教科書を机に開き、困惑した。
「………読めない…」
授業は国語で万葉集についてだったけれど、まったく字が認識できない。まるで見たことのない文字が羅列されていた。不安になって他の教科書も開いてみる。数学の教科書を開いて少し安心した。
「数式は読める……こんな古典的な定理を使っているのか……」
さらに他の教科書を探り、英語を出した。
「読める……だが、これは同盟の公用語…」
英語の教科書はスラスラと読めた。早耶香が小声で話しかけてくる。
「英語の教科書なんか出して、どうしたん?」
「いえ」
「宮水さん、名取さん、この問題を解いてくれる?」
私語をしていたためにユキちゃん先生が当ててきた。黒板に書いてある文字は、まるで読めない。立ち上がって教師に一礼した。
「申し訳ありません。頭が痛いので少し休ませていただいてよろしいですか?」
「それなら名取さん、保健室まで付き添ってあげて」
「はい」
二人で廊下に出ると保健室に向かった。
「三葉ちゃん、大丈夫?」
「心配しないでください。授業を抜け出す方便ですから」
「きゃは♪ 悪いんだァ」
「一応、保健室に行って頭痛薬をもらいます」
方便を形に残しておくため保健室で頭痛薬をもらうと、早耶香に問う。
「静かなところで休みたいのですが、図書室は、どこでした?」
「そんなこと忘れたん?」
「やっぱり少し頭が痛いのかもしれません」
「……なんか、言い訳くさいというか……まあ、ええけど、あっちよ。うちも行くわ。なんか心配やし」
「ありがとう、サヤチン」
礼を言って図書室に案内してもらうと、休むどころか本棚の間を歩き回り、洋書の棚から何冊も本を開いては閉じを繰り返していく。
「三葉ちゃん、何か調べてるん? それ、全文英語やん、わかるの?」
「ええ、少し調べごとを……あ、ドイツ語の本もある。こっちの方が…」
独語の本を手に取り、読んでいく。英語よりも早く、まるで母国語のようにペラペラとめくって概要をつかんでいる。そうして、しばらく独語の本を何冊か目を通した後、三葉の顔が深刻そうに下を向き、それから周囲を見渡してカレンダーを見ると、さらに深刻そうに顎に手をあて考え込む。そんな三葉の額に汗がうき、その滴が流れて落ちる。
「三葉ちゃん……」
早耶香は本気で心配になってきた。
「大丈夫? やっぱり頭が痛いの?」
「いえ……」
やや迷い、それから三葉の瞳が、まっすぐに早耶香を見つめてくる。
「私はこれから変な質問をするかもしれませんが、まじめに答えてもらえますか?」
「う…うん、いいよ」
早耶香も緊張しつつ頷いた。
「まず、ここは地球という星ですか?」
「……。そうだよ」
かなり変な質問だと思いつつも、まじめに答えた。答えを聞いて三葉の喉が緊張してるのか、生唾を飲んでいる。また、三葉の唇が質問してくる。
「今は西暦の2013年ですか?」
「えっと……」
あらためて問われ、早耶香もカレンダーを見る。
「うん、2013年」
「……そ…そうですか……ぁ、ありがとうございます……」
お礼を言ってくれたけれど、三葉の顔は問題が解決したというより、より深刻化したという顔色で椅子に座ると両手を額にあてている。
「………」
「……み、……三葉ちゃん……大丈夫?」
「…ええ、…大丈夫です、…大丈夫」
落ち着いているようにも見えるけれど、かなり動揺しているのを精神力で無理矢理に落ち着けているという様子の三葉の顔に、早耶香は気分転換を提案する。
「なにか、飲む? 買ってきてあげるよ」
「……ありがとうございます……」
「何がいい?」
「……温かい……ココアのようなものがあれば…」
「すぐ買ってくるから、ここにいてよ」
心配だったので早耶香は駆け足で自動販売機から、お茶とココアを買って戻ってきた。三葉の身体は考える人のように額に手をあて、何かを悩んでいる。
「はい、三葉ちゃん」
「…ありがとうございます」
三葉の唇がココアを飲み、少し安心したように息をついた。
「はぁぁ……美味しい…」
「よかった」
「おかげで落ち着きました」
そう言うと、また独語の本をパラパラと読み、それから独和辞典を眺めはじめた。しばらくして、また早耶香に質問してくる。
「Darf ich Sie etwas fragen?」
「え?」
「あ……。……。お尋ねしてよろしいですか?」
「う…うん…」
「私たちが今、話しているのは日本語ですか?」
「……そ…そうだよ」
今度は早耶香が動揺してくる、もう医者に診せた方がいい気がしてくる、まっすぐ三葉の瞳は真剣に質問してくるけれど、それが心配でたまらない。早耶香の動揺を察したのか、三葉の顔が安心させるような笑顔をつくった。
「変なことを訊いて、すみません。冗談ですよ、冗談」
「…はは……冗談、きついわ…はは…」
「これらの本を何冊か、借りていきたいのですが借りられますか?」
「あ、うん。それなら……って、そんなことまで忘れてるというか、わからんの?」
「……。夕べ、少し強く頭を打ったみたいです」
三葉の瞳がウソを考えているような動きをしてから答えてくれた。
「かなり強く打ったみたいやね……お医者さんに行った方がいいかもよ」
「考えておきます」
「とりあえず、自分の図書カードに本の番号を書いてみて」
「図書カード……?」
「これ」
早耶香はカウンターから宮水三葉の図書カードを出した。小さな町の学校なので図書委員がいないときはセルフで貸し出すシステムになっている。三葉の手は言われるとおりに貸し出し手続きを行っていくけれど、数字はスラスラと書けても、宮水三葉という字さえ書き順が間違っていたりして苦労している様子だった。
「三葉ちゃん、頭痛とか、ホントに大丈夫? うちの親戚のお爺さんで脳溢血になったとき、話はできるのに字が書けないって症状から始まったらしいよ」
「会話はできても字が……なるほど……」
「頭、痛くない?」
「痛くないですよ」
「……こっち、見て」
早耶香は三葉の瞳を見つめてみる。
「………」
「………」
その瞳は澄んでいて、正常に見えるような、いつもと違うような、早耶香と三葉の瞳が見つめ合っていると、克彦が図書室に入ってきて声をかけてくる。
「何を図書室で二人して見つめ合ってるんや? あやしい関係か」
「あ、テッシー、もうチャイム鳴ってた?」
「ユキちゃん先生が二人が遅いって心配して、見に行って言うから保健室を覗いたけど、おらんから、来てみたんや」
「そっか…」
「で、見つめ合って何してたんや?」
「何でもないよ」
「はい、何でもありません。私の頭痛をサヤチンが心配してくれただけです」
「そっか……。なぁ、三葉、その選挙用の喋り方なんかしらんけど、オレらにまで、そんなよそよそしいのは水くさいやないか。ちょっと悲しいわ」
「……。ごめん、テッシー」
そう謝って親しみを込めて呼ばれて見つめられると、克彦は赤面した。
「…わ……わかってくれたら……ええねん…うん」
「サヤチン、テッシー、そろそろ授業に戻…」
言いかけた途中でチャイムが鳴った。休み時間になり校舎全体が賑やかになる。借りた本をもって教室に戻ると、二年生の教室なのに三年生が3名も入ってきていてクラスメートの男子を脅して、金銭を巻き上げようとしていた。脅している方も、脅されている方も、どちらも素行の悪い生徒で上下関係のような仲間関係のような上級生にとって都合のいい、どこにでもある関係のようだった。
「おい、今月の上納金、出せよ」
「今月、もう払ったじゃないっすか」
「足りねぇよ」
「そりゃないっすよ」
「あん?」
出し渋っていると、地味に蹴りを入れられ、仕方なく財布を出そうとしている。そのやり取りを見ていた三葉の瞳が怒りに染まった。
「やめなさい」
「ああッん?! 誰か何か言ったか?! コラっ!」
上級生が悪いことをしている自覚があるので、制止されて余計に威嚇するような声をあげてきたけれど、三葉の足は3名へ歩み寄ると、はっきりと告げる。
「やめなさい」
「何だ、このアマっ! ひっこんどけや!」
突き飛ばそうとしてきた上級生の手は三葉の胸に当たるはずが、さっと横へよけられて虚しく空を突き、上級生は苛ついた。
「よけてんじゃねぇぞ、コラ!」
今度は三葉の頬を平手打ちしようと手を振ってくるけれど、それも素早く頭をさげて回避されてしまった。
「なめんなッオラァ!」
もう完全に頭へ血が上り、相手が女の子なのに拳で顔面を殴ろうとしてくる。三葉の鼻先に当たるはずの拳は今度も回避され、逆に体重移動のタイミングを見切られて軸足を三葉の爪先に払われて、もんどりうって転がる。
ドンガラガッシャン!
教室に並ぶ机の列へ突っ込み、盛大に転んだ。それを見ていた他の二人の上級生がいきりたつ。
「宮水、てめぇ!」
「このゲロ巫女がっ!」
小さな町なので一つ二つ学年が違っても、三葉の顔を知っている様子で罵り、逆上して殴りかかってきた。左右から襲ってくる二人に対して、三葉の身体は疾風のように右側から来る相手の横をすり抜けて、殴りつけている勢いをそのままに三葉の手が勢いの方向を変え背後から肩を押して、左側から襲ってきていた相手と衝突させる。
「「うわっ?!」」
三葉の顔を殴るつもりが、お互いにぶつかってしまい、二人はからまって転がった。
「無益な争いはやめなさい」
三葉の唇が、きっぱりと告げる。三人とも転倒したものの、擦り傷程度の軽傷で今なら学校内で問題になることもないレベルだったけれど、男のメンツとしては大問題だった。年下の女子を相手に、しかも3対1で、いいように手玉に取られたまま引き下がるわけにはいかない。最初に襲ってきたリーダー格の男が立ち上がって構える。
「優しくしてれば、つけあがりやがって!」
何一つ優しくはしていないけれど、たっぷりと油断はしていた男が今度は油断なく構えた。もう本気のケンカの構えで腰を落として攻防にそなえ、軽く足をかけられる程度で転ぶような体勢ではなくなると、三葉の腰も低く構え、両脚を前後に開いて立つ。
「やめなさいと言っても、わかりませんか?」
「上等だコラ!」
何が上等なのか意味不明なまま、再び殴りかかってくる。そのパンチには、先ほどのような大きな隙がないので後退して避けると、すぐに黒板まで追いつめられた。
「オラっ!」
「はっ!」
三葉の右脚がハイキックを放って、リーチと腕力の不利を補って男の顔面をカウンターで蹴った。しかも、短いスカートを着ていることを忘れていないので両手でスカートの前後を押さえて下着が見えないようにフォローまでしている。あまりにエレガントな蹴りに女子たちが感嘆の声をあげる。
「キャー♪ カッコいい!」
「宮水さん、すごい!」
「「くっ………」」
リーダー格の男が一撃で倒されてしまうと、残る二人は悪態をつきながら、倒れた仲間を支えて去っていった。早耶香が駆け寄ってくる。
「三葉ちゃん、すごいやん。そんな技、隠してたんや」
「いえ……。思わず、夢中で。……無益なことをしてしまいました」
「ちっ……余計なこと、しやがって」
脅されていたクラスメートは立つ瀬が無くて悪態をついている。三葉の指先がハイキックで乱れてしまったブラウスの裾を直すと、軽く会釈して席に戻る。ちょうど、チャイムが鳴り数学の授業が始まった。静かな授業中、三葉の机には数学の教科書とノートが開かれているものの、机の下では独語辞典と、初歩的なドイツ語日常会話の教本、小学校レベルの漢字の本が開かれていて、こそこそと数学とは違う勉強をしている様子だった。早耶香は何をしているのか気になったけれど、あまりに三葉の顔が熱心なので声をかけるのを躊躇っていたものの、数学教師が不快そうに通りかかり、三葉の肩に触れた。
「授業を聴いていたのなら、設問3をやってみなさい」
「はい」
あてられた三葉の手は難問だった微分積分の数式をサラサラと解いてみせたので教師は納得して机下での副業は不問として通り過ぎていく。そんな調子で昼休みになると、早耶香が誘って、いつも克彦と三人で昼食を摂っている校庭の木陰に行き、弁当を食べながら問う。
「三葉ちゃん、ずっと違う勉強してたけど、あれ、何?」
「少しドイツ語に興味をもっただけですよ」
「う……うまく、かわされた気がする…」
「かわしたといえば、三葉。三年の不良相手に余裕で攻撃をかわしてたな。舞いみたいに。あんなの、どこで習ったんだよ? 巫女の神業か?」
「もう忘れてください。はしたないことをして恥ずかしく思っていますから」
「その選挙モード喋りも、また復活するんや」
「すみません、つい」
「ま…まあ、…そ、それは、それで可愛いけど……三葉の新しい一面というか…」
克彦が赤面して言うので、三葉の顔が穏やかに微笑むと、余計に赤くなっている。昼休みが終わり世界史の授業になると、三葉の机には世界史の教科書と国語辞典と独語辞典が並び、授業を聴きながら、ノートを書き、ときおり辞典を開いて調べている。教師にあてられても、ほぼ正確な書き順で答えを書いてみせた。物理と化学になると、辞典を開くことも少なくなり、放課後になって早耶香たちと帰宅する。
「じゃあね、また明日」
「三葉、勉強しすぎるなよ。急にガリ勉になると熱出るぞぉ」
「はい、では、また明日」
三葉の手が上品に振られ、友人たちと別れると宮水家に入った。靴を脱いで居間にあがると、一葉が夕食の用意をしている。
「ただいま、帰りました。お手伝いします」
手を洗って台所に立つ三葉の横顔を一葉は不思議そうに見上げる。
「ホンマに今日は、ええ子すぎて怖いくらいやわ」
「お姉ちゃん、なにかネダりたいものがあるんじゃない?」
「はははは。そうかもしれないね」
笑って四葉の頭を撫でている。それでも夜になってくると、あまりに普段と違い、夕食の片付けから風呂の準備まで積極的にやってくれるので、一葉が心配になってくる。
「三葉、あんまり私の仕事をとってくれると、ボケるかもしれんよ。年寄りには、せいぜい家事仕事をさせておくくらいの方が孝行というのも一つなんよ」
「それは気がつきませんでした」
「………」
「お姉ちゃん、やっぱり変じゃない?」
「そうかな?」
そう言って三葉の瞳はウソを考えるように室内を彷徨ったけれど、仏壇に置かれていた二葉の写真を見て止まる。
「………」
「三葉?」
「お姉ちゃん?」
「………」
しばらく二葉の写真を見ていた三葉の瞳は意を決したように、一葉と四葉へ、まっすぐに向かってきた。
「大切なお話があります。お時間をいただいてよろしいですか」
「………あんまり年寄りを、からかうと怒るよ」
「真剣な話です」
そう言って正座していた一葉の前に、真似をして三葉の膝が正座して相対する。空気感が深刻そうなので寝転がっていた四葉も正座した。
「今からする話は、とても驚くかもしれませんし、冗談に聞こえるかもしれません。ですが、本当のことであり、ご家族に対しては話しておくべきだと感じますから、どうか、落ち着いて聞いてください」
「「………」」
「まず、私は、お二人が知っている宮水三葉ではありません」
「「…………」」
「見た目は宮水三葉さん、そのものに見えるでしょうが、まったくの別人です」
「………お姉ちゃん、じゃ…ない?」
四葉は姉の瞳を見る。知っている三葉の性格なら、ここまで手の込んだ冗談は言わないし、言おうとしても、こんなに長いセリフを噴き出さずに言えず、途中で笑い出すのが関の山だったのに、覗き込んだ姉の目は真剣そのものだった。同じことを一葉も感じて落ち着いて先をうながす。
「それで?」
「なぜ、このようなことが起こったのか、それは私にもわかりません。ですが、私は宮水三葉さんではなく、ジークフリード・キルヒアイスという者です」
「ジーク…」
「……外人さんなの?」
「そうです。日本人ではありませんし、また冗談ではなく、この時代の人間でもありません」
「まさか、宇宙から来たとか言わないよね」
姉の口から嘘とは思えない口ぶりで、嘘と思いたいような事態が話されることが空恐ろしくて四葉は茶化して訊いたけれど、三葉の瞳は肯定的に見つめてくる。
「私から見て過去、あなた方から見て未来の人間である私が、未来の出来事について細かく話すことは避けた方がよいと判断しますから、やや抽象的に言いますが、私は今から数世紀先の未来、そして地球でないところから来ています」
「…はは……あははは……じゃ、どこの星から来たの?」
四葉が脱力気味に問い、一葉は黙って聞いている。
「私は軍人であり、宇宙を移動する船の中にいることが多いので定住星を訊かれると答えにくいのですが、住所をおいているのは所属する国の首都星です。星の名や国名は、さきほど申しました通り、教えない方がよいと判断します」
「………軍人ってことは、どこかと戦争してるの?」
「はい」
「宇宙人と?」
「…………お答えしない方が、よいかと思います」
「う~ん……そう言われるとさ。じゃあ、私たちに話しておいた方がいいことって?」
「やはり、私が本当の宮水三葉さんではないということが第一です。今朝から演じてきましたが、ご家族を騙していくことは良心も咎めますし、無理もあります。ゆえに話しておこうと判断した次第です」
「あ!」
四葉が大きな声をあげて、三葉の顔を指して言う。
「やっぱり、ウソだよね?」
「いいえ」
「だって、日本語を話してるもん。遠い未来の宇宙から来た軍人が日本語って、無理あるよね。お姉ちゃん」
「その点については私も不思議に思っているのですが、会話は自然と成立するのです。まるで、私が箸を使うことを苦労しないように。ところが、文字を読む、書くとなると、脳の使う部分が違うのか、見たことも聞いたこともなかった日本語は始めのうちは、できませんでした。これは推測にすぎないのですが、私に宮水三葉さんとしての生活史記憶はないのに、箸を使うといった日常の動作に関する記憶はあるのと類似した現象ではないかと思っています。現に、私の母語であるドイツ語に関しては読み書きは容易でしたし、第二言語として学習していた英語についても同様でした」
「……う~ん………何か英語…じゃなくてドイツ語で喋ってみてよ」
「Ich freue mich, Sie zu sehen」
「……発音は本物っぽいけど、意味は?」
「お目にかかれてうれしいです、という意味です」
「………。軍人って、どんな軍人なの?」
「階級は少佐ですが、あまり細かいことは控えさせてください」
「少佐……歳いくつなの?」
「19歳です」
「………大学1年生くらいなのに少佐?」
「武運に恵まれました。上官にも」
「男の人?」
「男性です」
「……………お婆ちゃん、どう思う?」
四葉が黙っていた一葉に問うと、目を閉じて聴いていた一葉は三葉の目を見つめて語る。
「お話は、よくわかりました。実は私にも似たような体験があります」
「ご婦人にも?」
「もう、はっきりとは覚えておりませんし、夢のようなものではと今まで思っていましたが、ジークさんのお話を聞いているうちに、もしや、と思うような体験は若い頃にありました。自分が自分でない誰かと入れ替わっていたような、そんな記憶です」
「ということは、これは元に戻るのですかっ?!」
落ち着いて話していた三葉の腰が浮いている。
「おそらくは戻ると思います」
「それは、いつ?!」
「一日で戻ったような気がします。ただ、何度か繰り返し起こった気もします。このことは、あまり他人に話す気は無く、今まで誰にも言っておりませんでしたが、ジークさんのおっしゃりようが、とても誠実な方だと感じ入りましたので、お話ししました」
「一日で……だが、繰り返し………」
「さあ、もう夜も更けてきました。お疲れでしょうし、私も疲れました」
時計を見ると、もう10時を過ぎている。
「お風呂に入っていただき、お休みください」
「……」
三葉の指がブラウスの襟を少しつまみ、それから言う。
「入浴は遠慮させていただきます」
「遠慮など、無用ですよ。どのみち、もうお湯は沸かしていただきましたし、3人きりですから使わないと、もったいないくらいです」
「そういう意味ではなく、この身体は宮水三葉さんのもので、彼女は17歳。私は男です。彼女の気持ちを考えれば、今朝の着替えは目を閉じていたしましたが、入浴まで目を閉じて完遂することもできませんし、触れられたくない部分もあるかと思い、遠慮する次第です」
「「…………」」
紳士だ、本物の紳士がいる、と四葉と一葉は女性として感心し、四葉は生まれて初めて異性へときめきを覚えたし、一葉も年甲斐もなく少し頬を赤らめ人生で最期のときめきを覚えた。ここに座っているのは、たしかに三葉の身体なのに、その向こうに誠実な青年がいるような錯覚さえ見える。一葉が頭をさげた。
「三葉も安心するでしょう。ありがとうございます。では、四葉、二人で入るよ」
「は~い」
二人が入浴している間、静かに考え、揚がってきた四葉に頼む。
「四葉ちゃん」
「四葉でいいよ」
「四葉、少し頼みがあるんだけど、いいかな?」
「うん」
「夜更かしさせてしまうけれど、夜の12時になって、私が三葉さんと入れ替わるのか、どうか、見ていて確かめてほしい」
「あ~、なるほどぉ」
「そういうことなら、私が確かめましょうか」
一葉が提案すると、首を横に振って遠慮する。
「ご婦人に夜更かしはさせられません。小さなレディにも負担かとは思いますが、ご婦人は、どうかお休みください。お体を大切に」
「そうですか……ありがとう。……よほど、育ちの良い家柄なのでしょうね、あなたは」
「いいえ、ごく庶民の出ですよ。では、お休みください」
一葉が寝間に入ると、四葉と二人で三葉の部屋に入った。もう11時20分で、すぐに12時が迫っている。四葉が窓から星空を見上げた。
「お兄さんが来たのは、どのあたり?」
「そうですね。あの星と、あちらの星、その間くらいです」
「ふ~ん……戦争か……イヤだなぁ…」
「そうですね。日本が羨ましいです」
「あっ……やばいかも…」
「どうしました?」
「お婆ちゃん、さっき入れ替わりって言ったよね?」
「ええ」
「ってことは、お兄さんの身体に、今、お姉ちゃんが入ってるかもしれないってことだよね?」
「そうなりますね」
「それ……かなり、やばいかも……だって、うちのお姉ちゃんだよ。ごく普通の高校生で、お兄さんみたいに落ち着いてる沈着冷静な人じゃなくて、むしろ、落ち着きがないタイプ! しかも、訓練とか何もしてない。そのお姉ちゃんが、いきなり数世紀先の宇宙戦争の中にって……」
四葉の脳内にビームが飛び交う戦場で、逃げ回ってワンワン泣き出す姉の顔が浮かんだ。
「お姉ちゃん死んじゃうかも! お兄さんの身体で!」
「それは困ったことになるかもしれませんね。ですが、安心してください。すぐに会敵するような宙域ではありませんでしたし、ラインハルト様、あ、この名は私たちだけの秘密にしてください。私の上官であるラインハルト様は、とても優秀な方です。一日や二日、副官の私がいなくても何ら問題なく勝利してみせることでしょう」
「う~……部隊は勝っても、お姉ちゃん一人、死んじゃうってこともありそう……撃ち合いになったらパニック起こして走り出しそうだもん」
「ご安心を。四葉が想像しているような白兵戦が無いわけではありませんが、今回は艦隊戦が主になるでしょう」
「艦隊戦………どっちにしても、お姉ちゃん……かわいそう…」
四葉が心配しているうちに、あと10秒で夜の12時になる。
「9、8」
数えながら三葉の身体は布団の上に横たわった。
「「3、2、1」」
四葉もカウントダウンに加わり、夜の12時になった。
帝国暦486年2月、ラインハルト・フォン・ミューゼル中将は定刻に艦橋へ踏み入れ、違和感を覚えた。ティアマト星域へ向かっている艦隊は整然と航宙しており、何ら異変はなく敵との遭遇にも、まだ数日は要するはずで昨夜までと変わったことは一つしかない。
「キルヒアイスはどうした?」
「それが、まだお見えになりません」
夜間の艦隊指揮を代行していた高級士官が困惑気味に答えた。いつもなら必ずラインハルトが艦橋へ入る10分前には顔を出し、状況確認や引き継ぎなどを行っているはずが、今朝は何の連絡もなく、すでに定刻を数秒ほど過ぎている。
「めずらしいな……なにか、あったのか…」
「見て参ります」
「いや、私が行こう。今しばらく艦隊指揮を頼む。何かあれば、すぐ連絡するよう」
「はっ」
ラインハルトは艦橋を降り、佐官クラスの士官室が並ぶフロアを進み、キルヒアイスの部屋の扉にある呼び出しボタンを押した。
「フフ、このオレが直々に起こしに来てやったぞ」
幼年学校時代から寝過ごすことなど、ほとんどなかった親友の遅刻に何か言ってやろうと待ちかまえたけれど、返答がない。
「………おかしいな。本当に具合が悪いのか、あいつに限って連絡もなく…」
起き上がって連絡することもできないほど体調が悪いのかもしれないと心配になってくる。ラインハルトは艦隊司令官である自分の生体認証を使って扉を開けた。
「おい、キルヒアイス、大丈夫か」
室内に踏み込むと、心配して損をした気持ちになるほど、キルヒアイスの顔は心地よさそうに眠っている。パジャマを着て、ちゃんとベッドにいるだけだった。
「なんだ……本当に寝坊か。こいつめ」
悪態をつきながらもクスクスと微笑み、ラインハルトは優雅に室内のイスに腰かけた。佐官用の個室といっても戦艦内のことなので艦長室ほど広くはない。ベッドと机、専用の小さなシャワー室があるくらいで、イスに腰かけたラインハルトは、すぐそばで眠る親友の顔を見つめた。
「ずっと激務つづきだったからな。疲れているんだろう」
「……すーっ……すーっ…」
穏やかな寝息を聴いていると、起こす気になれない。それに目が覚めたとき、どんな反応をするか、ささやかな悪戯心も湧いて楽しみになる。寝顔を見ていたラインハルト自身まで眠くなるほど時間が経ってから、キルヒアイスの身体が寝返りをうち、目を開けた。
「……ん………」
「やっと起きたか。さて、言い訳を聞こう」
「っ?!」
三葉は目の前に豪奢な金髪をしてアイスブルーの瞳も美しく白磁のような肌の整った顔立ちをした美青年がいたので驚いて飛び起きる。
「ひゃっ?! 痛っ!」
狭いベッドで飛び起きて後ろにさがったので壁で頭を打った。
「うぅぅ…痛ァァ…」
「プっ…、アハハハハハ!」
可笑しくてたまらないという様子でラインハルトが笑っている。
「ハハッハハハ! これは予想以上だ。ハハハハ、楽しませてもらった」
「うう…」
住宅の壁ではなく戦艦構造物の壁なので、ものすごく痛い。三葉は呻き、ラインハルトは笑い、ようやく二人が再び目を合わせる。
「おはよう、キルヒアイス」
「……、あなたは、誰ですか?」
「プっ、くっ、アッハハハ! お前はオレを笑い死にさせる気かっ? ハハハハ! こ、これは記念すべき日だ。銀河の歴史に残るぞ。くっく…ハハハハ!」
またラインハルトは笑い出し、それから妙に納得して頷いた。
「たしかに、ローエングラム姓に変えるという話もきているからな、もしも、そうなったら、お前へ一番に自己紹介するとしよう」
「………」
「だが、まだ気が早いな。今はまだ、ラインハルト・フォン・ミューゼルのままだぞ」
「…………ラインハルトさん?」
「クス……うむ、それもいいな。お前は、いつの間にか、様付けしていたが、オレたちは友人なのだから、そういう呼び方もいいかもしれないな。キルヒアイスさん」
「………」
「それにしても、クスクス…さっきの慌てようは…クスクス…打ったところ、腫れていないか?」
半分は面白がって、もう半分は心配してラインハルトは彫像のように美しい手で、三葉が痛がっている後頭部を撫でると、ついでに赤毛の前髪を指先で親しみを込めていじり、涙目になっている瞳を見つめた。
「っ……」
あまりに美しい美男子に見つめられて三葉は赤毛よりも真っ赤に赤面する。
「ん? 本当に熱があるんじゃないのか?」
「ひゃ…」
そう言ってラインハルトの手が三葉の額に触れてくると、変な声をあげている。
「熱いな」
「あう…うわ、わ…」
落ち着き無くドギマギしている様を見て、ラインハルトは決めた。
「今日は、このまま寝ていろ。お前は、ずいぶんと疲れているようだ」
「え……あの……、ここは…」
「ダメだ。反論は聴かぬ。おとなしく寝ていろ、いいな」
念を押してからラインハルトは出て行った。三葉は一人になって室内を見回した。
「…ここ……どこ?」
狭い個室には小さな窓があった。窓は本当の窓ではなくて液晶画面のような画像を映し出す装置が壁に設置されているのだったけれど、画像の鮮明さは見たことがないほどで本当の窓と違いがわからない。そして見えたのは宇宙空間と何千という数の宇宙船だった。
「………なにかの、デモ画面?」
三葉は首をかしげ、そして違和感に気づいた。首をかしげたのに髪が肩を撫でたりしない。妙に髪の毛が軽い気がする。
「え……私の髪…」
頭髪を手で触れると、男性のような短髪で少しクセ毛な感触がした。
「…ど……どうなって…」
頭や顔を触ると、どうにも違和感が大きい。そして、その手も、まったく見覚えがないほど逞しくて力強そうな男性っぽい手だった。
「え? え? なに、この手……ど、…どうなってるの? これ、私の手?」
確かめるように腕や胸に触れると、腕も硬くて太いし、胸にあったはずの膨らみが無くて、かわりに豊かな大胸筋の厚みがあった。お腹も腹筋の凹凸がわかるほど鍛えられていて脂肪がなくて、ついつい下腹部を触ると身に覚えのない一物があった。
「…お……男っ?!」
声をあげ、そして鏡を見たくなる。シャワー室のような扉を見つけて入ると、洗顔向けの鏡があった。
「……これが……私………うそ………」
鏡には見たこともない美男子が映っていた。さきほどの金髪の青年も美しかったけれど、どこか神々しいほど人間離れした美しさだった。彼に比べて、少し背が高くて穏やかそうな顔をしている。
「…………いったい、何がどうなってるの……」
フラフラと三葉はベッドに戻り座り込んだ。
「これは………いったい、……どういうこと……」
また手を見る、やっぱり男性の手だった。
「………………夢? ………そうだよ! きっと、夢だよ、これ!」
あまりも不可解な状況なので三葉は夢だと思ってみるけれど、起きるという気持ちをもっても醒めないし、現実感が強すぎる。困惑して冷や汗がういてくるのに、急に艦内放送が響いてきた。
「本艦隊は予定通り10時20分よりワープを開始する。各員、留意されたし」
「……ワープ? ………10時…」
三葉は顔を上げて室内に時計がないか探した。ベッドの近くに、それらしき表示がされたパネルがあった。時刻と日付を読んでみる。
「今は10時17分? Montagって何? 月曜日ならMondayだったと思うけど………スペル間違いなんてありえないよね……Februarって? 二月ならFebruaryでしょ。……486……って、これ年のこと? ……486年って……何? ………」
読めるような読めないような表示がされていて、数字は理解できるし、アルファベットも読めるけれど、微妙に三葉が学習してきた英語とスペルが違うし、何より、おそらくは年を表示しているだろう欄に486という数字があり、わけがわからない。
「……あははは……変な夢……うん、そうだ……きっと、夢だ……」
「ワープ開始!」
ふわりと三葉は身体が浮くような感覚を覚えた。
「あ、ほら、やっぱり夢だ」
夢の中で歩いているときに似ている地に足がつかない感じのフワフワとした感覚が生じて、三葉は頷いた。もう目が覚めて、見慣れた天井と布団が迎えてくれると期待したのに、フワフワ感が終わっても、まだ同じ部屋にいるままだったし、美青年のままだった。
「……………なんで……醒めないかな……この夢………」
夢だと思いたいのに、やっぱり現実感が強い。しかも窓のような画面に映っていた宇宙空間の景色は少し変化していて、距離感はつかめないけれど、さっきまでと星の位置や密度が違い、ガス星雲のようなものも見える。
「…………夢………きっと……夢……」
とても怖くなって、もそもそと三葉はベッドに潜り込むとシーツにくるまった。けれど、そのシーツやベッドが知っている物より、はるかに肌触りが良くて、通気性もあるのに保温性もあって、見たことのないような生地で作られていて、ベッドマットの柔らかさも体験したことのない心地よさだったし、その他の室内にあるものも材質が粘土なのか金属なのか、それすらわからない物があったりする。照明も蛍光灯でもLEDでもない、なにか、ものすごい先進的な技術で作られているような雰囲気がする。部屋そのものは人類が居住するのに普遍的な間取りをしているものの、細部の品々が地味ながら圧倒的に違って感じる。そんな現実感をともなった未来的な感じに、三葉は泣きそうになってくる。否定したいのに、自分が百年か五百年、もしかしたら、もっと未来にいるのかもしれないという不安が襲ってきて怖くてたまらない。
「……ぐすっ………夢ッ………きっと夢……寝れば……醒めるから……」
夢の中で寝れば目が覚めるかもしれないという現実逃避で三葉はプルプルと震えながら目を閉じた。起きていたのはわずかな時間だったけれど、とても頭が疲れてきていて、ベッドマットも心地よくて、目を閉じて泣いていると眠れた。そのまま夕刻まで眠っていると、ラインハルトが2人分の食事をトレーに載せて入室してきた。
「うむ、言われたとおりに寝ているな。起きて仕事でもしていたら怒ってやろうと思ったが感心、感心」
「………ぐすっ……」
それほど深い眠りではなかったので気配を感じて三葉が目を覚ました。
「キルヒアイス………」
目が合うと、寝惚け眼が涙に濡れていたのでラインハルトは優しく微笑んだ。
「どうした。悪い夢でも見ていたのか」
「……そんな感じです……今も…」
「そうか。たしかに、色々あったからな。オレも悪夢を見ることがあるよ」
振り返れば、敵軍に殺されかけたことは当然としても、自軍にさえ裏切られたり陰謀によって窮地に立ったことが何度もあるし、何より10歳だった頃に姉を後宮に奪われてから、悪夢を見るなという方が難しい人生を生きてきた。ラインハルトは親友の隣りに座ると、優しく肩を抱いた。
「キルヒアイス」
「……」
三葉は芸術的なまでに美しい美男子に肩を抱かれ、また赤くなって顔を伏せた。
「恥じることはない。泣きたいときは泣けばいい」
「…は…はい…」
しばらく静かに抱かれていると、食事の匂いがして朝から食事を摂っていないこともあって、三葉はお腹が鳴って、ますます恥ずかしくなった。
「っ……」
「アハハハ、身体は元気なようで、よかった。食べよう」
ラインハルトがトレーを渡してくれる。二人でベッドに腰かけて食べ始める。料理は欧風なだけで、三葉が見たことのある食材が使われていて、食べていると少し気分が落ち着いた。
「ごちそうさまです……ご迷惑をおかけしました」
「いいさ。シャワーでも浴びて、すっきりしろ。ずいぶん、パジャマが汗に濡れているぞ」
「あ…はい…」
言われてみると寝汗でパジャマが濡れている。顔も洗いたいので、三葉はシャワー室に入ってパジャマを脱いだ。
「……うわぁぁ…」
鏡に映る裸体を見て感動する。触ったときも思ったけれど、鍛え上げられた若々しい肉体は圧倒的に美しかった。
「すごい筋肉……」
とくに女性の身体と違うのは肩から胸にかけての筋肉で、くっきりと三角筋や上腕二頭筋のラインがみえ、大胸筋の厚みも体積としてなら三葉の乳房を大きく超えるほどある。
「お姫様抱っことか余裕でできそう」
ぐっと力を入れてみると、大胸筋がピクピクと反応して嬉しくなった。
「うわ、すごい動く…ピクピク…」
さらに力を入れると、筋肉のラインがあざやかになった。ついつい、ボディービルダーがやっているようなポーズをとって鏡で見てみる。
「腹筋もキレキレ、かっこいい」
しかも鏡に映る顔も惚れ惚れするような美青年なので、スマイルをつくってみると、その笑顔にドキリとしてしまい、赤くなってから虚しくなった。
「なにやってんの私……。シャワー浴びなきゃ…」
そんな場合ではないのに、あまりの肉体美に見入ってしまったことを反省しつつ、下を見ないようにしながら下着も脱いだ。
「…トイレ……」
シャワー室にはトイレもあったし近づくと自動で便座の蓋があがり、座って用を足すと自動で流れてくれた。
「シャワーは、どう使うのかな……」
トイレは全自動だったけれど、シャワーは使い方がわかりにくい。なにかパネルのようなものが設置されていて、それを触ると出てきそうでパネルには文字も表示されているけれど、やっぱり英語とは明らかに違うし、うっかり使って熱湯を浴びたり冷水を浴びるのは嫌だったので三葉はパジャマのズボンを再び履くと、扉を開けてラインハルトに問う。
「すいません。シャワーって、どう使えばいいですか?」
「……は? 何を、どう使うって?」
「シャワーのお湯の出し方がわからなくて、すいません。教えてください」
「………クス、変わった冗談を言うようになったな。いいだろう、付き合ってやる」
少し不敵な微笑みを浮かべたラインハルトは、なぜか軍服の上着を脱いでシャワー室に入ってくると、パネルを操作して適温でシャワーを出しつつ、教えてくれる。
「これを、こう。あとは温度は、こうだったろ。で、どういうオチのある冗談なんだ?」
「い…いえ……冗談ではなく…」
「なるほど、お前、誘ったな。まあいい、少し狭いが久しぶりだ、いっしょに入ろう」
「へ…?」
三葉が返事をしないうちに、ラインハルトも服を脱いでいく。
「っ……」
顔も美しいけれど、その身体も全身が白磁で彫像されたのかと思うほど精巧な芸術品のようで三葉は見入ってしまう。この世に、これほど美しい人間が存在したのかと思うような完璧な身体で三葉が立ちつくしていると、先にシャワーを浴び始めた。
「お前を休ませて今日は正解だったかもしれないな。退屈きわまる航海で何もなかった。だが、明日からは警戒が必要だろう。ん? どうした、お前も入ってこいよ」
「…は……はい…」
逆らいがたい雰囲気に圧倒され、三葉もパジャマを脱いでシャワーを浴びるけれど、もともと小さなシャワールームなので二人で入ると、かなり狭い。どうしても身体が触れ合ってしまうので、三葉はお湯の温度以上に暑く感じた。
「なつかしいな。こうしていると子供の頃を思い出す」
「…ハァ…ハァ…」
美青年の身体になって美青年とシャワーを浴びるという女子として脳が腐りそうな状況に三葉は、まともに応答できない。
「やっぱり、まだ調子が悪そうだな」
「…ハァ…ハァ…」
「明日も警戒といっても、たいしたことは無いだろうから、調子が悪ければ艦橋に立たなくていいぞ」
「…ハァ…」
「もう揚がろう。ずいぶんと顔が赤い。のぼせているぞ」
「…は……はい…」
シャワー室を出てバスタオルで身体を拭くと、ラインハルトはバスローブ代わりにバスタオルを腰に巻いたので、三葉も見習って同じようにする。ラインハルトの髪が濡れたことで、ますます美しく輝いているし、アイスブルーの瞳は子供時代を思い出したような無邪気さに光っている。イスに座って三葉にはベッドをすすめてくる。
「お前は横になっていろ。まだ、のぼせた顔をしているぞ」
「…す…すみません…」
言われたとおりに寝転がった。さすがに、もう眠くないので目を開けていたけれど、むしろイスに座ったラインハルトの方が艦橋勤務の後に、怠りなく白兵戦の訓練もしたので眠気を覚え、うつらうつらとし始めた。
「…眠いな……オレも横になる」
そう言ってベッドに入ってきた。当たり前のように寝始めたので三葉は困った。
「……………」
どうしよう、何この状況、これが普通っぽい口ぶりだけど、っていうか、ここは、どこ、今は何時代なの、私は、どうしてキルヒアイスって呼ばれる男の人なの、と三葉には訊きたいことは山ほどあるけれど、すやすやと眠っている美しい寝顔を見ていると起こす気にはなれない。
「…………」
こんなにキレイな人間いるんだ、金髪すごい、眉毛までキレイ、睫毛も、と三葉は状況の把握よりラインハルトの美しさに目を奪われ、時間を過ごしていく。起こさないように静かにしていても自分は眠くならないし、音を立てないように時刻表示をみると、もう夜の12時になろうとしていた。
ラインハルトの寝顔を見つめていたキルヒアイスの瞳が少女が美青年に見惚れているような色合いから、未知の体験をしてきた思慮深い青年の色合いに変わった。
「…………」
ラインハルト様がおられる、ということは戻ってきたのか、しかし、なぜ、裸、とキルヒアイスは大きな安堵と大きめの疑問を抱いたけれど、声に出したりせず眠っているラインハルトを起こさないよう静かにベッドから離れた。
「………」
私も裸なのか、いったい何が、数秒前までの私の身体は中身が17歳の少女だったはず、と疑問が大きくなりつつあるも、ベッドサイドに置かれた二人分の食事トレーなどで、なんとなく察した。キルヒアイスは静かに軍服を着るとラインハルトへ、私は資料室にいますがラインハルト様はお休みください、とメモを残してトレーを持って退室した。トレーを士官食堂に返却すると資料室に入った。
「日本……やはり実在している国家だったのか…」
資料室のコンピューターで体験してきたことの真偽を見極めるため調べ物をしていく。
「王朝国家? そんな雰囲気では……なるほど、立憲君主制か、それ以前は征夷大将軍による幕府との並立……そこからの大政奉還……急速な技術力の成長は、火縄式火薬銃を取り入れた時期にもみられ……日清戦争、日露戦争と連勝するも……人類初の被爆国……敗戦後は君主を象徴に……三葉さんがおられた時期で、すでに120代以上も……記録上は人類最長の王朝……現在も、同盟領へ亡命した者が、宗教法人日本皇統保存会、通称日本教を立ち上げて……よくルドルフ大帝の時期を乗り越えて……。八百万の神? ……なるほど、ルドルフ大帝の神格化に逆らわず、一柱の神として積極的に受け入れ、瑠怒流布大明神に………おおよそ、軍事的な名将も、すぐに神として祭るのか……かわった民族だ。そういえば、三葉さんも宮水姓が、そのまま神社としても……由緒ある血統の女性だったのかもしれない……黒髪の美しい凛とした女性だったから……」
キルヒアイスは、あまり深く歴史に興味を持つ方ではなかったけれど、実体験してきた国のことであり、繰り返し入れ替わりが起こるかもしれないという一葉の言葉も気になっているので調べを進める。もう真夜中ではあったけれど、身体は十分に昼寝をした後のように疲れを感じていない様子だった。
「侍? 騎士道精神に類似した独特の戦士階層か……ラインハルト様が以前に決闘されたとき、剣術について調べておられたときも出てきたような気も……まあ、これは関係ないか。ん? 日本教の副会長に同盟軍のウランフ提督が登録されている……日蒙文化交流継承会を通じてか……人の縁というのは不思議なものだ。政治団体でもない、ただの趣味の集まりのようだな。さて、岐阜県飛騨地方については……町の名は、糸守町だったかな」
さらにローカルな情報についても調べる。
「小さな町のことだから何の記録もない可能性も……あった」
意外にも糸守町のことは、すぐに見つかった。
「ティアマト彗星の一部が落下……隕石の落下による犠牲者が出た例としては有史以来、最大規模……これ以後、宇宙から飛来する物体に対する防衛が各国で進み、ミサイル技術の進展と拡散……これが、後の地球上での核戦争への遠因とも……」
世界史の分岐点になるような、かなりの歴史的な事件があったようで大きく記録が残っている。そして、読み進めるキルヒアイスの端末機を操作する指が止まった。
「落下は2013年………………まさかとは思うけれど…………犠牲者名簿がある。……っ! ……彼女たちも…」
犠牲者名簿に三葉たちの名前を見つけてキルヒアイスは胸に痛みを覚えた。
「私が入れ替わった日から、あと、ほんの半年あまりで……まだ17歳の彼女は……フロイライン四葉なんて、まだ10歳くらいで…………サヤチン…」
温かいココアの味を思い出して、キルヒアイスが涙を零した。図書室で様子がおかしいと心配してココアを飲ませてくれた早耶香、あの友人を思いやる少女も早世するのかと思うと目頭が熱くなる。お兄さん、と呼んでくれキルヒアイスの話を信じてくれた四葉まで犠牲になると知り、運命が呪わしくなった。
「くっ………」
「今日のお前は、泣いてばかりだな」
不意にラインハルトが隣りに立って声をかけてきた。キルヒアイスの肩に手を置きながら、アイスブルーの瞳は端末機を見る。
「ティアマト彗星? ほお、泣いているかと思ったら何か作戦に使えそうな地形的条件を見つけたのか? ん? 違うな、これはティアマト星系ではない。どこの星系だ? ……地球? こんなところを調べて何を?」
ラインハルトはやや早口かつ多弁気味に言った。日に二度も泣いていた親友は弱い男ではないはずなので気にかかり、その心配が口調に出ているのだとわかり、キルヒアイスは涙を拭いて微笑んだ。
「ご心配をおかけしました」
「心配などしていない。こんな古い時代のことを夜中に調べて何をしているんだ?」
「はい、少し気にかかることがありましたので」
「ほお。で?」
「………。黙っておくわけには参りませんね」
「当たり前だ」
「たしかに、話しておかなければならないことです。繰り返し起こる可能性もあるのですから」
キルヒアイスは資料室に余人がいないか、しっかりと視線を巡らせる。その動作でラインハルトも極めて内密な話なのだと悟る。二人が内密な話をするのは、その多くが帝政に対する反逆についてなので、ラインハルトの顔も真剣になった。
「それで?」
「これからする話は、かなり荒唐無稽というか、信じがたく、また冗談のように聞こえるかもしれませんが、少なくとも私の主観にとっては真実と感ぜられることです」
「めずらしく前置きが長いな。早く言え」
「まず、昨日の私、12時以前の私は、かなり普段と様子が違いませんでしたか?」
「ん? ああ…」
ラインハルトが記憶を振り返り頷いた。
「かなり普段と違ったな」
「まるで中身がフロイラインのようではありませんでしたか?」
「おお、そう言われると、そうだ。やや女々しい…いや、可愛い、というか…」
「昨日の私は私であって、私ではなかったのです」
「……というと?」
「まったく別の人格と、私の人格が入れ替わっていたのです」
「おいおい、そんなことが…」
「私も半信半疑です。ですが、資料室で調べて疑いようのない事実かもしれないと考えが変わってきています」
キルヒアイスが端末機に映る宮水三葉の名を指した。
「昨日の私は、西暦の2013年に生きていた宮水三葉という女性と入れ替わっていたかもしれないのです」
「このフロイラインと?」
ラインハルトも端末機を見る。キルヒアイスは犠牲者名簿だけでなく当時の読売新聞に掲載された、ティアマト彗星落下でお亡くなりになられた方々、という追悼記事にあった三葉の顔写真を指した。その写真は糸守高校の修学旅行で撮影されたものを切り抜いたようで女子高生らしく写りを気にして顔の角度を工夫して撮られた可愛らしい一枚だった。その隣にある四葉の写真は小学校入学時の一枚で、一葉の写真は糸守町老人会のバス旅行で下呂温泉に行ったときのもの、克彦の写真は月刊ムーに投稿記事が載ったときの転載で、早耶香の写真は本人フェイスブックより、となっている。
「はい」
「……………そんな話を信じろというのか? いや……お前が、こんな冗談を言う人間でないのは知っているが……だが、しかしだ」
「私も最初は寝惚けているのか、変な夢ではないか、もしくは精神病にでも罹ってしまったのか、とも考えたのですが、こうして調べてみると、昨日体験したことと、この資料室にある情報が一致するのです。彼女の名前も、家族の名前も。知りもしなかった町の名も」
「…………よしんば、そうであったとして、どうだと言うのだ? 今のお前は、もうお前ではないか」
「人格が入れ替わる現象は、繰り返し起きる可能性があると、彼女の祖母に言われたのです」
「繰り返し………、そうなると、どうなる?」
「その日、一日、おそらく24時間、私はラインハルト様のお役に立てないでしょう」
「………それは………場合によっては、かなり困るな」
「そうです」
「………対策はないのか?」
「今のところ。ですが、ずっと続くわけではないとも言われています」
「続かれてたまるか。お前はお前だ。他の何者でもないはずだろう」
「そうありたいのですが………」
キルヒアイスが視線を落とすと、ラインハルトが問う。
「それで泣いていたのか?」
「いえ。そのことでは……。むしろ、ただの女々しい感傷です。この入れ替わった女性が、その半年後に不条理な死を迎えると知り……つい…」
「フっ、お前らしいな。どのみち、こんな大昔の人間、100歳まで生きてもオレたちには擦りもしない」
「そう思っていたのですが、わずか半年の命と知れば…………妹もおられて10歳でしたし、私は先刻まで現場にいた、という感覚なので同情を禁じ得ないのです。女々しいとは思いますが…」
「まあ、目の前にいたフロイラインが…、となればわからんでもないが、ちなみに、どういう死に方をするのだ?」
「このティアマト彗星の一部が落下したのです」
「彗星の落下? そんなことも、この時代の人間は観測できないのか? 事前に観測できなくても自動防衛の人工衛星くらいないのか?」
「人類が宇宙へ進出して一世紀と経たない時期ですから」
「そうか。まあ、仕方ないのだろうな」
「はい、むしろ、この隕石落下による犠牲が要因となって、日本という国が宇宙防衛に乗り出します。ラインハルト様がおっしゃるように自動防衛の人工衛星システムを開発しようとし、アルテミスの首飾りの原始的な形として、アマテラスの首飾りシステムを2050年までに配備しようと2038年には準天頂衛星イトモリ零号機が打ち上げられます。ですが、ご存じの通り地球上での核戦争が2039年に起こり、すべては水泡に。それどころか、アマテラスの首飾りシステムが核ミサイルを迎撃する能力も持っていたことが核戦争を誘発した可能性さえあります。つまり、この隕石落下での犠牲が生じたことが無ければ、人類の歴史は大きく変わっていたかもしれないのです」
「………」
「この犠牲さえ……無ければ……のちの大きな犠牲も………」
「キルヒアイス、お前、このフロイラインたちを救えないものか、と考えているな?」
「いえ……まさか…」
「フフン、では仮にフロイラインミツハと次に入れ替わったとき、彗星落下の当日だったとして、助けようとすれば、どう助ける? お前の身体は鍛え上げた帝国軍少佐ではなく、ただの女学生なのだろう? いかにする?」
「仮に、ということですか…」
「そうだ。まさか、星占いに出たと言い回るわけにもいくまい。まして未来から来たなんて言えば狂人扱いされるだろう」
「仮に落下まで12時間あるとして、協力者なく私一人、いえ、三葉さん一人の身体であれば…」
キルヒアイスは糸守町の地図をモニターに映した。
「隕石の落下は、この地点です。被害は半径500メートルまで。ただ、事前に察知したと言っても、この時代の観測技術では確認できないでしょうし、確認できても迎撃はできません。落ちることは不可避です。となれば、避難させるしかありませんが、それを叫んでも少女一人の妄言で終わるでしょうから、実力行使します」
「フロイラインミツハ一人でか。どうやって?」
「町内で無人の空き家や倉庫などを2、3カ所、爆破します。その後、さらに大きな爆破を行うという予告電話を入れれば、避難せざるをえないでしょう」
「女学生が爆薬など手に入れられるのか?」
「この時代の地上車は排気ガスの匂いからして、揮発性の高い危険な燃料を使用していたようですから、倉庫などの密閉された空間で揮発させ充満させれば、ゼッフル粒子のように爆発させられそうです。簡単な起爆装置を作れば2時間もあれば実行可能です。他に料理に使用していた燃料も可燃性のガスでしたから、そちらを利用しても良いでしょう」
「なるほど、即席爆弾か。ちゃちな爆発でもデモンストレーションの爆破があれば、予告電話を信じるだろうな。周辺一帯から避難させられるだろう」
「もし、即席爆弾でない実用的な爆薬が手に入り、男性の協力者が1名でもいれば、デモンストレーションも必要なく予告電話と、見つかりやすい場所に一つ仕掛けるだけで指定した時間までに避難してくれることでしょう」
「たしかに、フロイラインの声で予告電話したのでは当局が本気で捜査しないかもしれないしな。男の声なら動くだろう。それで一つ本物の爆弾が見つかれば、デモンストレーションがなくても避難は開始されるな。いい作戦だ」
「問題があるとすれば…」
「すれば?」
「地方警察の本部から爆発物処理班が呼ばれるでしょうから、彼らに犠牲者がでないよう予告電話のあとに道路を封鎖します」
「どうやって? 動員可能な人員は一人か、二人だろう?」
「幸い、この町は山奥ですから、この道路と、こちらの道路、この二つのルートを木を切り倒すなどの手段で封鎖すれば足止めをできます。あとは注意すべきは事後に三葉さんが当局から逮捕されないよう、目撃されても人相がわからないようにすることやアリバイ作り、現場に指紋、髪の毛などを残さないよう行動しなくてはならないでしょう。我々が普段やっている軍事行動とは違った注意力が必要になるでしょうね」
「うむ、意識のない間に、自分が爆弾魔になっていてはフロイラインミツハに気の毒すぎるからな」
ラインハルトとキルヒアイスの脳裏に、修学旅行で撮影された微笑んでいる写真の三葉がキルヒアイスの意志によって覆面をかぶり隠密に行動し、燃料を盗み、町内を爆破し、予告電話によって町民を避難させ、爆発物処理班を倒木で足止めし終え、ほっと安堵の微笑をして隕石落下を待つ姿が去来した。
「さすが、キルヒアイスだ。たった一人の女学生でも実行可能な作戦だな。やはり、お前、オレが問う前から考えていたな。助ける手段がないか、その可能性を」
「はい……」
「だが、わかっているのだろう。聡明なお前のことだ」
「ええ……」
少し沈黙した二人が異口同音する。
「「歴史を改変してはならない」」
キルヒアイスが体験したことが本当に時間移動であるならば、なおのこと不用意に歴史へ介入してはならない、たとえ無名の少女とわずかばかりの町民を助けるだけであっても、後世の歴史にどんな影響があるかわからない。その認識を共通させた二人は資料室から出た。
「だいたい歴史を変えられるなら、ルドルフの出現前に戻りたいというヤツは何万、いや、何億人といるだろうな」
「ラインハルト様、お声が高いです」
「夜中だ、当直以外は寝ているさ。まあ、一国家の存亡とまでは言わなくても、フロイライン一人くらい助けたいと誘惑されるか?」
「………。もしも、ラインハルト様が、あと半年、一年の命であると、他人から真剣に告げられたら、どうお感じなりますか?」
「そんなヤツは殴ってやる」
「クスっ…たしかに、気分のいいものではありませんからね。やはり、たとえ繰り返し入れ替わりが起こるとしても絶対に教えない方がいいでしょう」
「ああ、黙っていてやるのが、フロイラインミツハのためでもあるだろう」
「そうします。それはそうと、私も訊きたいのですが、なぜ、私とラインハルト様は裸だったのですか?」
「ああ、いっしょにシャワーを浴びたからだ」
「………中身は三葉さんだったのですよ」
「う~ん……フロイラインミツハには申し訳ないことをしたな」
「他に、何をなさいました?」
「事情聴取か?」
「いえ、むしろ、私の身体は何をいたしましたでしょうか、昨日」
「まず寝坊だ。起きてこないから心配して見に行ったら寝ていた」
「それは、すみません」
「お前が謝ることはない。それで起きるまで寝顔を見ていたんだ。ククっ…」
ラインハルトが意地の悪い笑い方をするのでキルヒアイスが問う。
「よほど彼女は驚いたのではないですか?」
「ああ、壁で頭を打ってな……ククっ……キルヒアイスのあんな顔を見ることができたのは収穫だったぞ」
「かわいそうに……」
「もちろん、ちゃんといたわってやったぞ。しばらく寝ていろと言ってな。で、夕方に食事をもっていってやったら、泣きながら寝ていた」
「無理もないでしょう。あんな平和な生活をしていたのに、いきなり軍艦の中、しかも宇宙ですから。パニックになったりしませんでしたか?」
「いろいろ起こりすぎて、ぼんやりという風だったな。それでシャワーでも浴びて、すっきりしろと言ったらシャワーの使い方がわからない、とか言い出して。オレは、まだキルヒアイスだと思っているから、何の冗談かと思って、まあ、それで、いっしょに浴びることになって……そうか、顔が真っ赤だったのは、のぼせたのではなかったのだな。これは真剣に詫びを入れておかねばならないな。伝えておいてくれるか?」
写真で見た三葉の前で裸になったのだと考え直してみると、女性に対して悪いことをしてしまったと反省したラインハルトは不明を恥じて少し赤面した。キルヒアイスが微笑んで頷く。
「一応お伝えします。ですが、入れ替わることが繰り返し起きるなら、むしろラインハルト様こそ、三葉さんに出会うことができるのですよ。私は永遠に会えないでしょう」
「そうか、そうだな。………繰り返し、か。次は、いつになるのだろうな」
「その時が戦場でなければ、よいのですが」
「ああ、それについての対処を話し合っておこう」
二人は入念に、もしも戦闘中にキルヒアイスが三葉として行動した場合について話し合いをもった。
四葉が見守っていると、12時のカウントダウンで布団に寝て目を閉じていた三葉が目を開けた。
「っ…戻ってる?! 私の部屋だ!」
「あ、お姉ちゃんになった」
その動き、口調どれも実姉だと確信できた。
「よかったァ! やっぱり夢だったんだ!」
「……夢にするんだ…」
どんな体験をしてきたのか、とても気になる四葉が質問する前に、三葉は急に丸くなって布団の上で呻いた。
「うぅぅっ…」
「お姉ちゃん?! 大丈夫?!」
「ううっ…はぅう…」
苦しみだして歯を食いしばった三葉の額に汗がういてきている。
「どこか撃たれたりしたの?!」
軍人、戦争という単語を思い出した四葉は心配して姉の頭を抱き上げた。
「しっかりして、お姉ちゃん! お姉ちゃんの身体に戻ってるんだよ! それでも痛いの?!」
「ううっ…あううぐうぅ…た……立たせて、…は……早く…」
「立つの? 大丈夫? どこが痛いの?」
「おっ…」
「お?」
「おしっこ……出そう…」
「………」
四葉が脱力して姉の頭を落とすと、三葉は下腹部を押さえて悲鳴をあげる。
「あああっ…ひ…響くから……そっと……そっと立たせて…ぅううぅ…」
「あの人……お風呂も遠慮したから……あんな涼しい顔して我慢してたんだ」
着替えも目を閉じたと言い、入浴も明白に遠慮した紳士が、三葉の下着を脱がせることになるトイレを先延ばしにしたのもわからなくもない。そして精神力の違いなのか、三葉の呻きようを見ていると妹として少し恥ずかしい。
「お姉ちゃんって淑女とか紳士って存在と1光年くらい離れてるね」
「ううぅ…ハァ…お願い…た…立たせて…で、出ちゃう、漏れちゃう」
「はいはい」
四葉は高齢者を介護するような配慮をしつつ呻いている三葉の肩を抱き、まずは上半身を起こした。
「ほら、私の肩に手をのせて立って」
「ぅうぅ…あ、ありが…ぅう…」
よろよろと三葉は内股で立ち上がると、妹の肩を杖のように支えにしながら歩く。
「ハァ…ハァ…ぅうぅ…自分の部屋から、出るのが、こんなに遠いなんて…」
一歩一歩がつらいようで半歩ずつくらい進んでいる。昨日は一日を狭い士官室の中で過ごした三葉が今は少しでも早く自室から出ようとしている。
「そういえば、お姉ちゃん、向こうの世界って、どうだった?」
「うぅぅ…あぅぅ…」
「……。あとで訊くね」
ようやく部屋を出ると、階段をおりるのは妹の肩ではなく手すりを頼りに一段ずつ進む。けれど、どんどん限界が近づいてきたのか、階段の半分までおりると、もう立つのも苦しいようで、一段一段、お尻をおろして座ってから足をおろし、またお尻を一段おろしてから足をおろすという状態になった。
「ハァ…ううぅ…ハァ…ぅぅう…」
「もうバケツでも持ってきてあげようか?」
先に降りた四葉が問うと三葉は首を横に、ゆっくりと振る。
「い、…要らない……私にも…ハァ…女子高生としての……ハァ…プライドが…あるの…ハァ…し、思春期むかえてない…ハァ…お子様には…ああぁ!」
「お婆ちゃん、寝てるから静かにね」
四葉が見守る中、ゆっくりと階段をおりた三葉は、また妹に肩をかりる。四葉の先導でトイレを目指した。
「ハァ…そっと…ぅぅ…そっと、ゆっくり歩いてよ……うぅ…早くトイレに…、ゆっくり…ハァぅ…早く…」
「ゆっくり早くって、それもう超空間移動だよ」
振り返ると、姉が半泣きの顔で我慢して震えている。もう潤んだ目から涙を流しつつ、鼻水まで少し出ている。姉らしいといえば姉らしいけれど、ほんの数分前までの凛とした美少女とは思えない変貌ぶりで、外見が同じでも中身が変わると人間こうまで変わるのかと感心してしまい、四葉はタメ息をついた。
「はぁぁぁ…、お姉ちゃん、このままだと本当に、おもらしするよ? バケツもってきてあげるから、そこにしなよ」
「…イヤ……プライドが…ぅぅ…思春期が…ハァ…女子高生が…」
「お姉ちゃんが恥ずかしがりなのは、知ってるけどさ。冷静に考えてみなよ。バケツにするのと、おもらし、どっちが恥ずかしい?」
「ハァ…ハァ…どっちも死ぬほど恥ずかしい…」
「…………。ちゃんと冷静な判断をして限界だったからバケツを使ったお姉ちゃんを私は笑わないけど、おもらししたお姉ちゃんのことは笑うよ」
「っ……」
「口噛み酒を造るだけでも恥ずかしがってるお姉ちゃんが、おもらしなんかしたら、それをキッカケに、どんどん自滅的な方向に進んで行きそうな予感がするよ。なんとなく」
「ぅぅ…ハァ……ハァ…ダメ、もう一歩も動けない…ハァ…動いたら……出ちゃう…」
三葉の瞳が焦点を失い、視線が上を向いている。顔が汗びっしょりなのに青ざめていて、腿はプルプルと震え、今にも限界を迎えるのは明らかだったので四葉が決める。
「バケツ、もってくるね」
「……うん…お願いぃ…」
三葉は恥を忍んで妹が用意してくれたバケツに済ませた。四葉は姉を傷つけないために、見ないように聴かないようにして待ち、三葉は後片付けをしてから、赤くなった目頭と鼻を擦りながら、妹に礼を言う。
「ありがとう。でも、お姉ちゃんはバケツにしてないよ。ちゃんとトイレに間に合ったの」
「……。うん、そうだね。間に合ってたね」
歴史を捏造する姉を四葉は優しく受け入れる。それでも三葉は念押しする。
「バケツにしたなんて小学校で言ったりしないでね」
「お姉ちゃんは、ちゃんとトイレでしたよ」
「ありがとう、四葉」
「うん、うん」
四葉は頷いてから、訊く。
「それで、どうだったの?」
「っ…バケツじゃないもん! トイレだもん!」
「………。その話じゃないから」
「…………じゃあ、何の話なの?」
「訊きたいのは昨日一日、誰かと入れ替わっていた感覚とか、ジークフリード・キルヒアイスっていう名前に聞き覚えはない?」
「え? なんで、四葉が私の夢を知ってるの?」
すっかり尿意との戦いに気を取られて昨日のことを夢だと思っている姉へ、四葉は眠くなってきたので早めに話を進める。
「お姉ちゃんはジークフリード・キルヒアイスっていう男の人になってなかった?」
「……あれは夢じゃないのかな……でも、キルヒアイスって人は知ってるけど、ジークフリードって? ラインハルトさんも四葉が知ってる?」
「あ~……ジークフリードはキルヒアイスさんの名だと思うよ。たぶん姓がキルヒアイス。ラインハルトさんはキルヒアイスさんの上官らしいかな」
「情漢って何? どういう関係?」
「今、微妙に変な字をあててない? お姉ちゃん、あっちの世界で一日何をしてたの?」
「う~ん………二度寝して、ご飯食べて、シャワー浴びて、そんな感じ」
「……………。自分が宇宙にいるなぁ、って思わなかった?」
「宇宙………やっぱり、あれは宇宙なのかなぁ……」
「ワープとかした?」
「した!」
「戦争は?」
「戦争? そんなの無かったよ」
「二人は軍人じゃなかった?」
「う~ん……身体は、すごい鍛えて…」
そう言って三葉は真っ赤になった。なんとなく四葉は理解できたし、姉が初日にした行動は次に入れ替わったときにキルヒアイスから訊く方が詳細な気がして、もう眠いので話を終わらせる。
「とりあえず、キルヒアイスさんと入れ替わるの、しばらく繰り返して起きるかもしれないって」
「またあるの?!」
「うん、お婆ちゃんがそう言ってた。だからね、くれぐれもキルヒアイスさんの生活を乱すようなことしないであげてね」
「い……入れ替わり……入れ替わりってことは、私の身体、どうなってたの?!」
三葉が不安になって自分の身体を抱く。見知らぬ男性に一日、自分の身体を操られていたという女性らしい恐怖を覚えている。女子として意識のないうちに、自分の身体を男性から意のままに操られるということは底知れない恐怖と不安がある。怯えて青くなっている三葉を見て、四葉はキルヒアイスの配慮を伝える。
「安心して。絵に描いたような紳士的な人だったから、お風呂も断ってたくらい」
「……おっぱいとか触られてない?」
「そういうことしないタイプだと思う。着替えも目を閉じてしたって。トイレも行ってないはず」
「よかったぁぁ……。………でも、だから、あんなに、おしっこ………」
「次、入れ替わったときはトイレは行ってもらうよう言っておく?」
「…………………。ダメ! 我慢してもらって!」
三葉は鏡で見たキルヒアイスの顔を思い出して、彼が三葉の身体でトイレに入り、脱いだり、拭いたりするシーンを思い浮かべ、ブンブンと首を横に振った。
「絶対ダメ! むしろトイレが一番ダメ!」
恥じらって顔を真っ赤にして拒否している。
「あんなカッコいい人に見られたくないもん!」
「カッコ悪い人ならOKなの?」
「もっとダメ!!」
「キルヒアイスさんは、きっと目を閉じてくれるよ」
「目を閉じてたって触るんでしょ?!」
「……まあ……拭くかな……」
「その前に脱がせるんでしょ?!」
「脱がずにはできないね」
「着替えだけ! 朝の着替えだけにしてもらって! パンツ脱ぐのは絶対ダメ! 着替えでもパンツは替えなくていいから!」
「……生理現象だよ? 夕方くらいに限界きたら、どうするの?」
「……………我慢してもらって……」
「お姉ちゃん、冷静に考えようよ。さっきは家だったから良かったようなものの、うっかり学校でおもらししたら、どうするの?」
「っ……」
「慣れない女の子の身体でさ。朝から一日だよ? 午後の体育が跳び箱とかだったら厳しいよ? それでなくても、教室で人にぶつかられたり、何かを踏み外したりした拍子に漏らしちゃうかも。想像してみなよ、そんな自分の姿を」
「…………ヤダ……そんなことになったら、もう学校いけない」
三葉の脳裏に水たまりにたたずむ自分の姿が去来した。跳び箱の上で体操服を濡らしてしまう三葉、授業中の教室で漏らしてしまう三葉、石段を踏み外して転びながら漏らしてしまう三葉、どの三葉も真っ黒な絶望の闇に沈み、その後の学校生活が破綻していくのも、なんとなく感じる。
「きっと、漏らすよ。今日は乗り切れても、そのうちいつか。運の悪い日もあって。だいたい丸一日我慢なんてことを何度もしたら、お姉ちゃんがお姉ちゃん本人でいるときだって膀胱炎にでもなって、学校で漏らして大恥をかくと思うんだけど?」
「…………ぅぅ……」
「トイレくらい諦めてさせてあげなよ」
「だって……トイレは密室……」
「その気になったら、お姉ちゃんの部屋だって密室だよ。おっぱい揉んだり、何でもできるよ。でも、キルヒアイスさんは、そんなことしない人だって思うから」
「……ぐすっ……じゃあ、……小だけは、してもらって……」
「大は、どうするの?」
「我慢してもらって。絶対!」
「…………まあ、大なら便秘気味になるくらいで済むかなぁ……」
「……ぐすっ……ぅっ……ぅっ……泣きそう……。入れ替わりなんて……イヤだよぉ……ぅう…ぅう……女の子には見られたくないところが、いっぱい、いっぱい……あるんだよぉぉ……イヤだよぉ……もうイヤだよぉ…」
三葉が畳の上に寝転がって手足をバタバタとさせ始めた。四葉は深いタメ息をつく。
「はぁぁ………。あ! もう一つの、あれは、どうする?」
そして何かに気づいて姉に問うけれど、姉は意味がわからず問い返す。
「あれって?」
「……私も、そろそろだから小学校で習ったけど、あれ」
「あれ?」
「だから、あの日、月に一回は来るんじゃないの?」
「あ…………」
「………」
「………」
二人は入念に、もしも生理中に三葉がキルヒアイスとして行動した場合について話し合った。