「君の名は。キルヒアイス」歴史の真実と芯の世界 作:高尾のり子
キルヒアイスは三葉の部屋で起き上がろうとして、経験したことのない体調不良でよろめいて手をついた。
「うぅ……」
下腹部が痛いし、頭痛もあって頭に重さを感じる。めまいもするし軽い吐き気もあった。
「風邪……それとも下痢……」
そして気持ちが憂鬱で、何もしたくないくらい身体がダルい、このまま起きないで寝ていたいという強烈な誘惑もある。それでも風邪のような高熱がでているわけではなく、行こうと思えば学校に行けそうなほどの体調の悪さで、判断に迷う。
「……ふぅ……ふぅ…」
なんとか立ち上がると、よりいっそう身体が重い。
「……これは…いったい……」
鏡を見ると、それほど顔色が悪いわけでもないけれど明らかに、いつもの三葉の身体ではなかった。手紙が置いてある。
四葉の言うとおりにして過ごして。
それだけが書いてある。まるで三葉も思考力がないような様子で妹に丸投げされていた。
「……とにかく……着替えを…」
よろよろと着替える。目を閉じるとバランスを崩してしまいそうなのでイスに座ってから着替えようとして三葉のお尻がイスに接すると、言いようのない気持ち悪さが股間にあった。
「っ………」
「お姉様、起きてる?」
四葉が入ってきた。
「あ、イスに座っちゃダメだよ。こっちに寝て」
「は…はい…」
言われるとおり、再び布団に寝た。
「つらいよね。お姉ちゃんは重い方らしいから毎月大変そうだから、たぶん同じだと思うよ。むしろ初体験な分、よりつらいかも」
「この体調の悪さは………何かの持病なのですか?」
「ううん、健康な証拠だよ」
「では、なぜ、これほどに身体が……」
「月経だよ。知らない?」
「……月経……」
言われて、ようやく三葉の身体に何が起こっているのか、理解した。軍事教育がメインの幼年学校では、あまり習わない知識で姉妹もいないし、ほんのわずかに一般教養の授業で習った気がする程度で、ラインハルトとも、そういったことは話題にしなかった。むしろ、10歳の頃にアンネローゼを後宮に奪われてから、そういった方面の話は二人とも無意識的に避け、拒絶してさえいた。
「これから必要な物を交換するから、私の言うとおりにして」
「……は……はい…」
「足を肩幅に開いて、膝を立てて」
「…はい…」
「じゃあ、この後は目隠ししてイヤホンで音楽もかけてから作業するから、自分の下半身に起こってることは意識しないようにしてあげて。でも、私が膝を軽く叩いたら、腰を5センチくらい持ち上げて。それ以外は終了するまで何もしないようにしていて」
「………わかりました。お手数をおかけするようで、すみません」
三葉の両膝が恐る恐る立てられ、少しだけ脚を開いた。
「もう少し、脚を開いておいて」
「…はい…」
「うん。じゃあ、まず目隠しをするね。目を開けないとは思うけど、お姉ちゃんを安心させるためだから、わかってあげて」
「…はい、お願いいたします…」
三葉の瞳が閉じられると、四葉はハンカチを細長く折ったものを目の上に置いて、さらに三葉の髪紐を後頭部へ回してから縛った。
「じゃあ、次にイヤホンで音楽をかけるけど、何か好きな曲とかありますか? できれば2013年以前に存在している曲で」
「……はい……では…ワーグナーをお願いします…」
「うん、たぶんネットにあるよ」
四葉は三葉のスマフォを操作してユーチューブでワーグナー名曲選を見つけ、イヤホンジャックをさした。
「あとね、作業中、可能なら息を止めていてほしいらしいよ。でも、苦しいと思うから、無理はしないで」
「…はい…」
「じゃ、イヤホンするね。音も大きめだけど我慢して」
四葉は自分の耳にさしてみて音量を確認してから三葉の耳へイヤホンを挿入する。大音量でワーグナーがかけられ、聴覚と視覚は完全に無くなった。四葉が作業を始める。
「まずは。これでよし。ちょっと腰をあげてもらって」
四葉が三葉の膝を軽く叩いた。
「うん、そんな感じ。って、聞こえてないか」
「…………」
「これを剥がして、すぐにビニール袋へ。で、新しいのを」
「…………」
「これでよかったはず」
テキパキと作業して、また三葉の膝を軽く叩いた。
「はい、終了」
「…………」
「もう、いいですよ」
四葉はイヤホンを抜き目隠しを解いて、ハンカチが三葉の涙で濡れていたので驚いた。
「……」
お姉様が泣いてる、これってそんなにイヤなことなの、泣くほどイヤなの、と四葉は意外に思っている。
「………」
「………」
目隠しを解かれても、まだ三葉の涙が止まらない。ずっと考えないようにしていたことを意識してしまっていた。婦女子が後宮という場所で、どういう目に遭うのか、かのフリードリヒ4世は、すでに高齢ではあるけれど病臥に伏しているわけではない。そして、後宮にアンネローゼが入ってから、すでに9年もの歳月が過ぎようとしている。ずっと考えないようにしていたし、10歳のころは知らなかった。けれど、現実を実感してしまい、しかも今は女の身であるからか、それとも体調がもたらしてくるのか、憂鬱で悲しくて胸が苦しい。むしろ、今まで意識しないようにしてきたことさえ、自分の卑怯さに思えてしまい、助け出せないでいる不甲斐なさと、女の身への同情が涙になって溢れて止まらない。あのチョコレートケーキを泣きながら一人で食べた夜から、もう泣くまいと決意していたのに、声をあげて泣きそうになり、三葉の手が三葉の胸を強く押さえた。
「っ…」
胸を押さえてしまい、そこにある膨らみを感じて慌てて手を離した。
「……なんてことを……私は……」
「そこまで気にしなくていいよ」
「…ですが……三葉さんとの約束…」
「別にエッチな気持ちで触ったわけじゃなさそうだし。起きられる?」
「…はい……」
起き上がると、やっぱり身体が重い。それでも涙は止まってくれた。四葉に頭をさげる。
「……どうも……すみませんでした……」
「ぜんぜん、いいよ。気にしないで。じゃあ、放課後になったら、すぐに帰ってきてね。また交換するから」
そう言って四葉は階段をおりつつ一人言をつぶやく。
「あそこまで潔癖性の人だと、お姉ちゃんの身体でいるの、かなりつらそう。それとも、アンネローゼさんのことでも思い出したのかなぁ……」
今朝は四葉だけが朝食の用意を手伝い、三人で食卓についたけれど、食欲もない様子だった。
「お姉ちゃんの場合も、ほとんど食べないけど、お茶くらいは飲んだ方がいいよ」
「…はい…」
食べると吐きそうな気がして、少しだけ日本茶を飲み、登校する。通学路に出ると早耶香と克彦がいた。
「おはよう、三葉ちゃん」
「おはよう、三葉」
「……おはようございます……」
「「………」」
長い付き合いなので三葉の顔色を見て、多い日なのだと克彦までわかってしまう。それでも、なんとか学校前まで歩いたものの、校門へ至る坂道を見上げた三葉の瞳が力を失った。
「ぁぁ……」
「三葉!」
克彦が倒れそうになった三葉の身体を抱き支えた。うなじから、うっすらと汗をかいている三葉の体臭がして、やっぱり生理中なのだとわかってしまう。
「おい、三葉、大丈夫か?」
「………」
貧血を起こしていて、聞いているのに聞こえていない、見えているのに見ていない。
「三葉ちゃん、保健室いこ」
「………すみません…」
それだけ言って気を失い、気がつくと保健室の天井を見ながら涙を流していた。
「……」
つらい。
ただ、ただ、つらい。
身体のダルさや痛みもあるけれど、気持ちがつらい。
まるで三葉の身体が泣いているようで、つらい。
それとも女性の本能なのか、生理現象なのか、つらくて、つらくて、気分が憂鬱に沈む。
「……」
お腹が痛い、気持ちも痛い。全身の細胞が月経を迎えることを悲しんでいる気がする。妊娠という生物としての目的に至れず、無為に血を流していることを、身体が悲しんでいると感じる。
「……」
涙が流れる。
「……」
気持ちを立て直せない。
「……」
考えたくないことばかり考えてしまう。
「……」
とくにアンネローゼのことが、つらい。
考えたくないのに、後宮という場所にいるアンネローゼの身が、心が、心配でたまらない。今すぐ駆けつけたいのに、何もできない。もとの身体に戻ってさえ、それができないと知っていて、より不甲斐ない。不甲斐ないという男らしい心理さえもおぼろげで、ただ女々しく涙を流すしかできない。
「……」
なんとかアンネローゼのこと以外のことを考えようとしてベーネミュンデのことを思い出してしまった。
「……あの人は……三度も…」
アンネローゼの前に皇帝の寵愛を受けていたベーネミュンデは三度も妊娠しているが、すべて流産に終わっている。それは証拠はないものの、他の貴族たちの陰謀によるものかもしれない。ベーネミュンデは憎むべき敵だったけれど、女の身になって考えると三度も流産したことは本当に気の毒で、彼女が狂気に落ちていく一因になったと実感できる。
「……」
またアンネローゼのことを考えてしまう。幸か不幸か、まったくもって考えたくないけれど、アンネローゼが妊娠したという話は一度もない。後宮に入って長いけれど、その気配がなく、それは他の貴族たちの陰謀を抑止する一因にはなるものの、女としてのアンネローゼの幸せを考えると、思考がワープに失敗した艦のようにグネグネと論理破綻してしまい、また涙が溢れる。
「……」
そうやって泣いて過ごし、一日がどう終わったのか、ほとんど記憶に残らず三葉への手紙も書けなかった。
ベーネミュンデ侯爵夫人から唾液を吐きかけられたラインハルトは表情を変えなかったけれど、心情は複雑だった。
「ペッ!」
「……」
ラインハルトの整った顔は仮面のように無表情で、その頬をベーネミュンデの唾液がねっとりと流れる。
「そのへんで気が済みましたかな。侯爵夫人」
リヒテンラーデが慇懃に、やや遅い制止をして自裁という形式の死刑執行を進めていく。
「陛下! 陛下は、いずこに?!」
「………」
ラインハルトにとって姉を殺そうとした憎い女ではあったけれど、あわれな最後を迎えるかと思うと憎みきれない部分もあったし、この女は姉と同じような立場にいたのだ、ということもわかっている。強引に飲まされた毒が回り、もう動かなくなると医師と死体処理係を残して立会人たちは解散し、ラインハルトも廊下を進んだけれど、ハンカチで顔を拭いたものの、不快感は残っている。しかも、途中でフレーゲルに出会ったので、さらに不快感が増し執務室に戻ると、すぐに顔を洗った。時間が経過して唾液の匂いが、より不快になってきたし、死の寸前だったからかアドレナリン混じりなのか、この上なく臭い。
「フロイラインミツハ」
「はい」
執務室の机でドイツ語の勉強をしていた三葉が返事した。
「悪いがシャワーを浴びたい」
三葉や四葉と違い、ベーネミュンデは唾液を美しく吐き出す訓練をしていないので切れがわるく、ラインハルトの髪や軍服にまで匂いがついていた。
「どーぞ」
「では、失礼する」
大将としての執務室には夜通しで仕事になった場合にそなえてバスルームもあった。歴代の大将は生真面目に夜通しの作戦会議で使用した者もいれば、私的に連れ込んだ女性と使用した者もいたけれど、ラインハルトは後者のような使用方法があるとは思いもせず、ベーネミュンデの唾液を洗い落とすために入浴する。更衣室もあるので三葉に裸体を見せることはないものの、一応は断ったラインハルトはシャワーを浴び、軍服はクリーニングに出して、バスローブを着た。
「やっと、すっきりした」
「お姉さんは、お怪我なかったんですか?」
「ああ、無事だ」
暗殺は未遂に終わりアンネローゼは無事でいる。髪を拭いたラインハルトはキルヒアイスの横顔を見つめ、その中にいる三葉に問う。
「フロイラインミツハ、女性に生まれたというのは、どういう気持ちだ?」
「え……」
ドイツ語の勉強を止めて、考える。
「ん~……じゃあ逆に、ラインハルトさんは男性に生まれたというのは、どういう気持ちですか?」
「…………。なるほど、愚問だったようだ。オレとしたことが、詮無いことを訊いた」
「愚問ついでに、ラインハルトさんって好きな女性いるんですか?」
女子高生らしい質問に、ラインハルトは真面目に答える。
「いや、いない。フロイラインミツハには好きな男性はいるか?」
「いえ、いません」
「では、キルヒアイスなんて、どうだ? どう思う?」
もうベーネミュンデのことを忘れたいラインハルトが話を膨らますと、三葉はキルヒアイスの赤毛をかきあげて答える。
「正直、会ったことがないんで、わかりにくいんですよ。人柄が」
「なるほど、たしかに」
「あとは永遠に会えないことがわかってる人を好きになっても、しょうがないっていう虚しさもありますね」
「それも、たしかに、そうだ」
「ラインハルトさんは、どういう女性が好きですか?」
「そうだな。頭が良くて器量がよければいい、かな」
「秀才系が好きなんですか?」
「そうなるな。……」
忘れたいのに、またベーネミュンデのことを思い出した。唾液は洗い落としたのに、記憶はなかなか洗い落とせないでいる。
「フロイラインミツハが、もし誰かと結婚していて、その誰かが、別の女性を愛し始めたら、その別の女性を殺したいと思うか?」
「………思うかもしれないけど、思うことと実行することの間には1万光年くらい距離がある気がします。ラインハルトさんは、どうですか? もし誰かと結婚していて、その女性が別の男性と付き合うようになったら、許せますか?」
「……………。想像がつかない。そもそも、自分が結婚するということさえ、思いもよらぬ話だ。まして、その先など………わからない」
「ですよね。結局、まだ子供なんですよ、私たち」
「………」
子供と言われても、いまだ初恋の経験もないラインハルトには反論が無かった。三葉が話を続ける。
「この世界、っていうか、今の時代って一夫一婦制なんですか?」
「基本的には、そういう建前だが皇帝は当然として、門閥貴族どもも二人、三人と囲っていることも多いし、貴族でなくても裕福な者や地位のある者は、そうであることもある」
「ロイエンロール少将さんも、そんな感じですね。今朝、軍務省の前で女の子と歩いてたし」
「彼は結婚していないから厳密には違うが、……個人の自由だろう、干渉することではない。あと、ロイエンロールではなくロイエンタールだ。非礼にあたるから、しっかり覚えてやってくれ。彼は、これから大切な部下になるのだから」
「はい。個人の自由ですか、それを言い出すと、一夫一婦制が厳密じゃないなら、さっきの質問への答えはノーですよ。殺してまでなんて。何より、失ったお互いの気持ちを取り戻せるわけじゃないから」
「お互いの気持ちか……」
なんとなく答えを得たような気がしてラインハルトはベーネミュンデのことを心の中で落着させ、机にあった書類にサインをした。それは自裁を見届けた者たちが書く証明書で、たしかにベーネミュンデは帝国貴族に恥じない最後を迎えたという形式張った内容だった。三葉が問う。
「お昼から、またブラスターの訓練とかですか?」
「いや、私は大将級以上が出席する退屈な会議に出なければならない。他の者にフロイラインミツハの訓練を頼むわけにもいかないから6時までは自由にしてくれていていい。この書類さえ、リヒテンラーデ公へ渡しておいてくれれば」
そう言ってラインハルトは自裁見届人証明書を渡した。
「はい」
三葉はベーネミュンデの自裁見届人証明書を持ってリヒテンラーデのもとへ出向く。その道中で廊下を歩きながら一人言を漏らす。
「メールとかで送ればいいのに。効率悪いなぁ…、しかも、やたら広いし。無駄が多すぎ」
ラインハルトから重要な書類なので従卒などに渡さず、必ずリヒテンラーデ本人へ手渡すように言われている。もともと、本来は暗殺未遂事件の被害者であったアンネローゼが見届人の1人になるのが慣例だったけれど、姉の心理的負担を考えてラインハルトが代理人として見届けているし、そうして良かったと思っていたけれど、三葉にとっては入れ替わったときには、すでに終わっていた事件で実感はない。
「失礼します。ミューゼル閣下より書類を預かって参りました」
「うむ」
リヒテンラーデは書類を受け取ったけれど、とくに何も言われなかったので、すぐに敬礼して退室した。
「さてと6時まで、どうしようかなぁ」
また廊下を歩いていると、生理現象を覚えたので男子トイレに入った。
「男の子って前に飛ぶから便利だなぁ。女子は、いちいちパンツ脱いで座らないといけないのに、男子はサッと出して、すぐ発射で便利すぎ」
用が済んで手を洗っていると、奥の個室からノルデン少将がズボンを直しながら出てきた。
「やぁ、キルヒアイス中佐。昇進、おめでとう」
「ありがとうございます」
ハンカチで手を拭いてから敬礼した。ノルデン少将も軽く敬礼を返して、手を洗い、ややクセのある髪を鏡で整えている。もともと戦場にいても厳格な雰囲気のない将官だったので三葉は訊いてみる。
「この近くでヒマつぶしに、ちょうどいいところってありますか?」
「そうだね。それなら、軍務省付きの美術館など、どうかね? ちょうどいい、当家が寄贈した刀剣があるのだ。案内しよう」
「ありがとうございます。でも、ノルデン少将、お仕事は?」
「少将は少々ヒマなのだ。はははは!」
「………あはは…」
一応、上官なので合わせて笑い、三葉は軍務省に付属した美術館に入った。館内は過去の武具などを展示していて、とくに戦車や戦闘機などの工業製品ではない美術性の高い物品を中心として戦争に関するものを並べていた。そのために古代から中世までの剣や槍、中世以降の火縄式銃や火打ち式銃が多い。
「これが、当家が寄贈した太古の昔の槍だ」
ノルデン少将がガラスケースに入っている日本製の槍を指した。その槍を三葉は知っていた。
「…三大名槍……日本号……あの日本号が…、ちゃんと伝わってるんだ…」
三葉は刀剣に関心はなかったけれど、官位まで与えられた槍のことは知識にあった。もともと神社関連で大きな集まりがあると、刀剣神社として有名な名古屋の熱田神宮などへ行くことになるし、ご神体が刀剣である神社も多いので普通の女子高生よりは知識がある。ノルデン少将は自慢げに語ってくれる。
「この槍に、私は救われたのだ」
「え? これを持って白兵戦でもしたんですか?」
「いやいや。これを寄贈したことで私は少将への昇進が早くなり、おかげでミューゼル閣下の艦隊に配属された。もし、准将のままだったら、ミュッケンベルガー艦隊だったかもしれない。そうなると、ティアマト会戦で戦死していたかもしれないからね」
「なるほど、そういう出世の仕方もあるんだ。楽でいいですね」
三葉が感心していると、同じように時間の余裕があったのか、エルネスト・メックリンガー准将が声をかけてくる。ノルデンの方が階級が上なので敬礼し、三葉も敬礼した。
「すばらしい槍ですな。ノルデン少将からの寄贈があったおかげで私たちも目にすることができる。ありがたいことです」
「うむ、子爵家としては、この程度、当然の社会貢献ですよ」
「……」
見返りがある場合は社会貢献って言わないと思う、と三葉は余計なことを考えたけれど、余計なことだとわかっているので口にはしない。他にも日本から伝承されている物がないか目で探したけれど、この槍だけのようだった。そんな三葉の様子に気づいたのか、メックリンガーが残念そうに言ってくる。
「この時代から、のちに地球上での核戦争がなければ、もっと伝承された美術品は多様で豊富だったでしょうね。実に惜しい」
「核戦争……」
そんなことが起こるんだ、いつだろう、と三葉は気になった。メックリンガーに質問しようとして、ごく当然の歴史知識だったら、沖縄歴史博物館で第二次世界大戦っていつですか、とバカな女子高生が質問するようなものだったり、ルドルフ大帝って何年前の人物ですか、と不敬罪クラスの発言をするようなものだったりしたら、それをキルヒアイスの口でするわけにはいかないと判断し、帰ってから調べてみようと思った。
「当家には、この槍以外にも色々とありますよ。よければ、お二人に、これからお見せしましょうか?」
「それは是非!」
メックリンガーの瞳がキラキラと輝いている。誘われて断るのも非礼かと思い、三葉も付き合うことにしたおかげで子爵家で美味しい紅茶を飲んでいるうちに、核戦争について調べることは忘れた。夜11時30分になり、下宿で幼年学校の教科書をラインハルトと復習していたことも終え、フーバー夫人が用意してくれたワインを開けた。
「その身体なら飲めるだろう」
「お酒か……」
酒といえば口噛み酒を思い出す。
「嫌いか?」
「いえ、造ってばっかりで飲むことがないので」
「酒を造っていたのか、どんな酒を?」
「………」
説明すると原始人か、石器時代の女あつかいされそうなので避ける。
「お米から造っています。ごく普通に」
「米か、では麦から造るビールと似たようなものか?」
「う~ん……まあ」
「飲んでみたいな」
「……」
飲まれたくないな、私の唾液から造るんだよ、と思いつつワインを飲んだ。
「あ、美味しい」
「口に合って、よかった」
しばらくワインを楽しむうちに、二人とも少し酔って饒舌になる。
「もしもフロイラインミツハ本人そのものが、ここにいるのなら今はお互い、かなり緊張すべき場合なのだろうな。時間も遅いし二人きりだ」
「フフ、そうかもしれませんが、この身体にいると男性を同性に感じますよ」
「すると、女性を異性に感じるのか?」
「そうですね。そんな感覚があります。そして、ワインも美味しい」
グラスを飲み干すと、もう12時だった。
少し酔っていたキルヒアイスの瞳が、体調不良で呻いているような色合いに変わり、それから、ようやく12時を過ぎてくれたことに気づいてタメ息をついた。
「はぁぁ…………やっと、この身体に…」
「つらそうだな? 何かあったのか?」
「………。いえ、……何も」
「明らかに何か隠しているだろう? お前が、つらそうな顔をするなんて、よほどのことだ」
「…………彼女のプライベートなことですから」
「そうか。では遠慮しよう」
「ベーネミュンデ侯爵夫人の件は、どうなりましたか?」
「………うむ」
せっかく忘れていたのに思い出してラインハルトはワインをあおった。記憶が唾液の匂いとともに蘇ってくるのでワインで洗い流すために、自ら2杯目を注ぐ。
「予定通りすべて終わった。もう何も問題はない」
「そうですか……よかった、と申し上げにくいですが、アンネローゼ様にとっては、一つ危険が減ったことになりますね」
「ああ。………女か……思えば人類の半分は女なのだな」
「……はい、そうなりますね」
「…………」
男ばかりの軍隊生活なので、実は人類構成員の半分は女性だという明白な事実を忘れそうになる。ラインハルトは雑談として結論なく話したけれど、キルヒアイスには言いたいことがあった。
「ラインハルト様」
「何だ?」
「一日も早くアンネローゼ様をお救いしましょう」
「ああ、そうだな。そうしよう」
頷いてラインハルトは三葉が飲んでいたグラスへ、ワインをついで二度目の乾杯をキルヒアイスとした。
三葉は布団の上で月経痛に耐えるような丸くなった姿勢でいた。
「戻った途端、ぅぅ……この痛み、このダルさ……間違いなく私の身体……いっそ、あと3日くらい入れ替わったままでよかったのに……ぅうぅ…ぁあぁ…」
「大変そうだね」
「男の身体って気楽でいいなぁ…ぅぅ…」
「で、向こうは、どうだった?」
「うん、面白かったよ。子爵家でお茶もよばれたし」
「へぇぇ」
妹に子爵家の豪華さとノルデンの息子たちが父親とそっくりだったことを語りながら入浴する。四葉も話を聴きたいので二度目だったけれど、いっしょに湯船に入っている。
「暗殺未遂とかあってアンネローゼさん、危なかったらしいし。あと、核戦そ…」
「え? 何?」
「………。ううん、何でもない」
「そこまで言ったなら言ってよ、お姉ちゃん」
「…………う~ん、本当に誰にも言っちゃダメだよ」
「はいはい」
「核戦争があったらしいよ、地球で。それで美術品とかも残ってるのが少ないんだって」
「核戦争……いつ?」
四葉の顔がやや神妙になる。三葉は軽く応える。
「調べようと思ったけど、やめた」
「どうして?」
「もしもさ、それが来週とか、来年ってわかったら、その日まで震えながら過ごすことになるんだよ? もし10年後でも、なんか就職するのがバカらしくなりそうだし、50年後でも、子育てするのが微妙な気分になりそうだしさ。ま、300年後くらいだと、関係なくて、ちょうどいいかなって思うけど」
「………なんとか防ぐとか。近いうちにあるなら」
「無理無理! そんなことができるなら北朝鮮からミサイル飛んでこないから」
「それは、そうだけどさ。知は力なり、フランシス・ベーコンの言葉だよ。知れば、なにかできるかもしれないよ?」
「う~ん……でもさ、あんまり未来を覗くのって……どうなのかな……たとえば、自分が子供を産むときでも、産まれてくるのが男の子なのか、女の子なのか、検査で知っちゃうと楽しみが減らない?」
「うちは代々、女の子しか産まれてないらしいよ、お婆ちゃんが言ってた」
「うっ……そういうの、知りたくなかった。やっぱり楽しみが減るじゃん」
「楽しみはともかく危険は察知した方がよくない?」
「う~ん……どうなのかなぁ……防ぎようのない災いならさ、いっそ、その日、その瞬間まで知らず、あっさり一瞬で死んじゃう方が楽でいいよ? きっと」
「…………はぁぁ………」
四葉は深いタメ息をついて風呂の湯に顔まで沈んだ。