藤原佐為
出典:「Washipedia」
藤原 佐為(ふじわら の すけため/さい)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小野宮流、摂政太政大臣・藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の二男。三蹟の一人として有名な藤原佐理は同母兄。竹林黄門。筆名を石傍徒と号していた。囲碁の発展に多大に寄与したことから棋聖・棋仙とも呼ばれる。
時代 平安時代中期
生誕 天慶9年(946年)
死没 寛弘6年11月13日(1009年12月2日)
官位 従二位・権中納言、贈正二位
主君 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原敦敏、母:藤原元名娘
養父:藤原実頼
兄弟 佐理、藤原為光室、章明親王妃、佐為
経歴
天暦元年(947年)佐為が1歳の時に父・敦敏が30歳で亡くなったため、兄の佐理とともに祖父の実頼によって育てられる。
応和2年(962年)元服・右近衛将監任官を経て、応和3年(963年)従五位下に叙爵し、侍従に任ぜられる。
左衛門権佐・右近衛権少将と武官を経て、康保4年(967年)冷泉天皇が即位し、養父・実頼が関白に就任すると従五位上に、翌安和元年(968年)正五位下と兄・佐理とともに続けて昇叙される。
安和2年(969年)円融天皇の即位後の除目にて亡き父と同じ左近衛少将に転任。
天禄元年(970年)5月に養父の実頼が薨去するが、同年10月『神代之譜』初稿本を献上し、おそらくはその功労により従四位下に叙せられる。
天延2年(974年)左近衛中将、貞元2年(977年)10月には焼亡から再建した内裏にて行われた射場始において佐為は見事な弓術を披露し、円融天皇からその技前を感嘆されて勅禄を与えられると共に従四位上に叙せられるなど、円融朝の前半は武官を歴任しながら兄の佐理に続いて順調に昇進し、天元2年(979年)蔵人頭に任ぜられた(2年後に任から離れる)。
永観2年(984年)に花山天皇が即位しその大嘗会に先駆けた御祓いの儀にて剣舞を奉納し、その功にて正四位下に叙せられる。
花山朝から一条朝にかけては、小野宮家の正嫡で義弟の藤原実資や天皇の外戚である藤原義懐(花山天皇外叔父)、藤原道隆・道兼・道長兄弟(一条天皇外伯父・外叔父)らに昇進で次々と先を越される中、正暦2年(991年)には参議を辞して大宰大弐として九州に赴任した佐理と入れ替わりに参議へ進み公卿に列した。
佐為は兄の大宰府赴任に際して日頃の奔放さ・ぞんざいさが都とは勝手の異なる九州の地では通用しないだろうことから、一層の戒めを佐理からの私信『離洛帖』の返書にて促している。
特に宇佐八幡宮や太宰府天満宮に対して無用な対立を招きかねないような行動は厳に慎むべきであると注意している。
(佐為からの助言があったにも関わらず、後日宇佐神人との乱闘疑惑をもたらして、佐理は帰洛後の面目を失っている)
正暦6年(995年)従三位。この年(改元して長徳元年)洛中に痘瘡が大流行し、公卿にも多数の欠員が生ずるも佐為の昇進・移動はなかった。
長徳2年(996年)にはいわゆる長徳の変が生じ、懇意にしていた道長の政敵である藤原伊周らへの追及を厳しくするも、道長へは行動の自重を促している。
特に伊周が修法したとされている大元帥法(たいげんのほう:帥の字は読まない慣例)への考察は他の公卿たちには慮外だったらしく、おそらくは伊周自身の罪状軽減や皇后定子の平癒祈願(後に懐妊・安産祈願だと理解される)などが目的の密教修法であるも、その規模が甚だ大きすぎて、臣下が決して修法してはならないとされる大元帥法とみなされても仕方がなく、そうしたごく大規模な修法が行われること自体が国家の安寧を脅かすことに繋がりかねず、内大臣の取る行動としては絶対に許されるべきではない、厳しい罪状を以て処すべきである旨を論じている。
これは何も道長に阿るためのものではなく、理知的であっても現実を直視しない伊周の影響力が保持されると廟堂の混乱がいつまで経っても収まらず、これを放置すれば今後の政治運営に致命的な打撃を与えかねず一条親政への信頼感を甚だ損ないかねないとの考察によるものである。
一条帝は心情的には定子のことを慮ってやりたいが心を鬼にして厳正かつ慎重な捜査を命じることになり、その際の葛藤の矛先を敢えて佐為が背負うことに万感の思いを持ったと道長に漏らしている。
尚、後の国母東三条院詮子の平癒祈願の際の恩赦に当たっては伊周・隆家へも該当させることを真っ先に主張したのも佐為であった。
この変の後に臨時の除目が行われるも佐為は昇進・昇任のみならず全ての栄典をも辞退している。
この前後の政治的な動きは佐為にしてはかなり例外的に活発であったが、大局的な見地とバランス感覚の良さ自体は廟堂において常に尊重されていたようである。
長徳5年(999年)正月に前年薨去した佐理の後を継ぐように兵部卿へ任ぜられる。
改元して長保元年、この年道長の長女彰子入内があり、その際の調度品として屏風歌を用意すべく、参議・源俊賢を介して公卿たちの和歌を募り、花山法皇(詠み人知らずで記される)や同門の藤原公任すら歌を贈った中、公任より道長に近しいと目されていた佐為は理由が後世に伝わっていないものの献歌を拒んでいる。
同様に義弟で先に中納言へ進んでいた実資も献歌を拒んでおり、世評では二人は権勢におもねず筋を通す態度を貫いたと言われている。
長保3年(1001年)、正三位に叙される。
同5年(1003年)、権中納言に進み、兵部卿を離れる。
寛弘元年(1004年)、従二位、大蔵卿兼帯。
同2年(1005年)、還暦を機に全ての職を辞した。最終官位は権中納言従二位大蔵卿。
同6年(1009年)に入り病を得て寝込みがちとなり、身辺を整理すべく本家を継いだ義弟・実資に自身の著した日記や書物などを託す。
同年11月13日薨去。享年64。
人物
自らは特に意見を発せず、他人の意見に賛成も反対もせず当時からすれば些か常識外れの広い視野からの考察を加えその理非を示すことが専らであったようである。
奔放な兄に比べ、小野宮家の一員らしい謹厳実直さを持ち合わせながらも、幼少期より囲碁に傾倒していたためか養父実頼からの信頼は今一つであったようである。
実頼三男の藤原斉敏から三男実資を養子に迎え入れられた後は嫡男の座が実資に移ったが、放逐同然に小野宮第を出た後も義弟実資からの信頼は続いていたようで、実資の日記『小右記』からも何かにつけ相談相手になっていたことが伺える。
実頼の小野宮第を離れると嵯峨野に居を求め、邸宅内にも竹林を取り込みその縁に亭子(四阿)を設け、そこで碁を打ったり書を綴っていたことが彼の日記に残っている。
「竹林殿」「竹林黄門」はそうした日常が反映され、後世そのように呼ばれるのが一般的となった。
容貌が麗しかったようで、同時代の宮廷女官の日記などに高頻度で記されているが、生涯独身を貫き、それでいて出家もせずに世俗に関わり続けている。
囲碁の第一人者として評価が高く、『神代之譜』に代表される囲碁の棋譜・解説書・指南書を数多く残しており、「自由布石(佐為以前は双方が星点へ石を置くことにより対局が始められていた)」「先番利七目」「詰碁」などの現在に至るまで一般認識される概念が示され、その先見性・技術性・芸術性ともに当時の遊戯としての囲碁はより洗練・昇華されていくこととなる。
囲碁における大局観を万事に当て嵌めることが可能との見方を示し、その感性を培うための材料として囲碁は最適なものと捉えられるようになるきっかけともなった。
棋譜を起こすに当たって、手順を示す印判を用いることなども発案している。
佐為の用いたそれは原始的な活版であったとも言われている。[誰に?]
棋譜を残すということ自体が習慣化していくのも佐為がその嚆矢とみなされている。
自邸の母屋の一角は囲碁教室として使用し、貴賤を問わず囲碁を学びたいものならばどのような者でも受け入れていた。
軒の内側を遠慮するような人にも分るように、天然磁石を仕込んだ木製の石と鉄板の表面に盤面を模した紙を貼った立型の大盤も発案している。
この大盤の存在により、それまで単なる遊戯に過ぎなかった囲碁がにわかに競技性を持つようになる。
弓術・剣術などにも長けていたようで、弓術については大納言当時の藤原兼家からの依頼で道長にも師事されていたことが『御堂関白記』に残されている。
そうした関係から小野宮流とはあまり反りの合わなかった兼家・道隆・道長らの九条流との関係悪化を最小限なものに止めるべく奔走していたことが自記『竹林記』などの日記から直接的・間接的に察することが可能である。
筆号とした石傍徒については、公私にわたり社会への多大な影響をもたらした人物の号としてあまりに謙遜が過ぎるものと理解されていたようで、神代之譜の自筆本と、原本に忠実に書写された彼の著作のごく僅かなものにしか見られることがなくなり、偉人の号としては世間に流布していないものとなっている。
逸話・説話
生前、しばしば夢枕に立つ囲碁の神に連れられて同じく神に愛された人や人ならぬ者たちと碁を打ったり観戦したりして、その折りの様子や棋譜を記録したものが『神代之譜』とされている。
勿論夢の中以外でも碁を打ちその棋譜も残ってはいるが、それは周りの碁を打つ人との隔絶した実力差のみが伺えるものとなっている。
当時から神代之譜の出典を疑い求められ、挙句の果てには兄・佐里が太宰大弐であったことも手伝ったか、非公式に交流の続いていた半島・大陸まで探索の手が及んだことにつられて外交そのものもにわかに活発化した。
当然その何処にも出典となるべき存在などなく、かえってそれぞれに持ち込まれた神代之譜が今日に至る三国共通の囲碁の聖典の如くに祀り上げられる結果となった。
尚、神代之譜における難解棋譜・解説への研究は長い間一向に進まず、織豊時代に至り本因坊家や市井の学者・研究家らによって漸く解明されてくるようになった。
それでも最高の難易度を有するものは、現在の最高位クラスの棋士であっても未だ到達出来得ない遥かな高みにあると言われ続けている。
真跡
書『神代之譜』熊野那智大社蔵、国宝。
神代之譜は自身によって全19巻のものが3部ずつ書写され、そのうちの1部が那智熊野大社へ自ら赴き奉納された。
この書に見られる形式は今日における新聞棋戦解説などの雛型ともなっており、1局に対し5乃至8の手順解説・検討がなされ、1巻につき多いものでは10局程度の棋譜が紹介されたものになっている。
それ以外の自筆の書は失火・戦災等によって残っていないか、書写や書道の模写などのために解綴の後に散逸してしまったものとみられている。
彼の書は後世のみならず当時から多くの人によって書写されており、受領の任国赴任の際にも多く持ち出され各地にて書写・保存されたものが現在も再発見され続けている。
兄・佐理は草書で名を成したが、佐為の筆跡は楷書・行書主体で地味ながらも流麗な書体である。
「屏風歌を拒んだのは兄さまの喪中でしたし、ホンネを言えば単に清書が兄さまじゃないのがイヤだったからですよ~」
※清書は当時頭弁であった三蹟の一人藤原行成の手によるもの