2-1 本編
「無い、シミ跡なんて見えない!」
平八宅の蔵の片隅で、ヒカルは一人立ちすくむ。
「いや、佐為はここにいる!単に今のオレには見えないだけだ!」
“今のオレ”が“まだ”なのか“もう”なのか、本音を言えば”まだ”であればいつかは再会(?)できるかもしれないからそうであって欲しいところだが、当然“もう”の可能性も否定は出来ない。
そもそも今世では既に成仏してしまっていてこの碁盤に取り憑いていない、などということには思考が傾かなかった。
「となるとオレの役割は見えるヤツをこの碁盤に引き合わせるってことも含めて考えなきゃな」
いずれにせよ、この場所にあるままならそうした機会も限られてくるだろう。
何とかしてここから持ち出さなければ。
「じーちゃん、蔵の碁盤、あれなんかスゴい謂れでもあるの?」
「どうしたヒカル、来るなり蔵の中見たいと言ったかと思えば……」
「あの碁盤、何だか神聖な雰囲気がパねぇんだよ!」
雰囲気を“ふいんき”と発音したのはワザとなのか天然なのか。
「確かに何やら曰くつきの物だそうじゃが、おそらくは神聖さとは全然違う向きじゃぞ」
平八は、兄より譲り受けた古めかしいながらも立派な碁盤ではあったが、そうであるがゆえにやれ幽霊が取り付いているだの雨が降るとすすり泣く声が聞こえてくるだのといった怪しげな話をおぼろげな記憶から蘇らせた。
「そんなこと無い!あの碁盤には囲碁の神様が宿ってる!そんな気配がビンビンしてた!」
なおも食い下がってくる様子に若干訝しんだ平八だが、自身の孫がこういうのがきっかけであったとしても囲碁に興味を持ってくれたのであれば同好の先達としてそこはかとない嬉しさを感じるものである。
ともすればニヤけ出したくなるのを抑えようとしながらも年甲斐もなくついつい意地悪っぽいことを言ってみるのもむべなるかな。
「そもそもヒカルは囲碁なぞ興味を持っておらんかったじゃろ」
「ゴメンナサイ!それについては謝ります!だけどあの碁盤はオレを呼んでるんだ!」
即答である。
まさか以前“年寄りがする辛気臭い趣味”と放言したことまで素直に謝罪してくるなどとは考えず、あまつさえいよいよ食らいついてくる様子に若干たじろいでしまった。
「ほぉ、したらこれから碁を打つんじゃな?」
「ウン!あの碁盤に恥じないよう、オレ頑張る!だからあの碁盤オレに使わせてくれ!」
我が孫がそこまであの碁盤に惚れ込んでいる様子を見れば、ヒカルにとっての囲碁の神様が宿っているのかもと考えるようになり、蔵に文字通り死蔵させておくぐらいならしばらく使わせてやるくらい良いかと思い始めた。
「今すぐは駄目じゃ。まずはちゃんと打てるようになり、盤や石の扱い方や手入れの仕方をしっかり覚えてからじゃな」
「わかった!じーちゃん、約束だよ!」
ヒカルは平八宅に日参する勢いで囲碁の基礎を習うフリをしばらく続ける。
時にはあかりも巻き込んでみた。
あかりがヒカルのやることに興味を示したこともあるが、ヒカルとしては当然“碁盤に逢わせる”ことも思考の片隅に引っ掛けている。
程なく件の碁盤をまんまとせしめることに成功したヒカルだが、この碁盤に佐為がいること自体に疑問を抱きはしないものの、今の自分にいるはずの佐為が見えないのと同様に、佐為にも自分が見えていないのではないか、見えていたとしても自分の声が聞こえていなかったりしていないか、などといった仮定すべき事柄を含み合わせながらこの碁盤と付き合っていかなくちゃなぁ、と漠然ながら思うようになる。
まぁ最低限、この碁盤に並べた石ぐらいは認識してもらえるだろう。
とりあえずは「オレは佐為を知ってる人間」であることをアピールしながら秀策の主だった棋譜から並べ、前世にて佐為に見せてもらった虎次郎への指導碁・対局譜を織り交ぜていく。
自分への指導碁を並べる前に自分の知っている近・現代の棋譜を並べ、近世以前には無かったコミ碁の間に合わせとして、黒石を一旦盤上に5つ乃至7つ置いてからアゲハマみたく白石の碁笥の蓋に移し、棋譜並べ後の整地の際にそれも足して埋めることにしてみた。
それらの一つ一つの動作に自身の感想や検討・考察を傍から見るとひとりごとのように声にすることも忘れない。
まず棋譜を並べ、それを未熟な頃の自分と今の自分を絡ませた各場面の検討、そして佐為ならこう打つんじゃないかというのも織り交ぜてみたり……
「とりあえずここにいる佐為に現代の碁を知ってもらわなきゃな」
「でもひょっとしてオマエも逆行してきてるんだったらあまり意味ないことかもな」
「だけどそれでもオマエにとってちょっとした退屈しのぎになってくれる……といいな」
天野さん囲碁は手談とか神様の作った遊戯とか言ってたっけ、オマエもしきりにうなずいてたよなぁ、と前世のちょっとしたエピソードを思い出しながら碁盤に語りかけるヒカル。
もしここにいる佐為に自分の声が届いていなかったとしても、盤上への着手を通じて自分の思いが届けられている、むしろ人間の作った不完全な言葉より余程しっかりとこの思いは届いているはず。
秀策とオレとの共通点。
「碁を愛する才能かぁ……」
わずかでも思い当たりそうな条件を探ってみる。
いつだったか塔矢が先生にそう諭されたって言ってたっけ。
「でも今のオレや塔矢、あと棋士を志す人なら誰しもその才能がしっかり
才能の秘められている内でないと導く存在として出てこれないのだろうな、と結論着けてみる。
こう改めて考えてみると、やはり“今のオレ”は“もう”なんだろうな、と諦観が比重を大きくする。
「あッ、あかりもこの碁盤に逢わせる前に教え始めちゃったオレが佐為の役を盗っちゃったことになるのかな?」
前の時のようにあかりと一緒に蔵で碁盤を見ていたら、もしかするとオレじゃなくともあかりの方に憑いていた可能性があったのかも。
最悪、このまま何事も無しに大人になるまで自分の存在を極小化しておき、プロになるかどうかは別として弟子とは言わないまでも子供向けの囲碁教室を自分で持つぐらいになるまで佐為に待ってもらわなきゃいけない可能性も考えている。
とにかく……
「考えもなしに今すぐ世間に打って出るわけにもいかないんだよなぁ……」
流れに身を任せ、時にはその流れを読み取っていくこともありとは考えつつ、でも決して自分から進んで流れを生み出さぬように……
「ヒカルぅ、おめぇなにジジくせぇコトやってんだよ!」
「ジジクサイゆーな!コーショーって言え!」
ヒカルは学校での昼休みや放課後には以前どおり(だと思う?)サッカーやバラ当てなどで友達の輪の中に入っていたが、授業間の休憩時には机に携帯のマット碁盤を広げ、プラ碁石「ちゃんと重量石だよ!」で詰碁を解いたり創作したりするようになった。
級友が興味を示してくれれば儲けもの、とりあえずはこんなことやってるクラスメートがいるんだ程度の啓蒙活動でもいいんじゃないか、他に良い考えが見つかったり思いついたりしたらその時にまた別のことをし出せば良いか、みたいな軽いノリで2度目の小学校時代を過ごそうとしていた。
前世では1・2学年と5・6学年はあかりと同じクラスだったが、今過ごしている3・4学年は別クラスになってしまっているので、あかりと休み時間中に打つ機会が滅多になくなっている。
まぁやはり周りの級友たちには古臭いヤツと受け止められてしまい、ヒカじぃなんていうアダ名まで奉じられてしまうようになったが。
「この詰碁集、全部解いちゃったよ!」
「ほぉ、ワシでも難儀するやつの方が多かったんじゃが……」
「じーちゃん、やっぱあの碁盤すげぇぜ!なんか神様が導いてくれてるように打てる!」
「あの碁盤の前だけ強くなっても意味ないじゃろうに……」
「ちゃんと身に付いてるッてばさ。何だったら今のオレと手合ってみる?」
平八は我が孫の才能開花に喜びながらも、その相手として満足させることが出来なくなっていくと判るようにもなり、何とはなしに一抹の寂しさを感じてしまう。
ヒカルの秘めたる優しさを理解している分、手合ってくれと言えば喜んで応じてくれるとは思うが、いつまでも自分だけが孫を独占しようとも思わない。
むしろ、可能ならプロの世界に飛び込んでもらいたいが、そうでなくとも才能の伸びしろと興味を傾注しているうちにしっかりとした学びの機会を御膳立てすることこそが祖父としての役割だと考えるようになる。
「とりあえずなじみの碁会所にでも行ってみるか」
自分ではもう敵わないほどの実力を有している孫ならば、同程度「いや、ワシより強い奴なぞおらんわい」の集まりに過ぎない碁会所では全く物足りなさそうということを理解はしているが、それでも見知らぬ人たちと打つこと自体は孫にとって力量以外のところであっても何らかのプラスには働くだろうし、この孫の存在をその小さな世間であったとしても知らしめるきっかけぐらいにはなってくれるだろう。
「ありがと!いろんな人と打ててすげぇ楽しかった」
はじめての碁会所にも物怖じするところを見せず、瞬く間に席亭・常連客達とも打ち解けあった様子に平八は安堵した。
「でもさ、じーちゃん。そのいろんな人と言ってもみんなオジサンとかばっかりだろ?やっぱ気兼ねなしに自分の部屋に連れてこれるよーなオトモダチとかとも打ってみたいなぁとか思うワケ」
「そこはヒカル自身がクラスメートにも興味持ってもらえるように頑張らんとな」
「う~ん、みんな以前のオレみたいな感じだし、かろーじて藤崎さん
「なら一度小学生対象の囲碁大会にでも出てみんか?その大会で出会った子供たちを友達に誘ってみるのも一つの手じゃろ」
「まぁしばらくはじーちゃんといっしょに碁会所巡りにつきあってもらいたいかな。そのうちひとりでも行けるようになってからその大会とかに出ることも考えてみるからさ」
平八は自慢の孫のマイペースさを尊重して、とにかく今は囲碁というものをなるべく楽しんでもらおうと腐心するようになる。
とうとうやってきました、【囲碁サロン】。
ひとりで碁会所巡りを始めたのっけからココに来ることになるとは考えていなかったヒカルだが、主だった近所の碁会所は祖父について巡り切った感もあったので、言語やその他モロモロのハードルがありそうな(超えられないとは言ってない)【柳】以外で知っているところといえばココぐらいしかなくなっていた。
「コンチハ!ここオレでも打てる?」
「あら、いらっしゃい。はじめまして。元気な子ね」
中をチラ見する限り塔矢はいなさそうなことに内心期待外れとも安堵ともつかない複雑な気分にもなったが、適当な間隔をあけながら通っているうちに何時かは会うことになるんだろうなと思っている。
お、北島サン、塔矢が絡んでなきゃ何だかイィ人っぽいぞ。
結局、碁会所巡りの一環としての【囲碁サロン】通いは3巡ほどした2ヶ月目でようやく塔矢に出会うことになった。
その頃には他の常連客にも認められるようになっており、まだ若先生とは呼ばれていない塔矢とヒカルとの対局機会を薄々熱望されるようにもなっていたので自然な成り行きとして塔矢と盤を挟むことが出来た。
実はヒカル、逆行してから平八に教えを乞うフリを含めこれまで打ってきた碁は前世の自分の棋風を表に出さず、言うなればコンピュータ囲碁の“次の一手”の評価点の高低がある複数の候補手を自分なりに模したものから相手や状況に合わせて打っている。
戻ってきた現世においては意味不明な着手点であることもしばしばで、このやり方をしているかぎり無理に“弱いフリ”をしなくても相手や自分に納得させることの出来る盤面になってくるのが何となく不思議に思えてくる。
本当にコンピュータが人間に追い付き追い越して来る頃だとプロ高段者には見抜かれてしまうだろうが、今ならそんなことは考えなくても良さそうだった。
しかし、鋭い感覚の持ち主ならあまり人間味を感じさせない打ち回しに違和感を抱かせてしまうかもしれない。
今回、塔矢との手合いに於いてもこのやり方を踏襲し、局後にどんな感想を持ったか是非とも訊いてみたいと思っている。
結果、5目半コミの互先で塔矢の2目半の勝利となったが、勝ったにしてはかなり戸惑っていそうな雰囲気で、どうやらヒカルの思惑通りに事が運んだようだ。
「これ、本当にキミが打ってたの?いや、そうに違いないんだろうけど……まるでこれは……いや、しかし……」
「どう、今の碁。全然ヒトっぽくなかっただろ?」
「!」
「この後時間あるか?何だったら場所を変えてオマエと話をしたいんだ」
ヒカルはこの先の公園へでも連れ出して、そこで改めて次回しっかりと時間を取る約束でもしておこうかと考えていたが、塔矢はこの手合いに何か只ならぬものを感じたせいか食いつき気味に掘り下げたことを訊きたくなったようで、【囲碁サロン】を出るときに市河へ「これから新しくできた友人と話をしてみる、ひょっとしたら遅くなってしまうかもしれないから自宅へも一報入れておいて」な主旨の挨拶を伝えた。
そこまで塔矢にされるとこの際自宅へ来てもらってしっかりと話をしてしまおうとヒカルは腹をくくって招待する。
「……やけに年季の入っていそうな碁盤だね」
「ん、オレのじーちゃん家の蔵にあったやつを譲ってもらったんだ」
やはり塔矢には見えていないらしい。
「とりあえずもう一局打ってみよう。今度はちゃんとオレ自身の棋風を押し出して打つ。決してオマエや塔矢先生を侮辱するわけではないけど、多分5子ぐらい置いてもらわないと勝負にならないと思う」
おそらく塔矢は表情に出さないまでも、きっと内心ではヒカルのこんなものの言いように反発心を抱いていることだろう。
しかし同時にさっきの手合いで抱いた違和感の正体を探ろうともしているはずだ。
果たして塔矢は無言で黒石の入った碁笥を引き寄せ、天元と4隅の星へ石を置く。
囲碁は対局している相手の心理の奥底までさらし合う。
(初めて会ったはずなのに、どうしてボクのことをここまで解ってるんだろう?)
そんな得体のしれない思いに塔矢は囚われているのだろう。
「塔矢、オマエには正直に話そうと思う。かなりコートームケーな内容だけど、とりあえず何も訊かずに聞いて欲しい。」
静かなままに始まり終わった手合いの後にヒカルが言葉を紡ぎ出した。
実は自分が2度目の人生を歩んでいること、前世のやんちゃな幼少期、佐為との出会い、塔矢や周りの碁打ちとの出会い、院生から入段、佐為との別れ、塔矢達との各棋戦における本戦・リーグ戦・番碁でのしのぎあい、AIの急速な進化とそれに伴う棋士たちの意識や定石・戦法の変化……
「だから、きっと今のオレは先生をはじめ世界中のトッププロに勝っちゃうくらいだと思う。でもそれは“強い”や“上手い”なんかじゃなく、勝ち方を単に“知ってる”だけに過ぎないんだ」
ヒカルは途中しどろもどろになりながらも、ここまで一気に話してみた。
塔矢にもどうやらこのやたらファンタジーじみた話の内容を戸惑いながらもとりあえずは受け止めてくれている様子に内心ほっとしている。
「前の世界のオマエが言ってた通り、こんなオレがこのままプロになってタイトルを取ったりなんかしたら、それこそ囲碁で精進を積み重ねてきた人たち全てに対する冒涜だと思う。だからせめてAI……コンピュータが人間に勝ち始めたのはディープ……何だったけ?インパクトは競馬か」
ヒカルは意図的に話を脱線させて、前世知識の信ぴょう性を間接的にでも取り繕おうとしてみる。
しかし普通に考えるとこうしたヒカルの行為は単なる無駄な努力としか言いようがない。
ともすれば重くなりがちな空気を多少軽量化する働きにはなったかもしれないが。
「競馬?今やってる映画にそんなタイトルがついているのがあったような気がするけど」(※筆者註:おハナシの都合上、映画を2年ほど前倒ししてます)
「(お、ノッてくれた!)そーいやぁその映画にあやかった名前とかいってたな。その競走馬が今から数年後あたりに大活躍してオレの前世の生きている間中ほとんど競馬知らないヤツらでも語り草になってたくらいスゲェのがいたんだよ……じゃなくてだな、あ、そうだ!ディープラーニングだ!」
塔矢のまだ小学生らしさの残る思考に助けられ、何とかつじつまが合ってきたように思う。
「そのディープラーニングとか言ったAIが今のニューロファジーなんとかというやつより数段階進化して、それを囲碁にも取り入れて一般に普及するまでにならないとオレが表に出ちゃダメなんだ」
ヒカルはニューロコンピュータやファジー理論はこの10年以上前から存在しているもののそれに取って代わるDNNやビッグデータなどがまだまだ構築途上であったため結構長く現役のような状況であったことを詳しく知っているわけでもない。
「表に出ない?だったらそれは何時までのことになるんだ?」
「オレ自身のあいまいな計画だったら、さっき言ったディープラーニングが囲碁に関わってくるまでの15年から20年はプロになったりしないつもり。プロの受験資格期限を超えたって、今の全日本早碁オープン戦とかに出場して特例を認めてもらえばいいやッて思ってる」
近い将来、棋戦最高峰のタイトルである棋聖戦にてアマチュアにも門戸が開かれるようになるが、ヒカルは今そんなことを言っても意味がないと考えている。
「……なら、いま何故ボクに会った?」
「こんな言い方卑怯なんだけどさ、納得してくれなくとも理解はしてくれると思ったオマエに対する甘え、なんだと思う。今のオレが表に出ることが世間に対する不誠実だと考えてるのと同じくらい、このまま燻ってるだけじゃぁ囲碁好きのオレ自身に対して、そして千年間囲碁に恋い焦がれ続けてた佐為に対しても誠実でなくなるって思うんだ」
「それなら、これからのキミはそのコンピュータやAIの開発に間接的であっても取り組んでいくつもりなのか?」
「オレがAI開発に関わっても反って混乱の元になっちゃうかもしれないし、それが良いことなのかそうでないのかサッパリ判らなねぇしな……まぁ
「でもコンピュータはこれから先確実に人間を超えていくことになるんだろ?」
「いくらAIが進化して人間が敵わなくなったって言っても、そこは少なくともオレ個人の思ってる目指すべき“神の一手”じゃぁなかったように感じちゃったんだ……」
ヒカルは人間が勝てる範囲のソフトならしっかり学べば理解も出来るし、理解できれば模倣することも可能になると考えている。
しかし完全に人間を超越したシステムではもう理解不能。
当然学ぶことも出来ないしマネをする意味もなくなる。そして何より感動がない。
コンピュータの進化のため、システム同士が争うためにプログラムが組まれるだけ。
まだヒカルの生きてた時代に先手または後手必勝のパターンが確立されていなかった分だけ囲碁というゲームのフトコロは深かったんだと思っている。
「それから、さっきは“表に出ない”とは言ったけど、それは自分から進んでと言うことで、もしオマエや他の人がオレのことを表の世界に引きずり出すんなら、それも一つの流れなんだって思ってる。ただ、そうなると先生をはじめいろんな人にどんな迷惑をかけちゃうことになるか想像も出来ないし……そう、オマエが今混乱の極地にあるようにさ。だけど、オマエがオレと打つことによって何か感じ取れるものがあったとしたらそれは間違いなくオマエ自身の力に繋がることだし、それはズルでもチートでもないマジ物だよな」
塔矢は進藤の正体が何者であれこれからもずっと手合っていきたいと思うと同時に、自分だけが彼の言う未来の碁に接していくことに何かしらの後ろめたさも感じはじめている。
今進藤が自分に会ったということは少なくとも自分の師である父にも相談を持ち掛けたいのではなかろうか。
「オレの今世における役割なんてそう大したものにはならないと思う。せいぜいこの碁盤に宿っているであろう佐為に接することができる人との橋つなぎぐらいなものだと思ってる」
「(橋つなぎ?)」
彼の言う通り前世で大人になっていたろうにもかかわらず語彙の足らなさそうなニホンゴで「佐為は凄ぇンだぜ!」な自慢(?)話を怒涛の如く浴びせかけられながら、その佐為さんや進藤が囲碁をとてつもなく深く愛していることだけは理解したし、それだけでも彼の力になれると思うようになる。
いつしか塔矢にも出会ったばかりのはずの進藤に浅からぬ絆が繋がっていたと感じるようにもなる。
きっと「キミの囲碁や佐為さんに対する情熱のことは良ぉく解った!ボクも囲碁に掛ける情熱はキミには決して負けやしない!」的な同好の士としての感情だと自分に言い聞かせることであろうが。
「塔矢、何時になるか判んねぇけど、今度こそ佐為と打たせてやッから。オマエなら絶対ぇアイツの碁に感動するコト間違ぇねーし。……まぁ憑いたヒト次第になるんだけどな」
「オレはとりあえず今後も碁会所巡りは続けるつもりだし、またその時でも会えればオレと打ってくれ。もしオマエから手合いたくなったら何時でもオレん家来いよ。何だったらオレがオマエん家行くのもアリな」
ヒカルは言外に先生へのつなぎを匂わせながら塔矢を送り出す。
部屋に戻って碁盤を見やり「ようやっとこれで2人目かぁ」とつぶやく。
なかなかに前途多難・五里霧中ではあるが、塔矢と話をして改めて認識した懸念事項。
「オマエにあの“冷たい囲碁”を経験させなきゃならないかもな」
AIの囲碁は学べば力にはなるし、自分の至らぬところも再認識させられる。
しかし、それは厳しさや優しさといったモノとは無縁だった。
そんなものと相対しているととことんまで心が冷える。
だがそこへ踏み込んでいかなくては職業としての棋士は成り立たなくなっていた。
勝つための方程式同士の戦い……
ただ棋士それぞれがAI囲碁を学ぶ上で各々が自分なりに解釈していった“仮説”を元にした方程式モドキだったから、人間同士の囲碁自体が冷たくなりきるわけではなかったのがせめてもの救いだった。
AIの囲碁にも美しさはあるだろう。
しかしそれは芸術的な美しさではなく相対性理論や超弦理論などといった数学・物理学の方程式そのものの美しさで、決して幾何学的なもののように視覚に訴える類のものですらなかった。
棋士はそうした心の冷却化にどれだけ耐えてきたかで優劣が付けられるようにもなっていたのだ。
AIで囲碁を学んでも人との対局によってまた人間的な何かを取り戻す……そんな光景が未来に存在していた。
「案外、自分の碁にAI囲碁を取り込んでしまい、進化……というよりホントに神化してしまうかもな」
近くはない将来だろうが、必勝手順が構築されたAI囲碁をも覆してしまう、そんな佐為の姿が目に浮かんでくるようだ。
「オレの今世の一生にどれだけの人と逢わせられるか分かんねぇけど、必ずオマエに導かれるに相応しい未来の碁バカと廻り逢わせてやっからな!」