犬鏡 巻二「太政大臣実頼清慎公」の項より『佐為の大夫』の現代語訳と解説
敦敏の少将の子、佐理の大弐の同胞。佐為の拾遺大夫(ア)、世の棋の上手。……
右近衛少将藤原敦敏(1)の子、大宰大弐藤原佐理の同母弟である。従五位下侍従藤原佐為は世間に名の知れた囲碁の達人。宮中の宿直の際には度々帝(2)の御前に召されて囲碁の指南を行う。
お生まれになって間もなく父君をご病気で亡くされ、祖父である小野宮殿(3)の元に御兄弟揃って引き取られておられた。
父少将を早くに亡くされたということもあったのであろうか、加冠(4)を済まされた後も厄除けのために麗しき御髪を切らずにおられていた。
仕事ぶりそのものは一門(5)の例に倣い真面目に勤めておられたが、小野宮殿は佐為の君があまりにも棋道へのめりこまれることに酷く御心配なされ、何とかして本来あるべき姿に立ち戻ってくれまいかと常々お悩みであられた。
しかし大夫の君はそのような周囲の心配を気に掛けなさることなく、棋の盤面に神仏の御姿を認められたかの如く益々棋道に打ち込まれていた。
【中間部失伝】
事情を知っておられる周囲の方々は、この滑稽な場面に白けておいでになったが、佐為の大夫はこの世の終わりかのように酷く憔悴なされ、周りを見る余裕を失わせてしまわれた。
大夫は憔悴されたまま洛中・洛外を昼夜分かつことなくさまよい歩かれ、そのまま池(6)の水に入られ儚くなられた。
小野宮殿はこのことを大層お嘆きになられ、元々体調をお崩しになられていたところにこの度の件にて一層病を篤くされてしまわれた。
御兄弟である佐理の大弐もこの頃までにはすっかり周囲から懈怠者と蔑まれておられたので、幼き頃から一門の中でも出来者と評判の高かった小丞相殿(7)を新たに御養子になされ、幼名を改められ大学とお名付けになられた。
(ア)拾遺大夫:拾遺は侍従職の唐名(中国風通称)。大夫は本来京職などの長官を指す役職名であるが、ここでは五位の官人の通称
(1)右近衛少将・藤原敦敏(ふじわら の あつとし):摂政実頼の長男。父が右大将から左大将へ遷る時に左少将から逆に右少将へ遷った。佐為が生まれた翌年に死去
(2)帝:冷泉天皇(れいぜいー)。精神障害を患っていたと言われている
(3)小野宮殿:関白藤原実頼(ふじわら の さねより)。貞信公藤原忠平の長子。後に円融朝における摂政
(4)加冠:初冠の儀。元服式のこと
(5)一門:小野宮(おののみや)は家門であると同時に有職故事の門流で謹厳実直を旨としていた
(6)かつての
(7)小丞相殿:小野宮右大臣・藤原実資(ふじわら の さねすけ)。実頼三男の参議斉敏の四男であったが、幼少期から利発であったことから殊の外実頼に可愛がられていた。彼の残した日記は「小右記」として知られ、摂関家全盛期の宮廷事情などを詳しく知るための第一級の資料ともなっている