場所は私立直江津高校のグラウンド。俺は用意した観客席に向かい、鶏肉のコンフィ煮を盛り付けた皿と、ブルゴーニュ産の比較的軽い赤ワインをグラスを置いて席に腰掛けた。
これは約七百年前に俺が作った赤ワインだ。
品種はピノ・ノワール。ワイン王国のフランスで「偉大な葡萄畑」とも呼ばれるブルゴーニュ地方産。ワインの産地は北半球北緯三十度から五十度、南半球になると南緯二十度から四十度の葡萄栽培に最適なゾーンがある。前者はフランス、イタリア、ドイツなどの南欧。日本もそうだし、アメリカではカルフォルニア。一方後者はチリ、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランドといった国が世界の主なワインの産地として挙げられている。
産地の条件としては大きく分けて四点ある。温度、日照量、降水量、土壌だ。
まず温度だが年間の平均温度が十度から十六度あり、昼と夜で温度差があるとベストとされている。温度が高いとよく熟すので甘み、つまり糖度が増す。逆に寒ければ味がすっきりとしたシャープになる。葡萄の花が咲いてから収穫までの約百日間に最低でも千三百から千五百時間ほどは必要だ。俺はお日様が嫌いだが、ワインにとっては大事なのでハートアンダーブレードのように打倒とは思わない。降水量は年間に五百から九百ミリ。日本は年平均で千七百十八ミリなので世界平均の約二倍ある雨が多い地帯である。最後に土壌。水はけがよく、痩せた土地が望ましい。カビに弱いので湿度が高いとめちゃめちゃになってしまう。
クイとグラスを傾け匂いを楽しむ。色は重く、薄黒い赤。芳醇で思わずうっとりと目を閉じてしまいそうなベリーにも似た香りだ。味はすっきりしていて喉越しが良い。
「ああ、うまい。さすが『俺』の作った赤ワインだ」
月夜の晩酌に洒落込んでいると、先についたドラマツルギーがこちらに歩いてきた。
「あの軽薄な男に聞いていたが、本当にピノ・ノワール・カトラスがいるとはな。神速の吸血鬼。怪異の王よ」
うーむ、やっぱりこいつもワイン好きが消えているな。俺の存在意義に関わるので付け足して降りてほしいんだが。
「ケッケッケッ。ただのオーディエンスさ。お前さん達の勝負に割り込むつもりはないから、気楽に阿良々木と戦えよ」
「ふん。結構なことだ。今私がお前を狩るとは思わないのか」
俺への挑発のつもりなのだろうが、ドラマツルギーの物言いはどちらかと言えば俺との戦闘になることを恐れているかのような緊張を多分に含んでいた。
「お前さんが神速である俺に追いつけるとは思わんな。そら、ワイン飲むか? 七百年物のヴィンテージだぜ」
「……それは素晴らしいな。ありがたくいただこう」
ドラマツルギーは諦めたのか、ため息をして俺の隣へと座った。
ワインとツマミに舌鼓をうちながら俺に尋ねる。
「なぁ、カトラス。私の仲間にならないか? ヴァンパイア・ハンターの仲間に。吸血鬼だが比較的常識のあるお前ならきっと良きパートナーになれると思うんだが」
「興味ない。俺はワインのことしか考えてないからな」
俺はドラマツルギーの提案を断ると即答してクラッカーを上に乗せたチーズとともに口に放り込んだ。
ダメ元で聞いたのだろう。俺の言を聞いてもショックを受けた様子はない。
「だろうな。忘れてくれ」
「ああ。それにしたってお前さんも律儀な奴だな」
「律儀か。確かにハートアンダーブレードを退治するためにこんな回りくどいことをする羽目になるとは思わなかった。が、これも私の性分ということだろう。相手は子供だしな」
「阿良々木は戦い慣れなんてしていない。そこらへんのガキと変わらないが、ただのガキじゃあないぜ」
「まぁ、あのハートアンダーブレードの眷属だしな。一応勧誘はしてみるつもりだ」
「十中八九叶わないだろうよ。きっと心の問題だな。心が強い。ありゃあ人間の強い心だ。一筋縄じゃいかねぇぞ」
「そうかもしれん」
そんな話をしていると、まもなくして阿良々木は来た。
覚悟を決めた顔だ。熱血というべきだろうか。不意に生ぬるい風が吹いた。
俺はドラマツルギーに一枚の名刺を渡す。
「ま、お前さんが死ななかったらうまいワインを飲ませてやるよ。暇ができたら来い」
「そうか。是非寄らせてもらうとしよう」
ドラマツルギーは俺からの小さい招待状を受け取る。
柄にもなく小さく笑ってから阿良々木の立つグラウンドへと向かっていった。
予定通り、といっていいかわからないが勝負は阿良々木の勝ちで終わった。見どころは特にない。阿良々木がやたらめったらゴリ押ししただけだ。ドラマツルギーは約束の物を阿良々木に渡すと霧に姿を変えて消え去った。呆然とその場に座り込んだ阿良々木に拍手を送る。
「カトラス。僕に声援を送ってくれるんじゃなかったのか?」
「なんだ聞こえなかったのか。仕方ない。次からは心の声ではなくしっかりと口に出すことにするとしよう」
阿良々木は今更ながら余裕ができたらしく、俺の冗談にクスリと笑った。張り詰めていた空気が霧散したのか、大きく息をついた。
「なんとか勝てたよ、カトラス」
「ケッケッケッ、おめでとうと言ってほしいか。甘いな。お前さんには後二回も勝負があるじゃないか」
「ああ、確かにまだ僕の勝負は終わってない。でも、エピソードもギロチンカッターもきっとなんとかするさ……そういや僕の回復力ってやっぱ並の吸血鬼とは違うのか? ドラマツルギーが一瞬で破損が回復するほどの吸血鬼はそういないって言ってたんだけど」
「ふうむ。ま、確かに多くはないな。例外と思った方が良いぜ」
「あんたは?」
「俺も例外な方だな」
つまり今の阿良々木暦は俺やハートアンダーブレードと同じで不死性は高いわけだ。よっぽどのことがないと死なない。いや、死ねない。
阿良々木は俺の言葉にわかったようなわからないような顔をしている。
「まぁ、勝ったんだし気にすんなよ。ところで、そこにいるお嬢ちゃんはどこの誰なんだ?」
俺の指摘に驚いたのか学生服を着た女子がギクリとした表情で校舎の陰から顔をのぞかせた。
三編みのおさげ髪。それにメガネをかけた、いかにも委員長という雰囲気の少女だ。
つまり。原作キャラである羽川翼である。彼女は震えた声で話した。
「阿良々木君……今の、何?」
「羽川……」
どうしてこんなところにいるんだ。という顔ではないな。どう見ても一連のやり取りを見られてしまったことの、巻き込んでしまったことへの後悔という表情だ。
阿良々木は彼女から目を背けた。
「あれから阿良々木くんを探してさ。いったんは見失ったんだけど、校門の前に、こんな袋が落ちてて」
見れば合気道の指南書、野球の教本、クラシックのおすすめ本が袋に入っていた。
なるほど、付け焼き刃でもいい、なんとかしようと努力したわけだ。健気なことだ。
彼女の話を聞くに、阿良々木が校内にいるのかと思って閉まっていた門を自力で乗り越えたらしい。意外と行動力のある子だと思った。
いや、無理にでも正しいことをしようとする歪んだ性格の子、かな。
「なんだ阿良々木。友達がいるんじゃないか」
「……そんなんじゃねぇよ」
俺が口笛を吹いて阿良々木をからかうと、子供らしく拗ねた顔をして悪態をつく。
ニヤニヤしていた俺に羽川翼はおずおずと尋ねた。
「その――あなたは?」
「俺の名前はピノ・ノワール・カトラスだ。特技は嘘をついて鼻を伸ばすこと」
「私は阿良々木くんのクラスメイトで友達の羽川翼といいます。えっと、ピノキオですか?」
「今日は阿良々木が夜の運動会をするということでクジラの腹の中からやってきた」
そう言って俺は自分の鼻を伸ばしてみせる。変身は不得意だがこの程度はなんら問題なくできる。羽川翼はその光景を目にして口をおさえた。
「うそ……鼻が伸びた」
「おまっ、羽川になんてもん見せてんだ! さっさとその伸ばした鼻を元のサイズに戻せ! この飲んだくれ!」
「飲んだくれとは酷いやつだ。今日はまだ十本程度しか赤ワインのボトルを開けていないぜ」
「黙れアルコール中毒のワイン馬鹿!」
俺は阿良々木に怒られながら鼻を元に戻す。羽川翼は初めこそ驚いたものの今はわりと落ち着いている。
「遠目でわかりにくかったけど、阿良々木くんもさっき伝奇小説みたいなことしてたよね?」
「羽川、僕につきまとうなって言ってんだろ――友達面でお節介焼くな」
「……阿良々木くんは、そういうことを言う人じゃないよね」
あくまでも俺のやったことはなかったことにしたいらしい。流石にスルーされるのは寂しいぜ。
負けてたまるか!
「そうだな。阿良々木ならこういう時、踏んでくれと土下座をするタイプの変態だ。ところで君、いい足してるね」
「僕のクラスメイトの足を物欲しそうに見るな、このエロ吸血鬼め! それに僕はそんないかがわしい趣味を持っていない! せいぜいパンツを見せてくれと額を地面に押し付けて頼むぐらいだ!」
「え、キモ」
「女子高生に踏まれたい欲求のある奴に言われたくはない」
「私はどっちもどっちだと思う。というか今、聞き捨てならないような言葉が聞こえた気がするのだけど」
「今更だが『夜の』ってつけると大抵の言葉ってエロくなるよな。『夜の合気道』とか『夜の野球』とか――まぁ『夜の吸血鬼』ってのはどう頑張っても興奮できないがな」
「吸血鬼」
俺の言葉に羽川翼は声を上ずらせて呟いた。
「そうだよ、お嬢ちゃん。吸血鬼さ。長い牙を首に突き刺して生き血をすする、怖い怖いノスフェラトゥさ」
俺は自慢の超スピードで羽川翼の背後に回り込むと細い肩に手を置き、長い舌を出してわざとらしく耳元で啜る音を出してみせた。羽川翼はビクリと体をすくめ、阿良々木は目を瞠る。
「カトラス――」
「――この子が邪魔なんだろ? 阿良々木。ドラマツルギーとの健闘祝だ。俺が消しておいてやろう」
「やめろ、カトラス! 羽川に手を出さないでくれ! 僕はただ……」
「ただなんだ?」
「羽川を巻き込みたくない。羽川は僕なんかのことを友達と言ってくれた。傷つけたくないんだよ」
「ふうん。で、お嬢ちゃんは阿良々木をどうしたいんだ?」
「私は、阿良々木くんの力になりたい、です」
俺の威圧に震えつつも羽川翼はポツリポツリとそんな事を言った。
阿良々木はますます険しい顔をする。
「なんだよ、力になるって。また僕にパンツを見せてくれるっていうのかよ!」
は? 何言ってんのこいつ。
「わかった。これで良い?」
そういって羽川翼はスカートをたくし上げて阿良々木に向かってパンツを開放した。
うぉおおお。俺にも見せろおおお。スカートが死角になって俺から見えないんだがああああああああ。
そんなわけで、友達のためにパンツを見せることができるほど強い精神力を持つ羽川翼に、額を地面にめり込ませて友達を作った阿良々木暦なのだった。
ついでに、超スピードがあるくせに女子高生のスカートの中身を見損ねた間抜けな吸血鬼がそこにいた。