「参ったなぁ」
マヨヒガで吹雪を凌ぎ、妖怪の山を降りる為に橙ちゃんと別れて一人帰路に着いたのだが、なんと今度は大雨である。一寸先さえ見えない程の篠突く雨は、私の独り言さえ掻き消していく。
「きっつい」
何とか雨宿りできそうな洞窟に身を寄せる。びしょ濡れの荷物を足元に手放す。気分はとっても疲労困憊だ。暫くして慌てたように付喪神のカメラが私の元に駆け寄ってきた。大きな葉っぱで風雨を凌ごうとしていたようだが、敵わなかったようだ。私の服や布切れで拭うが、水が伸びる以上の効果は無さそうなので諦めて座り込む。
「山の天気は変わりやすいって言うけどさ、吹雪から大雨なんて滅茶苦茶だよね。やっぱり勝手に山に深入りしたから怒られちゃったのかなぁ」
ふと、洞窟に目をやる。自然な洞穴ではないようで、とても整った形状で奥底へと闇が続いている。知性あるものの手が入っている、幾何学的な直線がその証拠だ。つまり、レールとか言うものが敷き詰められているのだ。
恐らくは坑道、それも何かしらの運搬坑道だろう。いつから山の住人は鉱石の採掘になんか手をつけていたのだろうか。そんな話はとんと聞いた事がなかったのだが。
「……行こうか」
探究心が鎌首をもたげた。どちらにせよ大雨で下山はできないのだ。洞窟の入り口でぼうっと雨が止むのを待つよりは、風に聞こえぬ洞穴に首を突っ込む方が面白そうではないか。
意を決して、不要な荷物を入り口に放置して歩を進めた。何かが私の胸をざわつかせていた。何かがある、私の勘がそう言っていて──事実それは正しかった。
明らかに怪しい光の照らす坑道を進んだ。光源は見当たらず、空間を照らす光は刻一刻と色彩を変化させている。凄く目に悪い。
「また人間か。止まりなさい。それ以上進んではいけない」
道を阻む者が現れる。格好を見るにまともな相手ではなさそうだ。
「此処から先は無酸素エリアよ。つまり、これ以上進むと君は死ぬことになる」
「そうなの? なんだかどうりで息苦しいなぁって。ところで此処は一体何なのかご存知ですか?」
「ここは虹龍洞とも呼ばれています。龍珠を採掘する為に掘り進められた坑道の一つです」
彼女は私の名を聞いてから、玉造魅須丸と名乗った。勾玉制作職人で、勾玉の原材料として適した龍珠が悪用されないようにこの坑道を調査していたのだと言う。尤も、今やそれも終えて用はないらしい。
するうち彼女は、じっと私の目を覗き込んだ。そうマジマジと見つめられると少し照れるが、私の眼のずっと奥を何処までも見晴るかすように観察されているように感じて、僅かばかり不思議な感じがする。
眼はしばしば窓と結び付けられる。眼は魂の窓であるとか、口ほどに物を言う、なんて風にも言われる。つまり眼はその人間の心を覗かせる場所であるからして、見つめると言う行為はその者の心を見ることを意味する。鏡で自分の眼を見てみたいものである。
「すぐ引き返しなさい。ただの人間……ではないようですが。さあ、雲見くん。君が目にしなければならないものなど虹龍洞にありはしない」
「うーん、ならお土産がわりに写真でも」
「それならまさに土から産まれたものを持って行くといい」
手渡されたものは、鍵とも釣り針とも取れる物体。真っ黒なそれは、太極図を無理矢理引き裂いた片割れのようでもある。勾玉だ。
「雲見くん、君の眼を見れば一目で分かった。君は多くの物を見てきた人間なのでしょう。しかし、君がその目に写し手にしてきたものは本来誰のものでもない。その勾玉もまた、私が君に渡した勾玉であって君の勾玉ではない」
「何を言いたいのですか?」
「つまり、丁度良い機会なのよ。引き返して空を見なさい。大雨が外では降っていたはずだから、きっと虹が掛かるはずよ。それが目印になる。虹を追いなさい」
話を続けようとするが、玉造さんは取り付く島もなく私を追い返した。わざわざ危険を警告してくれるなんて、優しい人なのだろうと思う。でも、私の目を見ただけで何が分かると言うのだろうか。所詮、眼は窓にすぎない。窓から部屋に入る人間はあんまりいない。彼女もまた私の心を垣間見ただけなのだ。
とは言え手渡された勾玉に目を通すと、何か奇妙な風景が一瞬だけ見えたような気がした。勾玉は魂を移す道具でもあると聞く。もしもこの勾玉にも何かしらの魂がこもっているのだとすれば、その世界を窓越しに見せることもあるのだろう。多分。
魂。そう、魂だ。
私にとって魂という言葉は、普通の人間が思っている抹香臭い意味合いでは捉えられていない。その魂を有した個体が生きて経験し感知してきた意識・無意識を問わぬ無数の情報の構造体。それが魂だと私は考えている。
この考えのミソは、魂は情報の
情報、即ち無秩序が、個体の
私たちは毎日、世界からの莫大な
えてして人間の脳というのは
虹龍洞の入り口まで引き返し、大雨が小雨になるまでぼうっとして景色を眺めていた。雨足が遠のけば下山の為に道を下るべきなのだが、雨上がりの虹を追って山を登るように進路を変える。
息が上がっていて、身体が奇妙な感じだった。吹雪での遭難、マヨヒガでの探索、大雨での遭難、虹龍洞での遭遇を経て身体は疲労の限界で、明晰な思考ができているとは言い難い。
本来はこんな状態で山を登るなどあり得ない。だが、何かが私の足を突き動かしていた。玉造さんの言葉だけではない。この山の頂きまで到達して写真を撮りたかったのだ。登山家になったわけでもないのに、素人のカメラマンが妖怪の山の登頂をめざしている。自殺志願者か何かかと、自嘲してまた息を切らす。
日は既に暮れかけで、今から下山しても帰り道は真夜中になるはずだ。再びマヨヒガにでも出くわさない限りは、山中で野宿することになるだろう。
僅かずつ妖怪の山の頂に近付きつつあった。植生は高山のそれになっている。高山植物が疎らに目に映るだけで、殆どが寂寥とした岩肌と荒れた土くれに覆われていた。息がますますできなくなっていく。生きて帰れるだろうかと言う漠然とした不安が胸に渦巻く。更に進むと、茜色に染まった雲が眼下となった。天気が変わることはもう無いだろうと思うと、少しだけ気が楽だ。
ひたすら足を動かした。カメラもめげずに後について来ている。一人と一個は遅々としたペースで一つの目印に迫る。
虹。そう、虹だ。
虹は雨によって空中に漂う水滴が光を反射させることによって発生すると聞いたことがある。しかし、雲の上には雨は降らないというのに、私の目の前で空を横断しているこの虹は一体何なのだろうか?
疑問は尽きない。体力は尽きていた。足腰がマトモに動かなくなり、その場でへたり込んでは息を整えて歩き出す。そんなことを何度も繰り返した。幻想郷中を遍歴しても、体力がついていた訳ではなかったらしい。
日が暮れ切っても月影を頼りに虹を追い続けた。遂に山頂に辿り着いた時には、満月が空に浮かんでいて遮る雲はなく、虹が月に掛かっていた。もはや虹は、形を持った橋か何かのように目に写る。
最後の力を振り絞って、月に掛かる虹を写真に写した。そのまま倒れ込んで、体を横にする。もう身体は動かなかった。朧げな意識が霧散していき、瞼が瞳を覆い隠してしまおうとするまさにその時
「虹の袂では、万物は無縁となり
神様が現れた。
自らを市場の神だと私に説いたその女性は、天弓千亦と名乗って取引を持ちかけた。
「何か手放したいものは無いか? 人にくれてやりたいもの、交換したいものはないか? 市場という名の祭場で、取引という名の儀式でもって、人ははじめて物を手放せる。さあさ、滅多に無い機会ですよ」
「手放したいもの……」
「そうすれば代わりに何かしら貴女の望む物を見繕いましょう。例えばこんなカードとか」
望む物を問われた。欲しい物は沢山あるが、今この瞬間に望むことはただ一つしか思い浮かばない。
「神様、私はとても無茶苦茶に山を登ってきました。月も出てもう辺りはすっかり夜です。願いはたった一つです。この妖怪の山から無事に帰りたい。それだけです」
「ならばその為に何を手放せる?」
勾玉を差し出した。
「良い勾玉です。玉造の作でしょうか。魂がこもっているかのようですね。しかし貴女の願いにはそれだけでは足りません」
御守りを差し出した。
「これは一体何ですか。彼岸の匂い……けれどあの世の物でもない。物珍しいですがしかしこれでもまだ足りませんね。貴女の願いは貴女の命と等しい願いなのですから」
右目を指差した。
「このお札は剥がしても構わないの? うーん、どうやったらこんな事になるのかしら、影鬼が巣食ってるじゃない。目に写す能力? 訳が分からないけど魔眼の類ね。成る程、分かったわ」
天弓さんは勾玉と御守りを受け取り、剥がしたお札を私の右目に貼り直した。
「流石にこれは受け取れないわ。だってその目は貴女だけの物ではないようだから。ただその覚悟は買ってあげる。代わりにこの『無事かえるお守り』を貴女の物としましょう。決して振り返らず、お守りを握って真っ直ぐ山を降りなさい」
手渡されたそれは、蛙の描かれた御守りだった。確か東風谷早苗さんが似たような御守りを縁日に売り出していた記憶がある。朧げな記憶は瞬間に霧散した。私の意識もまた──
「さようなら人間。良い取引だったわ。もし叶うならば、また取引をしましょう。今度は更に物珍しい物を期待しますよ」
ふと目が覚めると、勾玉も御守りも影も形もなく、神様からもらった無事かえるお守りとやらも見当たらない。ただ分かるのは、此処が人間の里の門前だと言うことだ。門にもたれ掛かって倒れていて、体の節々が痛んで動けない。
結局は門番に見つかって神隠し扱いで保護された。妖怪の山にいたというと天狗の仕業だと思われるだろうなぁ。濡れ衣を着せるのは悪いことだろうし、勝手に山に向かって遭難したと言うのも決まりが悪い。
情け無くも選んだ言葉を口にする。
「分かりません。気がつくと此処にいたのです」
人隠れ、神明かし