冥界
幻想郷の全てを目に写した訳ではないが、多くの物を見てきた。けれど私の欲望は全く衰えない。何もかも全てを見晴るかし、この目に写したい。そんな事を考えながら、人間の里の団子屋で御手洗団子を口にしつつ通りの景色を眺める。私の欲深い心中とは違って、目に映る眺めは風光明媚だ。
「うん、綺麗だ」
桜並木だ。春らしく満開の桜がその花弁を緩やかに散らしている。川には花筏が浮かび、花見酒でもしたのか赤ら顔な人が多く道を行き交っている。春の陽気に当てられて飲み過ぎてしまったのだろう。私はと言えば緑茶を飲んでいた。温かい緑茶は好きなのだ。程良い甘味と渋味が心地良い。
「花より団子、団子より緑茶。つまり花より緑茶って訳だね」
「何を訳の分からない事を言っているのかしら?」
「花よりも花見しながらの緑茶の方が美味しいって話だよ」
「当たり前よ。花は食べられないでしょう? ……食べないわよね?」
八雲紫さんが隣に腰掛けた。以前に右目の影鬼の件で助けられて以来の邂逅だ。彼女はあまり人前に姿を晒すような人ではないので、こうして出会えるのは随分と物珍しい事である。茶柱が立つのと同じぐらい珍しいかな。そう考えるとなんだか縁起が良さそうな気がしてきたね。
「貴女、もう旅には出ないの?」
「実は冥界に行こうと思っています」
「そう、残念だわ。お悔やみ申し上げます」
「違います。冥界と言えば知る人ぞ知る花見の穴場スポットですよ。幽明結界が開いているらしく、お手軽に冥界で花見ができると言う噂がありまして」
「へ、へぇ〜……幽明の境が? 可笑しいわね、直した筈なのだけど……」
八雲さんは小声で何かしら呟いて困り顔をした。暫くの間そのまま思考している様子だ。彼女は何かと会話するような素振りをしてから、唐突にお茶と団子を注文した。運ばれてきたお茶を啜っている彼女に、一呼吸置いてから話を切り出してみる。
「何かあったのですか?」
「幽明結界の確認をしていただけよ。困ったことに、確かに結界は僅かながら開いている。不思議ですわ。あの結界は滅多なことでは開かない生死の境の一つなのに」
「ちなみに単なる興味からの質問なのですが、その幽明結界はどうすれば開くのですか?」
ほら、原因を知る為には結果に至る過程を知るのが近道だったりするからさ。本当に興味本位の疑問だったけれど、八雲さんは律儀に答えてくれた。
「妖力、霊力、神力、重力など、何かしらの莫大な力でこじ開ける。或いは幻想郷と冥界を同質にすればその境界も自ずと消滅しますわ」
「それはつまり不可能だと言うことですよね?」
「ええ。顕界と幽界を重ね合わせるが如き無謀よ。生きても死んでもいないような人間が世界中を彷徨うような──」
そこまで言ってから、八雲さんは私をじっと見つめる。顔に団子のタレでも付いてたのかな?
「まさか……いや……貴女の所為かもしれない」
「私の所為?」
「明香。貴女がこれまで踏み越えてきた生と死の境目はどれほどかしら?」
「えーと……、賽の河原、三途の川、妖怪の山の頂、虹龍洞、無縁塚、再思の道、旧地獄、天界……」
私が訪ねた生と死に纏わる土地を述べていくと、八雲さんは頭を抱えてしまう。自分で振り返ってみると、確かに私は生死の狭間を反復横跳びするような旅路を辿っていた。
「ここまで見事だと笑うしかないわ。それで、写真に撮ってその目に写して幻想郷中を旅していた訳ね。冥界に向かう為に準備していたのかと思うほどに緻密な道程だわ」
「しかし、私のような人間一人の生死の境が曖昧になったぐらいで、顕界と冥界を隔てる境界が開くものなのですか?」
「本来は開かないわ。けれど貴女の行動範囲とその能力、そして冥界へ向かうことを志向する願いとが複合的に絡み合った結果かもしれない」
「ならば丁度良い機会ですし、冥界に連れて行ってくれませんか?」
「貴女には冬のナマズのようにおとなしくして欲しくなったわ」
「これで手を打って頂けませんか?」
鞄から取り出したアルバムを八雲さんに手渡す。受け取った彼女は目を丸くした。
「これは貴女が撮った写真のアルバムでしょう? 貴女の旅の集大成であり、貴女にとってとても大切な物の筈よ」
「はい、そうです」
「対価としては十分だけれど……」
沈黙する八雲さん。扇子を取り出して口元を隠し、目を閉じて俯く。口も目も隠されてしまったので、その心中はサッパリ分からなくなってしまった。
「構わないの? この写真たちは貴女がこの世界を巡った縁となるものの筈よ」
「構いません。これまで見たものを、これから見るものの為にするのは、理にかなった事だと思いますから」
八雲さんはゆっくり目を見開く。その表情は穏やかで、私の言葉に静かに耳を傾けてくれた。
「それに私は人間ですから、いつか死にます。しかし八雲さんは違う。貴女にこのアルバムを託せば、それを目に写すたびに貴女は私の事を思い出すかもしれない。それはきっと私がこれをずっと手にしているよりも意味のある事だろうと思うのです」
「良い答えだわ。私が想定していたどんな答えよりも」
私は現実を積み重ね、深い過去に埋もれたそれを掘り起こすことを楽しみとしていた。写真を撮りアルバムを作ることも、そして幻想郷を巡ることも、掘り起こせる現実を積み重ねる行いであった。だけど、私の心は移ろいつつある。
「例えどれだけ現実を堆積させようとも、私が死ねばその全てが跡形もなく消え去るのだと思うと、なんだか少し怖いのです。年老いて、死んで、忘れられて、消え失せてしまった時のことを考えると恐ろしくて。私が死んでも何か遺せる物がないだろうかと思うのです」
ふと、頭を撫でられる。驚いて見上げると八雲さんと目が合った。
「このアルバムは貴女が遺した物の一つとして、私の胸の内にしまっておきましょう。けれど、貴女の人生は長く始まったばかりよ。この世界に生きることを楽しみなさい。貴女にはまだ幾星霜もの時が遺されている」
語られた言葉は私に計り知れない衝撃を与えた。この世界に生きることを楽しむこと、それだけのことをいつの間にか失念していたことに気付かされたからだ。
死を恐れ、積み重ねた物の喪失を恐れ、不安と懸念ばかりで心を満たしていたからだろう。死も喪失も関係なく、この幻想郷を巡ることは私の楽しみだったはずなのに。彼女の言葉で我に帰って、何度も味わうようにその言葉を反芻する。
「有形無形問わず、私たちは世界に自分を刻み、自分に世界を刻んでいく。足を洗っても足跡は消えないのと同じようにね。死とは
八雲さんは、桜が散る柄が描かれた扇子を私に見せた。風が吹き、花が散り、花弁が水面で波紋に揺らされる有様は、その寂しげな趣きから、もののあはれを感じさせる。
「生きている物は必ず死に全てを失う。けれど、そうして全てを失った零が壱になることもある。死して遺された零に、生きて残った者が壱を足せば良い。零と無の間には無限に近い隔たりがある。私の友人である西行寺幽々子が死して尚また私と友誼を交わしたようにね」
空を仰ぎ、どこまでも透き通った青空を写す紫の瞳は、何故か物悲しそうに私には見えた。今や過ぎ去って戻らぬ過去を思う瞳をしている。
「だからね、死んだって──」
そこまで言いかけてから、八雲さんは口を噤んだ。
「話を戻しましょう。貴女を冥界に連れて行く話だけれど、一緒に幽明の境まで向かいましょう。明日のこの時間にまた此処で待っているわ。声をかけて頂戴」
話を終えると夢幻の如く八雲さんの姿は掻き消えた。後に遺された代金ピッタリの金銭が、彼女の人柄を想わせる。なんとまぁ神出鬼没でありながら跡を濁さない方だ。
「あの……お連れさんですよね? お支払いは纏めてで構わないですか?」
「ええ、それでお願いします」
死後の世界が地続きに在る世界においても、死者は戻らず人は死を恐れている。生と死の境が目に見えるからこそ、より深くその断絶が浮き彫りになっているのだろう。その極北を目にする事になるのだと思うと、期待ばかりが募ってくる。
「楽しみだなぁ」
楽しめば良い。そう思うと気が楽だ。
ふと瞼を閉じれば、これ迄の旅路の風景がつぶさに蘇る。阿求さんのように全てを覚えておいたりはできないが、私自身が忘れた光景さえもこの目に写っていた。
能力に磨きが掛かっている。かつては目に写したものを見せるだけの細やかなものだったが、今や目に写したものを想う事まで思いのままだ。昨日の夕飯の味噌汁に浮いていた油の数まで数えられる。そんなことを考えているとお腹が減ってきた。ああダメだ。絵に描いた餅には事欠かないが、それでは腹は膨れない。今日の夕食を楽しみとしよう。これもまた、生きることを楽しむことだよね。
「さて、それじゃあ行きましょうか。雲の上の桜花結界、幽明の境を飛び越えた向こう側へ」
翌日、八雲さんは笑顔で私の手を引いた。行先を告げた彼女は心底楽しそうな様子だ。
「秘して封された境を供に踏み越えるなんて、とても素敵で楽しいことだと思わないかしら。ほら、楽しいピクニックのようなものよ。それとも野掛けとでも言いましょうか?」
「ピクニックですか」
私自身、幻想郷の種々様々な秘境を呆れられるような理由で訪ねてきた自覚はあった。しかし、ピクニックと言われると流石の私も面食らう。
「楽しむ食事は用意してきませんでしたよ」
「ふふふ、花見酒と美味い肴を用意しておりますわ」
「それは……素敵ですね」
「あら、気が合いそうですわね」
「でも私は酒癖が悪いと伊吹さんからお墨付きを貰っていまして、少し心配です」
地底での顛末を伝えると目を丸くされる。
「萃香に? 貴女それはよく──生きていられたわね」
呆れではなく驚愕、そんな感情を向けられる。しかし当の私もまた、自分の変わりように驚いていた。
「お酒が好きなので」
昔の私は写真を撮っていた、今は撮っていない。昔の私は酒が嫌いではなかった、今は好きだ。数年前に付喪神のカメラが壊れてしまってから、多くのことが変わった。
カメラを買い直すことをせずに、ただこの目に写すだけになった。アルバムも最早手元にはない。代わりに酒を飲むようになった。それに、何故か心と身体が軽くなっていた。今の私の楽しみは、良い景色を眺めながら酒を飲む程度だろう。
私が鞄から一升瓶を取り出すと、八雲さんは驚いたようだ。
「貴女もお酒を用意していただなんて。存外に酒呑みなのね」
「昔はそうでもなかったのですが」
縁側で酒を口にしていた父を想起して、私も父に似てきたのかもしれないと感じる。そう言えば、あの付喪神は今どうしているのだろうか。アレはいつも不意に姿を表す。今回も何処かから追ってこないだろうか。そんな事を取り留めもなく想いながら、酒瓶に口をつけた。
「ラッパ飲みなんて品がないわよ」
が、取り上げられてしまう。
「それに、折角の花見酒をただのお酒にしてしまうなんて、風情がないわ」
「そうですね、素直に花見まで控えます。でも、私は写真を撮るのを辞めたのです。それで、代わりに酒を飲み目に写す事を楽しみとしていまして」
「楽しそうでいい事だと思うわ。だからと言って酒はまだ返さないわよ」
「あはは、まるで墓穴みたいだと思っただけですよ。空いた穴に好きなものを埋めて弔う。どうかそのまま埋まっておいてくれと祈りながら。化けて出たりしないようにと」
「詩的な表現ね」
酒瓶はそのまま八雲さんに預けて、私は手を引かれるままに彼女に付き従う。幻想郷の上空まで連れられて、とある異常に気が付いた。今や私たち二人は雲の上にいる。だが、桜の花びらが舞い散っていた。
「これは一体……」
「桜の花びらが雲の上から降っているだけですわ。春爛漫として美しいでしょう」
尚手を引かれる。だが、私はこの桜の花びらの正体に薄々気がついていた。これはどう見ても
「八雲さん、私だって馬鹿じゃありませんよ。この花びらは地上のものでは無いですよね? 私の勘ですけど、これは多分──」
「大正解。貴女の勘は正しい。だからみなまで言わないで。ほら、目の前に答えがあるわよ」
八雲さんが指さした先には、見上げるのも億劫になる程に巨大で、霞んで見える程に雄大な幽明の境が聳えていた。それは至大な、しかし目に見える生死の境であり、扉であった。そしてそれを目に写すと同時に、この幽明結界がまた桜花結界とも混同されて呼ばれる理由を私は悟る。
「凄い……」
冥界からこの世へ向けて、桜の花弁が吹き出していた。微かに開いた幽明結界から漏れ出ているのだ。これが雲の上で舞っていた花びらの正体なのだろう。
雲を眼下に遥か上空で冥界の桜が吹き荒ぶ。雲一つない天上が無数の花弁で彩られている様は非現実の極みであって、地に足がつかないような浮き立つ気持ちにさせられる。
ああ、なんて──なんて幻想的な光景なのだろうか!
八雲さんの手を振り解き、桜吹雪を掻い潜り、一人幽明結界の前に立った。背後から私を呼ぶ声がした気がするが、激しい風切り音でよく聞こえない。
そっと手を触れて力を込めると、微かばかり開いていた幽明結界が大きな音を上げながら全開になった。花弁の塊が弾幕のように吹き出してきたが、やがて風は穏やかになり見通しが効くようになった。
開き切った境の向こう側には無限遠に広がっている広大無辺な庭園があり、その一面に満開の桜の木が植っている。尋常ならざる光景だ。
私は結界を超えて冥界の庭園に足を付けた。振り返ると向こう側で、幻想郷の上空に浮かびながら驚愕している八雲さんが居る。地に足をつけている私と空を飛んでいる彼女が、同じ高さにいる事に不思議な違和感を覚える。が、一先ず彼女に向けて手を伸ばした。
「ほら、八雲さん早く。閉まっちゃうよ?」
八雲さんは我に帰ったような表情をして慌ててこちら側へ飛び込んで来た。その直後に幽明結界は轟音と共に閉じきる。間一髪で滑り込んできた彼女はポツリと言葉を漏らした。
「有り得ない……」
互いに掛ける言葉が浮かばず、私たちは暫くの間じっと無言で見つめ合った。私たちの沈黙は、一人の少女が現れるまで続く。
「あの……八雲紫様ですよね? 何か御用がお有りなら幽々子様を呼んで参りましょうか?」
「いえ、それには及ばないわ。白玉楼まで案内を頼めるかしら?」
八雲さんの願いに応じて、西行寺幽々子の従者であると言う魂魄妖夢さんは私たちを白玉楼へと案内してくれていた。しかし、私としては少しこの周辺を見回りたい。
「すみません。この冥界の庭園をもう少し見ていたいので、私は此処に残ります」
「構いませんけど……」
魂魄さんは困った具合で八雲さんに目を向けた。彼女もまた頷いている。
「これ、返しておくわよ」
酒瓶を手渡されて二人と別れた。周囲の桜は満開で、酒の肴にはもってこいだ。酒に口を付けながらふらりゆらりと冥界を彷徨う。花見酒はよく進む。ましてげに美しき冥界の桜吹雪が果てもなく見渡せるとあっては深酒も仕方がないよね。
強かに酔って気分が良くなり、足どりが覚束なくなる。腰を落とせる場所が欲しいな。周囲に目をやると、一際目立つ巨木が見つかった。葉も花もなく、注連縄が巻かれていて御神木かとも思ったが、それにしては異様でなんだか気味が悪い。だが、その大きさから腰を落とすにはちょうど良さそうだ。
「枯れ木かなぁ?」
試しに木の根本で座り込んで幹に背を預けると、とても心地良い。今は見る影も無さそうだが、これはとても立派な桜の木だったのだろう。もし満開であったならどれだけ美しかっただろうか。
酒に何度も口を付け、目を瞑り往時を偲んだ。今や枯れ木同然の桜の巨木が、かつて満開の花を付けて咲き誇っていた光景を想う。
「うん、美しい」
そのまま、心地良い酔いに任せて意識を手放した。
西行寺幽々子は、八雲紫からとある少女と会うようにと頼まれていた。その少女は名を雲見明香といい、冥界を一人見回ると言ってから行方知れずになったのだと言う。
「多分、西行妖の近くに居ると思うわ。彼女は物珍しい物に惹かれる向きがあるから」
八雲紫が月を眺めながら語った言葉を聞き、幽々子は疑念を抱いた。冥界は広大で、当てもなく彷徨って白玉楼の西行妖に辿り着ける可能性など無に等しい。
「紫、貴女の仕込みかしら?」
「まさか。ただ、そんな勘がしただけよ」
親友はそれを否定した。故に幽々子はそれ以上の詮索を諦めた。紫が語らない事実を彼女自身の口から引き出すことが難題であることを、長年の付き合いから幽々子は理解していたからだ。
幽々子は従者も連れずに一人で西行妖の元へと向かった。そして件の少女を目にした時、彼女は紫の意図を理解した。また同時に、意地が悪いなとも嘆息する。
「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」
ふいと口から漏れ出た歌が、正に眼前に体現されていた。西行妖の根元で死んだように眠る少女と一輪の花、そして春の夜空に浮かぶ満ちた月。西行妖が花を付けていることもそうであったが、それ以上に幽々子を愕然とさせたのは、その少女の有様が彼女の過去を想起させたことだ。
「まるっきり、私」
恐る恐る近づいた幽々子は、そっと少女の胸に手を当てた。心臓の拍動と、生者の熱が亡霊のその手に伝わる。だが、少女の身体は冷え切っていた。もし幽々子が見つけるのがあと少し遅れていれば、このまま帰らぬ人となっていただろう。
幽々子は少し惜しいなと思った。ある種の理想である死に方を少女が体現していたからだ。同時に、自身が見つける事もまた定めだったのだろうと彼女は感傷に浸る。
「紫、きっと貴女が
胸に手を当てて自嘲する亡霊。掘り起こされた過去が、埋められたモノを思わせる。
「はいはい、連れて帰るわよ紫。きっと貴女だってそうしてくれただろうから」
少女をおぶった幽々子は、頬を伝う微温い涙を感じた。
「そう、できれば良かったのにね……」
それは兎も角として、あの意地の悪い親友には小言の一つでもくれてやらねば気が済まぬ。幽々子はそう決意したのであった。