「さて、準備は整いましたわ。ここに横になって下さいな。それから気を楽にして下さい。緊張するのは分かりますが、気を逸らせると碌なことになりませんので」
三途の川を越えて向こう側へ行き、そして帰ってくる。その為に尸解仙となる手解きを青娥から受けて早一年。あの日に彼女の手を取ってから再びの春の日に、遂にその時がやってきた。
「明香、貴女はこれから死にます。その後に依代に魂を移し留め、新たな尸解仙としての身体を得て蘇るのです。本来ならばそうなのですが……」
尸解仙になるだけならば、青娥の言う手順で問題はないのだけれど、しかし私の我儘でその手順は捻じ曲げられていた。
「魂を依代に移すことはしません。貴女の魂を彼岸へ向かわせる為です。死後に貴女は魂のみとなって彼岸を回り、その後に尸解仙の身体に呼び戻されるのです。構いませんわよね?」
「充分です」
「閻魔に魂を裁かれてしまうと尸解仙として復活することはできなくなりますわ。十分に気をつけなさい。それと、少しは落ち着きなさいな」
青娥は私の手を見た。それは恐怖で震えていて箸も握れそうに無い。だが、彼女は呆れた様子で冷めた視線を向けている。
「恐怖しているのでしょうけど、興奮と期待が入り混じって居ても立っても居られないって顔をしてるわ」
「分かるの?」
「一年間も弟子として面倒を見ていれば、見えてくるものもあるわ。さぁ、もう目を閉じて。眠っているうちに済ませてあげる。何があっても全てただの悪い夢のようなものよ」
瞼を閉じて、体から力を抜く。普段そうして眠りにつくように、自然と意識は霧散していった。最後に私が目にしたものは、夢殿の古錆びた天井であった。きっと豊聡耳様もそうだったのだろうと思うと、不可思議な感情が胸で渦巻いた。
「あんたはいつぞやの──。今度は生身じゃないと言うことは、死んだのかい?」
「死んだようなものではあります。お久しぶりですね、小野塚小町さん」
賽の河原で出会ったのは、随分昔に顔を合わせた事のある三途の川の船頭さんだ。
「魂だけになっても人の形を保っているなんて珍しいね。良い話し相手になりそうだ。いっちょ雑談がてら乗ってきなよ、積もる話もあるだろ?」
「はい。小町さんとはもう何年振りでしょうか。話したいことは積年山程積もっていますよ」
周囲を見回すと、賽の河原も以前とはがらりと変わっている。辺りには大量の積み石が塔のように林立していて、卒塔婆があちこちに突き立てられていた。
「大したもんだろ。ここらの水子の霊達にリーダーができたらしくてな。無駄な単純作業も楽しくやり甲斐のあるものに変えられちまったって訳さ。もうそこらじゅうが積み石だらけだよ」
「それは凄いですね」
親より早くに亡くなった子供がその罪を償うために積み上げるそれは、本来ならば鬼に打ち崩されてしまい終わらぬ無情な作業となるはずのもの。しかし、周囲に林立している積み石の塔からは、溢れんばかりの無邪気さや楽しさといったものを感じる。
「童遊びですね。お地蔵様がやってくるまで童は楽しく遊んでいる訳だ」
「悪いが賽の河原を子供の遊び場にして欲しくはないな」
「あはは、寂れた河原も少しは賑やかになって素敵じゃないですか」
困り顔をしている小町さんも、どことなく朗らかだ。
「そうだな、昼寝をするにはいい場所になったさ」
それはサボタージュではなかろうか? しかし、それもまた仕方がない事だろうとも思った。朽ちた卒塔婆は故人の冥福を祈る心が潰えた事を意味する。しかし、それにも関わらずに積み石は童達の明朗な有様を思わせているからだ。
つまり、何者からも見捨てられて夭折した子供達が元気にはしゃぎ回って遊んでいるのに囲まれながら、死神の仕事なんぞ生真面目にしていられるかという訳である。
「私は好きですよ。小町さんのそういう所」
「馬鹿言うな。映姫様にバレれば大目玉さ。だからこうやって仕事もしっかりするのさ」
船に乗せられた私は、昔の事を思い出した。以前は船から落っこちて、古代魚と彼女の世話になったのだった。今となっては昔の事だが何もかも全て懐かしい。
「さあ、着いたよ。彼岸へようこそ」
小町さんが船を川岸に寄せる。一面に咲き誇る彼岸花が目に写った。彼岸花はその別名で曼珠沙華とも呼ばれる。それは天界に咲く赤い花であり、人の心から悪を祓う力を持つと伝承されている。天界と彼岸を結び付けるその心は死後に天を求める人の願いであろうか。しかし、死後に悪から離れても生前の罪過が変わるわけでもない。
再思の道にある彼岸花が脳裏に浮かんだ。手遅れになってから現れて生を思わせる残酷なあの花々である。一方、彼岸の季節から外れて常しえに花を開かせているこれら不朽の曼珠沙華は、心に悪を抱えながら、その体は朽ちて果てた死者に対する痛烈な皮肉そのものであるように思う。
「真っ直ぐに進みな。決して振り向くんじゃないよ」
「何故ですか?」
「意味が無いからだよ。振り向いて此処まで帰ってきても、私は居ないし船も出ない。あんたが帰るべき場所なんざもう無いのさ」
小町さんに手を振って別れ、群生している彼岸花を掻き分けつつ進んだ。遠景にはご立派な役所然とした建物があるが、立ち寄ることなくその向こう側へ向けて歩み続ける。閻魔様に裁かれないように進まねばならなかったのだ。
やがて鶏の鳴き声が響いてくる。夜明けなのだろう。周囲を見回して見つけた適当な岩に腰掛けて日の出を待つ事にした。彼岸の日の出は是非とも目にしておきたい。
時間の感覚を更に失いながらぼんやりと彼岸花を眺めていると、遠くから人影が近付いてくる。あの世なのだから死人の一人や二人は居るだろうと初めは考えた。しかし、近付くにつれてその異様さが浮き彫りとなる。
それは頭の上にヒヨコを乗せた少女であった。
だが彼女からは、以前に妖怪の山の頂で邂逅した市場の神と同じような力を感じた。その奇抜な有様もまた一つの共通項である。
「えぇと、どちらの神様ですか?」
恐る恐る尋ねてみると、彼女は自分の名を語った。
「いかにも私はこの関所の番頭神、庭渡久侘歌よ」
「関所?」
「貴女が座っているその岩は境を示す標識なの。私が番人を務める関所の一つ、つまり私の仕事場よ。という訳で、そこを退きなさい」
なんと、私は神様の職場を占拠していたらしい。しかもその格好と名からして鶏の神様であるようだ。
鶏と言えばその鳴き声で夜と朝の境目を知らせる動物である。深山幽谷の最中から響いてくる朝を告げる声。それはまるで日を呼ばうかのような知らせであり、山々はやおら明るく照らされてゆく。果たして人々は山の中から響いてくる朝を呼ぶ声の主をどのように想像したのだろうか。
答えは目前にあった。
しかし残酷である。かつて鶏は祭祀に用いられることを目的の一つとして家畜化され始めた。その神聖さが故に零落への道を辿る生き物など、世界を見回してもそうはいないだろう。卵かけご飯って美味しいよねー。
「そして此処で引き返すように警告します。この先は地獄です」
「そうなのですか。なら是非とも見てみたいのです」
岩から降りて進もうとすると、庭渡様に腕を掴まれてしまう。
「待ちなさい。地獄に行こうというならばまずは閻魔様に裁かれなさい。それが道理というものです。貴女からは地獄に堕ちるほどの罪は感じない。罪人が天界に向かうのと同じ位に、善人が地獄に堕ちるのはあってはならないことなのです」
「しかし私は地獄を見てみたいのです」
「ならば行きなさい。貴女の意志を曲げてまで引き留めるつもりはない。死者など腐る程にいる。一人二人彷徨い歩いたところで誰も気にしないわ。建前はしっかり口にしたし行いでも示したのだから、これで充分ね。動物霊達も最近は大人しいから大丈夫でしょう」
私の言葉に応じて庭渡様は腕を離した。あまりにもあっさりとしていたので少し面食らってしまう。夜と朝の境目に立つものとして、番頭神として、彼女もまた峻厳に境を別つ者であると思っていたのだけれど、そうではなかったらしい。
「それに地獄は絶望的なまでに広大だから、どうせ直ぐに見つかる──楽しそうね貴女」
「ふふふ、楽しいですよ。願ったって叶わないような道程を経てきましたから。生死を別ち善悪を分別する禁断の境界を暖簾をくぐるように容易く踏み越えて来たのです。禁忌を犯す背徳感が背筋を伝うのを感じます。ああ、なんて心地良い」
「不徳ね」
「下らないよ庭渡さん。私たちは善悪の彼岸に立っている。徳だの道徳だの心底下らない。私たちは生まれながらに自由で……死してなおも更に自由だったのですね」
感情が昂っていた。彼岸に来てからずっと気分が良いのだよね。何というか、解放感が凄い。身体無く命無く善悪さえも無く、私の意思と魂だけがある。
そうなると、普段から私たちはどれだけのものに縛られてきたのかがよく分かる。身体とはなんと窮屈なのか、命とはいかに脆弱なのか、善悪とはどんなに無意味なのか。
「死ねば全て等し並になるのですね。死後の報いという観念がどれだけ私たちを縛っていたのかがよく分かります」
「それならば早く閻魔様に裁かれてきなさいよ」
「嫌です」
「取り付く島もない」
死後に報いがあるとすれば、あの世をこの目にできることであろう。少なくとも私にとっての報いとはそれに他ならない。
「目前の地獄を逃して引き返すなんてあり得ないですから」
「貴女は頭のネジが抜けているに違いないわ」
「頭にネジなんてありませんよ。フランケンシュタインじゃあるまいし」
「呆れた娘」
私は先へと進む。彼岸の花畑には終わりが見え始めていた。後少しだ。もう少し先へ進めばこの目にできる。古来より数多の人々が思い描き夢想してきた場所が、目と花の先にあるのだ!
「青娥よ。彼女は息災かな?」
「あら、太子様。彼女というと明香のことでしょうか?」
「そうだ。貴方に弟子入りしていた筈だろう」
「彼女なら──死にましたよ」
「え?」
霍青娥が指差した先を見て神子は硬直した。
「尸解の法を行ったのです」
「なるほど、彼女はあの世だという訳か。それは実に楽しみだ」
「楽しみ、ですか?」
「私は終ぞ死して彼岸へ向かったことはないからね。あの世を直に目にした人間が帰ってくるというのならば話を聞いてみたい。実に楽しみだよ」
神子は明香の死体が安置された台座の前に椅子を運んで腰掛けた。青娥は首を傾げる。
「太子様。明香の身体は其方ではなく彼方の依代ですよ」
「青娥よ、言ったはずだぞ。人間が帰ってくるというのならば話を聞きたいとな」
「なんとまあ物好きな方。しかし彼女の魂が宿るのは」
「賭けをしないか」
神子の有様は常時のそれではなかった。彼女は普段は飄々としていて切れ者であり掴みどころがなく強かだ。しかし、自らが死を恐れて人間を辞めた経緯から、兎角人の生死に対しては鋭敏であったのだ。
「貴方は何もするな。いや、私がさせないと言った方が適切かな。明香の魂が依代と死体のどちらに還るのか試そうじゃないか」
「何故邪魔立てしますの? この楽しみを台無しにするというなら太子様相手でも私は何をするか分かりませんよ」
「何故、か……」
理由を問われ神子は黙り込んだ。彼女は顎を摩りながら宙空に目を背ける。その目に映る夢殿大祀廟の天井造りは自らが眠りに就いた時とまるで同じであった。同時に彼女はこの光景を明香も見たのだと確信した。それは
「恐らくそれは、私が彼女に叶わなかった夢の跡を重ねているからだろう。死から逃れる為に私は人間を超越した。だがもしかすれば、もっと他の道もあったのかもしれないと思っている。私は人間を超越するのではなく、死を超越するべきだったのでは無いかと」
「太子様らしくありませんわ。どちらでも同じことです」
「それを同じと言い切るところが、青娥の青娥たる所以なのだろうね。さ、私の我儘に付き合ってくれるかな?」
「はぁ…」
特大の溜息を態とらしく漏らして青娥は目を瞑る。
「そんな風に言われては断れません。私が貴女に惚れ込んでいる事を承知なのでしょうに。ええ、付き合いますわ。楽しみですわね。ならば彼女が帰ってくるまで退屈ですから、一献如何かしら?」
「ほう、準備が良いね」
青娥がヤケになった様子でぞんざいに酒を取り出したのを見て、神子は笑いながら洋風の杯を取り出した。
「それは?」
「んん、祝杯というやつさ。彼女の復活祝いにね」
「目を覚ませばそうはなりますが」
明香の死体の側になみなみと満たされた杯を添えて神子は言う。
「私たちは日々多くの事を祝うが、その根は全て私たちが生きていることを祝っているのに他ならない。これが何を意味するのか青娥には分かるかな?」
「さあ? 人間がお目出度い生き物だということですか?」
「生きる事よりも目出度い事はこの世に無いということだよ」
死だ。
死のみ在る。
眼前には恐るべき風景が広がっていた。それは私が抱く死と彼岸に対するあらゆる幻想を打ち砕くものだった。
「なんて……なんという……」
番頭神が地獄と呼んだそこは唯の荒野だった。広大無辺にして地平線の彼方まで続く骸の山を抱えた荒野である。
「これは……」
其処には罪人も獄卒も悪鬼羅刹も在りはしなかった。刑場も針山も血の池も私たちが地獄と呼ぶあらゆるものが
「嫌だ」
責め苛まれることさえなく清算されない罪が骸と共に遺棄されている。何が地獄だ巫山戯るな。これではまるでただのゴミ捨て場じゃないか。人は死ねばゴミになると言わんばかりだ。
風に吹かれてカラカラと骨が鳴く。転がり崩れて砕けていく白骨は皆全て人骨のそれだ。
「罪を犯そうとも土の下に埋まったものを何故また野晒しにするのかなぁ」
かつて耳にした話が脳裏に去来した。萃香さんが教えてくれた
「鬼と罪人が罪を祓うために犇き蠢く、私たちが夢想した地獄は既に棄てられて久しく、スリム化された地獄は私の眼前に広がるこれという訳だね。ははは……」
乾いた笑みが漏れる。笑うしかないよね。素晴らしい効率化だよ。合理的で無駄がない。スリムでスマートだ。必要なのは魂だけなのだから、罪も骸も朽ち果てるままに棄てておこうという訳だね。
「心無いなぁ」
真っ赤な血煙の如き暴風が吹き荒れ始めた。風の音がびゅうとして、骨が鳴る。ただそれだけが永劫に繰り返されている。こんな仕打ちを受ける程なのだから、彼らは大変な罪人に違いない。
そう言い聞かせて自分の心を宥めようとした。如何に罪を犯した者であれここまでの扱いを受けるものだろうかと、私は憤っていた。罪人は書いて字の如く人である。だがこれは明らかに人の扱いではない。
そして、この地獄に吹き溜まる罪は祓われることがない。風は尚色鮮やかに真紅に染まっていくだろう。地獄は際限なく虚しくなっていく。積み上げられた罪を崩す鬼は居ないのだ。
一層暴風が強さを増し始めた。空を見上げるといつかの紅霧異変のように真っ赤だ。渦を巻く風が視界を遮る。ははぁ、成る程、血の池に見えないこともない。
私は足元の半壊した頭蓋骨を一つ手にする。かつて此岸を写した瞳はもはや無いが、彼岸をその目に写した眼窩は否が応でも私の目を惹く。
その骨の額に自らの額を重ねて目を瞑ると、浮かび上がるは地獄の光景。罪人の目に映った地獄の一部始終である。
「霊夢さん何やってるの……」
代わり映えのない地獄にも、時に変化はあるようだ。霊夢さんが地獄の上空で弾幕ごっこをしているのが見えた。やがて視界は現在に近づいてきて、最後に私と額を合わせたところで真っ暗になる。
「うん、ありがとう。こんなになってもそこに居て見ているんだね」
彼らは見ている、朽ち果ててゆく己の身体と共に。身動き一つできないままずっと見ている。
「そう、貴方は少し目が良すぎる」
声に振り返ると、そこには少女がいた。だが明らかに只者では無い。その服飾、雰囲気、声音、そして瞳の全てが私たちとはかけ離れていた。まるで別次元の何かが人間の形をした端末を使って世界に干渉しているかのような、そんな感じだった。
「どちら様ですか。いや、貴女は一体何なのですか?」
「私? 私は四季映姫、楽園の最高裁判長。貴方が外れた道の先にあったものだと言えば分かりますか?」
まずい。やばいよ。何で閻魔様が直々にこんなところまで来るのさ。
「おっと、顔が青いですよ。まるで死者のような土気色ですね」
「死んでますから」
「欠片もそんなつもりはない癖に、よくも舌が回るものですね」
どうしよう?
「どうするか困窮しているようですね。教えて差し上げましょう。どうにもなりませんよ」
彼女は手鏡を取り出した。そこには生前の私が映っている。
「浄玻璃の鏡。貴方の全てはお見通しです。死して彼岸を巡り、尸解の下法で唯一無二の道理を外れ、外道の通過を企てるものよ」
「違います。私はただ」
「黙りなさい」
口が動かない。子が親に何かを禁じられるような感覚を極限まで最大化したような……禁止されるということが持つ意味を、私は初めて知った。
「貴方の弁明は必要ありません。私は貴方の言葉を聞くためではなく、貴方の行いを見るために此処にいるのです」
地獄に向かう道程、青娥さんとの計画、私の旅路全てを彼女は浄玻璃の鏡を通して見ていた。
「黒です。貴方には未だ残された天寿がある。人間として生き、人間として死になさい。これが今の貴方が積める善行よ」
嫌だ。
「分かっています。貴方は目が良すぎる。世界の美しさに目を焼かれ、人間の醜さに腐心したのでしょう? 美しいものも醜いものもよく見えたのでしょう? 貴方が旅を始めた本当の理由から目を背けるのはもうやめなさい」
言葉が私の心に深く刺さる。
「貴方が何故幻想郷中を巡る旅を始めたのか。その生涯を映す鏡から見れば一目瞭然です。逃避ですね。貴方は人間から逃げている。自分が人間であることから目を背けている」
私は自分から目を背けるために世界を見たのだと、閻魔様は言った。
「良いですか雲見明香、肝に銘じなさい。美しいものを見たからといって、貴方が美しくなれる訳では無いのです。貴方は世界を見る前にまず、その目で自分を見つめ直すべきだったのです」
残酷なようですが、と。そう断ってから彼女は語る。
「自分を見なさい。四季と暦の狭間にあり、血塗れで生まれてきて、枯れ木のように老いさらばえて死ぬ自分を見なさい。日々働き汚れていく手を、皺が刻まれていく顔を、擦り切れていく心を見なさい。人を騙し騙る口を、蔑む目を、遠い耳を見なさい。悪意なき差別や装われた無知を良しとする意思を、人間の底知れない吐き気を催す劣情を、他人の不幸を希い願う性根を見なさい。殺し、奪い、犯し、騙し、食う、その穢れに満ちた歴史を見なさい。その全ての集大成として今ここにあるあらゆるものを煮詰めて合わせた自分を見なさい。それが貴方です」
楽園の死者を裁き続けている彼女は、いつの間にか万感の想いが籠ったかのような声音を上げていた。
「そして見なさい!」
両の手を広げて、彼女は叫んだ。
「飽くこともなく積み上がる人の罪を!」
罪人の骸の山を見下ろす彼女を見て、遣る瀬無いのは閻魔も鬼も変わらないのだろうと思わされる。もし彼女の説教をまともに聞き受ける耳さえ在れば、地獄など必要さえなかったのだろうから。
地獄のスリム化、旧地獄の放棄、地蔵の徴用、進み行く効率化と人の心無い地獄の拡大。そう、全ては人間が罪を犯しすぎるからなのだ。地獄はもう罪人で満タンで、鬼も閻魔も手一杯なのだ。
「だからせめて今を生きる貴方達だけは、善くありますようにと。これは説教ではありません。私の願いなのです」
そういって彼女は私に頭を下げた。
「善く生き、善く死ぬようにと」
その言葉を最後に、私の意識は霧散した。
酒の匂いがする。
「これは驚いた。お早いお目覚めだね」
「あり得ませんわ。まだ魂を呼んですらいないのに」
ぼやける視界。目の前には杯があった。酒杯だろう。身体中が酷く怠い。力を込めて身体を起こそうとすると、誰かが私を手助けしてくれた。
「大丈夫かい? さっきまで死んでいたのだ、そう上手くはいくまい」
「あえ? わはひわ……」
口が回らない。ダメだこりゃ。上体を起こして背を支えられているままに、暫く身体の回復を待った。血が巡り始めたばかりのように、少しずつ四肢に力が戻っていく。
「青娥、貴方の仕業かい?」
「誓って違いますわ。私はまだ何もしておりませんので」
「しかし人間が死後に蘇るなど考え難い」
「本人に聞いてみれば宜しいのでは? 話を聞きたかったのでしょう?」
「ふむ、そうだったね。教えてくれないか? 向こうで何があったんだい?」
身体が楽になり、痺れも取れて呂律が回るようになってから私は答えた。
「閻魔様から頼まれました」
「ほう! 地獄の閻魔から直々に頼み事か。さて、それは一体どんなことなのだい?」
「善く生き、善く死ぬようにと」
私の言葉に二人は絶句した。私もまた自分を見つめて気付く。尸解仙の依代ではなく、人間の身体であるということは。
「私はまだ死ねるのだね……良かった」
死ぬのは嫌だ。でも何故かホッとしている。結局のところ私は道を踏み外す済んでのところで踏み止まれたのだろう。
「人道外れ難く、私は人間として生きようと思います」
「私は天道を往く。人と道が交わることはあるまい」
「しかし豊聡耳様、そこに善はあるのですか?」
「善悪など」
「ありますよ。強弱が存在するように、善悪もまた存在します。貴方たちはただ強くあることを望み人間を超越した。私はまた善くあることを望み世界を見て回ろうと思います」
善悪は存在する。それが今回の旅路で私の心中に起こった最大の変化だった。善悪は存在する、道徳もまた。それらを人を惑わすために振りかざすものが余りにも多すぎて、覆い隠されてしまっているだけなのだ。
「それは弱者の、敗者の理論だ。強者とは常に強くあり善悪を定めるものだ。良いかい明香、善悪と道徳は強者が弱者の群れを統率する為の道具に過ぎない」
「道具にしたのは貴方達でしょう」
「では、太子様や私がそうであるように強くあろうとは、仙人となろうとは思わないと?」
死が全てを等し並にした荒野を見た瞳が、無意味だと告げる。
「意味がありません。強弱と善悪には何の関連もないのです。私はただ善くありたい」
「強くあらねば貫き通せぬ善もあるぞ」
「私がただ善くあるだけなのですから、誰に何を貫くというのです?」
「まるっきり奴隷か何かではないか?」
「いいえ」
私は強く言い切る。
「貴方達は他人を支配する為に力を振るう。私は私を支配する為に力を振るう。私たちは共に支配者です。ただ力の振るい方が違うだけなのですよ」
豊聡耳様は目を見開いた。刮目していると言ってもいいかもしれない。
「私は私を支配する。誰よりも強固に。だからこそ誰も私を支配できない」
胸に手を当てて、彼女は私に酒杯を差し出す。
「私たちは言わば兄弟弟子のようなものだったね。天道を征く私と人道を歩む貴方。他人を支配する私と自己を支配する貴方。何から何まで逆様だが……祝福しよう、貴方の再誕を」
一気に飲み干した。美酒が身に沁みる。
「ところで、これなのだがね。明香が眠っている間に現れたんだ」
私の眼前には懐かしいものがあった。カメラである。勿論手に取った。私はもはやカメラマンではないけれど、旅の片手にはこれがある方がやはり落ち着く。
実にしっくりきた。
それが