一歩ずつ妖怪の山嶺に分け入っていく。もう何度目かも分からぬ入山で、すっかり私はこの山に慣れ親しんでいた。しかしそれでも、山に立ち入った瞬間に変わる空気と異界感は、否応なくここが人間の居るべき場所ではない事を物語っている。
「さてと、後もう少し……」
目指す場所は、とある人物との待ち合わせ場所であった。夏の早朝の山の中をひたすらに歩み続けると、次第に周囲の木々が開けてきて、荘厳な風景が目に入る。
「壮観だなぁ」
額の汗を拭いながら見上げると、そこには地肌が露わになっている険しい断崖があった。ここは山に茂る深緑の木々に覆い隠されており、遠目には写らない。そしてその秘された立地故に、山童たちのアジトの一つとなっていた。
「秘天崖、か……」
天まで届くかのような断崖絶壁の下で、腰を下ろして一息つく。どうやら私の待ち人である山城さんはまだ来ていないようだ。山奥のビジネス妖怪とも呼ばれる彼女は、河童の品や山の特産品などを取り扱う何でも屋さんである。
しばらくの間、暇潰しに景色を楽しんだ。木々の枝葉の合間から断片的に見える風景には息を呑むばかりだ。いつの間にか背負子に乗っかっていたカメラの付喪神は、私が腰を下ろした周囲をわちゃわちゃと駆けずり回っている。あ、どっか行っちゃった。
「やぁ、待たせちゃったかな明香」
噂をすれば影である。迷彩柄の服を着た小柄な少女が手を振っていた。
「いや、今ちょうど着いたところですよ」
「それは良かった」
ニコニコと愛想の良い笑顔を見せている山城さんは、背に負っている木箱を下ろして商品を並べた。
「さあ明香、取引をしよう。その為に来たんでしょ?」
私はカメラのフィルムを手に取る。環境追従迷彩クロークなるものがあって、不意に私の目を引いた。
「ああ、そいつはサバゲーで使ってた備品だよ。周囲の環境の色彩に溶け込む優れものだ。河童共が良く使う光学迷彩に対して隠蔽性では劣るけれど低コストで長期間の使用が可能な優れものなんだ」
山城さんは実演して見せてくれた。透明人間に成れるほどではないが、あっという間に周囲の色彩に溶け込んで輪郭が無くなってしまった。凝視しなければ判別は困難だろう。
「で、コイツは手裏剣だ。刃は潰してあるから当たっても死にはしないよ。外の世界の忍者の道具で、敵に投げつける武器らしい」
山童達の間では一時期、山中でのサバイバルゲームが流行した事があったらしい。その際に安価で河童から仕入れた備品が在庫にたっぷりあるのだという。
「ささ、お安くしているから買って行ってくれ。あんまり在庫を抱えていると気が休まらないんだ」
「悪いけど、サバゲーの備品には興味ないかなぁ」
目に見えてガッガリした様子の山城さんを他所に、私は手頃なアウトドア用品を幾つか選んだ。高性能な水筒だったり、飯盒だったり、保存食なんかを少々。基本は日帰りだしテントは要らないなぁ──
取引を終えた山城さんは、商品を片付けて私の隣に腰掛ける。
「人間の客は有難い。里の通貨を妖怪が得るのは特に手間だからな」
彼女曰く、妖怪が里で働くわけにもいかず、人間から強奪したとしても、やり過ぎると巫女や里の退治屋なんかに目をつけられてしまうらしい。
「結局は交流できるだけの関係を築いて、取引で手に入れるしかないんだ。でも、妖怪と金銭的取引をしようだなんて人間は滅多に居ないからね」
「律儀だねぇ。妖怪は人間から奪い、人間は妖怪を退治する。そんな関係がこれまでずっとだったのでしょ?」
私がそう言うと、山城さんは笑い出してしまった。
「あはは、明香ったらまるで頭が硬い天狗様みたいな事を言うんだな。そんなのは過去の話だよ。今はビジネスの時代だ。暴力だとかそんなのは古臭くっていけない」
山城さんは詳しそうだが、私はビジネスに関してはさっぱり分からない。外の世界ではそれを自らの生業とするビジネスマンなる種族が存在するが、彼らの仕来たりときては巫女さんの神事より複雑怪奇で理解不能である。ある意味では本当に祭事の側面を持ってもいるのだろう。
「ビジネスの時代ですか。それでは私みたいな古臭い人間は蚊帳の外ですね。何せ私の頭の中ときては未だ埃を被った物々交換のシステムが健在ですから」
頭を叩いて言う。
「私がこれをあげるから、同じだけの価値を持つものと交換しよう。そんな素朴なシステムが、私のビジネスの全てですよ」
「なら、明香が今一番欲しいものを教えてくれないか?」
こりゃまた随分と難しい問いかけだ。暫く考え込んで、言葉を選んだ。
「世界、かな? まあ、絶対に無理なのは分かっているけどね」
「……明香には世界征服の野望があるのか」
「それは違うよ。山城さんが言っているのは社会征服。世界征服は誰にもできないよ」
訳が分からないと言った様子で山城さんは顎を摩っていた。なので私はもう少し言葉を連ねる。
「私は世界と社会を厳格に分別する。社会は人間たちの関係性の中に生まれるものだ。対して世界は、この、これだよ。物質的な形を持って存在するもの全ての総称だ。だから世界は誰にも支配できない。単純に、概念としても物体としても大きすぎるんだ」
支配とは、社会の中にある個体の間に結ばれる関係性の一種でしかない。世界を支配するという言い回しは、世界を擬人化した比喩に過ぎない。支配という概念を社会の外側のものに当てはめるとき、それは全て比喩である。
人間のような世界を、支配するという比喩。
「それは誰もが当然として理解している暗黙の比喩ではないのか?」
山城さんはズバリ言う。そして実際その通りだ。私は頷いて同意した。
「だから世界は誰にも支配できないし、所有もできない」
「それは違うぞ人間よ」
私たちの意識外から声が届く。
「世界は誰のものでもない。だからこそ、誰もがそれを所有できる」
顕現した彼女は、天弓千亦という名の商売と市場の神であり、私の命の恩人だった。微笑む彼女は物静かに説く。
「どうやら貴女は本当に、
「買う、売る、貰う、手放す、いつから人間は所有権を自由に扱えると勘違いしたのか。そもそも権利などというものは人間が社会の中で定めた決まり事に過ぎない。何度でも言います。
「貴女はもっと利発な人間だと思っていたのに、随分と頭が硬いのね。確かに世界は誰のものでもないけれど、だからこそ人は所有権を持って自分の物とそれ以外の物を産み出し商売が始まった。それは否定しようのない事実であり、貴女の眼の前にある現実の一幕よ」
信じられた神が形を持つように、認められたルールは形を持って現実に影響を及ぼす。その始まりが形無きものであろうと無かろうと、今や形を持って現実に影響を与えているのならば、それは実在すると言っても差し支えないだろう。千亦さんは大凡そんな風なことを言って締め括った。
「所有権は実在すると見做して支障ない。故に世界は所有できる。大地も空も海でさえも、人は手に入れる事ができる。そう、
反論することはできなかった。千亦さんは淡々と事実を語っているのみであることが、明快に理解できてしまった。
「ふふふ、青ざめちゃってどうしたの? 分かるわよ。自分が愛して憧れているものが、他の誰かのものになってしまうのが怖いんでしょ?」
私に近付きながら千亦さんは言う。
「貴女の事はよく聞くわ。幻想郷を遍歴しているらしいわね。貴女はきっとこの世界が大好きなんでしょう。好きなものや愛しているものを自分のものにしたいというのは自然なことよ」
千亦さんは私を背後から抱き締めて、ねっとりと、執拗にその手で私の体を弄った。彼女は私の肩に顎を乗せて、熱を帯びた吐息を感じさせながら耳元で囁く。
「誰かのものになってしまっているのなら、なってしまうなら、貴女が取引をして自分のものにするしかない。私には所有権を失わせる程度の能力がある。さあ、誰のものでも無くなった世界を一緒に我がものにしましょう。幻想郷を貴女のものにするのよ」
私の胸に手を添えて、千亦さんは言う。
「ほら、自分の心に従うのよ」
心臓が強く拍動しているのが分かった。身体中が熱を持ったかのように熱くて、脳裏に邪な考えが浮かんだ。これまで大それた事だと考えもしなかったし、許されざる事であるとも思う。
でも──欲しい。
「おい、管狐。悪いが私のお客さんを唆すのはやめてくれないか。良い金蔓を失うのは御免なんだ」
山城さんが奇妙な道具を千亦さんに突きつけていた。その形状からするに、外の世界では拳銃と呼ばれている武器だろう。困惑する私をよそに、彼女は私を抱き寄せる。私と引き離された……誰?
「ちっ……山童風情がしゃしゃりでやがって。隅っこでそのままガタガタ震えて縮こまってりゃ良かったものを」
「ああ? 痛い目に遭いたいのか、天狗の狗が」
「あら、目が見えないのかしら。私は狐よ」
バチバチと山城さんと罵り合う彼女は、見知らぬ少女に姿を変えた。自らを狐だと語った言葉によるならば、もしかして騙されてたのかな?
「せっかく、その少女の命の恩人に化けてまで唆そうとしたのに全部台無しにしてくれたわね。あの高慢ちきな妖怪の賢者が悲しむところを飯綱丸様に見せられると思ったのに」
山城さんは彼女の事を教えてくれた。名を菅牧典といい、ある大天狗の腹心なのだそうだ。魂の弱い所に入り込む程度の能力を持ち、人を唆しては破滅させるタチが悪い管狐なのだと言う。
「だいたい、あんたら山童がどうして邪魔をするの? あれかしら、ヒーローごっこって奴?」
「自分達の取引相手に横からホイホイ手を出されて狸寝入りなんざしてちゃあ商売になんないだろうが。山童のアジトの真前で私らの客を唆そうだなんて、その度胸だけは買ってやる。でも喧嘩は売ってないんだ。ほら、帰った帰った」
「あーあ、そんなこと言っちゃって良いんだ。大天狗様に告げ口してやろうかしら? ふふ、きっと山に居られなくなっちゃうよ? 山童じゃなくてただの童になっちゃうね」
「そうか、なら……」
「騒ぎが大きくなる前に始末しないとなぁ!」
怒声と共に、山城さんがその手の引き金を引こうとした刹那、菅牧典は両手を上げて嗤った。
「やめてよー。ただの冗談だよ。ムキにならないでよね。私は言葉で語らってただけなのに手を出そうとするなんて信じられない。てっきりビジネスに興じる文明人だと思ってたのにガッカリだよ。山奥のビジネス妖怪だなんて言われてても所詮は野蛮人なのね」
よくもまあ、ここまで人の気を逆撫でる言葉を吐けるものである。山城さんは青筋を立てて今にも引き金を引こうとすらしていたが、私が何とか引き留める。
「だめだよ山城さん。彼女は態とやってるんだから、唆されちゃダメ」
「……おとといきやがれ」
「ちぇっ、つまんないなぁ。釣れないやつ」
菅牧典はゆっくりと私達のそばまで近付いてきて、そして私の頭に手を置いた。
「じゃあね明香ちゃん。そんなに怖がらないで、ちょっと揶揄っただけでしょ。妖怪風の挨拶だよ」
ニッコリと笑みを浮かべて手を振りながら彼女は去っていった。しかし彼女が語った言葉が、胸に棘のように引っかかる。
大地も空も海でさえも、人は手に入れる事ができる。
世界が所有可能であるという事実は、一つの疑念を抱かせてならなかった。つまり、私が愛し焦がれるこの