アポロ経絡
「月面旅行ツアーのすゝめ?」
原因不明の頭痛に悩まされて永遠亭を受診していた私の目に写ったのは、待合室に貼り付けられていたポスターだった。そこには、デフォルメされた玉兎と獏の可愛らしいマスコットが宇宙遊泳している絵が描かれている。注意書きには、希望者は八意永琳まで申し出るようにという旨が記されていた。
「鈴仙さん、すいません」
「はい、なんでしょうか?」
「このポスターについてなのですが」
「あぁ、それですか。月面旅行ツアーですよ。少し前にお師匠様が月の方達と会談して取り決めたみたいで」
鈴仙さん曰く、参加者の枠が埋まれば募集を締め切るのだそうだ。しかし、枠には未だ空きがあるらしい。診察待ちの暇に偶々目に入ったのも何かの縁かもしれないと興味が湧く。
「パンフレットが受付の側にあった筈ですよ」
言われるがままに受付に向かう。スタンドに並べられている各種健康雑誌に紛れて、月面旅行についてのパンフレットが見つかった。ざっと目を通してみると、地上と月の都を繋ぐ夢の通路を用いたツアーについて詳細に記載されていた。
月の賢者である稀神サグメと夢の支配者であるドレミー・スイートが共同で主催したこのツアーは、八意永琳の名義で地上の民を月の都に送り込むことを目的としているらしい。
「うーん、すっごい胡散臭いね」
「ですよねー。なので誰も申し込んでくれないのよ」
鈴仙さんは決まりが悪そうにしている。
「それに、主催者の情報が仰々し過ぎますよね。これじゃあ里の人間はまず怖がるし、霊夢達は面倒事の匂いを嗅ぎつけて相手にしてくれない。嘘でも竹林の兎主催とでもしておけば良いのに」
そう愚痴った鈴仙さんは、他の患者さんの対応に戻った。私はパンフレットを手にしたまま考え込む。実の所、かなり興味があるのだよね。胡散臭くとも月に行けるなんて話は滅多にない。期待に浮き足立つ感覚を覚えながら、私は待合室のポスターをじっと眺めていた。
「あら、月面旅行ツアーの希望者?」
診察を終えた後、八意さんは私の希望を聞いて目を丸くした。
「募り始めて半年は経っていたから忘れてしまっていたわ。なら、ツアーの説明をしなくちゃいけないわね。鈴仙に頼めるかしら」
「構いませんが、どこまで説明すれば?」
「全部よ。隠す必要もないわ」
頷いた鈴仙さんは、私を永遠亭の外へ連れ出した。迷いの竹林を目にできる場所で、彼女は塀にもたれ掛かって私を手招きする。昼時の竹林は長閑で風のそよぐ音がするばかりである。日差しがポカポカとしていて心地良く、眠気を誘う程だ。
「ほら、ここで話しましょう。先ずは月について何か知っているかしら?」
「空に浮かぶお月様ですよね。地球の周囲を公転している衛星で、地上から凡そ38万km離れています。人類が唯一到達した地球外の天体で、とてつもなく希薄ですけど大気が存在していて、地震も観測されているのだとか。クラヴィウス・クレーターで水分子が発見されたというニュースも記憶に新しいですね。後、兎さんが餅搗きをしてます」
「く、詳しいわね……」
「鈴奈庵の外来本の受け売りですよ」
意外そうな表情をした鈴仙さんは咳払い一つして語り出す。彼女が言うには、私が語った月についての知識は文字通り少しズレているらしい。
「明香が教えてくれたのは
月の裏側、結界によって異相次元に存在する秘された世界。厭離穢土を極めた月人は、果てしなく低い地上から離れ、穢れなき世界に到達して境を造ったのだ。穢れに塗れた私たちと自らが、決して出会わぬように。
「表の月に向かう為には、外の世界の人間がしたように宇宙船を使う方法がある。けれど裏の月に向かう為には、私たち玉兎が使うような月の羽衣や、紅魔館の吸血鬼がしたような神憑り的な住吉ロケットを用いなければならない」
鈴仙さんは、月の羽衣を使って地上に逃れて来た時の事を語りながら教えてくれた。しかし、今回のツアーでは裏技を使うのだそうだ。
「でもね、夢の世界を使えば何処にでも行けるの。本当にインチキ染みた裏技よ。文字通り何処にでも行けるなんて反則だわ」
玉兎達の連絡通路として用いられている夢の通路を、夢の支配者であるドレミーさんの全面的な協力の元で活用する事によって、もはや月への経路は問題にならないのだそうだ。
「かくして地上人を裏の月へ送る事が可能になった訳よ」
「しかし何故地上人を月へ? 月人達は穢れた地上とそこに住まう人々を忌避しているのでしょう?」
「一つはお師匠様の為よ」
鈴仙さんの師である八意さんは、かつては月の賢者であったけれど大罪人として地上に堕ちている。しかし、月には未だ彼女の味方がおり、先の異変で月の都の窮地を救った策を献じたことによってその立場も見直されつつあるのだという。
「具体的には稀神サグメ様や綿月姉妹の方々ね。彼女たちはお師匠様に帰って来て欲しいから、あの手この手で師匠に手柄を立てさせようとしている。今回の月面旅行もその為のものよ。サグメ様が協力関係にあるドレミーと組んで画策したのよ」
「地上人を月へ送る事が手柄になるのですか?」
「今は、ね。あまり気分の良くなる話ではないけれど、月の都は穢れ仕事ができる使い捨ての人材を探している。その供給源として地上に目がつけられた」
うわぁ……。楽しい月面旅行のイメージが粉々に砕け散った。前々から紫さんから話を聞いていたけれど、あまり月の都は愉快な場所ではなさそうだ。
「そんな顔をしないで。月人の言う穢れとは、生きる事や死ぬ事、産まれる事や産む事、病む事や瑕疵を負う事よ。それはつまり私たち地上の者にとっては極自然で当たり前の事だから、穢れ仕事も私たちにとっては大した事じゃないわ」
鈴仙さん曰く、餅を搗く為の餅米を収穫するだとか、その程度の事らしい。
「以前は玉兎達がそういう仕事をしていたのだけど、最近は兎達の地位が向上したり、月人と玉兎の距離が近くなったりしているからね。ほら、自分のペットには綺麗でいて欲しいでしょ。そんな感じよ」
そう話を聞くと悪くなさそうに思える。しかし鈴仙さんは、心底呆れたような様子で溜息を吐いた。
「正直な所、私もお師匠様もぶっちゃけ月の事はどうでも良いのよ。以前の異変の献策も、月の連中が幻想郷を浄土化して遷都しようだなんて傍迷惑な計画を立てたから、それを止める為に已むを得ずそうしただけなのよね」
鈴仙さんはやれやれと手を振る。彼女は気怠げな視線を空に向けて耳を垂れた。
「私もお師匠様も姫様も、もうみんな地上の者として生きる覚悟をしている。月の奴らがお師匠様の為に何をしようと、拒否もしないけれど肯定もしないし、突っぱねもしないし乗っかりもしない。だからこの月面旅行ツアーもそうなのよ」
ポスターを貼り、話を通し、受け入れはするけれど、ただそれだけ。だから私にもその裏側にある思惑の全てを打ち明けるのだという。
「このツアーは、明香にとっては本当にただの旅行ツアーにしかならないわ。餅搗き体験もできるかもしれないわよ」
「それは楽しみですね」
「でしょ。月の都は潔癖過ぎて滞在するには窮屈だけれど、訪問するには素敵な場所よ。存分に楽しんできなさい。お土産もよろしくね」
鈴仙さんはニヤリと笑って私の背を叩いた。それから、彼女と日程や段取りを相談した。私はらしくもなく胸がワクワクして堪らない。こんな気分は彼岸へ行く計画を青娥さんと立てた時以来だろうか。
月面旅行ツアー当日、私は旅支度をして永遠亭を訪ねた。尤も、お土産を持ち帰るための背負い鞄にカメラと酒を突っ込んだだけの簡素な準備だ。気分は完全に観光客である。
「あら、お久しぶりです雲見さん」
そこで出会ったのはドレミーさんであった。彼女は私を見て全てを察したような独特な表情を浮かべる。
「こんなに胡散臭くて荒唐無稽なツアーに参加するなんて何処の物好きだろうかと思っていましたが、全て得心いきました。貴方ならば成る程、そうするでしょうねぇ」
ドレミーさんは微笑みながら、私へ手を伸ばす。
「さあ、こちらへ。案内しましょう。第四
私がその手を取った瞬間、意識は微睡み夢の世界へと旅立った。
「息を止めなくても大丈夫よ。悪夢の欠片と衝突しないようにだけ気を付けなさい」
待合室のポスターに描かれていた光景が脳裏に去来する。私は玉兎ではないけれど、獏のドレミーさんに手を引かれて宇宙を遊泳していた。さらに、周囲一帯の空間は明滅する光線によって格子状に区分けされている。まるで昔話とSFを混合したようなそれらは、強烈な
「アポロ経絡とは言い得て妙ですね。経脈と絡脈が縦横に交差しているみたいです。ここは無数の夢の結節点なのですね」
「理解が早いわね、その通りよ」
私たちはアポロ経絡を進み続けた。するうち、一斉に世界が閃光に包まれて満月が現れる。私は宇宙を照らすその眩さに驚愕した。月とはこんなにも明るかったのかと。
純白に輝く月は地上から見上げるよりも遥かに巨大且つ鮮明で、肉眼でそのクレーターを詳細に目視できた。普段見慣れた夜空のそれと違って無機質な物質性を思わせる有様は、その神秘を一層強烈に感じさせる。
「凄いなぁ。こう見ると月って岩石なんだなって思いますよね。こんなにおっきな石ころが空に浮かんでいるなんて、なんて──幻想的な話なのでしょうか!」
月の岩肌をお白いのように隠しているレゴリスとクレーター群は、この衛星の辿った歴史の荒々しさを思わせる。絶えざる岩石の衝突と粉砕に次ぐ動的で熱烈な生まれと成長を繰り返して来たその跡を残しながら、しかし目前に見えるそれは神聖さを感じるほどに静謐で冷たい。そのギャップが私の心を狂わせてやまない。
「けれどこれは表の月です。貴方は裏の月に降り立つことになる。今から心構えをしておきなさい。見たこともないような浄土が広がっていますから」
ドレミーさんの言葉が私の胸をくすぐる。目前に見える月とアポロ経絡を写真に収めて、まだ見ぬ浄土に思いを馳せた。穢れを拒絶する月の浄土は、果たして如何程の美しさなのか。胸の高鳴りを抑えながら、私は食い入るように月を見つめ続けるのだった。