月面に舞い降りた私の目前には、見渡す限りの海原が広がっていた。水平線上には青く輝く地球が浮かんでおり、鏡面のような水面に映り込んでいる。アポロ経絡から目にしていた荒涼とした月面とのあまりの差異に呆気に取られていると、背後から声をかけられる。
「ようこそ月面へ。此処は豊の海です。地上の海はあらゆる穢れが流れ着く吹き溜まりですが、この浄土にはあらゆる命が存在しません。故にこれは穢れなき海なのですよ」
「貴方は?」
「初めまして、雲見明香。私は
ドレミーさんを見やると、彼女は頷いて手を振りながら姿を消してしまった。私はここまで案内してくれた彼女にお辞儀をして綿月さんに向き直る。
「貴方に手を貸して欲しい仕事については都で説明しましょう。さあ、此方へ」
綿月さんの先導で海岸沿いの林を進んだ。林道脇には桃の実っている木々がちらほらと見当たる。手頃なものを何個かもぎ取り鞄に放り込んでから、私は浄土の木々を写真に収めた。綿月さんに怪訝げな視線を向けられたが、咎められはしなかった。
「仕事と言うと確か、玉兎に任せる訳にはいかない仕事ですよね」
「そうよ。玉兎達は怠け癖が酷いし、嫌な仕事からは直ぐ逃げ出そうとするからあまり信用ならないのです。清蘭や鈴瑚も職務を放棄して地上へ逃げ出してしまいましたし、鈴仙も……少し悲しくなって来ましたね」
ありゃ、玉兎の地位向上とか聞いていたけれど話が違ってるなぁ。それに月人は排他的で高慢な人々だと思っていたけれど、話してみると存外普通だ。
「ここまで来て聞くことではないかもしれませんが、私が月面に来て問題なかったのでしょうか。その、穢れとか」
「問題ないとは言いませんが、今回はそうも言っていられない事態ですから特例です」
何やら只事ではない雰囲気を感じる。物見遊山の気分だったけれど雲行きが怪しくなって来た。けれど、目に見える展望は開けて煌びやかな都の景観が現れる。
まるで大陸の古代国家の都であるような其処は、しかし地上の其れとは全く雰囲気を異にしていた。畜生界で遭遇したような人口密集地特有の不衛生さは欠片もなく、人々が暮らしている痕跡が目に写るものの閑静で何処か殺風景だ。
ふと、私は昔を思い出した。妖怪の山の奥深くで生活痕を残しながらも無人のマヨイガをそのまま都にしたような、そんな風情があった。
「地上人よ、月の都へようこそ」
綿月さんの屋敷に招き入れられた私は、応接室らしき部屋で彼女と向き合っていた。私に任される穢れ仕事を始める為には彼女の姉の能力が必要らしく、肝心のその姉は現在別件で暫く手が離せないのだという。
「何かお聞きしたい事があれば気兼ねなくどうぞ」
「私に構っていて綿月さんは大丈夫なのですか?」
「地上人を監視なしで一人にしておくわけにもいきませんので」
綿月さんの口調は丁寧そのものだ。紫さんからは、月人は地上の万物に欠片も憚る事なく、地上の命に対しても灰程の重みも感じぬ者達だと聞かされている。そう伝えると彼女は口に手を当てて逡巡していた。
「あの妖怪の言ですか、忌々しいですが的を得ていますね。私たちにとって地上の命は穢れそのものであり、雑菌やウイルスのような伝染し増殖する汚物そのものですから」
さらっと恐ろしい事を言って退けた綿月さんは、地上の命が全て消え去れば、浄土として月人は地上で暮らせるようになるだろうと凄まじい事を口にした。
「ただそうしないのは、そうする必要がないだけです。私たちは月で穢れなき浄土の都を築きました。全てはこの都だけで満ち足りています。何故更なる穢れに対峙してまで果てしなく低い地上に浄土を築く必要があるでしょうか」
「月面だけで完結したアーコロジー。此処は閉じた楽園と言う訳ですか。排他的ですねぇ」
「自分達よりも程度が低く、穢れた存在と交わる必要などないでしょう」
「私はそうは思いません。貴方だってそうでしょう。でなければ此処で貴方が私と語らう事などあり得なかった」
綿月さんは頷いた。あくまで彼女は月の都が地上に対して取る基本的なスタンスを表明しただけであり、彼女個人の意思が異なる場所にある事を認める。
「地上の者も時には役立ちます。それを否定する気はありません」
私はかつて人と獣の間に境が造られる事を望んだ。互いが望まれぬ邂逅を果たさぬようにと。月の都はある意味ではその望みの極北であった。
地上の全てを穢れとして忌み嫌い、遥か38万km離れた月に結界を貼り引き篭もった。結果として地上と月の両者は断絶し、交わることも邂逅することもなく互いを蔑視しあっている。だがそれでも両者の間に血が流れることはない。ならばそれは一つの平和の形であろう。
「故に私たちは貴方に会う事を望みました。貴方も月の都を訪ねる事を望んだのですから、此処には合意があります。諸々の悪感情は互いに余所にしましょう」
「同感です」
「その上で、語らいましょう。この会談が豊かなものとなる事を願います」
「穢れについて教えて欲しいです。認識合わせの為にも」
綿月さんは了解して教えてくれた。
「私たち月人の言う穢れとは物理的な汚れに留まりません。命を繋ぐ為に必要な凡ゆることだと捉えてもらって構いません」
「つまり、生きる為に獲物を狩って殺したり、お肉を食べたり、歳を取ったり、子供を産んだり……」
「そう、命を繋ぐ為に必要な事全てです。それらは穢れであり瑕疵を産み寿命となって私たちを死へと向かわせます。それらから逃れる為に私たちは月に都を築き寿命を捨てたのです」
私が考えていた穢れの観念と合致する事を再認して問答を続ける。
「月の都では皆さんどのように暮らしているのですか?」
「私は立場上、玉兎達の訓練ですね。後は侵入者の排除などですが、こちらは滅多にありません。月人は皆、与えられた務めを日々果たしています。平穏で豊かですよ。多少退屈ではありますがね」
暮らしぶりを聞く限り、地上の人々と大きな違いはないようだ。けれど、月の都には外の世界を遥かに上回る技術力と永遠がある。そういう意味では月人達にとっては地上人達はある意味で理解不能の存在であるらしい。
「私には穢れと寿命を受け入れている地上人達が不思議でなりません」
「不思議、ですか?」
「そうです。地上の者であっても、その生涯をかけて沢山の知識や技術や経験を得て大成し、素晴らしい存在になる例を私は知っています」
「俗に言う天才という奴ですね」
「しかし、地上人には寿命がある」
綿月さんは、心底理解できないと首を傾げた。
「その能力を美しく花開かせながら、老い衰え醜く散り果てて汚泥に沈むその損失を、何故受け入れられるのですか。もし花開いた美しき者たちが永遠であれば、世界はもっと美しく在れるのに」
「私はそうは思いません。確かに月の都には永遠があります。しかしそれは物質的な永遠です。綿月さんは老いることも死ぬこともないのでしょうが、その心は違うでしょう。人の心は移ろいやすいものです。まるで季節や神々がそうであるように、美しくなったり醜くなったりします」
「何が言いたいのですか」
「私は魂にも寿命があると言いたいのです」
綿月さんは私の言葉を遮って口を開こうとしたものの、押し黙って続きを待った。彼女は話を最後まで聞き入れてから意見することにしたようだ。
「例え身体が不老不死になろうと、何れ魂は死んでしまうと思うのです」
「魂の死とはなんです」
「退屈、倦み、腐敗、それらによって目的やビジョンを失い、為すべき事を見失う事です。無感動に、日々彷徨い歩くだけの影になる事です」
「詩的な言い回しね。けれど言いたい事は分かったわ。月の都は穢れを拒絶し永遠となった。しかし、その永遠は未だ完全ではないと言いたいのね。私たちは不老不死で瑕疵を知らないけれど魂はそうではないと」
頷く私に綿月さんは反駁した。
「それは違います。魂の神秘を明かしていない地上人が良く陥る誤りです。良いですか、魂というものは人間の肉体から発生しているのです。完全で瑕疵無き肉体は、完全で瑕疵無き魂を構築します。故に私たちの魂が腐る事など有り得ません」
「しかし」
「では」
綿月さんは断固として言う。
「例えば貴方の父が死んだとして」
「……」
「貴方の魂は失意の底に沈み耐え難い苦しみで傷付き腐り果てるでしょう。どうすれば救ってやれますか?」
「それは、自分の心と折り合いを付けて少しずつ乗り越えていくしかないのだと思います」
「それは違います」
正確には間違いではないけれど最適手ではないと綿月さんは指摘した。
「苦しむ人の魂を救うのに必要な物は、美味しい食事と暖かな寝床、美酒と素敵な世界だけでよいのです」
美味しいご飯を空腹にならないだけ食べ、暖かくて快適な寝床でゆっくり眠り、時には美酒を嗜み、素敵な世界を目にすることを続ければ、それだけで魂の苦しみから救われる事ができると彼女は言う。
「そしてこれらは全て身体を世話してやる事でしょう。魂を救う為に必要な事は身体を救ってやることだけです」
「しかし、外の世界の人間は物質的な豊かさを享受しながらも精神的な貧困に喘いでいます。私にはあの人々の魂が救われているようには見えません」
「それは外の世界の人間が豊かさを取り違えているからです」
綿月さんは憐れみを込めた瞳で語る。
「彼らは、物質的な豊かさなど得ていません。美味しい食事を得るには睡眠時間を減らさなければならなかったり、素敵な世界を目にする為に美酒を諦めなければならなかったりする。彼らは豊かさを切り売りして取捨選択を繰り返しているだけで、その実、自らに必要な豊かさを揃える事ができていない。そしてそれに気付いてさえいない」
地上の者について語っているからか、やや辛辣で痛烈な口ぶりとなった綿月さんは断じて言い捨てる。
「豊かさとは、一揃いでなければならないのです。何か一つ欠けてしまえば、それはもう悲惨なのですよ。地上の者達は自らの貧しさを取り繕う方法に長けただけです。故に一向に精神的な貧困が解決しないのです」
私は何も言えなかった。彼女の言葉に対する反駁を幾つか考えたが、何れも屁理屈か揚げ足取りにしかならない。私は沈黙の後に頷いた。
「分かりました。しかしそんな豊かさが取り揃う理想郷など──」
「此処にしかありません」
部屋に響く声。いつの間にか綿月さんの隣に腰掛けていたその少女は名乗る。
「依姫、地上人の案内お疲れ様。後は私がお相手するから大丈夫よ」
「しかし」
「玉兎達が訓練をサボっていたわよ」
「……後は任せます」
綿月さん改め紛らわしいので依姫さんは、応接室の窓から飛び出していった。豊姫さんは桃を口にしながら笑みを浮かべている。
「依姫は地上人には当たりが強いからねぇ。何か酷いこと言われたりしなかったかしら?」
「いえ、そんなことは」
「あら、なら良かった。さて、貴方に頼みたい仕事は……貴方が聞かされたような穢れ仕事よりも遥かに大変よ。鈴仙から伝えられたであろう餅米の収穫だとか、そんなレベルの話ではないと認識を改めて頂戴」
うーん、そんな気は薄々していたけれど、嫌な予感が的中してしまったなぁ。
「騙すような真似をした事は悪かったと思う。けれど、嘘はついていないわよ。伝えるべき事実を語らずに真実を誤認させただけ」
「紫さんが良くするやり方ですね」
「……あの妖怪を引き合いに出されると何か釈然としないわね」
ともあれ、調子を取り戻した豊姫さんは私に説明を始めた。
「地上人の技術の進歩には目覚ましいものがある。まずはそれが前提よ。地上の者達の中には世界が確率で出来ていることに気付いた者達もいるし、宇宙開発も進行している。彼らは表の月にまで辿り着いたし、今や地球の軌道上は人工衛星でいっぱいよ」
豊姫さんは深刻な懸念を表明する。
「私たちは危惧している。いつか地上人が私たち程ではないにしろ、それに近しい技術力を手にして月と地上との境が暴かれることを」
月と地上との間にある38万kmも、張り巡らされた結界も、いつか地上人は突破するだろうと彼女は確信していた。
「もちろん、それは今すぐではなくて、数百年、或いは数千年後の話でしょうけど、いつか必ず来たる未来です」
そして、断絶されていた社会が出会う時に起こるのは争いである。まして互いに蔑視している間柄なのだ。深刻な出血は避けられないだろう。
「私たちはその邂逅を望みません。望まれぬ邂逅は双方にとって損失ですから。私たちは注意深く地上を監視しています。その上で発見された懸念事項の一つを貴方に調査して頂きたい」
豊姫さんは卓上に小型端末を置く。板状のそれから空間上に三次元のモデルが投影された。それは、私が外来本で目にした事のある物体であった。
「これは、宇宙ステーションでしょうか?」
「その通りよ。地上人が打ち上げたこの宇宙ステーションは、現時点では月と地球のトロヤ点に位置している」
通常の人工衛星であれば取り立てて問題はない。月と地球のラグランジュ・ポイントに設置されたのも理解できる。しかし最大の問題は──
「月の穢身探知装置が反応したのよ。続く調査でこの宇宙ステーション内部に極めて高濃度の穢れが検知された。更に、看過できない地上人の計画も明らかになったことで我々が介入せざるを得なくなったわ」
「地上人の計画?」
「そう、
ああ、そっか。テラフォーミングは他の天体を地上人が生存できる環境に造り直す技術。それは生と死のない世界を穢れに満ちた世界に造り変える事を意味している。月人達にとっては無視できない計画だろうねぇ。
「その顔は何かしら?」
「いえ、すみません。月人も苦労されてるんだなぁって思うと親近感が湧きまして」
「本当に大変よ。地上人の動向に目を光らせないといけないし、定期的に侵攻してくる純狐に対処しなければならないし、上層部は病んで腐った性根で権力闘争を続けているし、玉兎達は使い物にならないし、八意様は帰って来てくれないし、味方はサグメ様ぐらいね」
湧いて出てくる不満に面食らってしまう。
「依姫さんは完全で瑕疵無き肉体は、完全で瑕疵無き魂を構築すると仰っていましたが」
「あの子は真面目だからねぇ。それは建前よ。不老不死で他と隔絶した力を持つ集団内の権力者がどうなるかなんて火を見るより明らかでしょう」
吐き捨てるように言う豊姫さんは、断言した。
「楽園はね、造るよりも維持する方が大変なのよ」
「心中お察し致します」
また桃を取り出して口にする豊姫さんを見ていると、結構ストレスフルなのではなかろうかと邪推してしまう。
「さて、頼みたい仕事はこの宇宙ステーション内の調査だけれど、問題が一つあるの。私の能力で貴方を宇宙ステーションに機器と共に送り込むけれど、帰りの計画が無いのよ」
「え?」
豊姫さんは、笑顔を見せながら言う。
「心配することはないわ。貴方はドレミー・スイートによって誘われた夢見る少女なのですもの。死は目覚めにしかならないわ。気兼ねなく生きて死になさい」
「成る程、だから生身の月人や玉兎ではなく、夢の通路を介してやってきた私を使うのですね。穢れても構わない地上人の、それも生身ではない夢中の私を使うなんて、無駄がないですね」
「怖いかしら?」
ふと気付くと、指が震えていた。
「怖くないと言えば嘘になります。例え夢でも死にたくはないですよ。寝覚めが悪いですから」
「ごめんなさいね。一夜限りの悪夢だとでも思って頂戴」
豊姫さんは私をお土産屋さんや物品店に案内してくれた。お土産としてはお団子やお餅が玉兎には人気らしいと聞く。私は購入した幾つかの商品を鞄に詰め込んだ。月の都の内観も幾らか写真に収める。
更に、調査のための機器や無人機も鞄に仕舞い込んだ為、かなりの大荷物となった。山童のバックパックのように膨れたそれを背負って、私は遂にその時を迎える。
「では、貴方を宇宙ステーションへ送ります」
豊姫さんは僅かばかりその瞳を曇らせて私を見つめていた。半ば騙して誘い込んだ相手を、自らの都合の為に使い潰すことを良く思えないのだろう。驚くほどに優しい人だなぁ。私たちは互いの目的の為に合意して利用し合っているだけなのだから、憚ることなど無いというのに。
「豊姫さん」
「何でしょうか」
「気にしないで。私も気にしないよ」
「……礼を言います」
周囲の空間が置換されてゆく。景色は目まぐるしく移り変わり、そして目的地へと辿り着いたようだった。私はその光景を目にして納得する。
「高濃度の穢れかぁ。そっかぁ……」
目に入ったのは──