宇宙ステーション内部には、無秩序な緑の森が広がっていた。縦横無尽に張り巡らされた木々の根によって地面は覆い隠されてしまっており、絶えず水の流れる音がするものの川は見当たらない。
「蒸し暑いなぁ」
熱気は強く、カメラのレンズが蒸気で曇ってしまう程に多湿だ。最も驚くべき点は、地球よりも微弱とは言え重力が存在する事だろう。私は鞄から取り出したうさみみとバイザーを装着して指示を待つ。
「人工重力ね。地上より低重力よ、バランスを崩さないように気を付けなさい」
うさみみが豊姫さんからの通信をキャッチした。玉兎間の遠隔通信を利用したコミュニケーションシステムは月─地球間でも機能する。今回の宇宙ステーション調査においても、その通信機能は遺憾無く発揮されていた。宴会道具のような見た目からは想像できないハイテクだ。
「一先ず無人機の展開と機器の設置をお願い」
鞄から取り出したあれやこれやを指示通り操作する。全ての機器の展開を終えた時点で、カメラを首から下げて探索を開始した。視界を覆うバイザーは、映像をリアルタイムで月に届ける優れものだ。豊姫さんはこれで私と視界を共有していた。
「そこに文字があるわ、見て頂戴」
壁面の苔を取り払い、記された文字の全容を目に写す。
「衛星トリフネ。成程、この人工衛星の名称ね。地上人の計画にも同様の記述があったわ。閉鎖空間で完結可能な、最適化された生態系を搭載した実験船。地球そのものを対象としたテラフォーミングの実現を目標としていた」
「管理された世界にはちょっと見えないですよ」
豊姫さんの言に反して、ステーション内部の自然は明らかに無秩序であり、異常に繁栄していた。樹齢も分からぬ異様な形状の巨木が立ち並び、見たこともないような異色の昆虫が飛び回っている。
「今確認できている動植物はほぼ全て亜種よ。生物学データベースと照合中だけれど、地上の生物とは異なる進化の道筋を辿り始めているようね」
「ちょっとピンと来ないのですけど、それって凄いことですよね」
「とんでもないことよ」
豊姫さん曰く、トリフネ内の動植物は地上とは異なる低重力環境に急速に適応している最中だと考えられるらしい。
「なんて強力な
「それで良いんだよ豊姫さん。だって地球のテラフォーミングがこの計画の骨子なんでしょ? 既存の生態系を塗り潰してでも繁栄するぐらい強力なら、きっと死の大地も緑で覆える」
トリフネ内部に積み込まれた動植物は、元より生命力の強い種ばかりが選りすぐられていた。更にそれが閉じた閉鎖環境で混じり合い、混沌とした生存競争に晒されながら、限られた
「弱肉強食、適者生存の極みね。穢身探知装置が検知した値は間違いではなかった。地上人を侮っていたわ。認めましょう。この計画は素晴らしい」
地球のテラフォーミングの為に生命力の強い種を産むことが目的であるならば、これ以上ない成果となるだろうと豊姫さんは断言した。
「やはり玉兎ではなく夢の貴方を送って良かった。種子一つ昆虫一匹でも外部に漏らす訳にはいかない」
宇宙に浮かぶ緑の楽園は、驚くべき進化を続けている。行き着く先は想像もつかない。しかし一つ言えることは、彼らと地上の間にもまた境が必要だという事だ。けれど、果たしてそれは正しいのだろうか。月も地上もトリフネも幻想郷も、みんな引き篭もって互いに知らん振りだ。世界は分断され続けていく。
これもまた、ヤマアラシのジレンマの一種なのだろう。ただ、私たちの棘は鋭くなり過ぎた。互いに触れ合えば血が流れる。どれだけ冷たさや寂しさに襲われようとも、独りきりで居る事しかできないのだ。
「少し木登りしてくれないかしら。低重力だから楽でしょう?」
私は手近な木の枝に足を掛けて木登りを始める。地上よりも遥かに身軽で、簡単に木の天辺まで辿り着いた。開けた視界から周囲を見回すと一面緑だ。葉が緑色に見えるのは、光合成で用いる光の波長の内、緑色の波長の吸収効率が悪いからであると聞く。
「あれ、黒いわね……」
豊姫さんが指摘したのは、森林の中にひっそりと混じっていた一際痩せた木だ。その葉はあらゆる光を貪欲に喰らい尽くすように真っ黒だった。
「そのうち枯れてしまうでしょうから、後で無人機にサンプルを採取させましょう」
「枯れるのですか?」
「あれだけ光の吸収効率が良くなると、葉の表面でしか光合成を行えなくなる。けれど、緑色光を吸収しにくい色素なら、葉の表面だけでなく裏側や内部でも光合成が行えてかえって効率が良くなるのよ」
「つまりあの黒い葉の木は」
「きっと遺伝子異常の産物ね。アルビノのようなものよ。あれでは葉の表面で光合成が光飽和に陥って、沢山の光量を得てもその殆どが熱エネルギーとして散逸してしまうわ。勿体無いわね」
閉鎖環境で有害な太陽風や太陽光に囲まれているからか、ステーション内の動植物の遺伝子には瑕疵が多い事が確認できていた。結果として多様な遺伝形質が発現し、環境に合致したものが繁栄しその複製を拡大させている。
「あとどれくらいの時間でそうなるかは分からないけれど、異星の密林みたいに、きっと地上とは異色の世界になる。それに、細菌やウイルスも独創的な進化を経た動植物に適応するように進化しているわ」
進化に目的はない。ただ偶然、環境に合致し生存に有利な形質を得た生物が繁栄する事で、繁栄を目的として進化しているように見えるだけなのだと。豊姫さんはそう前置きながら言う。
「生身じゃなくて本当に良かったわね。未知の細菌、謎のウイルスの嵐よ」
免疫を持たない細菌やウイルスと出会った時どうなるかは、大航海時代の開拓者たちが先住民に対して示していた。人口密集地でより感染しやすく、対人間に適応する形質を獲得していたそれらにとって、未開の地の住人はさぞかし新天地であったことだろう。目に見えるものも、目に見えぬものも、触れ合った途端に争いばかりだ。
「夢の体なら防疫も不要ですか。凄く便利ですね」
「代わりに精神が蝕まれやすいのよ。気を付けなさい」
私は見晴らしのいい木の天辺から写真を何枚か撮り、飛び降りた。低重力ならば霊夢さんの真似っこが出来そうな気がしたが、やはり空を飛ぶことは出来なくてがっかりだ。
「地上人にそんな信仰心が残っていたとは」
「人事を尽くして天命を待ったんでしょ」
「神には見放されたようね」
トリフネ内部の探索を続けていた私たちが見つけたのは鳥居だった。密林の中に建造されていた神社を確認した豊姫さんは、それが天鳥船神社であることを教えてくれた。その社は繁茂する木々に呑まれかけているものの、未だ神聖さを感じさせるだけの神威を保っている。
「地上人達は皮肉にも、自らが成し得た偉業に気付かないでいる。出来ればそのままずっと気付かずにいて欲しいわ」
原因不明の機械トラブルにより、衛星トリフネの制御は既に失われていた。私たちが探査で見つけたコンピュータは軒並み狂っており、正常な応答を返さなかったのだ。地上とのあらゆる通信は断絶しており、トリフネはまるで絶海の孤島だった。
「多分、神様は見放さなかったんだよ。衛星トリフネがずっと空に浮かんで居られるように、そうしたんじゃないかな」
「ロマンチックな考え方ね」
「私から言わせれば月人も存在そのものがロマンチックだよ」
黙り込んでしまった豊姫さんをそのままにして、私は神社の賽銭箱に硬貨を投げ入れてお祈りをした。このまま素敵な楽園がずっと空に浮かんでいられますようにと。
「雲見明香、貴方には感謝しています」
畏まった声がする。
「これで内部調査は十分です。八意様によろしくお伝えください。綿月は今も待っておりますと」
それきり通信は途絶えた。私はバイザーとうさみみを外して神社の縁側で寛ぐ。
「急用がある訳でもないし、もうちょっとゆっくりしても良いよね?」
独り言を漏らして、神社の縁側からトリフネ内の景観を眺めた。するうち、鳥居の向こう側から低いうなり声がする。私は怖いもの見たさと好奇心から、そのうなり声の元へと向かった。鳥居の下から周囲を見回すと、茂みの中で何かが動いている。
「凄い……」
私は呆気に取られて放心した。茂みの中から姿を表したそれは、ライオンの頭とたてがみをしていて、山羊のように毛むくじゃらの胴体から蛇の鱗に覆われた尾を伸ばしている異形の怪物だった。その背には明らかに役目を果たさないであろう矮小な翼が生えており、その鬼形を際立たせている。
「キマイラ? いや、持ち込まれた動物の成れの果てかな」
その怪物は私を目にしたものの、何をするでもなく目前でドローンを吐き捨てて去っていった。それは私が展開した調査機器の一つだったが、噛み砕かれてしまっていて見る影もない。
「ありゃ、壊れちゃってる。餌だとでも思ったのかなぁ」
私が設置した機器も、何れは木々に呑まれるか動物に壊されるかのどちらかだろう。トリフネ内の熾烈な生存競争は、混入した異物を無情に排除していく。そして、人間の管理と制御から自律した無人のユートピアにおいて、最大の異物は他ならぬ
「お邪魔しました」
私はお辞儀をして神社を去る。勿論、参道の真ん中は通らないようにしながらね。
壁面に伝う蔓や苔を取り払うと、船内に取り付けられていた丸窓が次第に露わになった。無人である事を想定している宇宙ステーションには本来不要なものだ。まぁ、それを言うと神社もそうだけど。
「嫌いじゃないなぁ。設計者とは馬が合いそうだよ」
自立型の環境制御・生命維持システムに支えられたトリフネは、一切の外部を必要としない。空気も水も食糧も全てがこの船内で賄われており、生態系それ自体も環境を構築するモジュールの一つだ。
正に宇宙にミニチュアの地球環境を創り出したに等しい成果であり、月人の豊姫さんをして偉業と言わしめたそれは神業である。けれどそこにあったのは、無駄を削ぎ落とした機能美と併存するお茶目な遊び心であった。
「外の世界の人間は無駄を楽しむ心を忘れていないのだね。常に無駄なく合理を突き詰め最適な選択を繰り返すことは簡単だ。人間は長く経験を積めば皆そうなる。だから忘れてしまうのだよ」
泥に塗れ、遠回りをし、無駄に足を取られて苦悩していた若き時の心を。頑張る事も、努力する事も、苦労する事も、全て無駄になる。何故ならば、結果を得る為にそんなものを必要としなくなるだけの経験を積んでしまうからだ。
「不老でいるなんて簡単だ。遊び心を忘れなければいいだけ」
このトリフネの粋な造形に敬意を表して、一つだけ無駄な事をしてやろうと私は決意した。背負い鞄から取り出したそれは、博麗神社で霊夢さんが作り溜めしていた梅酒である。
酒を呑む事も酔う事も、ヒトとして生存する上では不要な無駄である。けれどだからこそ意味がある。私は、人間という生き物は無駄で出来ていると思わずにはいられないのだ。
「さあ、乾杯をしましょう。この無人のユートピアにおける
ぐぃと飲み干す。濃厚な梅の味が、気付け薬かのように身に染みた。
気が付くと私は竹林の中で倒れていた。二日酔いのように身体中が怠い。トリフネで酒を口にしてからの記憶がなくなっていて、その手にはツノゼミの一種であろう謎の昆虫が掴まれていた。
「酔ってる間に捕まえちゃったのかな」
手から離してやると、昆虫は青空に飛び立っていく。まぁ、幻想郷は全てを受け入れるのだから一匹ぐらいは構わないだろう。
「青い空かぁ。身近過ぎて気付かなかったけれど、こんなにも美しいものだったなんて」
吸い込まれてしまいそうな程に青く澄み渡る空が広がっていた。その広大無辺な領域が、今はただただ愛おしい。
西洋タンポポ