「白いなぁ」
冬が深まり、人間の里では雪が降り積もっていた。道行く人々は厚着をして白い息を吐いている。私は澄んだ空気の中、運河沿いの道を散歩していた。道を覆う雪が踏み締めるたびに心地良い音を立てていて、爽やかな気分になれる朝である。
「冬だねぇ」
柳の運河は里の各所に通じるように引かれた都市運河網であり、交通の要である。降雪も意に介さず多数の船が行き来しており、道ゆく人々も数多い。けれど、その絶えない往来の最中に在りながら、誰からも無視されている少女が居た。その少女は、河辺の柳の木の下で寒さに震えながら縮こまっている。
ただ独りである事の孤独は、独り旅の中で身に染みていた。それは寂しい孤独だが、代わりに清々しく開放感のあるものだ。けれど、人々の中にある孤独は気持ちが悪い。何故ならそこには、自ら目を閉ざそうとする人の意思が必ず存在するからだ。
「貴方、大丈夫──ではなさそうだね」
その少女は、冬だと言うのに質素な服を着ているのみで靴すら履いていなかった。私の視線に気付いた少女は、警戒の眼差しを向けながら声を上げる。
「じろじろ見ないでよ、あんた誰?」
「雲見明香と申します。ただの通りすがりだよ」
「ふ〜ん……あっ、待って!」
少女は慌てた様子で、雪の中から欠けたお椀を掘り出した。霜焼けで真っ赤な手で握りしめたお椀を突き出して、彼女は必死に言う。
「恵んでよー。お腹が空いてたまらないの」
物乞いをする少女は、もうずっとマトモな食事が出来ていないのだと訴えた。彼女曰く、今日は雪が食べられるから良い日らしい。
「助けてくれる身寄りはいないの?」
「妹がいるよ。ここで待ち合わせしてるの。私の妹はすっごいお金持ちでね、なんだって食べさせてくれるんだよ! きっと直ぐに来てくれるから……だから待ってるの」
「……」
流石に信じられないなぁ。こういう時は、阿求さんに相談するべきだね。彼女は里で最も頼りにできる人の一人だ。きっと少女の助けになってくれる。
「私の家に来て。こんな所に居たら死んじゃうよ」
「でも、ここで待ち合わせなんだよ」
「その妹さんはいつ来てくれるの?」
「今日だよ! 美味しいもの食べさせてくれるって約束の日なの」
「そんなにお金持ちなら、どうして貴方を一人きりにしてるの?」
「それは……その、私がダメな子だから」
「そんな訳ないわ。さぁ、行きましょう」
私は少女を説き伏せて、彼女の手を引き運河を離れた。彼女の言葉を信じて置き去りにすれば、嫌な事になる予感しかしなかったから。
「良い湯だったわ。お風呂なんて久しぶりー」
「紫苑さんの服は私が洗っておいたから、乾くまではその服で我慢してね」
「うん、分かった」
紫苑さんの服は火鉢の近くに干している。外は雪が降ったり止んだりする事を繰り返しているので、室内にしか干せなかったのだ。
「これ、凄く綺麗な服ねー。私なんかが着てて良いの?」
「私のお古ですから、何なら貰ってくれても構いませんよ」
「い、良いの!?」
紫苑さんの問いに頷いて見せると、手を握られて感謝されてしまった。彼女の純粋で真っ直ぐな視線から照れ臭くて目を背けていると、お腹が鳴る音が聞こえてくる。バツが悪そうに彼女は頭を掻いていた。雪で飢えを凌ぐ生活を続けていたのだから当然だね。
「食べ物があった筈だから、ちょっと待っててね」
台所へ向かい、作り置きされていたお結びを持って来る。お盆に載せたそれを紫苑さんの前に置くと、彼女は一も二もなく完食した。しかし彼女は、操り糸が切れたように畳の上に倒れる。私は慌てたけれど、彼女はか細い声で心配要らないと告げた。
「ごめん……少し……眠たくて」
火鉢の側で丸くなり、黒猫の縫いぐるみを抱いて紫苑さんは眠りに落ちた。とても幼気な少女の寝顔は、しかし痩せ細っていて頬がこけている。
私は手を伸ばして紫苑さんの腕に触れてみる。それはまるで枯れ枝のように細かった。彼女は安らかに眠っているが、今にも消えてしまいそうな儚さを感じる。一体どれだけの不幸がこの少女を苦しめたのだろうか。
「おやすみなさい」
私は胸が痛むのを感じた。この子にだって、人並みの幸せがあって然るべきだろうに。こんな幼い子供が、こんなになるまで苦しまないといけない道理なんて、この世の何処にも在りはしないのだ。
「久しぶりね。息災なようで何よりだわ」
「はい。稗田様もお変わりないようで何よりです」
紫苑さんの件について助けを乞うために、私は阿求さんを訪ねていた。急な訪問だったけれど、彼女は書斎まで私を通して時間を取ってくれた。
「そう畏まらないで。私と貴女の仲でしょ。他人の目も無いし、もっと砕けた調子で構わないわよ」
私がこれまで目に写してきた幻想郷を、阿求さんが幻想郷縁起に写し取る。そうした編纂作業を何度か共にした事があり、私たちは顔馴染みになっていた。
「しかし、あまり馴れ馴れしいのもダメかなぁと」
「お堅いこと。そう言うところが小鈴と貴女の違いね。それなら、いと貴き現人神様が相手なんだから私の方が畏まるべきかしら?」
「分かってて言ってますよね?」
私に関する誤解は、結局のところ噂話らしく曖昧なまま展開していった。即ち、私と言う現人神は零落して消えてしまった神であり、今在る私はその残骸なのだと。
「
「勘弁して下さい……」
頭を抱えるが、阿求さんは朗らかに笑うのみだ。
「冗談よ。貴女が人間であることは昔から承知していますから」
書斎の本棚から幻想郷縁起を取り出した阿求さんは、その表紙に手を添えた。
「私たちは人の
私は阿求さんの言葉に頷いた。人間の人生は短く、幻想郷には見るべきものが山ほどある。寝食や仕事などの日々の慣習で更に限られた時間の中で、果たしてどれだけのものを目にできるだろうか。
でも、だからこそ私たちはそうした限られた時間を愛おしく思うのだろう。人は自らに無いものを求める生き物だ。何を求めているかを見れば、その者に何が欠けているかが分かる。
「稗田様も、長生きしたいのですね」
阿求さんは苦笑し、話題を変えて本題に入った。
「身寄りのない少女を助けたいらしいわね」
「はい」
「難しくはありません。外来人が里に居着いて暮らし始めることも稀にありますし、そのように少女一人を里に迎え入れる事は可能です」
阿求さんは文を取り出す。
「紹介状、と言うよりは口利きでしょうか。里の空き家の一軒に住まえるように手配できます。それから、団子屋が人手を探しているらしいです。お手伝いさんとして雇ってもらえるように書いておきましょう」
年端も行かない少女が寺子屋にも通えずに、生きる為に働かなければならない。それでも、食うにも困るこれまでの生活からは救ってあげられる。多分、良い事なのだとは思う。
「子供らしく生きる事は叶わないかもしれませんが、人並みには生かしてあげられるでしょう」
「急で無茶な頼みにも関わらずご厚意を賜り、心から感謝致します」
私は床に両手を付けて深く頭を下げた。頭が上がらないとは正にこういう事を言うのだろう。
「その感謝は素直に受け取りましょう。しかし、私は一筆認めただけです。もし恩だと感じて下さるなら、これからもその目を通して幻想郷を垣間見せてくれれば良いのです」
阿求さんは全く気にした風もなく私に接してくれる。
「稗田家当主、そして御阿礼の子。そうした名前を使って困っている人を助けられるなら嬉しい限りです。けれど、貴女は何故そこまでしてその子を助けたいのですか?」
「面倒見た相手には、いつまでも責任があるのです。例え気まぐれや偶然からであれ手を出したのなら、最後までキッチリ見てあげないとダメですから」
私の言葉を聞いた阿求さんは、目を丸くして言葉を詰まらせた。彼女は暫く額に手を当てて黙り込み、そしてただ一言だけ呟く。
「バラの花との約束を、貴女は守りたいのですね」
阿求さんの言葉の真意が分からずに首を傾げる。すると、彼女は得心がいったように頷いた。
「明香さんがその言い回しを何処でお聞きになったかは知らないけれど、それはとある狐が貴公子に向けた言葉です。きっと貴女なら共感できる筈ですよ。肝心な事は、目に見えないのです」
文と共に一冊の本を手渡された。素朴で童話的な挿絵のついた、外来の小説だった。私は阿求さんに礼をし、それらを受け取って稗田家の屋敷を後にしたのだった。
「あれ? 紫苑さん?」
私が自宅に帰り着くと、紫苑さんは見知らぬ少女と庭先で話し合っていた。その少女は富豪のような立派な身なりをしていて、力強く紫苑さんを抱きしめている。
「このダメダメ姉さん! 本当に心配したんだからね! 柳の運河で待ち合わせだって言ったでしょ!」
「で、でも、親切な人が助けてくれて……」
「このバカ! そんな上手い話ある訳無いでしょうが! 何も変なことされてないわよね!?」
「う、うん……」
私は恐る恐る二人に声をかける。紫苑さんを背に隠した少女は、威嚇するように私を睨みつけた。
「あんたが姉さんの言ってた明香って奴ね」
「はい。えぇと、貴方は紫苑さんの妹さんですか?」
「そうよ。私は
「違うよ女苑。明香は私を助けてくれたの。ご飯だって食べさせてくれたんだよ。ほら、これも貰った服だよー」
「嘘言わないで……」
女苑さんは、あり得ないものを見る目をする。
「あの姉さんが物乞いに成功するなんて信じられない」
「えへへ、でも女苑も私の事を心配してくれてたんだー。姉さん嬉しいなぁー」
「仕方がないじゃない。姉さんは私がいなきゃ何も出来ないんだから」
嬉しそうに笑顔を見せる紫苑さんを見て、私は悟った。彼女の幸せには、きっと女苑さんが必要なのだ。だけれども、こんなになるまで大事な姉妹を放っておくのはいただけない。
「ねえ、女苑さん。貴方の姉さんは本当にお腹を空かせてて、服もボロボロだったよ。大事な家族なら、ちゃんと気にかけてあげて」
「分かってるわ。でも、姉さんと一緒にいると何もかも上手くいかないから、生活していく為には離れ離れになってからお金を稼がないといけないのよ」
女苑さんはよく分からない理由を語ったけれど、その目は真剣そのものだ。自分の家族を見捨てるような人ではないのだろう。
「さあ、姉さん。一緒に飯でも食いにいくわよ」
「わーい!」
「それと、明香って言ったわね。私が居ない間に姉さんの世話を見てくれたのには感謝するわ。だからこそ、私たちはもう行く」
足早に去っていく二人を呼び止めて、私は手持ちの財布を投げ渡した。目を丸くする紫苑さんに、ちゃんと別れの言葉を伝えておく。
「もし、またお腹が空いて女苑さんにも頼れない時があったら、いつでも私を頼ってきて」
「姉さんなんかの為にどうしてそこまでするの?」
「一度助けちゃったからね」
「あんた馬鹿よ。しかも救いようの無いお人好しだわ」
「こら、女苑! 悪口言ったら嫌われて食べ物が貰えなくなっちゃう!」
「この、馬鹿共が……はぁ……ありがとう」
げんなりした女苑さんは溜息を吐いて肩を落とし、紫苑さんを引っ張って出ていった。その後ろ姿は苦労人の悲哀を感じさせる。けれど何処か、その背は幸せそうにも見えた。
「ごめんね阿求さん。必要無くなっちゃったよ」
私は縁側で独りごちながら、阿求さんに認めて貰った文を眺める。この文の言葉には力がある。だから、使い道がなくなったならしっかりと処分しないといけないのだ。
「それに格好を付け過ぎたかな」
幾らなんでも財布を丸ごとあげるなんて大胆すぎたね。頭を掻きながら文を火鉢に焚べる。パチパチと音を立てて、ゆっくりと紙が灰になっていった。
今日のご飯だったお結びも、お気に入りだった服も、阿求さんに取り付けた口利きも、これで何もかも無くなった。けれど悪い気はしない。必要な物が、必要な時に、必要な者の手に渡れたのだ。私の元には何も残らなかったけど、清々しくて良い気分だ。
「……でも気分じゃ、お腹は膨れないなぁ」
外は日が暮れて暗く、空は濃い紺色だ。風に乗って香ってくる人々の夕食の匂いが私の鼻をくすぐる。しかし、冬の夜風はあまりに冷たい。私は襖を軽く閉めて火鉢に当たる。
「あぁ、寒い」
火箸を手にしてぐるぐると灰を掻いた。同じくグルグルとお腹が鳴き、空腹感で頭が冴える。眠れそうにないので、阿求さんから貰った小説を読みながらこれまでの旅路について物思いに耽った。
私はずっと当て所なき彷徨を続けてきた。幻想郷で見るべきものを見尽くしたという自負もあった。だけれども、まだ世界には未知に満ちた魅知の旅路が残されている。
「そうだなぁ、紫さんか霊夢さんに聞いてみようかな」
この幻想郷の、外の世界について。
To Be Continued