すべては変わっていく。
「豊聡耳様。貴方にお願いがあります」
「それはまた、一体どんなお願いかな?」
私も変わらずにはいられない。
私は、豊聡耳様が創造した神霊廟を訪ねていた。仙人が形造る穏やかな仙界には、凍えるような冬も茹だるような夏もない。長閑な春の如き時候が永遠に続く快適な世界だ。空模様は常に晴れやかで、まるでスカイドームのようだ。
「明香女史、貴方の願いは分かった。しかし、賛同しかねる。貴方の案はあまりに性急だ。人を集めて一気に目を覗くとはいうが、そんな事をして貴方は大丈夫なのかい? 私だって能力を使う相手は同時に十人くらいが限度だぞ?」
外では、豊聡耳様に弟子入りした門弟達が修行をしていた。神霊廟の中まで気合いの入った稽古の掛け声が届いている。
「里の住人達の目を覗き見たいなら、一人ずつ訪ねれば良いだろう」
「それでは間に合いません。私の友人が幻想郷を再訪するまでに、無数無名の市井の人々が見た幻想郷を知りたいのです」
じっと押し黙り、豊聡耳様はイヤーマフを外して耳を澄ました。
「人集めは、かつて為政者であった豊聡耳様の得意とする所ではないでしょうか。叶うならば、手を貸して頂きたく」
「なるほど……」
私の欲を聞き届けたであろう豊聡耳様は、頷いて目を閉じている。
「明香女史の中にあった人間への嫌悪が聞こえない。代わりに尽きせぬ興味が聞こえる。人間の心とは移ろうものだねぇ。これまで目を背けていた人間が、貴方の最後の興味の対象になった訳だ」
全てを理解した豊聡耳様は、悩ましげに唸ってから口を開いた。
「他人の目で見た幻想郷を知りたいのだね。それは貴方を傷付ける針の筵かもしれないと承知の上かな? 美しい風景ばかりでなく、残酷で暗澹としたこの世の汚泥を目にする事にもなる」
私は目にするものを選んできた。しかし、他人は違うと豊聡耳様は言う。
「この世には、知るべき事があり、知るべきでない事がある。しかし、大衆とは困ったものでね」
吐き捨てるように言う豊聡耳様の態度から、きっと体験談なのだろうなぁと思った。刺々しい口調からは僅かに怨嗟の思いすら滲んでいるように感じる。
「知るべきでない事を知りたがり、知るべき事を無視するような者どもだよ。そんな者達が目に写してきた肥溜めのような風景など、貴方が目にするに値するものだとは思えない」
「ふむ、そこまで酷く言う事もありますまい。野には遺賢有るものですぞ太子様」
「布都、私は期待する相手は選ぶ方だよ。それに、想定は常に最悪に合わせる方がやり易い」
「盗み聞きは感心しないな」
「いえいえ、茶を運んでおる時に聞こえてきた断片的な会話から推測しただけですぞ。太子様の会話を盗み聞きなど、そのような事はとてもとても……」
笑顔を見せた物部さんは、私と豊聡耳様の間に座り込んでお茶を啜った。
「同席しても構いませんかな?」
「構わない。そう言えば青娥は何処かな?」
「此処ですわ」
ぬるりと、そんな擬音が聞こえてきそうな仕草で空いた穴から青娥が這い出てきた。
「ほら、太子様。こういうのが盗み聞きでは?」
「興味がある話に聞き耳を立てていただけですわ。師が愛弟子達の会話に耳を惹かれてはいけないのかしら?」
「参ったな。壁に耳あり障子に目ありとは言うが、まさかここまでとは」
随分と騒がしくなった部屋で、皆が湯呑みで茶を啜り一呼吸を置いた。仙人が三人も集まって姦しくなった空間で会話は尚も続いていく。
「私は構わないと思いますぞ。人として生まれたからには、知識欲に突き動かされるのもまた道理。ましてそれを叶えられる能力があるのならば、大いに覗き見てやれば良いではないですか」
「確かに欲は生きる為の原動力だが、力は制御されてこそ意味ある働きを成せるものだよ」
「あらあら、神子様ったら明香の前だからって聖徳王モードなのね。随分とお堅いわ。妹弟子に良い所を見せたいのかしら?」
私をそっちのけにして、私の提案について御三方は談笑を続けていた。けれど、青娥は私を見て表情を翳らせる。
「本当に、仙人になる修行はやめてしまったのね。慚愧にたえないわ。もし私の教えをこなせば、今頃貴女は不老不死の仙人だったのに。才あるものが潰えていくのを見るのは胸が痛むわ」
「青娥、それが明香の意志であり選択だ。外野がとやかく言う事ではないよ」
「外野ではなく、一応師匠ですわ」
「それはさぞや胸が痛むであろうな」
しんと、布都さんの冷たい声で場が凍る。
「青娥殿は、面白可笑しく見ていられる滑稽で傑作な玩具を無くされて沈痛の模様だ」
「あらあら、布都様ったら酷いわ。こんなにも私が苦悩しておりますのに虐めるなんて」
「明香殿、死後の葬送は火葬をお勧めしますぞ」
「……」
「ほらほら、二人ともそう喧嘩しない。和を以て貴しと為すだよ」
き、気まずい……。例えるならば、友人の家に遊びに行った時に両親の喧嘩の声が聞こえてくるような気まずさだ。豊聡耳様は二人の間を取りなしていたが、険悪な雰囲気が漂う。
「なんだ、荒れてんなぁ? 喧嘩か?」
「そうなのよ屠自古。青娥と布都が喧嘩しちゃって……」
普段の毅然とした態度が崩れて、一少女のように困りきった様子の豊聡耳様を見て、やってきた少女は雷を纏って叫んだ。
「おい、お前ら喧嘩すんなら表でやりな! 今は客人の前だろうが!」
「あわわ、屠自古よ、少し待て。我の話も聞いてから」
「屠自古様、私は喧嘩だなんて」
「じゃあかしい! 外でやれ、話は後で聞く!」
文字通り雷が落ちて、猫のように首根っこを掴まれた二人は部屋の外に追い出されてしまった。
「お見苦しい所をお見せしました。私は
「はい。ご丁寧にどうもありがとうございます」
「太子からは、手の掛からない妹のようだと聞いております。そして、我らとは真逆の道を行く者でもあると」
鋭い眼光を見せる瞳が、見定めるように私を見つめる。
「青娥のように太子に変な事を吹き込まない限りは、歓迎します」
「こら、屠自古。青娥は私の願いを叶える献策をしてくれるだけよ」
「それに、布都のように太子に迷惑をかけない限りは、歓待します」
「布都は私の我儘の後始末をしてくれているのよ。迷惑なんてないわ」
屠自古さんは、口では刺々しい言葉を吐いている。けれど、それは互いを深く理解している証なのだと思う。それに、身内が集まる神霊廟だから、豊聡耳様も素が出ているのだろうか。天資英邁の仙人然とした超然さはすっかり霧散していた。
「はぁ、格好が付かないね」
「何と言うか、意外な一面を見た感じです」
「太子はこういうのが素ですよ。里の人間や外様に向けた体裁もありますが、本質は優しい方です」
「優しい……か」
豊聡耳様は、何処か遠い目をしてポツリと呟いた。
「優しさは、他人の機嫌をとる以外で役に立つ事はない。甘やかされて大成した者が居ないように、人は常に苦難を乗り越える事で成長する」
何か言いたげな屠自古さんは、しかし口を閉ざして豊聡耳様の言葉の続きを待っていた。
「それでも、大切な人にはふと優しくあろうとしてしまう。機嫌を取りたいからかな。相手の為を思うよりも、相手に好かれたいと思ってしまうからなのかな、屠自古?」
「それは、私に聞かれましても……。そういう人間の心の機微には太子の方がお詳しいでしょう。ただ、一つ言える事はあります」
屠自古さんは儚い瞳をして、応接室から見える外観を見据える。
「太子が優しくしようとしなかろうと、常に世界は厳しいものです。態々心を鬼にしてまで大切な相手に厳しく接しなくても、誰にも優しくない世界が勝手に鍛えてくれますよ。それとも、自分で鍛えないと不安ですか?」
「勿論、不安さ。世界の厳しさは加減を知らないからね。私なら加減して厳しくしてあげられるよ?」
「まるで夫婦の子育て相談みたいですね」
「ふ、夫婦!?」
「……ぷふっ。屠自古ったら、顔が赤いよ」
二人して笑った。揶揄われていると思われたのか、屠自古さんが顔を赤くして雷をゴロゴロさせ始めたものだからさぁ大変。二人して彼女を宥めつつ話を変えたのだった。
「お邪魔しました」
「いや、此方こそ手を貸せなくて済まないね」
神霊廟で稽古をしていた門弟達も既に姿なく、日は黄昏ている。私は仙界から去るゲートを前にして豊聡耳様に見送られていた。
「お詫びと言ってはなんだが、私の目を貸そう」
「え?」
豊聡耳様が私を引き寄せて顔を近づける。彼女の澄んだ琥珀色の瞳が私の目を捉えて離さない。
「明香に見せられるものはそう多くない。何せ、千四百年も眠りこけていたからね。ただ、貴方に覚えていて欲しいんだ。私がかつて生きていた世界を目に出来るのはもう貴方だけだからね」
黄昏の斜陽に照らされて、輝くように美しい豊聡耳様の尊顔に見惚れてしまう。仙界らしく穏やかなそよ風が吹いていて、彼女の髪がふわふわと戦いでいる。だが、琥珀と見紛う目は揺らぐことさえなく、それが含有する過去を夢幻の泡影かのように垣間見せる。
「どうかな、何か見えたかい?」
「はい。しっかりと見えました」
遥かな飛鳥の時代、豊聡耳様が人の身で目にした世界が目に写る。布都さんや屠自古さんとの日々や、彼女が見て回った当時の民草達の生きる都市や、或いは絢爛豪華な朝廷の内実や争いも。
「きっと、美しいものばかりではなかったろう?」
「はい……」
当時の血生臭い戦乱や権力争い、そうした人間の欲望が結実した因果の果実は、美しさと醜さを併せ持つ。しかし、それら全てを見届けて飲み込み、我が物として見せた英傑が目前にいた。私も、負けてはいられないと思う。
「以前、人の争いは終わらないと私は言いました。雨が降り、風が吹き、人が争い、血が流れる。全ては自然の成り行きで、永遠に繰り返す終わりなき季節なのだと。だからこそ──私は見届けます。何故なら、風が岩を削るように、川が谷を作るように、人間もずっと自然の一部で、この世界に自らの歴史を刻み続けているのですから」
私の言葉に、琥珀色の瞳が揺らぐ。
「私は決して目を背けたりはしません。それが私なりの、この世界に対する愛の形であり、眼差しです」
「ふむ、ならば……」
豊聡耳様は私に手紙を手渡した。
「それは命蓮寺の白蓮への手紙だ。実は、彼女に縁日の手伝いを頼まれたりもしていてね。普段は適当に門弟達を労働力として送り込んでいたのだが、今回は明香にも行ってもらう」
「私が縁日のお手伝いさんに、ですか?」
「そうだ。彼処は里から最も近い寺院で、縁日には里の人間も多く足を運ぶ。人の目を集めるにはもってこいだろう。つまりだな、明香女史に見世物になってもらおうという訳さ」
いまいち話が飲み込めずに首を傾げていると、豊聡耳様は笑い出してしまった。
「ふふふ、灯台下暗しという奴かな。明香の能力はそれなり以上に物珍しいぞ? 幻想郷中の秘境を目にしてきたのだから、それをダシにして人を集めてしまえばいいとは思わなかったのかい?」
私は暫く呆然としてから我に返った。つまり、紫さんがバー・オールドアダムで私にさせたやり方をもっと派手にした形である。
「白蓮も縁日に人を集められるし、私は彼女に恩を売れるし、明香は人の目を集められる。皆にとって利があるわけだ。まぁ、貴方の能力がどれだけの人数を相手できるかは知らないが、目を背けたりはしないのだろう?」
手厳しいなぁ。私は頭を掻きながら苦笑した。
「この厳しさは、明香の為になるものだぞ」
「う〜ん、世界には確実に優しさが足りないように思うのですけど?」
「はははっ、違いない!」
豊聡耳様は豪胆に笑って見せた。その傍若無人な覇気に充てられて、私はある人物を思い出す。
「そう言えば、畜生界で驪駒さんが──」