「熱すぎる……」
「灼熱地獄の跡地だぞ。当然だろう」
オオワシは呆れた様子で言う。実際、彼が居なければ私は骨まで灰になっていただろう。周囲は見渡す限り火の海だ。景観も何もあったものではない。だが、だからこそ──
「これもまた、壮観だ」
私は、身の丈を越えるような炎を間近で見た事はなかった。けれど此処では、山を越えるようなサイズの炎が、生き物のように揺らめいている。全てを飲み込んで尚余りある大火は、しかし今や何物を焼く事もなく煤の匂いを漂わせていた。
「こんなに大きな炎は初めて見たよ」
「かつては罪人を山程焼いておったのだろうな」
灼熱地獄と言えば、五戒を破った邪見の者が堕ちる先だと聖さんから聞いたことがある。此処では盆地のように四方が火に囲まれており、私達は火中で立ち往生した。跡地であってもこの始末とは、地獄の業火の絶えざる事、斯くの如しか。
「ねえオオワシ。これ、私焼かれてないかな?」
「不殺生、不妄語、不飲酒は破っておるな。それに、物の見方も随分と邪見ではないか?」
「それでも灼熱地獄に堕ちる程じゃないよ」
「ならば早く黄泉醜女を探さんとな。名前は確か、
目を凝らして人影を探す。何処もかしこも炎だらけだからこそ、人も探しやすいだろうと呑気に考えていた。けれど、どうやら当てが外れたみたいだ。写真を撮りながらカメラ越しに見回すが、何にも見当たらない。
「気長に探すしかあるまい。もう少し高く飛ぼう」
オオワシは飛び上がり、高度を上げて見渡す。しかし、地平線の彼方まで変わらず火の海で、本当に地下なのかと疑わしくなる光景だ。果たして、何を燃やせばこんな火が起こるのだろうか?
「覆水盆に返らぬように、焼かれた物は二度と元に戻らない。故に、この灼熱地獄は罪人の無尽の罪咎を薪にしていた。だが今は、怨念渦巻く呪われた血がその糧よ」
私はふと、この土地の地理を思い出した。地上から遠い地底、その更に地下の灼熱地獄跡の、その底に何があったのか。
「成る程、旧血の池地獄の──」
「追いつきましたよ残無様!」
唐突に、何者かが頭上から飛びかかって来た。オオワシが翼で振り払うと、落胆した声がする。
「あら、人違い? あ〜……失礼しました」
「いやいや、待て待て」
一瞬で踵を返して去ろうとする女性を、オオワシが呼び留めた。ロベリアの巨大な花弁で目を隠している彼女は、葡萄の蔓や果実があしらわれた深紫色のチャイナドレスを身に付けている。個性的な外見だが、何よりその目隠しが私の目に付いた。
「お前は何者だ」
「私? 私は豫母都日狭美よ。悪いけれど、今は残無様を捜すのに忙しいから構っていられる時間はないわ」
「私たちも日白残無を探している」
「ほほう? なら、一緒に捜しましょう。人手は多いに越した事はありません。もし残無様を見かければ教えて下さいませ。さもなければ、地獄の底まで追いかけます」
日狭美さんは、捜索の為に残無さんの特徴を教えてくれた。主観的な表現の多い説明だったが、古明地さんから聞いた話と齟齬は無い。残無さんは、頭部に鬼の角を生やし、黄色の肌着の上から灰色がかった緑褐色の上着と青色のズボンを身につけているらしい。彼女は、この灼熱地獄跡を丁度訪ねているのだという。
「そう言えば、貴方はどうして残無様を捜しているの?」
「畜生界の動物霊達が地上進出を企てている件で、残無さんと話したいのです」
「ふ〜ん、詰まらない話ですね」
全く退屈で、下らない、仕様もない話だと私は同意した。戦争の話など、誰が好き好んでしたいだろうか。そう話すと、日狭美さんは首を横に振った。
「そう言う意味ではないわ。だって、動物霊達が地上に出た所で、地獄の鬼達に叩き潰されますから。勝敗の決まり切った話なんて面白みがないでしょう?」
「地獄の鬼達に? どう言う意味だ!?」
オオワシは驚愕して問い詰める。剛欲同盟の仲間や饕餮さんにも関わる話だから、彼は真剣そのものだ。
「そのままの意味よ。畜生界の動向は、地獄の鬼達に察知されている。彼らは、地上に侵攻した動物霊達を殲滅するつもりです。けれど、鬼と争って死ねるなんて、畜生冥利に尽きる話でしょう? 動物霊にとっては喜ばしい事の筈よ」
「地上で鬼と畜生が戦争なんてしたら地獄絵図だよ。地上に出る前にもやりようはあるでしょ?」
「貴方、二重人格? 情緒不安定ね〜」
私たちの様子に、日狭美さんは若干身を引きながら答える。曰く、罪を犯す前にしょっぴく警吏が何処にいようか、と。地上に進出して幻想郷の土地を占拠するのが罪ならば、それを犯すまでは静観するのが鬼達だと。
「どうやら畜生は馬鹿騒ぎし過ぎたようだ。地獄の鬼に目を付けられていたとは。明香よ、私は直ぐにでも饕餮様の元に向かわねばならん」
「その必要はない」
オオワシの言葉を遮り、少女が現れた。すると日狭美さんは、その口元を三日月に歪めて喜色を湛える。彼女は、業火にも負けず劣らず熱っぽい声をあげた。
「残無様!」
その少女は、日狭美さんから聞いた日白残無その人だった。彼女は、日狭美さんを見て苦笑しながら諭すように請う。
「日狭美よ。お前は席を外してくれぬか?」
「嫌です。折角残無様を見つけたのに」
不満げに言い募る日狭美さんを、残無さんは鋭く睨み付けた。有無を言わせぬ脅迫的な瞳である。しかし、何故か嬉々として日狭美さんは頷いた。
「うう……終わったら呼んで下さいませ」
「儂は日白残無じゃ。お前は儂を探しておったようだが、どちら様かのう? 見覚えがなくてな」
「お初にお目にかかります。地上の人間、雲見明香です」
「人間?」
残無さんは目を擦る素振りをした。確かに、一目見ただけでは人間には見えないだろう。そこで、私はオオワシを紹介した。すると、残無さんは言葉を選びながら慎重に問いかけてくる。
「ならば、お前達はどちらの味方なのじゃ?」
「どちらの?」
「つまり、畜生界の饕餮の手先なのか、或いは地上の人間なのかじゃ。どちらかによって、儂も相手の仕方を選ばねばならん」
残無さんの問いかけに、私たちは即答した。
「私は饕餮様の部下で、明香の友だ」
「私は、地上の平和を祈ってる人間だよ」
残無さんは、悩ましげに腕組みをして黙り込む。佇む私たちは、黄色い色調の炎と黒煙に暫し燻された。地獄らしく、火山のような硫黄の匂いも漂っている。旧血の池地獄の、硫黄混じりの原油が不完全に燃焼した結果だろう。するうち、残無さんは私の懸念に当てをつけた。
「ならば、無主物の土地を巡る畜生の騒乱が気掛かりなのじゃろう? 心配する必要は無い。幻想郷が畜生達のものになるなど、あり得んからじゃ」
幻想郷の古の土地は、開かれた市場の影響で無主物となった。だが、時間さえ経てば自然と霊達が土地に取り憑く。故に畜生達は、争い合う間に奪うべき土地を失った事に気付くだろう。そう、日白残無は滔々と明かした。
「必要なのは時間だけじゃ。よって、儂は地獄の鬼達を止めて、争いを煽る為に畜生達の組織にスパイを送り込んだ。争いが平和の礎になるとは、皮肉な事じゃな」
「けれど、既にこの異変を察知している人達がいます。例え鬼畜の戦争で地上が地獄絵図にならなかったとしても、霊夢さんは争いを煽った残無さんを突き止めますよ」
「霊夢? 博麗の巫女の事か。ならば、そうでなくては儂が困る」
残無さんは、余裕綽々として語る。畜生達が争い、それを煽った黒幕が博麗の巫女に退治される。そうしてこの馬鹿騒ぎは、幻想郷では異変と呼ばれる自然な現象の範疇になるだろうと。
「良い事尽くしじゃ。全て儂の掌の上よ」
「何故、そんな計画を?」
地獄に君臨する残無さんが、どうして地上の一端でしかない幻想郷の為に動くのか。私の問いに、彼女はふと思いついた不満を愚痴るように答えた。
「儂は、これまで山程の戦乱を見てきた。無常な浮世の浮生は、矛盾に満ちている。人々は、殺生を悪として禁じながら、戦で殺めた数を誇り、死して尚も鬼畜に悪鬼羅刹と化して血で血を洗う。のう、オオワシの動物霊よ」
残無さんは、悪びれる事なく肩を竦めてみせる。
「せめて死後にまで相争わぬように、死した動物霊や幽霊達を儂は喰ろうてやった。すると、儂はいつの間にか鬼になっておった。殺生もせず、死したる鬼畜共を喰っていただけなのにじゃ。儂は地獄に堕ちると悟り、自ら地獄へ下って鬼達を話術で纏め上げた」
私は、残無さんの目を見て怯えた。虚無の瞳だ。彼女の瞳には、この世の悲惨と地獄しか写っていなかった。しかし、その暗澹たる風景の先から、一筋の光が差し込んでくる。
「儂は、争いを好まぬ」
それは、私が見慣れた世界だった。戦争とは無縁で、争いは遊戯に取って代わられた、牧歌的な幻想郷だ。私は我に返り、残無さんの想いを理解した。つまり、あゝ、彼女は私と同じものが好きだったのか。すとんと全てが腑に落ちた。しかし、彼女は敵意を露わにする。
「さて、オオワシ霊よ。お前は今の話を饕餮に伝えるじゃろう?」
仁王立ちをして、残無さんは私たちの前に立ち塞がった。しかし、オオワシは迷いなく答える。
「ああ、伝える。饕餮様に隠し立てはできぬ。さすれば、動物霊達は我先に地上へ侵攻するだろう。幻想郷は獣王達の園となる」
「馬鹿正直じゃのう。儂が目の前におるのに、全く──嫌いでは無い。ふむ、儂の少しばかり鬼らしい機微じゃの」
残無さんは苦笑し、態度を軟化させて提案した。
「ならばオオワシ霊よ、今の話を内密にすれば、饕餮に義理を立てられる方法を一つ教えよう」
「なんだと?」
「実はだな、この灼熱地獄跡の地下深く、旧血の池地獄に引き篭もっている天火人がおる。奴を饕餮と引き合わせてみよ。新しい傘下を得られるじゃろう」
オオワシは考え込んだ。新しい仲間と、無主物の土地、何れが饕餮さんの利になるか。やがて、彼は決心したようだった。
「よかろう。私は嘴を閉じておく」
残無さんは、得意顔をして胸を張る。
「ならば、旧血の池地獄へ向かうと良い。此処から炎を突っ切って底へ向かうのじゃ」
「残無さん、私からも一つ」
私は、残無さんに向けて深く頭を下げる。何故なら、他ならぬ彼女の手によって、幻想郷は救われるからだ。例え彼女にどんな思惑があったとしても、その行為には見返りがあって然るべきだろう。でなければ、不義理ですよね、紫さん。
「何の真似──」
私は、顔を上げて残無さんと目を合わせた。彼女に何を見せるべきか、私はもう知っている。目を丸くして立ち尽くす彼女に、私は捨て台詞を残して飛び去った。
「全てが終わったら、宴会で会いましょう」
この争乱が異変になるなら、きっと呆れるほど平和な宴が、その後に続くはずだから。