「雲の上はいつだって、良い天気だね」
菫子さんに背負われて、私は幻想郷の上空にいた。周囲は既に夕暮れの風景で、眼下の雲海は茜色に染まっている。なるほど、これが紅雪を降らせた雲だと思うと、中々様になっているように思えた。
「ほら、あれでしょ。なんて分かりやすいランドマーク。映えるわね」
菫子さんが指差す先に、輝針城が見て取れた。それは、上空に浮遊する逆様の城である。なんとまあ、現実離れした城だろうか。
「前から来てみたいとは思ってたんだよ。ただ、地に足ついた人間にはちょっとばかし浮いた場所だったからね」
「ちょっとばかし? めっちゃ浮いてるよ」
地を指し示すかのような、逆転した天守閣が殊更に目を惹く。まるで、真っ逆様に落下していく瞬間を留めたような有様だ。ただ、その異様さ故に、周囲の景観からも酷く浮いている。そう言う意味では、菫子さんの言葉も的を得ていた。
「確かに、浮いてるねえ」
どのようにして、こんな摂理に反した城が創造されたのかは分からない。どうせ、尋常な方法ではないのだろうと思う。というのも、私がこの城を見て思ったのは、歪さだけだったからだ。
「この城を建てた人とは、剃りが合わないかも」
「なんだとー! 私の城だぞ!」
小さな声がした。ふと、声の元へ振り向くと、小人の少女が私に非難の目を向けている。彼女は、お椀の蓋を帽子のように被っており、目立つ赤色の和服を身に付けていた。その足は裸足であり、少し寒そうに見える。
「しかも、お前の手にあるそれは、失くした打ち出の小槌じゃないか。返せ!」
「残念ながら、これはもう私のものだよ」
「出鱈目を言うな。それは、一寸法師の末裔であるこの
針妙丸さんの言葉を聞いて、私は呆然とした。一方、菫子さんは彼女の写真をスマホで撮っていたが、私には構う余裕もない。
あゝ──そうか。
「それはなんて、なんて滑稽な」
今までの全てが、頭の中で繋がって一つの線となり、苦笑を誘うのみである。けれど、私は肩の荷が降りたような気がして、ある種の清々しさに打ちのめされていた。
「明香ちゃん、どうしたの? おーい?」
「なんだこいつ。頭が可笑しいのか?」
私は、何とか我に返って成すべきことを把握した。そして、針妙丸さんに伝えるべき事も纏め上げる。これでお終いだと思うと、少しの虚しさが去来した。
脱力して私は空を仰ぐ。夕暮れ時の沈みかけた斜陽が、私の心情と合わさるように憂愁を湛えた光を空一面に注いでいた。その物静かな風景は、絵画的な趣で私の目に写り込む。
こうした夕日を見ると、私はいつも一抹の悲しみを抱く。きっと、夕日の赤は悲しい音楽なのだろう。光の波のリズムが、悲しげな律動を刻んでいるように、見えてならないのだ。
「針妙丸さん、この小槌は私のものです。願いだって叶えられます。ほら、この通り」
小槌を振るう素ぶりをして、私は願いを口に出す。
「頬を優しく撫でる、そよ風が吹いて欲しい」
すると、まるで私を慰めるかのような、優しい風が吹いた。それは、私の服をはためかせて、頬を撫で、髪を戦がせて吹き抜けていく。そうして、目を小さな点にした針妙丸さんに、私は全てを語り明かした。
私は、無主物の神が開いた市場を訪ね
小槌を
完全に、完璧に、これは私のものであり──
私以外の何者も扱う事はできない。
私が投げ渡した小槌を手にして、針妙丸さんは何度も願いを叶えようとした。しかし、小槌は彼女に応えることなく沈黙を守るのみである。彼女は、強い怒りを含んだ口調で私を問い詰めた。
「ふざけるな! よくも小槌を奪ったな、盗人め! 退治してやる!」
「へえ? それは困るわ。けれど、怒るのはお門違い。全ては小槌を失くした貴女の落ち度よ。私はただ、拾い物を我が物にしただけ」
「屁理屈を!」
縫い針のような剣を構えて、その名に違わず勇ましく戦おうとしていた針妙丸さんを、私は言葉で制して提言する。
「けれど、小槌は貴女に返してあげる。ただ一つ、貴女が私と約束してくれるなら、だけれど」
「約束?」
「そう。もう二度と、小槌を失くしたり盗まれたりしないように、気をつけて欲しい」
「うん?」
首を傾げて、針妙丸さんは立ち止まる。彼女は、疑いの表情を浮かべて困惑していた。
「何故じゃ? それでお前がどう得をするんだ。小槌が欲しいから盗んだんだろ。願いを叶えたいから自分のものにしたんだろ。そこまでして……何故そんな約束で小槌を手放す?」
私が悪者であるという前提を覆し、間抜けな善人であると見抜ければ、答えは簡単に分かる。けれど、そんな事は類稀な賢者でさえ至難だろう。故に私は、底知れない謎に包まれた胡散臭い悪役に見えるに違いない。
「ただの親切だよ」
「……怪し過ぎる。でも、その程度の約束ならしてやろう。さあ、返せ。すぐ返せ」
私は頷き、小槌を受け取った。そして、再び願いを口に出す。所有権を操作する事は、本来は神が開いた市場でしか叶わない願いだが、反則とインチキが極まった願望器ならば、それも叶う。
「私は、少名針妙丸に小槌を譲渡する」
見た目には何も変わらない。だから、証明のために私は小槌を返して、針妙丸さんに願いを叶えさせた。おかげで、彼女はお椀の蓋でなく、お椀そのものを被らなければならない程度に巨大化する。
「……ありがとう?」
「どういたしまして」
針妙丸さんは納得が行かない様子だったが、私は構わず菫子さんと共にその場を去った。小槌を焼く事はできなかったが、懸念はもう何もない。盛大な空回りであったが、誰も不幸にならなかったのは、何よりの幸いだ。
「あれで良かったのかな? 小槌は明香ちゃんの物だったし、焼いちゃって良かったんじゃない?」
「ちょっと前までの私なら、焼いてただろうね」
雲の通ひ路を行きながら、私はしみじみと一日を振り返った。早朝からの紅雪に泥酔、露天風呂に市場に輝針城。全く、忙しない一日だった。
「でも、針妙丸さんが可哀想だから。菫子さんもよかったの? 彼女をペットにしたかったんでしょ?」
「いや、明香ちゃんが真面目そうな話をしてたから、黙ってた方が良いかなって。私が混じったら、ややこしくなっちゃうだろうし」
「……ありがと」
「写真撮れたから無問題よ。あゝ、可愛い。特にお椀の蓋をちょこんと被ってて裸足の足を見せてる所。小動物的な愛らしさがあるわよね」
スマホの画面を見せてくれる笑顔の菫子さん。ともあれ、彼女も楽しんでくれたようで良かった。
「私、丸一日寝てるのねー。筋トレでもしないと太っちゃいそうな生活習慣だわ」
「そりゃ大変だ」
「明香ちゃんは、楽しかった?」
「ちょっと疲れたかな。でもまあ──」
手を伸ばして空を切り、風に触れた。それは、私の指をすり抜けていき、雲を緩やかに動かし、目に見える色彩を揺らめかせていく。風雲の切れ目からは、地の黄色が覗き、草木が戦いでいるのが見えた。
「私の願いも叶ってる」
生き生きとして動き出す風景を前にして、私は胸が空くような思いがした。そよ風が、私の心さえ動かしていったのだろうか。これは、単なる風に吹かれた風景の一つでしかない。けれど、こうした些細なものの積み重ねが、人に幸福を感じさせると私は信じている。
「心なんて、こんなにも有り触れたもので満たされるものなのに。どうして際限もなく願いを叶えようとするんだろう?」
暮れ行く夕日の見つめる先では、夜がその姿を見せ始めていた。こうした、夕陽と夜闇の境目が、時の移り変わりを目に見える形で現す光景を前にすると、時間というものが如何にアナログなものかを思い知らされる。
「みんな、心に穴が空いてるからだよ。私もそうだった。賢くて特別だって人を見下して、孤高を気取って優越感で心を満たそうとしてた。空いた穴をまず塞がなきゃ、何をやっても満たされないのにね。ま、女子高生なんてそんなもんよ」
自嘲する菫子さんに掛ける言葉を探していると、シャッター音が響いた。ふと見やると、彼女は周囲の風景を写真に納めている。その横顔を見て、昔の私を思い出した。
「私に必要だったのは、対等な友達だった。それが叶ってからは、それなりに満たされてるよ。でも、明香ちゃんが少し妬ましいかな。だって、ずっと幻想郷に居られるんでしょ?」
刹那、手中に馴染みのカメラが現れる。私は、小槌を手放す願いを叶えた。その逆転した代償は、私物が手中に戻る事だったのだろう。
「多分さ、明香ちゃんの心は穴どころかヒビ割れ一つない。身の回りの幸せを、漏らさず零さず受け止めて、満たされ続けてる」
菫子さんは、優しく微笑んでいた。それも、嫉妬と羨望が混濁した表情で。けれど、私は欲望に塗れて、何度も心を砕かれている。それに、かつて彼女のように人間を見下していた。とても、彼女が羨むような相手ではない。それでも──
「菫子さんにそう言われると、嬉しい」
「ぐぬぬ……やっぱり羨ましい!」
私は、可愛らしい癇癪を起こした菫子さんを見て苦笑した。彼女は、私を羨ましいと言った。けれど、私も彼女の事が羨ましかった。私も彼女みたいに超能力が使えて、幻想郷を自由気儘に飛び回れたら、どれだけ素敵な事だろうか。
私たちは、互いに無いものを羨み合いながら生きている。そう思うと、少し滑稽に感じた。ふと、青娥さんの言葉が脳裏に過ぎる。滑稽で傑作な生き物だと。ともあれ、私はむくれた菫子さんをあやして言う。
「ほら、このカメラあげるよ」
「え? 本当に?」
菫子さんは、私が差し出したカメラを躊躇いながら手にする。やがて、彼女は目を輝かせて饒舌になった。
「これ、めっちゃレトロなカメラじゃん! まるでアンティークね。結構値が張るんじゃない? どうやって撮れば良いんだろ。後で調べなきゃ」
「外の世界で現像できるか分からないし、フィルムだって見つけにくいかも。だから──菫子さんが写真を撮ったら、また私を訪ねて欲しいな」
「勿論!」
笑顔の菫子さんを見て、これで良いと私は安堵した。誰一人として不幸にならないハッピーエンドだ。紫さんにだって、胸を張れる。
「さあ、帰ろう。夜が降りてくる前に」