「此処……だね」
私は、近くの木の幹に寄り掛かり、長い登山で疲労した身体を休めた。しかし、足を止めると却って息があがり、動けなくなってしまう。それと言うのも、私は肌を隠す衣服を着込み、熊除けの鈴や簡素な杖に背負子の荷物まで合わせて、山伏や如何といった重装備であったからだ。
「少し休憩を」
私は、木陰で息を整えながら景観を眺める。すると、騒がしい胸の拍動や、荒々しい呼吸とは正反対の静謐な眺めが目に映った。お陰で、心なしか息切れも静まっていく。そこで、私は近くの祠にお供えをしてから一服した。
「あゝ、良い場所じゃないか」
目に映るのは、透き通った冷涼な池だ。そこには蓮が繁茂しており、浮かぶ葉が水面の過半を占めていた。きっと、夏になれば一面に花を咲かせるだろう。一方、空は木々の枝葉で覆われた緑の天蓋になっていた。ちらほらと、木漏れ日が水面に差して輝いている。
「早いもんだね。季節が過ぎるのは」
既に、冬が去り春が訪れていた。梅雨はまだであるが、もう夏も近い。それ故、木々はやおら青々と茂り始め、雑草が活力いっぱいといった様子で山中の難路を包み隠している。その上、気温の上昇に伴って虫たちも姿を現していた。更に、茂りに茂った草木が、池の周囲を天然のドームのように覆い尽くしている。
「歳月人を待たずか」
時には時の、人には人の、ペースと言うものがある。このズレは、私たちが長く生きる程に広まっていく。お陰で、最近は特に時の流れを早く感じていた。
「でも、焦る必要はないよ。ペースが合わなくても、リズムが合えばそれで良い」
私は、私を置き去りにして移ろう時の中で、ゆっくりと腰を落ち着けて気分良く鼻歌を歌っていた。すると、頭上から声がする。
「あやや、同族かと思えば人間ですか。それも……明香さん?」
見上げてみると、射命丸文さんが木の枝に座り込んでいた。彼女は、里に居る時とは違って、妖怪らしい天狗装束を身に纏っている。
「参りましたね。軽く挨拶するつもりでしたが、人間なら追い払うしかない。しかし、明香さんともなるとそうもいかない」
「そうなのですか?」
「ええ。山での貴女の立場は非常に複雑です。表向きは山の妖怪や神々として受け入れられ、裏では人間として疎まれ、しかし、八雲紫との兼ね合いで邪険にする事もできない」
だから、基本的に腫れ物扱いで不干渉なのだと文さんは教えてくれた。私は、歓迎する事も排斥する事もできない存在だと。
「触らぬ神に祟りなし?」
「まあ、そんな感じです」
「じゃあ、文さんは祟られちゃいますね」
「まさか」
「だって、私の名前を呼んじゃいましたし」
「またそんな、神様みたいな事を言う」
なんて話をしていると、一陣の
「まさか、本当に祟られました?」
「ご冗談を。ところで、いつぞやの紅雪は何故記事にしなかったのですか? 結構気になっていたのですが」
「ああ、あれは、公共性に配慮した結果です」
文さんは、私の隣に腰掛けた。
「不本意ではありますが、知られる必要のないものでしたので。そうですね……明香さんのコレみたいに」
文さんは、懐から手帳を取り出した。それには、無数の付箋や写真が挟み込まれている。彼女は、その内の一枚の写真を取り出して見せた。
「打ち出の小槌が売りに出されていたなんて、驚きました。誰が買っていったんでしょうか?」
茣蓙の上に置かれた小槌と、ちょこんと座る私が写真に収められていた。恐らく、文さんはあの市場にいて私の写真を撮っていたのだろう。
「売れ残ったので、持ち帰りましたよ」
「今はどちらに?」
「小人の姫様の元に」
「へえ? てっきり八雲紫の元かと」
含みを持たせた言い方で、文さんは紫さんの名前を口に出した。そのため、私は少しばつが悪い気がして、恐る恐る聞き返す。
「その、ご存知で?」
答えは無い。ただ、人当たりの良い笑みを浮かべている文さんが居るのみだ。そこで、私は観念して白旗を上げる。
「分かりました。降参です」
「今度からは、プライベートな事はプライベートな場所でするべきですよ」
「仰る通りで」
ぐうの音も出ない。気不味くて苦笑していると、文さんが顔を覗き込んできた。彼女は、私を観察するように暫く見つめてから溜息を吐く。
「私、結構明香さんの事好きだったんですよ? まるで、風みたいに気まぐれに、幻想郷を旅する貴女に惹かれていました。それがまさか、あんな胡散臭くて独占欲の強い意地悪な妖怪のものになってしまうなんて」
態とらしい小芝居だなと、私は思った。何故なら、文さんはおちゃらけているような微笑みを浮かべていて、私を揶揄うような態度だったからだ。けれど、その目だけは真剣なものだったので、どう思えば良いか分からなくなってしまう。
「私は、誰のものでもないですよ」
「そう、願っていますがね」
文さんは、手間が掛かる子供を相手するような口調だ。
「明香さんは、無警戒に過ぎるので。例えば、こんな山中で妖怪と二人きりなのに、何とも思っていないような所とか」
「それは、文さんが相手だからですよ。友人同士じゃないですか」
「人間と妖怪ですよ? 人間は妖怪を恐れるのがこの郷のルールで」
「──くだらない」
私は、毅然として立ち上がる。そのまま、一顧だにせず歩み、池の周囲を覆う草木の元まで近付いた。
「全ては変わっていく。ルールなんて特に」
「明香さん、そんなにロックな方でしたっけ?」
私は、枝葉を掴んで強引に引き裂く。すると、特有の青臭さが鼻に付き、それから眩い光に晒された。それは、開かれた隙間の向こうから差し込んできたものだ。
「世界がルールに沿うのではなく、世界に沿って私たちがルールを見出しているんだよ」
光に目が慣れると、山の中腹からの景観が広がっていた。其処には、野生の自然に囲われた人間の里が見て取れる。目を凝らすと、畑仕事に出ている人々も見えた。空は快晴で、ヒバリなどが囀りながら飛んでいる。
「この険しい山で暮らすなら、狼や猪、或いは鴉なんかの方が遥かに生き易いでしょう。なのに文さん達は、山中でさえこんなにも脆く儚い生き物の形で暮らしている。それは、貴女達が人間を好いているからですよね?」
季節外れの鳴き声に引かれて視線を下ろすと、雨蛙達が私の足元を跳ね回っていた。大蝦蟇が現れてくれなかったのは残念だけれど、可愛らしい彼らを見ていると心が和む。
「それを今更、何百年も昔からのルールを取り出して取り繕おうだなんて滑稽ですよ。でもまあ、そんな事は今は良いじゃないですか」
私は、目を細めて文さんに微笑みかけた。そうして、舞踏に誘うかのように、彼女に手を差し伸べる。
「こんなにも密やかな場所に、私と文さんの二人きりなんですよ? 貴女が手帳に採集してきた山程の小噺と、私が見て来たこの郷の遥けき今昔があれば──私たちは、もっと素敵な話が出来る筈です」
文さんは、目を丸くしていた。しかし、驚いている様子ではない。彼女は、私の言葉を理解した上で、呆然とする事を選んでいるようだった。まるで、一気に押し寄せた波風に乱された心が、静まるのをじっと待つかのように。やがて、口を開いた彼女は、穏やかな笑顔と共に答えた。
「ええ、それは──願ってもない事です」
fin. 2024/05/27
Extra もっと素敵な話
「山道で見つけた、綺麗な花なのですが」
「これは、一輪草ですねえ」
私の能力で風景を見ている文さんは、花を前にして自慢げに言った。彼女は、手帳を引いて写真を取り出す。
「去年撮った花の写真です。そっくりでしょう?」
「少し違って見えますが」
「花だって毎年同じように咲く訳じゃないんですから、当然ですよ」
文さんが見せてくれた写真には、二輪の花を付けた植物が写し取られていた。一方、私はその写真を凝視して首を傾げる。
「この花、二輪草ですよね? それに、側にある葉はトリカブトですか?」
私は、写真の花の側にある葉を指差した。すると、文さんは悪戯がバレたようにはにかむ。
「あやや、すみません。これは、トリカブトの写真でした。昔は良く使っていたので、備忘がてら撮ってたんですよ。因みに、二輪草は葉をお浸しにできますし、花も酢の物にしていけます」
「良く使っていた?」
「鬼が山にいた頃は、宴会がそれはもう大変で。酒の肴にトリカブトの根を出すんですよ。他の肴と紛れ込ませて。すると、鬼達は厠に行ってくれるので、その隙に水を飲む訳です」
文さんは、近場からそっくりな葉を探し当てて指差す。あれも、トリカブトなのだろうか。その見識に、私は舌を巻いた。
「文さんは、やっぱり博識なんですね」
思えば、文さんは私が生まれる前から山で暮らしていたのだ。その悠久の日々が、今も目前で続いているのだと思うと、奇妙な感じがした。
「あれは、ウマノアシガタですね。ちょっと時期が早いですが、最近は暖かいので夏と間違えて咲いたのでしょう」
文さんは、私が見せる風景から次々と草花を見つけていく。それは、新聞記者が情報に目敏いとか、そんなレベルのものではなかった。
「山の植生は、便利なので自然と覚えられますよ。特に、毒と食用のものは。人間は、一度間違えて口にしただけで死んでしまうので、覚える暇もないでしょうが」
「あー。それはそうですね」
頭を掻く私を見て、文さんはケラケラと笑った。あゝ、こう言う所が人間とは違うんだなと、私はしみじみと思う。彼女達はそう簡単に死んだりしない。だからこそ、人間よりも遥かに大らかで超然として居られる。
「しかし、明香さんが見る物は、全てが新鮮に写ってますね。私は山中何もかも見飽きてしまったので、堪らず人間の里に入り浸る程なのに」
「そう言えば、里の花屋さんには山の花もあったような」
ふと、過去の記憶を当たって文さんに見せる。すると、彼女は意外そうにして目を丸めた。
「これは、エゾノツガザクラ? 里の花屋が仕入れられるような場所には咲いていないはずですが……」
それから、私たちは時間を忘れて語り合った。話を終えたのは夕暮れ時で、下山すら危うい時間帯である。堪らず、文さんに泣きつくと、なんと里の側まで送ってもらえた。
「妖怪は、表立って人間を助けてはいけない。けれど──私たちは友人同士ですから。他言無用ですよ?」
二人だけの秘密だと文さんは言う。私は、それに頷いて答えた。
私は、文さんと別れた帰路で思いを馳せる。人間は、その言葉一つでは言い表せない程に複雑で、善悪を併せ持ち、尽きせぬ欲望に突き動かされる予測不能な存在だ。とても一括りにして語れるようなものではない。けれど、妖怪はそれに輪をかけたような存在だ。
「文さんだから……か」
私たちは、妖怪と一括りにして呼ぶ。けれど、妖怪は人間よりも個を重んじている。種族名など、人間が当て嵌めた呼称に過ぎない。だから、文さんが私を助けてくれたのは、文さんだからなのだ。
「妖怪が人間を助けるだとか、ではないんだね」
友人同士だから。その一言が全てなのだろう。射命丸文が雲見明香を助けた。それ以外の事は何一つとしてない。そう思うと、真っ直ぐな好意を感じられて嬉しかった。
「ありがとう、文さん」
またいつか。今度は、私が助けるからね。