物を見ては真を写す   作:Iteration:6

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九天の滝

「此処だね」

 

 私は、文さんとの待ち合わせ場所にいた。未踏の渓谷を越えた先の、九天の滝と呼ばれる大瀑布の滝壺付近である。そこは、絶え間ない流水の絶壁に対する場所であり、見上げても見越せない直瀑であった。

 

「見事なものだなあ」

 

 壮観を前にして視線を彷徨わせていると、一人の白狼天狗が目に写る。彼女は、岩石の上で胡座をかいていた。その目は、穏やかに閉じられている。しかし、眠っている様子ではなさそうだ。

 

「なんだ、河童ですか。何か用でも?」

 

 私が立ち止まっていると、白狼天狗は目を開けて問いかけて来た。彼女の声は、瀑布の濁音にも関わらず聞き取りやすく響く。そこで、私は軽く手を振りながら近付いた。

 

「この滝壺で、友人と待ち合わせをしているのです」

「それは羨ましい。私は、今日一日此処で見張りの予定です。哨戒の任務ですよ。何事もない事を、何事もなく見届けるだけの」

 

 白狼天狗は、自らを犬走(いぬばしり) (もみじ)と名乗った。それから、彼女は滝の裏まで私を招き入れる。其処は、流水に侵食されて洞窟状にくり抜かれた空洞だ。するうち、彼女は将棋盤を暗がりから引っ張り出して言う。

 

「暇潰しに付き合ってくれませんか? 丁度、貴女も友人を待つ間は退屈でしょうし」

「サボタージュですか。構わないので?」

 

 犬走さんは、冷んやりと湿気た洞穴に乾いた笑い声を響かせた。

 

「初めの数十年は、真面目な者もいます。しかし、何百年も同じ山で、同じ見張りの番を受け持っていて、真面目なままの者など居ませんよ」

 

 私は、その言葉を聞いて小町さんの勤務態度を思い出した。そして、同時に羨ましいとさえ思う。時は幾かえりも同じ処を、眺めている者にのみ神秘を説く。数百年という年月は、どれだけの神秘を彼女に見せたのだろうか。

 

「それ程に永い間、ずっと見張りをしていらしたなら、余程沢山の事を見てこられたのでしょう。少し、嫉妬します」

「う〜ん、確かに色々見ては来ましたが」

「実は、私は将棋盤と駒を凝視して思いを馳せるよりは、目前の滝や風に揺られた枝葉と木漏れ日を見つめていたいような人間でして」

「それは、嗜好が合わないようで残念──人間?」

 

 おっと、しまった。口が滑ってしまった。そこで、私は人間の里に商いに行く事が多く、すっかり人間臭くなってしまった河童なのだと説明した。すると、犬走さんは鼻に手を当てて頷く。

 

「道理で、随分と人の匂いがするものだと思いました」

「大将棋は存じませんが、将棋なら指せますよ。駒の動きを知っている程度ですが」

「はは、棋士や好敵手を求めてはいません。駒を触りながら雑談の相手になってくれるならば、それだけで有難い」

 

 私たちは、手持ち無沙汰な指を慰めるように駒を指しながら、暫し歓談した。犬走さんは、千里眼で見張りの担当地区を見晴かしながら、多くの劇的な一幕を目にしてきたらしい。

 

「人間の里の猟師が、三日三晩をかけて人喰いの熊を狩った事がありました。この時ばかりは、余所者を嫌う山の天狗も手を出さず見守ったものです。天晴れな狩りでした」

「それはまた、劇的ですね」

「以前には、里からやってきたカメラマンの少女が」

「ああ、ほら、詰みですね。参りました」

 

 私は、降参のポーズをして投了し、話を打ち切った。それから、駒を配置し直して勝負を再開する。するうち、犬走さんは溜息を吐いて額を抑えた。

 

「すっかり忘れていました。山の神曰く、今日は夕立が降るそうです。帰りの雨具を用意しないと」

「それなら、雨合羽がありますよ。どうぞ使って下さい」

「構わないので?」

「河童の服は防水仕様ですから」

 

 私は、荷物から取り出した雨合羽を犬走さんに押し付けた。彼女は頭を下げてそれを受け取り、笑顔を見せる。

 

「有難い。貴女には助けられてばかりだ。そう言えば、まだ名前も伺っていなかったですね」

「私は──」

「あややや? これは……一体?」

 

 私が口を開こうとした刹那、洞穴の入り口から声が響いた。ふと見やると、水のカーテン越しの日に照らされた細長い人影が差し込んでいる。その主人は、射命丸文さんだ。

 

 

 

 

 

「そちらの御仁は?」

 

 文さんは、恐る恐るといった様子で私に近付き、顔を覗いた。すると、彼女はますます困惑の色を深めて首を傾げる。

 

「何故、そんな格好をしているのでしょうか?」

「彼女は、人間の里に商いに行く河童だ。丁度、九天の滝で行き合ったので話し相手になってもらっている。それより、何故そうも挙動不審なのよ。気味が悪い」

「あ〜……うん、成る程。河童さん、どうも」

 

 文さんは、納得したかのように頷いた。それから、彼女は私にウインクしてカメラを差し出す。

 

「これ、河童製のカメラです。ちょっと具合が悪いので見てもらっても?」

「構いませんよ」

 

 私はカメラを受け取り、鞄にしまった。どうやら、文さんは話を合わせる事にしたようだ。彼女は、私の肩を持って笑顔を浮かべる。

 

「すいませんねえ、椛。少しこの河童さんと話したい事がありまして。彼女をお借りしますよ?」

「本人に許可を取れ。あんたはいつも──」

 

 小言を漏らそうとした途中で、犬走さんはむすりと黙り込んだ。これまでの穏やかな態度は消え、剣呑な雰囲気が漂う。これには、流石の文さんも真顔になって沈黙した。

 

「外に一匹、妖獣です」

「あやや……どちらさんで?」

「新顔です。成り立てでしょう」

「厄介な」

 

 文さんは、辟易した様子で頭を抱えた。一方、犬走さんは私に目を向けて言う。

 

「恐らく、人の匂いに誘われて来たのですね。私は、見張りの持ち場を離れられません。しかし、貴女が去れば妖獣も諦めて去るでしょう」

 

 妖獣というのは、人を喰らって味を占め、知恵を身に付けた獣だ。私の匂いを尾けて来たのなら、確かに此処から離れるべきだろう。そう考えて、私は立ち上がる。

 

「ならば、そろそろお暇します」

「あやや、私もお供しますよ」

 

 私は、犬走さんに別れの挨拶をして洞穴を出た。すると、肌を焼くような強い日差しが照り付けてくる。流水のお陰で冷涼であるが、九天の滝から離れれば、殺人的な炎天下が広がっているに違いない。

 

「暑いですね……」

「もうじき雨が降ります。そうなれば、涼しいものですよ。ほら、場所を変えて話しましょう」

 

 文さんは、私を負ぶって空を飛ぶ。その様は、降り頻る滝を天に向かって遡上しているようだった。飛翔すること暫く、眼前の流水の絶壁が途切れ、見晴らしが一気に広がる。目に入ったのは、澄んだ夏空と、茂る草木だ。

 

「よいしょっと。此処からは歩きましょう」

 

 

 

 

 

 峡谷の奥地、九天の滝を登り切った先。その滝口付近に私たちは降り立った。文さんは、手を繋いで私を先導する。

 

「あやや、もう降ってきましたよ」

 

 ポツポツと、雨粒が万物にぶつかって音を立て始めた。衣服や鞄、小石や土、そして枝葉に。やがて、種々雑多な音が混じり合い、大雨の濁音となる。

 

「あわわわわ! こっちに!」

 

 私たちは、近くの大樹の下に身を寄せて雨宿りする事にした。文さんは、疲れ切った様子で幹に寄りかかって座り込んでいる。

 

「少し休憩しましょう。どうせ通り雨でしょうし、暫くすれば止みますよ」

 

 雨具を纏って大雨を掻き分け、空路を急く程の用はない。雨が降ったならば、止むまで待てば良い。文さんはそのように言った。その考え方は、時間に縛られない非人間的なのんびりさを含んでいる。

 

「穏やかですね、本当に」

 

 雨宿り先の大樹は、太い幹から厚い枝葉を伸ばしていた。お陰で、まるで天然の傘のようだ。外を見ると、晴天に関わらず雨が降っていた。天気雨である。するうち、日差しで熱された石に、雨水がぶつかって生まれる、特徴的な香りを風が運んできた。

 

「あやや、土と石の香りがしますね」

ペトリコール(石のエッセンス)……外の世界ではそう呼びます」

「へえ、端的な名付けですね。悪くない」

 

 大雨は、止む気配を一向に見せない。やがて、ペトリコールは洗い流されて、風は冷たさを運ぶばかりになった。蛙の鳴き声が遠くから耳に届き、少しずつ空が曇って仄暗くなる。地面はすっかり濡れそぼり、水溜まりが現れ始めた。

 

「これは参りました。通り雨かと思ったのですが、当てが外れたようです」

 

 文さんは、胸元から手帳を取り出し、ペンを走らせ始めた。私は、興味を惹かれて覗き込んで見る。すると、それは簡素な風景のデッサンだった。

 

「暇潰しですよ。雨が止むまで、昼寝できるぐらい時間が掛かりそうですから。そう言えば、天狗達の宴会がありまして、明香さんも飲みに来ませんか?」

「構わないので?」

「勿論です。それに、今から里まで帰ったら日が暮れますよ。何せ、ほら」

 

 文さんは、滝口をペンで指す。

 

「どう降りられる、いや、帰られるおつもりで?」

「もしかして、私攫われました?」

 

 これは、うっかりしてしまった。文さんにすっかり気を許していた所為である。彼女に背負われて九天の滝を飛び越えたが、この絶壁を降りる手立ては私には無い。

 

「あやややや、鴉天狗を甘く見てもらっちゃあいけません。私は明香さんの送迎係ではありませんよ。帰られたいなら止めはしません。崖沿いを辿って大きく迂回すれば、下まで戻れるかもしれませんね。おっと、大雨で道はぬかるみ、妖獣も彷徨いて居ますが、どうかお気を付けて」

 

 鬼の首を取って勝ち誇るように、文さんは晴れやかに笑っていた。私は、完全にしてやられた諦観を胸に閉口する。

 

「どうしても、明香さんに宴会に来て欲しかったので、此処まで連れてきたんです。貴女と一緒に酒を飲みながら駄弁りたかったのですよ」

「光栄です。でも、私は酒癖悪いですよ?」

「私を舐めないで貰いたいですね。鬼の宴会に付き合わされる事数知れず、酒癖なんざなんのその。明香さんが、酔った勢いで宴会場をクレーターにする御仁でなければ無問題ですよ」

 

 どうやら、選択肢は無さそうだね。私は、苦笑して文さんの手を握った。

 

「分かりました。雨が止んだら──私を連れてってくださいね」

「それなら、雨が止むまでは……明香さんの写真を撮らせてくれませんか?」

「え?」

 

 私は目を丸くするが、彼女は構わずカメラを手にする。

 

「ええ。実はですね、以前週刊誌に手を付けた事がありまして。結局は、発行せず没にしたんですが、完全に諦めた訳ではないのですよ。それで、新しいネタ探しをしているのです」

「私の写真がネタになるのですか?」

「袋とじに、河童の写真がなかったと思いまして」

「週刊誌で袋とじって、まさか……」

 

 文さんは、ゆっくりと私の手を握り返した。

 

「大丈夫ですよ。顔は写しませんから」

「……それで文さんが、助かるなら」

「ええ、勿論、大助かりですよ」

 

 ああ、もう、仕様がない。私は諦めて目を瞑った。

 

「河童の制服だと分かる程度に着崩して、それから少し髪を濡らしましょう。後は、胸元を開けてインナーを覗かせて、靴を脱いでもらって、素足から太腿まで見えるように足を伸ばして──こう。後は、出来る限り自然体で、寛いでいる河童のふとした瞬間を撮りたいのです」

 

 注文が多い料理店を訪ねた気分である。私は、文さんの沢山の注文を聞き入れて、されるがままに写真を撮られた。最後の方は、もう恥ずかし過ぎてよく覚えていない。

 

 

 顔は……本当に写ってないよね?

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