「遠いですね」
私は、白玉楼へ続く石段を見上げた。それは、果てしない直進階段で、飛行しても気が遠くなるような長さである。人が手入れ出来るサイズを超えた建造物に見えるが、苔一つ生えていない。それも、生きる物が少ない場所柄故だろうか。
「私もそう思うわ。けれど、偶に身体を動かす機会としては丁度良く……ないわね。足が棒になりそうだわ」
紫さんが、階段に座り込んで一休みした。そこで、私もその隣に腰掛けて休憩する。目前には、見晴らしの良い眺望が広がっていた。
「景色は悪くないわね」
「木々の枝葉も伸びていませんし、空飛ぶ野鳥も見当たらない。遮る物が何もないお陰で、見上げた空に吸い込まれるような気がします」
空に向けて手を伸ばしてみると、紫さんが私を制止した。彼女は、身を乗り出していた私の胸に手を当てて押し留める。
「ここから落ちれば、下の踊り場まで真っ逆様よ」
私は、手を引いてぼんやりと空を眺めた。朝方の澄んだ青空には、絵の具を筆で伸ばしたような巻雲が浮かんでいる。じっと見つめていると、少しずつ風に吹かれて形を変えていくのが見て取れた。
「良い天気ですね。此処でぼうっとするのも悪くないかも」
「あら、それは困る。昼までに着かないと、昼食をとれないわ」
今日の外出は、紫さんからの誘いだった。彼女は、秋めく時分に紅葉でも見て食事をしようと私を連れ出したのである。行き先は白玉楼で、昼食もそこでとる予定らしい。
「食事までご馳走になるなんて、有難いです。けれど、甘やかされ過ぎると卑しくなるのが人間ですよ」
「あら、そう?」
紫さんは、悪戯げな笑顔を見せる。
「私は、卑しくなった明香も見てみたい。どれだけ甘やかせば、どんな風に卑しくなるのか──試したくなってきたわ」
「勘弁してください……」
返答に窮して困り顔をすると、紫さんは冗談だと笑って話題を変えた。
「この時期の白玉楼はね、それはもう素敵な紅葉なのよ」
白玉楼には、沢山の桜やその幽霊が植っている。紫さん曰く、これらが秋に一斉に紅葉するのだという。視界一面の桜紅葉は、春の桜とはまた違った趣があって味わい深いらしい。
「だから、きっと明香も気にいるわ。さて、早くこの階段を踏破しましょう」
紫さんが、立ち上がって私の手を引いた。行く先を見上げると、やはり階段が延々と続いている。私は、流石にげんなりして弱音を吐いた。
「ねえ紫さん。飛んで行こうよ」
「駄目よ。こういうのは歩いて行くから風情があるの」
「ほら、私を甘やかすチャンスだよ」
「冗談だって言ったでしょう。本気にしたの?」
「意地悪……」
私は、不貞腐れて口を尖らせる。すると、紫さんの柔らかくて暖かい唇が貪るように私の口元を覆った。驚いて離れようとすると、腰に手を回されてしまう。身動きできずに体が強張るが、彼女はお構いなしだ。
「んっ……」
やがて、紫さんは名残惜しげに唇を離した。彼女は、扇情的な笑顔を見せて言う。
「好きな子に意地悪するのは、最高に楽しいわ」
「最低。そういうの駄目だよ紫さん」
紫さんは、私の言葉を何処吹く風と聞き流して進んで行く。私もまた、彼女の歩調に合わせて追随しようとした。けれど、体格も体力も違うのだ。お互いの距離が、少しずつ開いていく。
「紫さん、先に行ってて良いよ。時間かかりそうだし」
「いいえ、一緒に行きましょう。明香と居られる時間を増やす為に、誘ったお出かけよ」
紫さんは、私の遅々とした歩みに合わせて先導を続けた。詰まるところ、彼女にとってはこうした道中でさえ、目的地と同じだけの価値があったのだろう。秋めく陽射しに照らされながら、熱っぽく胸が息を切らし始めた時、漸く私たちは最上段を踏み越えた。
「ほら、もう着いた。あっという間ね」
階段を登り切った先の踊り場で、私は横になって空を見上げた。普段なら、こんな風に身を汚す真似はしなかっただろう。けれど、此処は人足皆無の領域で、汚らしい人間の足で踏み固められていない事を私は知っている。
「あゝ──良い心地だなあ」
横になった私が感じたのは、石材のざらざらした感触と冷たさだった。研磨されきっていないそれらは、自然な有様のまま秩序だって組み合わされている。それは、夜と早朝の冷気を残しており、私の身体を氷の様に冷やしてくれた。
「このまま、昼寝したい気分だね」
とはいえ、それだと紫さんが困っちゃう。私は、身体を横たえたまま微笑む。
「お腹、空いたなあ」
結局、私たちが階段を登り終えたのは正午丁度だった。お日様が天頂付近から見下ろす中、紫さんは日傘を差して白玉楼の扉を叩く。
「入るわよ〜。さ、行きましょう」
紫さんは、一声かけた後に扉を開き、勝手知ったる我が家のように楼内を進んで行った。するうち、彼女は適当な縁側で座り込んで言う。
「そうね、此処で食べましょう」
私は驚いて聞き返す。西行寺さんへの挨拶なしで、縁側の片隅に居座って飲食して構わないのだろうかと。けれど、紫さんは気にする様子もない。
「構わないわ。前もって訪ねると伝えているし、私と幽々子の仲よ?」
「親しき仲にも礼儀ありといいまして」
「親しい──なんてものじゃないわ」
低くて冷たい声音だった。紫さんの豹変に呆気に取られていると、彼女は我に返ったのか飄々として軽薄な胡散臭さを取り戻す。
「私の伝言で、幽々子には全て伝わっている筈よ。私たちが寛いでいても、彼女が驚く事はないわ」
「いや、驚いたわよ」
ぬるりと、縁側に面する障子をすり抜けて西行寺さんが現れた。彼女は、紫さんに批難の視線を向けている。
「……えぇと、その……驚く様な事は無い筈よ」
「驚いたわ」
天丼であろうか。ともあれ、西行寺さんは再び断言した。気不味い沈黙が横たわり、暫くした後に紫さんはバツが悪そうに謝罪する。
「驚かせてしまって御免なさい。次からは気を付けるわ」
「何に気を付けるのかしら?」
「幽々子に挨拶せずに楼内で飲食したり、寛いだりしないように気を付けるつもりよ」
再びの沈黙。余りにも気不味い。するうち、西行寺さんは大きな溜め息を態とらしく吐き、私の隣に腰掛けた。
「紫ったら、いつからこんなに愚鈍になってしまったのかしら。これなら、妖夢の方がまだ話が通じそうだわ。私が驚かされたのはコレよ」
西行寺さんは、私の手を取って白金の指輪を紫さんに見せつけた。
「本気? 紫が明香と?」
「そうよ」
「嘘でしょう……」
まるで、酷い失敗をした子供を見た親のように、西行寺さんは頭を抱えて唸ってしまった。
「明香は人間で、紫は妖怪なのよ」
「公に喧伝する訳でもなし、誰に咎められる事でもないでしょう」
「私は、紫を心配しているの」
西行寺さんらしくないと、私は思った。彼女は、物事の本質を見抜き、自らの本心を悟らせない亡霊だ。そんな彼女が、何一つ包み隠す事なく語るなんて、滅多に無い話である。
「結末が悲劇だと分かっている物語を、祝福する気にはなれない。例え何があったとしても必ず、明香は紫を置いて逝くのよ」
「そんな事は分かっていますわ」
「いいえ、分かっていないわ。何故、学ばないの?」
西行寺さんが、死人のように冷たい顔をしていた。けれど、その瞳には紫さんを案じる深い優しさが滲んでいる。
「この子は、貴女の不治の瑕疵になる」
長い逡巡と、それを振り切る強靭な意志が、西行寺さんの目から見て取れた。それは、彼女が口に出そうとしている言葉の重みを物語る。
「桜の木の下に眠る、あの少女のように」
紫さんは、黙り込んだ。その目は、呆然と遠くへ向けられていて、何の感情も読み取れない。けれど、西行寺さんは構わず言葉を連ねた。
「紫が、人間と友誼を交わして親しみ合うなら、構わない。けれど、貴女が人と契りを交わして共に生きようとするから、私は止めるのよ」
西行寺さんは、私の手に嵌められた指輪をゆっくりと外し──
「やめて」
私は、乱暴に手を振り払った。西行寺さんの言葉は道理であるし、紫さんを思っての忠告である。けれど、悲観的に過ぎるのだ。私は、そんな悲劇的な末路を辿るつもりなど欠片もない。
「私は、瑕疵なんて遺さない」
私は、凛として言い放った。そうして、西行寺さんから目を離して目前の庭園を眺める。そこには、山水風景を模した枯山水があって、桜の木が植っていた。日に照らされて色鮮やかに紅葉しているその葉は、風に吹かれてゆらゆらと散り、波めく砂上に舞い降りている。
「私が去った後の世を生きる紫さんが、笑顔でいられるように」
そうした落葉の何枚かが、一際強めの風に煽られて縁側まで流れ着いた。それは、私の膝元にひらひらとやって来て──また何処かへと吹き流されていく。まるで、この浮世に漂う私たちのように。
「私は、もっと美しいものを遺す」
きっと、西行寺さんもそうした筈なのだ。でなければ、紫さんが日々笑顔で居られる事は無かった。彼女は、親友を亡くして傷付いた心で胡散臭く笑っていられる妖怪ではない。
「桜の木の下に眠る、あの少女のように」
西行寺さんが、ゆっくりと手を伸ばして来た。私は、反射的に左手を隠す。しかし、彼女の手は私の頭上に乗せられて、その指が何度も優しく髪を梳いた。ぽつりと、一言だけを添えて。
「──良い子ね」
「さて、私は妖夢の様子を見てくるわ」
私の頭に長らく置かれた手を戻して、西行寺さんは困った様に言う。
「実は、夕食の食材を切らしていて、妖夢を里まで買い出しに行かせているの。けれど、量が量だから私も手伝わないと。それでも、日が暮れるまで掛かるでしょうけれど」
ごゆっくり。そう言い残して西行寺さんが去る。一方、紫さんは桜紅葉を眺めながら温和に微笑んでいた。するうち、彼女はスキマから御手洗団子が山積みされた皿を取り出す。
「団子でも食べながらゆっくりしましょう。緑茶もあるわよ。幽々子とも一緒にと思っていたから、少し量が多いけれどね」
次いで、緑茶入りの湯呑みが縁側に置かれた。私は、団子を口に運び、そのもちりとした食感と甘い餡を楽しむ。団子を飲み込んだ後に、口内に残った風味を味わってから緑茶を口にすると、爽快な気分である。
「落葉の風景は、いつ見ても侘び寂びを感じさせる。この無情さに美しさを覚えるのは、栄枯盛衰の間隙が幽玄だから。とは言え──」
紫さんは、落葉を一枚その手で受け止めた。
「私たちは、この風景に浮世の常云々と恨み節を込める事もできる。美しいものも何れは潰えて、後には無情なものだけが遺ると。けれど、そうではない、でしょう?」
紫さんが、自身の頭を指差していた。
「美しいものは消え去らない。私たちが覚えているから。例え何時の日か明香が亡くなれば、私は悲しい。けれど、貴女と一緒にいられた日々を私は忘れない。貴女と共に生きられた時間そのものが、私に遺される貴女からの美しい贈り物」
私を見つめて、紫さんは言う。
「沢山の友人たちからも、貴女からも、貰いっぱなし。だから、私も一つずつ贈りたい」
紫さんは、私に身を寄せてキスをした。意地悪で乱暴だった階段の時とは違う、優しくて甘い口付けだった。本当に──本当に甘いね。
「ねえ、紫さん。団子の餡が付いてるよ」
「あら、それは……忘れて欲しいわね」
私は、唇に指を添えてくすりと微笑んだ。
「ううん。忘れてあげない。何一つ」