「うぅん……」
私は、目を覚まして寝返りを打つ。秋の朝は、肌寒くなってきた。布団から離れるのが辛い時分である。そこで、私は布団を纏うようにして身を起こした。それから、寝ぼけ眼を凝らして勝手知ったる自室を見回す。
「う〜ん……」
目が止まった床の間には、菫子さんに渡す写真を集めたアルバムや、溶けて愉快な形で固まった酒瓶が置かれている。床脇にも、カメラのフィルムや水筒などが並べられていた。
「見た目は悪くないんだけれどなあ」
掛け軸や花瓶で華やかに飾られるべき床の間は、物置と化していた。一方、押入れには布団の他に河童の服やストーブを仕舞っているが、まだ空きがある。床の間を整理して押し入れに移すべきだろうか?
「わあっと」
思索に耽っていると、縁側を何かが走り去っていく音がした。障子越しに見えた影を見る限り、以前使っていたカメラの付喪神だろう。まるっきり野生化してしまったカメラは、そこら中をほっつき歩いている。けれど、私の実家は奴の根城でもあるらしく、気が付くと帰ってきて寛いだりしているのだ。
「目が覚めるねえ」
ドタドタと駆け去っていったカメラの物音で完全に目が覚めた私は、布団を畳んで押し入れに仕舞い、石油ストーブを取り出した。そうして、台所からヤカンを持ってきてストーブでお湯を沸かす。
「便利だなあ」
暖房に使えて、お湯も作れる。唯一の欠点は、饕餮さんから贈られた灯油しか燃料が無い事だった。しかし、紫さんに相談すると追加の燃料を貰えたのだ。甘やかされてるなあと、自嘲する他ない。
「さて」
私は、ヤカンの湯を使って急須で緑茶を淹れた。やがて、微かに鉄臭い金属の匂いがヤカンから漂ってくるが、茶の香りに押し負けて消えていく。するうち、暖房が効き過ぎてきたのでストーブを弱めて、使い終わったヤカンを片付けた。
「ふう……」
一息付いて、障子を少し開ける。すると、暖められた室内の空気が外に逃げ出し、替わりに冷たくて澄んだ空気が流入した。吹き来る金風が身に染みて、清々しい気分で茶を口にしながら景色を眺める。
「晩秋だなあ」
紅葉のシーズンは既に過ぎ、木々は枯葉をその枝葉に付けている。木枯らしに吹かれて散ったそれらは、パリパリと音を立てながら人足に踏みつけられて土へと還っていた。
「もうじき冬が来る」
「故に、その前に会いに来たぞ」
バサバサと、オオワシが舞い降りてきて翼を畳んだ。久しぶりの知己との再会に、自然と私は笑顔になる。
「最近ご無沙汰だったね」
「なにぶん、忙しかったものでな」
毛づくろいを始めたオオワシの隣に、緑茶を淹れた湯呑みを差し出す。すると、彼は期待の籠った眼差しを私に向けた。
「ふむ、茶菓子は無いのか?」
「贅沢だなあ」
「強欲に磨きをかけておるからな」
「曇らせといてよ」
「光り物の方が好きなのだ」
「そりゃカラスだよ」
ケラケラと、私たちは顔を見合わせて笑い合う。それから、互いに近況を語り合った。
「ふ〜ん。本当に忙しくしてたんだ」
オオワシから話を聞くと、最近は動物霊たちが幻想郷に入り浸り、中には組を抜けて地上に土着する者も居るらしい。以前の地上を巡る畜生界の陰謀で、動物霊が幻想郷を訪ねる機会が増えた為だと彼は言う。
「私は、幻想郷に居着いた動物霊を監視するよう饕餮様から命を受けてきた。出過ぎた真似をする者が居れば、争いを煽る火種として利用できるからな」
「火種探しかあ。しかも、火消しじゃなくて放火魔とはね」
「残念そうな顔をするでない。ちゃんと、大抵は大事にならぬよう処理している」
オオワシ曰く、今日は幻想郷の水辺を見回って、カワウソ霊を監視していたらしい。
「鬼傑組から脱走したカワウソ霊もおったぞ。吉弔の元から逃れて自由を求めるとは天晴れだと同盟に誘ったが、そもそも畜生界が嫌なのだと突っぱねられてしまった」
「畜生界が嫌?」
「争いばかりで殺伐とした無情な畜生界より、平和で四季折々の情緒溢れる地上が良いとか。まったく、畜生らしからぬ主張よ」
「畜生は争いを望む。しかし、過ぎたるは猶及ばざるが如し──かな?」
嘲るように笑って、オオワシは吐き捨てた。
「所詮は一時の気の迷いよ。少しすればまた争いが恋しくなろう。さすれば、直ぐにでも畜生界に逆戻りよ。何せ我らは、骨の髄まで畜生であるからな」
「業が深いなあ。でも、オオワシはそうは見えないけどね。だって貴方は多分、争いよりも饕餮さんの方が好きでしょ」
「……まあ、敬愛しているからな」
歯切れ悪くなったオオワシは、嘴を湯呑みに漬けてお茶を濁した。するうち、彼は話題を変えて私を誘う。
「それより、一緒に山の湖を散策しないか? 見回っていない水辺はそこだけなのだ」
「山の湖というと、守矢神社の近くだね。前に索道で神社を訪ねた時は、オオワシと一緒だったなあ」
「それで、私も明香を思い出したのだ。丁度、季節も今のような秋だった」
「秋盛りだったね。今はもう晩秋だけれど、また違った景色が見られて面白いよ。うん、一緒に行こう」
私は、外行きの支度を始める。まずは、秋物の服や首元を隠すマフラーを用意した。冬程ではないけれど、寒くないように肌を隠さないと風邪をひいてしまう。とは言え、索道で往復できるので大層な旅支度が必要な訳でもない。気楽な散歩である。
「頸飾か? 明香にそういう装飾は似合わんぞ」
「辛辣だねー……。ほら、指輪だよこれ。指に嵌めてると手洗いしたり家事をする時に邪魔だし、無くしちゃうかもしれないでしょ。だから、こんな風に首飾りにしたんだよ」
私が着替えながら手に取った首飾りを見て、オオワシは目を丸くした。彼は、少しばかり咽せるようにして咳払いしてから、物分かり良さげに頷く。
「お洒落を楽しむのを咎めはせん。ただ、似合わぬのは本当だ。明香には、光り物の装飾はそぐわない。呉服屋に寄って、流行りの服を見繕った方が良かろう。私が助言してやっても良いぞ?」
「それなら、今度新しい服を買う時は、オオワシに見てもらうよ」
私が答えると、オオワシは胸を張って得意げにした。
「任せておけ。何を隠そう、饕餮様の私服の幾つかは私が選んだものだからな」
意外な事実に驚かされつつも、私は支度を終えてオオワシに手を伸ばした。すると、彼は飛び上がって私の肩に乗る。
「ほれ、行くぞ」
「取り憑かないの?」
「地獄に行く訳でもない。人と鳥とで十分だろう」
「それもそっか」
私は頷いて、彼を肩に乗せたまま家を後にした。目指す先は、守矢神社を越えた先、風神の湖である。さて、昼前には着きたいなあ。
「索道、結構空いてたね」
「紅葉のシーズンは過ぎておるからな。お陰で快適だったぞ」
私たちは、ガラリとした索道から守矢神社に降り立つ。その道中では、冬めき始めた妖怪の山の樹海が広がっていた。風も冷たく乾いていて、身を切るように過ぎ去っていく。
「もう少し厚着をしても良かったかも」
「足を動かせば身体も温まるだろう」
守矢神社の境内を通り過ぎるついでに、お賽銭を供えて参拝しておく。とは言え、私は信心深い方ではない。単に、神に挨拶しておかないと無礼な気がしただけである。
「ほら、早く行こうぞ」
オオワシは、私の足を急がせた。異議も無く、私は促されるままに境内から外れて野道を行く。するうち、一際開けた景色に出会した。
「到着だね」
視界一面には、風神の湖が広がっていた。霧の湖と比べると、見晴らしが良く澄み渡っている。湖に湛えられている水は、透明で透き通っていた。それは、石畳の様な湖底を露わにしながらも、山の風景を鏡面の様に写し取っている。
「壮観──いや、異観だな」
オオワシは、湖に林立している御柱を見て唸る。それらは、山の木々から切り出されて作られたものであった。選び抜かれた瑕疵の無い良質な木材をふんだんに使った、一種の無駄の極致である無意味な構造物は、その意味不明さでもって見るものに非日常を感じさせる。
「けれど、カワウソを探すのは楽そうだね。あの御柱の上から見渡せばいい」
「それは名案だ。見渡してくるとしよう」
オオワシは、私の肩から飛び去って行った。そこで、私も湖畔を散策して景色を見て回る。すると、晩秋に関わらず常緑の木々が堅果を付けていた。恐らくは、アラカシであろう。
「ドングリの時期かあ」
改めて足元を見てみると、落葉に混じってドングリが無数に転がっていた。その殆どは虫食いの穴付きで、そうでないものもネズミに土中に埋められて貯食されたりしている。これらは、熊なんかの餌にもなる筈で、堅果一つを巡って織りなされる種々の生物の行動は、冬を前にした生き物の逞しさを思わせた。
「あれは……コナラかな?」
一方、木々の中には枯れた葉を頑なに枝に留めているものもあった。春に新葉を付けるまで枯葉を簡単には離さないそれは、コナラなどに見られる特徴だ。コナラもまた、アラカシと同じようにドングリを実らせている。
「見分け方は確か、殻斗が鱗みたいなのがコナラとかで、輪状になってるのがアラカシかな」
私も詳しくは無いが、模様が異なる雑多なドングリが散らばっているのを見ると、木々の種類の多様さが見て取れる。勿論、最も目を引くものが堅果であっただけで、地面に散らばる落葉の形を見るだけでも、その多様さには驚かされる。
「卵や、手のひらや、細長い形もいっぱい。同種の落葉の形にも個体差があるから、もう訳分かんないね」
私は子供染みた感想を抱き、足元から視線を上げて散策を再開した。するうち、一際強い木枯らしが、落葉を騒つかせながら吹き抜けて行く。その先に、見知った姿があった。湖畔の岩に腰掛けて、湖に写る山を物憂げに見つめる、ルポライター姿の射命丸文さんだ。
「あやや……お久しぶりです」
「驚きましたねえ。まさか、こんな所でお会いするとは」
文さんは、私を見つけて目を細めた。小麦色をした枯葉越しの木漏れ日に照らされた彼女は、アンニュイな様子で溜息を吐いている。
「お久しぶりです。どうしたんですか? 随分と憂鬱そうですが」
文さんは、悩み込むような素振りをした。それから、暫くして意を決したのか、彼女は苦笑しながら答える。
「実はですね、失恋しまして」
「それは……天狗さんにもそういうのがあるのですね」
わあ、藪を突いたら蛇が出てきたぞ。なんとも繊細な話題で、どうにも口を出しにくい。ともあれ、こういう時は、失恋相手の事を根掘り葉掘り聞いたりせずに、文さんに寄り添うように接するべきかなと思う。
「あやや、以前から良い人だなと思っていた友人がいまして。まあ、その……好きだなあって思ってたのですが」
「片想いですか?」
「そうですよ。片想いしてたら告白する前に他の方と付き合ってしまって、振られる事さえ出来なくてですね……」
「惚れた腫れたは当座の内ですよ。恋の思い出が増えるというのは素敵な事でしょう。文さんの人生は長いのですから、必ずまた良い人と出会えますよ」
私の慰めを聞いて、文さんは拗ねたように口を尖らせた。おおっと、言葉を間違えたかな?
「生意気ですよ明香さん。数十年しか生きていない若造が……私に気を遣うなんて……自分で言ってて虚しくなってきましたね」
わあ、文さんが凄く弱々しいぞ。意外な彼女の一面を見たような気がする。ともあれ、彼女は大きな溜息を一つ吐いて普段の調子を取り戻した。
「さて、どうしましょうかね、この胸のモヤモヤは」
「いっそ、告白してみては?」
「正気ですか? もう他の方とお付き合いしているのですよ」
「冗談めかして実は好きだったんだぞと、過去の好意を伝えるくらいは許されるでしょう」
「あやや、それは気持ち悪いと思われたりしません?」
私は、口元に手を添えて言葉を選んだ。
「確かに、気分を害してしまうかもしれません。けれど、破れた好意を胸に秘めたまま生きるというのは、余りにも辛い生き方です」
「……ふむ。明香さんがそう言うならそうしましょう」
文さんが、意地悪げに微笑んで立ち上がった。そうして、彼女は湖に向けて軽やかな足取りで歩む。彼女は、落葉をその歩みで散らしながら、明るい秋の日差しが降り頻る日向へと足を踏み入れた。
「私は──」
彼女は、湖に足を踏み入れるか否かという境目で立ち止まり、私に向けてくるりと振り向く。その表情は、筆舌に尽くし難い。泣き出してしまいそうな潤んだ目を輝かせながら、悲しげに目尻を下げているが、その表情は何処か怜悧で、微かに笑顔を浮かべているようにも見える。
「明香さんの事が、好きだったんですよ」
……あゝ、それは──そっか。
「私もです」
ふいと、風のように素早く距離を詰めて、文さんは私の胸ぐらを掴んでいた。彼女は、私に見せつけるように首飾りのチェーンを露わにする。けれど、私の本心は揺らがない。
「もしも、紫さんより先に貴女が告白していたら、私はきっと断らなかった。でも……ごめんなさい」
万力のように、尋常でない力が掛かる。次の瞬間、文さんは私を乱暴に押し倒して馬乗りになっていた。彼女の荒い息遣いからは、遣る瀬無い思いを感じ取れる。故に、私は抵抗せずに目を瞑り、両手を十字に広げた。
「文さんの気が済むまで、好きにしていいよ」
私はサンドバッグになる覚悟を決めて、目を固く閉じたままじっと待つ。しかし、文さんの荒い息遣いは少しずつ静まり、最後には私の胸元に力無く拳が添えられた。
「私は、貴女の隣人であり友人」
ゆっくりと目を開けると、文さんは超然とした無表情で、その黒髪を垂らして私を見下ろしていた。風神の湖と同じく清澄な彼女の瞳は、一切の感情を飲み込んで揺らがずにいる。
「それ以上を望む私を、私は此処に置いて去ります。また明日にでも、貴女の友人の射命丸文が、朝刊を届けに参りますよ」
文さんは、私を解放してへたり込む。それから、暫く放心したように空を見上げて、彼女はポツリと言葉を漏らした。
「振られたのは、初めてなのですが──」
木漏れ日に照らされながら、文さんは晴れやかに微笑む。
「やっぱりムカつきます。そうですねえ……明香さんはこれから一生、文々。新聞の購読者になって貰います。拒否権はありません」
私は、閉口してたじろいだ。恐る恐る文さんの顔色を伺うと、その表情は笑顔だが目は笑っていない。しかも、冗談を言っている様子でもない。
「マジですか?」
「マジです」
私は、新聞の契約料金を軽く計算して当たりを付ける。とは言え、これは文さんなりの念押しなのだろう。私を振ったからには、一生友人で居なければ許さないという念押しである。
「分かりました。でも、お金が無い時は許してくださいね?」
「その時は、私の助手として働くなら許しましょう」
どうやら、文さんは恋人としての私を諦めても、友人としての私を手放すつもりは無いようだ。自身を含めて、全てを多面的に見る彼女らしい割り切り方だと、私は苦笑した。
「良かった。文さんの新聞を一生読めるだなんて、夢みたいです」
私は、日々の楽しみがこれからも続く事を想うと、胸が弾むような気持ちになる。堪らず溢れる笑みを、文さんに向けた。
「一生ですよ。私が皺くちゃのお婆ちゃんになって、呆けて字が読めなくなってしまうまで、楽しみにしてますから」
すると、文さんは黙り込んでしまった。彼女は、深く帽子を被り直して視線を切り、顔を背けて去っていく。
「文さん?」
「来ないでください──」
「ちょっと、泣くので」