本当に季刊じみて参りました。
次はきっと、夏の盛りにお会いしましょう。
私は、群生する鈴蘭の只中で立ち尽くし、なだらかな丘を見下ろしていた。開花した鈴蘭達は、長閑な陽射しに照らされて、暖かな春風に揺られている。
「風見さんに聞いてみたいです。この鈴蘭達が、どんな話をしているのか」
「ふむ、確かに興味深いね。私も花と会話した経験はない。是非とも聞いてみたいところだ」
豊聡耳様は、耳当てを外した。するうち、彼女は適当な場所を見つけて座り込む。周囲の鈴蘭は、野生のもので花付きも少ないが、それでも胡座をかく彼女を疎に隠した。
「ダメだね。やはり、花の声は分からない」
「欲が無いからでしょうか?」
「いいや、花は私たちとは全く別種の欲望を有している。だから、声は聞こえるのだが……意味が分からなくてね。気にしても仕方ない。今は、花の声よりも明香の話を聞きたい」
私は、豊聡耳様の隣に腰を下ろした。すると、鈴蘭の草花が背や足をくすぐる。それに、花や土の香りも明瞭になった。見上げてみると、麗らかな日和の昼空に伸び伸びと綿雲が浮かんでいる。
「四季が巡り、花も散る事と咲く事を繰り返した。けれど、この風景は明香と以前話した時から変わらない。勿論、私も変わらない。私は、衆生を導く全能たる超人として、永劫不変の存在だからね」
豊聡耳様は、和かな笑顔を見せて私に身を寄せた。そうして、彼女は手を伸ばし、瑕疵一つない柔らかな指で、人肌の熱を伝えながら私の髪をといていく。
「だが、明香は違う。ほら、少し傷んでいる。枝毛もあるじゃないか」
「日々お洒落する暇はないもので」
「それはいけないね。お洒落は大事だ。斯く言う私も、身嗜みには気を付けているのだよ」
「意外です。豊聡耳様は、そうした些事には気を割かないものだと」
私が言うや否や、豊聡耳様は矢継ぎ早に口を開いた。
「些事ではない。人間は、異なる程度の才能を持ってこの世に出ずるが、それ以上の価値は全て、生後の努力によるものだ。勉学や、お洒落のようにね」
とは言え、人が生涯の努力の果てに得るものを生まれ持つ者もいて、それが天才と呼ばれると、豊聡耳様は自慢げに自らを指して言った。
「見たまえ。人が努力の果てに得るお洒落さを生まれ持った私が、更に努力を重ね続けた美しさを」
私の手を取って、彼女は自らの髪に触れさせた。まるで絹のように滑らかで、枝毛一つなく、良い匂いもする。その薄茶色の髪は、春の陽射しの移ろいに合わせて、明るい小麦色から淡い黄金色まで色彩を変えていった。
「努力は便利だ。私のようになれるとは言わないが、努力さえすれば、大抵の事はそれなりになれる」
「それが既に天才の発想なのですよ豊聡耳様。努力して報われなかった事のない才人であるからこそでしょう」
「その通り。自分の才覚が末恐ろしいよ」
豊聡耳様からは、万能感の塊とでも言うべき眩いオーラが溢れ出ていた。彼女が語れば、自画自賛は純然たる事実となり、謙遜も皮肉そのものになってしまう程だ。
「けれど、私がその生涯と1400年の眠りを経て辿り着いた境地に、明香は青娥との一年の修行で追い付いたのだよ? あの頃の明香は、私でさえ刮目し、青娥が惚れ込む天才だった」
大仰な語りに、思わずくすりと笑ってしまう。すると、豊聡耳様もにこりと笑って、芝居がかった身振りで語る。
「明香は私の隣まで追いついて並び立ち、同じ景色をひと時眺めてから、去って行ったんだ。まるで観光客みたいにね」
豊聡耳様は立ち上がり、私の手を引いて先導した。彼女に連れられて無名の丘をのんびり横断していると、遠方でメジロの囀りがする。木立の中に梅の木でもあるのだろうか。
「メジロの声だね。きっと梅かな。実のところ、私は桜より梅の花の方が好きでね」
豊聡耳様が、遠くを見る目をしていた。ふと覗いてみると、沢山の花を付けた梅の木が写っている。そこには野鳥達が集まっていて、張り巡らされた枝から枝へと、軽やかに飛び回りながら、花に口付けをしていた。
「梅の方が、良く鳥が集まるからね。桜も良いものだがやはり、野鳥などが花の蜜を吸いながら囀ったりしているのを見聞きした方が、春という気がする」
豊聡耳様は、楽しげな横顔を見せていた。彼女は私の手を離してから数歩先行し、くるりと優雅に振り向く。すると、彼女が身に纏う薄く滑らかな春服がはためき、衣服の上から身につけられた黄金の腕輪や装身具が、しゃなりと神秘的な音を立てた。
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」
豊聡耳様が呟いたのは、とある高名な詩の一節であった。自然の悠久さと人の儚さを対比させたそれは、寂寥と無情さを感じさせる。けれど、私は少し違った思いを抱いた。
「悠久の自然にも、移ろう人々にも、それぞれの美しさがあります。人の世の忙しない賑やかさだって、儚さと表裏一体ではあるけれど、年がら年中お祭り騒ぎみたいで、私は好きですよ」
豊聡耳様は、ぴたりと静止して言葉を詰まらせる。彼女の目は万能の輝きを失い、代わりに人間らしい喜びを湛えているように潤んだ。暫くして、彼女はハッとしたように目を瞬く。
「あゝ、すまない。少しぼうっとしてしまった」
「春の穏やかな日和ですから。ぼうっとするのも、当然ですよ」
私は、鞄からカメラを取り出した。何処か、日と風当たりの良い穏やかな場所を探して、ゆっくりしながら写真を撮ろうと。そう伝えると、豊聡耳様は明るく眩い笑顔を浮かべた。
「有り難い。その心遣い、痛み入るよ」
私たち二人は、小高く見晴らしの良い高台を選んだ。鈴蘭の花々を一望できて、空に最も近い場所だ。カメラを豊聡耳様に向けると、彼女は苦笑して手でレンズを遮った。
「今回は、明香の写真を撮らせてくれないかな? 私は永遠に変わらない。記録に残されるべきなのは、浮世を生きる貴方だ」
「私が撮った写真より、私が写った写真を望まれるなら」
「気を悪くしたかな? 私は、明香が撮った写真も好きだよ」
「いえ、少し意外で」
カメラを受け取った豊聡耳様は、私にそのレンズを向けた。そこで私は、ピースサインをして笑顔を浮かべる。彼女は、暫くタイミングを見計らってシャッターを切った。けれど、気まぐれな春風がちょうど吹き込んで、花々や私の長着が一斉に戦いだ瞬間が写る。
「撮り直しますか?」
「いや、これで良い。完全さとは、適度な不完全さも内包しているものだよ。例えば、不意な春風や、明香の枝毛や、戦いでブレた花々のようなね」
うーん、やっぱりお洒落していた方が良かったかな? 少し気恥ずかしく思いながら、私は豊聡耳様からカメラを受け取ったのだった。
「それで、青娥が屠自古に雷を落とされてしまったのさ。面白い一幕だったよ。今回の件から得られる教訓は、同居人に黙って台所に仙界を繋げてはならないという事かな」
「仙人にしか活かせない教訓ですね」
「違いない」
豊聡耳様は、仙界から取り出した古風な木椅子に腰掛けていた。彼女は、東洋の大陸風の食卓に西洋のバスケットをのせて、バタールを酸っぱそうな白ワインと共に口にしている。
「台所が仙界と繋がって、食卓の食事が供物めいて消えてゆく。そうした超人的な事象が、俗人的な欲望から産まれると思うと、なんだか神話のような人間臭さを感じますね」
豊聡耳様が食事と共に語る超人達の面白可笑しい日常は、聞いていて飽きないものである。私たちの生活と異なる点も多いが、彼らの日常の節々から滲み出す人間性は、深い親しみを感じさせてならない。
「青娥は、そういう性なのさ。彼女は人間らしい欲望を隠そうとしない。私もだ。弟子は師に似るものなのかな? さあ、明香も遠慮は要らない」
豊聡耳様は、私にバタールを差し出した。口をつけてみると、その外皮はパリパリとしていて、中身は柔らかだ。香ばしい小麦の香りがするものの、特段の味付けはなくサッパリとした味わいだった。
「ワインもどうだい?」
差し出されたグラスを受け取って一口味わうと、やはりと言うべきか、強い酸味が舌を襲う。果実酒らしく葡萄の味わいはするが、お昼の眠気がすっかり醒めた。
「パンもワインも悪くありませんが、普通ですね。里の市井の人々が、その日常の中で何気なく食すようなものです。豊聡耳様は、もっと良いものを口にしていると思っていました」
くつくつと、豊聡耳様は口元に手を当てて微笑んだ。
「私も、もっと美味い食事を用意するべきか迷ってね。けれど、あまり豪華にすると、貴方のパートナーに逢瀬を妬かれてしまうだろう?」
「揶揄わないで下さい、豊聡耳様」
「それなら、私と二人きりで美禄を楽しんで、強かに酔って浮かれても構わないのかな?」
「構いませんよ。私が友人と酔っ払った程度で、紫さんが何を気にすると言うのですか?」
私は、グラスの酸っぱい白ワインを飲み干して、豊聡耳様に突き出した。それを見て、彼女は目を丸くして呟く。
「随分と豪胆だね……」
「美味い食べ物と飲み物は、人生に必須の要素ですよ。出し惜しみしちゃダメです。とびきり美味いのにしないと」
ニッコリと笑顔を浮かべて催促すると、豊聡耳様は古びた赤ワイン瓶を取り出した。彼女曰く、布都が献上してきたもので、それなりのものらしい。彼女は、私のグラスにそれを並々と注いだ。
「どうぞ。口に合うかな?」
一口飲んでみると、酸味は少なめで舌触りが良く、濃厚な葡萄の風味がした。えぐみや雑味とは無縁なままに、ここまでコクのある濃い味なワインを飲んだのは初めてである。漂う芳香にもアルコール臭はなく、葡萄の芳醇な香りを楽しめた。
「うん。幾らでも飲めます」
それから、私は赤ワインを飲み干して、気を良くして食卓に突っ伏した。顔を逸らして景色を眺めると、ひらひらと何処からか迷い込んだオスのツマキチョウが、見事な草模様の裏地と橙の切先を持つ羽をはためかせながら、花々の間を彷徨している。
「まるで花見気分です」
「確かに。けれど、これを花見とするには、まだ足りないものがあるんじゃないかな?」
「足りないもの?」
「酔客達の乱痴気騒ぎさ」
豊聡耳様の言う通りである。此処は、とても静かだった。時には獣や妖怪の気配もするが、それらは姿を現さずに離れていく。
「確かに、少し物寂しいですね」
「喧騒も陽気を感じさせて良いものだ。笑顔や歓声で気を悪くする事もない」
「どちらかと言えば、独りが好きですが」
耳を澄ませた豊聡耳様は、笑顔を浮かべる。
「私に嘘を吐いても無駄だよ。明香は、独りより友人といる方が好きなのでしょう? それに、貴方は静かに喧騒を眺める事を好いているのだね」
「人の心を丸裸にするなんて、風情がないですよ」
「仕方ない。私の耳には瞼が無いからね」
「耳当ては……」
「心の声までは塞げまい」
悪戯っぽく微笑むその姿を見て、豊聡耳様も変わったものだと私はしみじみ思った。
「豊聡耳様も、変わりましたね」
「ほう?」
「かつての貴女は、世を治めて民を導く為政者でした。けれど、今の貴女は同胞と共に日々を過ごす遊び人です。貴女が、再び世を統治する事はないのでしょう」
「興味深い指摘だ。それは明香の予言かな?」
「素朴な予感ですよ」
豊聡耳様は、不敵な表情で私を指差す。
「明香は、同胞に含まれているのかな?」
「私は、この郷の民ですよ」
豊聡耳様は、ゆっくりと背もたれに背を預けた。柔らかな風が吹いて雲が流されて行き、その陰で日が翳ったり照らしたりを繰り返す中で、彼女は目を瞑って沈黙を守る。無限にも思える静寂の果てに、彼女は酸っぱい白ワインを口にして、苦笑した。
「私もだよ。我が同胞」
王から民に転じた豊聡耳様は、その隔たりを楽しんでいるのだろう。そう思える安らかな表情をして、彼女は私が空にした赤ワイン瓶を眺めていた。
「民が王を求めるまで、暇を頂こう」
「
酔いで重くなった身体が、眠気で動かなくなり始めた。冬とは異なり、悴む事のない指や、霜焼けしない肌が、ますます眠気を助長する。私は目を瞑り、豊聡耳様に託けた。
「……少し……昼寝します」
お日様に熱された食卓に頬擦りしながら、うとうと微睡む。するうち、瞼越しに届いていた赤い日の光が明滅した。それから、私の耳介から目元へ、目元から頬へと、指の触感が伝っていく。その撫でるような指遣いが心地よく、私は深い眠りに落ちた。
「明香、聞こえているかい?」
神子は、突っ伏す明香の横顔を覗いた。すると、彼女は死者を想わせる静謐な表情で眠りこけている。その無生物的な静けさに一抹の不安を感じた神子は、彼女の寝顔に何度も指を這わせて、指先に伝わる素肌の温もりを確かめずにはいられなかった。
「何故かな? 私が常しえに在って欲しいと願うものが、いつもこんなに儚げなのは」
神子は自嘲した。答えが返って来る筈もない自問自答。しかも、その答えは──
「既に分かっておりましょう」
するりと、布都が神子の傍に立った。日常着として手を加えられた上古の狩衣を纏う彼女は、古代人がつい最近目覚めて、現代の装いに触発されたような格好だ。その五体の各所には、五色の紐の装飾が結ばれており、彼女の一挙一動に合わせて棚引いている。
「この世の万物は、全て儚きもの。在って欲しいと願うほど、そのものの儚さが目につくのみ」
「布都、私は道理を聞きたい訳ではないよ。道理に疲れて、弱音を吐いただけさ」
「ならば、我は太子様を慰めるべきでしたかな?」
神子は沈黙する。けれど、布都は朗らかに笑って話題を変えた。
「屠自古が、太子様を呼んでおります。青娥が集めておった丹が行方知れずになったと。我が思うに」
「その通りだよ、布都」
神子は、懐から仙薬を取り出した。それは、鮮血を固めて磨き上げたような唐紅の辰砂を練り上げた丹である。天界で催事の為に用意されたそれは、しかし天子に貪られて、数少ない食い残しも下界に捨て置かれていた。
「私も危うく思っていてね。ちゃんと見つけておいたよ。後で青娥に返しておくさ。心配ないと、屠自古に伝えておいてくれるかな?」
「成る程、承知致しました」
布都は、明朗に快諾した。神子は、落着と一息吐いて天を仰ぐ。すると、変わり映えのない春空は、長閑に白雲を漂わせており、花々の間を彷徨していたツマキチョウも、食卓の端に止まってのんびりと羽休めをしていた。
「太子様、不思議ですな。この世の万物は全て儚きもの。だというのに、あの蝶はとても呑気で穏やかそうです」
「確かにね。忙しなき世で一時の暇を得たようだ」
儚いと呼ぶには穏やかな、その蝶のゆるりとした優雅さは、諸行の無常を忘れさせる不変の一時を垣間見せていた。布都は、感心して目を見張る。
「脆く儚い無常なものが、刹那に垣間見せるこの平穏を、我らは永遠と呼んで切に求めているのではあるまいかと、思わされてなりませぬ」
ニコリとした布都は、眠る明香に絹の薄衣を被せて去っていった。しかし、神子は胸中で布都の言葉を何度も咀嚼する。
儚きものの平穏を、永遠と呼んで切に求める。
だとすれば──
「永遠とは、須臾なのか」
神子は、明香の寝顔を見つめた。安らかな寝息以外、何の欲望も聞こえてこない静かな眠りだ。けれど、もう神子が不安を感じる事はなかった。彼女は、不老長寿の仙薬を手中でぞんざいに弄んでから卓に置き、明香の鞄からカメラを取り出して写真を撮った。
「ふむ、悪くない」
明香の寝顔と、羽を揺らす蝶と、不老の仙薬を一纏めに収めたその写真は、くすりと神子の笑いを誘った。時には人が、血眼になって求める永遠を前にして、平穏に眠りこける明香が、どうしても神子には痛快に思えたのである。
「私たちが永遠を求めるのは、須臾を愛おしんでいるから。だから、闇雲に永遠を求めずに──」
手にしたカメラを卓に置き、神子は呟く。
「目前の一瞬を目に写す。それが貴方なのだろう」
明香がフィルムを現像したら、身に覚えのない写真を前にして、どんな表情をするだろうかと、神子は想像してほくそ笑んだ。きっと、一瞬だけ不思議がってから、顛末を察して可愛らしい困り顔をするに違いないと。
あゝ、その一瞬、それこそまさに
愛おしき須臾そのものであろう。
神子はそう、意地悪く微笑んだ。