物を見ては真を写す   作:Iteration:6

63 / 68
夏めいて参りました。もう夏至も過ぎたようです。
今年の梅雨は、いかが過ごされましたでしょうか。

まるで梅雨が一週間だけ幻想入りしたような、奇妙な時候でありまして、筆を取った次第で御座います。

ともあれ、お楽しみ頂ければ幸いです。


再廻:柳の運河

「うぅん……」

 

 私は雨垂れの音で目を覚まし、仄かに湿気た布団から身を起こした。未だ仄暗い寝室で寝ぼけ眼を擦って欠伸をし、襖を開けて採光する。けれど、部屋に差し込んで来たのは雨雲越しの散乱した朝日で、眠気を深めるばかりであった。季節は梅雨、時は朝。冷涼な雨天である。

 

「それなりに、良い日かな」

 

 しとしと雨が降り続いているお陰で、空気は冷たく澄んでいた。けれど、遠景は霧がかって白みを帯びており、その姿を断片的に隠している。霧隠れした風景がその隙間から垣間見せる空模様や山嶺は、淡く滲んだ水墨画のように朧げな幽玄さを放っていた。

 

「そうね。悪くないわ」

 

 ごく自然に、紫さんが相槌を打ってきた。私は、驚いてびくりと体が跳ねる。けれど、彼女は何処吹く風といった様子で、気怠げに私の隣に腰掛けようとした。

 

「布団、畳みますので」

「あら、失礼」

 

 紫さんは、寝室の片隅にあった座椅子に座って、無造作に足を伸ばした。寛ぐ彼女は、普段の中華風の道士服や華美なフリルドレスとは異なり、質素な浴衣姿をしている。

 

「快適そうな格好ですね」

「梅雨に厚着なんて耐えられないですもの。似合わないかしら?」

「いえ、とてもお似合いですよ」

「あら、照れるわ。ありがとう」

 

 私が布団を押し入れに戻している間、紫さんは庭の風景に目を向けていた。そこでは、雨露を伝わせる木々の枝葉を蝸牛が這っており、紫陽花が装飾花を満開にしている。

 

「素敵な紫陽花ね」

 

 紫陽花は、白から青紫まで色とりどりに染まっていた。土壌と開花に合わせて移ろう色彩や、実を結ばない装飾花は、移り気で不実だとして良く思われない事もあったという。けれどそれも、今となっては昔の話。

 

「父が挿し木したものです。殆ど世話もしていないのに、とても逞しく育って、今ではすっかり梅雨の主役です」

「世話していないの?」

「時折り、里の庭師に頼む程度で」

「それなら、日を改めて一緒に庭のお手入れでもしましょうか?」

 

 私は、苦笑して首を横に振った。

 

「私は素人ですから。庭の手入れなんて、とてもできませんよ」

「そう言えば私も、最近は藍に任せきりね……」

 

 二人して、顔を見合わせて微笑んだ。早朝からぐうたらと駄弁っている私たちには、そんな勤勉なお話は似合わなかったのだ。

 

「朝食を用意してきます。紫さんの分も──」

「それには及ばないわ。喫茶店でモーニングにしましょう。奢るわよ」

「それは、ありがたいですが……」

 

 私は外を見る。雨は降り止まず、湿った風が吹いている。外出には向かない天気だ。それに、衣服は湿気を吸って重みを増し、体を動かすたびに肌に湿りを感じさせる。まるで、生乾きの洗濯物をそのまま着たようだ。

 

「外出する気分になれなくて。身体が怠いんです」

「季節風邪かしら」

「いえ、気分が優れないだけですよ」

「やっぱり、風邪じゃないかしら?」

 

 紫さんが、私の額に手を添えて熱を測った。すると、彼女は心配そうな表情を浮かべる。

 

「熱はないけれど、元気もないわね」

「熱がないなら、元気ですよ」

「違うわ。こういうのは未病というのよ。健康と不健康の境目ってところね。体調が回復するまでは、里から出ないようにしなさい」

 

 私が頷くと、紫さんは満足げに微笑んだ。

 

「さて、お茶を淹れてあげましょう。何か欲しいものがあったら言って頂戴。用意するわ」

「甘える訳には」

「甘えなさい。明香が外出する気分になれないなんて、萃香が酒を呑む気分になれない程の異変だわ」

「天変地異ですね」

 

 そう言われると、確かに大事なように聞こえた。そこで、私は紫さんに温かいお茶を頼んで、部屋の隅で壁に背を預ける。暫く待っていると、彼女は急須と湯呑みを盆に載せて運んで来た。

 

「もう、勝手知ったる台所ですね」

「これだけ何度も上がらせて貰えば、嫌でも覚えますわ」

 

 陶器の急須は、限界まで湯を注がれていて、その口から茶を覗かせている。恐る恐るその手を取って湯呑みに注ぐと、茶こしを通り抜けた細かな茶葉が、立ち昇る湯気と共にひらひらと舞っている。

 

「それにしても、意外とお嬢様なのね」

 

 白磁の上から色絵が施された急須には、深い朱赤や褐色の顔料で結実した柿の木が描かれていた。枯れ枝のように細長く捻れた幹に、紅葉しかけの葉と柿の実が疎に付いている。緻密に描かれたモチーフの枝葉の向きから、大胆に残されている無地の余白には、秋風が吹いているように察せられた。

 

「良い急須だわ。幽々子が使っている物と比べても、遜色ない」

「それは、父の形見です。里の骨董屋で手に入れたらしくて」

「あら、素敵。縁がある物を身の回りに置くのは良い事よ。由縁は、日々を豊かにして今と過去を繋げてくれる」

 

 湯気をあげる緑茶を口にすると、気分も幾らか和らいだ。紫さんも、温かなお茶を飲んで一服している。やがて、雨は勢いを増して土砂降りになり始めた。私たちは、雨音の響く屋外を悠然と眺める。

 

「これは確かに、外出する気分になれないわね」

 

 困り顔をした紫さんは、溜息を吐いて物憂げな雰囲気だ。するうち、彼女は激しい雨から逃れるように縁側から離れた。一方、湿気が増して辟易した私は、上着を着崩して肩まわりの地肌を晒す。

 

「はしたないわよ」

「構いませんよ。この雨だと、文さんも来ないでしょうし」

 

 私の言葉を耳にして、紫さんは呆れた様子でお茶を啜る。それから、彼女はよもやま話を始めた。

 

「そう言えば、最近流行りの噂を里で聞いたの。中々愉快な事になっているみたいね」

「噂と言うと、橋の話ですか?」

 

 ここしばらく、柳の運河に架かっている橋を渡ると、不幸に見舞われると言う噂が流行っていた。人々は気味悪がってその橋を避けるようになったが、現状はただそれだけ。故に、取り立てて気にする必要もないだろうと私は思っていた。

 

「そう、それよ。皆んな気味悪がってるわ。霊夢にお祓いを頼むべきかしらね」

「つまり、妖怪の仕業だと?」

「そう考えるのが自然でしょう。この世の不思議は全て、妖怪と神様の仕業なのよ」

 

 紫さんは、上機嫌で楽しげに微笑んだ。彼女にとっては、面白い話なのだろう。確かに、噂話として耳にする分には良いネタだが、実際に里で暮らす人々からするといい迷惑である。近々、霊夢さんの仕事が増えそうな予感がした。

 

「あやややや、これはどうもお揃いで」

 

 するうち、半透明の雨合羽を纏った文さんが、大雨の中から姿を現した。彼女は、庭沿いの軒下に入って雨を凌ぎ、新聞配達用の防水ショルダーバッグを縁側にどさりと置く。

 

「朝刊と、号外です」

 

 

 

 

 

 文さんは、雨合羽を脱いで縁側に腰掛けた。彼女は、ひざ丈のズボンを履き、白シャツに赤ネクタイを締めて茶色のジャケットを羽織った記者風の装いをしている。ボーイッシュな雰囲気で、カジュアルさとフォーマルさを併せ持つ小洒落た格好だが──

 

「その格好だと、肌寒くないですか?」

「あやや……少し寒いです。精々が小雨程度と思っていたのですが、当てが外れましたね」

 

 雨合羽のお陰で直接濡れてはいないが、文さんの衣服は酷い湿気でしんなりと草臥れていた。その上、彼女の革靴は雨天の道を歩くには適していない。かといって、雨中の飛行も楽ではないだろう。

 

「雨宿りしていきますか?」

「喜んで。屋根の下に入れるのは、実に有難いです」

 

 文さんは、革靴を脱いで縁側の下に仕舞うと、寝室に上がって来た。彼女は、私と紫さんに向けて交互に視線を彷徨わせてから、不敵に微笑む。

 

「明香さん、衣服がはだけていますよ。それに、少しお疲れな様子ですね」

「明香は、梅雨に辟易しているだけよ。とはいえ、少し体調も崩しているの。だから、そっとしておいてあげて」

 

 手帳にサラサラとペンを走らせて、文さんは楽しげだ。

 

「成る程。しかし、賢者様も浴衣姿など珍しい。写真を撮らせてもらっても構いませんか?」

「ダメよ。申し訳ないけれど、プライベートですから」

「あやや……残念です」

 

 文さんは、態とらしく残念がる素振りを見せた。それを見た紫さんは、うんざりした様子で目を細める。

 

「貴方、手帳に何を書いているの? 記事のネタでも見つけたのかしら?」

「それが、今はネタ探しの気分ではないのです。記事を書き上げて、配達を終わらせた所ですよ。ようやく一仕事終えて、ゆっくり休みたい。そんな気分です」

 

 手帳の白紙の頁を紫さんに見せつけて、文さんは倒れ込んで横になった。彼女は、雨の降りしきる風景を眺めている。空に浮かぶ雨雲は、ますます厚くなっており、大地が底冷えする様な冷気を纏い始めていた。その上、波紋に満ちた水溜りがあちこちに現れている。

 

「なんだか、眠くなって来ましたよ」

 

 文さんは、欠伸一つして目を擦る。雨音が、それ以外の雑音をかき消して、ある種の静けさを齎したからだろう。私は、文さんのショルダーバッグから新聞紙を取り出して、その上に彼女が脱ぎ捨てた雨合羽を広げた。厚い雨雲で散乱して薄く淡くなった日光と高い湿度が相俟って、乾くには時間が掛かりそうだ。

 

「あら、水捌けが悪いのね」

 

 紫さんが、緑茶を口にしながら庭を見つめていた。私も釣られて視線を下げると、沢山の水溜まりが繋がって、庭一面が池に様変わりしている。水没した雑草が、澄んだ水中で波紋と共に水草のように戦いでいた。沓脱石も半ばまで水に浸かっており、飛び石も水槽に沈められた飾り石を彷彿とさせる。

 

「大雨の所為ですよ。水捌けは良い筈です」

 

 そこまで口に出して、私は文さんの革靴を思い出した。慌てて、縁側の下に放り込まれていた靴を探すと、それはぷかぷかと水溜りに浮きながら流されている。

 

「あ〜……」

 

 私は、縁側にまた新聞紙を広げて、ずぶ濡れの靴をその上に乗せた。そうして、恐る恐る文さんの方に目を向ける。しかし、彼女はすやすやと安眠して気付いていない。

 

「起きたら教えてあげましょう。それまでに乾けば良いけれど」

「紫さん、革靴は乾いても形が崩れてダメですよ」

「不運ね。買い替え時だと思って諦めてもらう他なさそうだわ。ほら、これで拭いてあげなさい。多少はマシになるかも」

 

 紫さんは、私に号外を手渡した。受け取ったそれに目を通すと、噂の橋の記事である。曰く、依神紫苑さんが梅雨の雨宿りで橋の下に居着いており、行き交う人々はその不運に当てられていたらしい。

 

「この号外、紫さんが話していた噂の記事ですよ。紫苑さんったら、困ったら頼ってと言ったのに。少し、様子を見て来ます。雨宿りなら家に──」

「依神紫苑と関わらないで。彼女が、明香に助けを求めに来た訳でもない。故に、貴女が顔を出す必要もない」

 

 紫さんは、強い語気で私の話を遮って、他人事のように冷淡に、ぴしゃりと言い捨てた。

 

「あの貧乏神は、関わる者全てに不幸を振り撒く。縁を切っておくのがお互いの為よ」

「けれど、それでは紫苑さんが可哀想です。彼女が、悪事を働いた訳でもないのに」

「あの貧乏神は、投資詐欺の噂を広めていたわよ。それに、噴き出した石油を担保に返済の目処無く借金して破産していたわ。その上、不良天人と連んで暴れた事もあった。彼女の不幸の一部は、身から出た錆よ」

 

 紫さんは、指折りしながら紫苑さんの悪事を挙げ連ねた。その所業は多岐に渡り、何れも擁護のしようがない。けれど、それを聞いた私の胸中では、ただ悲しみだけが深まっていく。

 

「全ては、紫苑さんが貧困に追い詰められた末の事でしょう。誰かが彼女を助けてやれれば、悪事なんて働かなくて済んだのに」

「それは、助けてみなければ分からない推測ね。けれど、依神紫苑を助けるならば、彼女の不幸の一端を引き受けなければならないのよ?」

 

 紫さんの心配そうな眼差しを受けながら、私は外行の準備をして家を出る。雨に濡れないように大きめの番傘を開き、其処彼処の水溜まりを避けながら、柳の運河の橋を目指した。恐らくそこに、紫苑さんがいる筈だから。

 

 

 

 

 

「うう……寒いなあ……」

 

 依神紫苑は、通りの路地裏で雨を凌いでいた。彼女は、人の往来が多い橋で乞食をしていたが、大雨で慌てて路地裏に駆け込んで身を潜めたのだ。

 

「雨だね〜……」

 

 紫苑は、立ち並ぶ家屋の外壁に身を寄せてへたり込んだ。彼女は、枯れ枝のように細い四肢に、ぶかぶかで不恰好なパーカーとスカートを着ていた。それも、雨でぐしょ濡れになって見窄らしく薄汚れ、請求書や督促状が彼女の困窮を表すように纏わり付いている有様だ。

 

「ひもじいね……」

 

 紫苑は、最近で一番のご馳走様を思い出して飢えを紛らわせようとした。彼女の脳裏に浮かんだ食事は、川辺で毟った雑草と雨水のスープである。幾分か気分が良くなった彼女は、不吉な黒猫のぬいぐるみを抱きしめて微睡んだ。

 だが、寝ても腹は膨れない。そう考え直して、紫苑は草むしりに向かおうとした。けれど、そこで彼女の胸中に微かな怒りが芽生える。雑草だの雨水だの、人の食い物では無い。もっと美味いものを食いたいのだと。

 

「おにぎりとか、お茶とか……」

 

 人並みの食事を思い浮かべると、紫苑の腹の虫が暴れた。どうすれば食事にありつけるのかと、彼女は頭を絞った。普段なら、どうせ無駄だろうと考えを投げ出して諦めるところである。しかし、今回は怒りが勝った。

 

「むぅ……」

 

 里の人々は、額に汗して真っ当に働き、真っ当な飯を食っている。なんて羨ましいんだろうと、紫苑は妬んだ。それと言うのも、彼女はどれだけ努力しても必ず上手くいかないからだ。理不尽である。そう、紫苑は腹を立てた。

 

「ムカついてきたね!」

 

 紫苑は弱々しく拳を握りしめた。ボロボロになって風に吹かれていた鳥獣伎楽のビラには、ロックとは理不尽に中指を立てる事だと格言風に書かれていた。ならば、ロッカーになってやると彼女は決意する。

 

「やってやるー!」

 

 紫苑は、努力して真っ当に生きられる奴らがムカつくと吐き捨てた。彼らが美味いおにぎりを食べて綺麗事をほざいている間、彼女は青臭い雑草を口に突っ込んで雨水を啜るのだ。彼らは努力しろなどというが、生きる為にこれ以上の努力が何処にあると言うのだろう。

 

「幸運な奴らめ……」

 

 貧乏神として生まれる不幸を知らない軟弱者ども。たとえ何をやっても上手くいかないという理不尽を教えてやる。私が生涯どれだけの不運に苛まれて来たか思い知るがいい。お前たちに雑草で口を切る痛みを味あわせてやる。紫苑は、そう固く決意した。

 

「出会う奴らみんなだ!」

 

紫苑には、ただ二つ得意な事がある。不幸になる事と、不幸にする事だ。彼女は、これから出会う人間全員を無差別に不幸にしてやると息巻き、普段は抑えていた不運を解放して里の通りを練り歩いた。

 

「誰でも良い……」

 

 大雨故、通りには誰もいなかった。しかし、彼女は目を皿のようにして通行人を探す。ぬかるんだ道のりを裸足で踏み締めて、びしょ濡れになった髪とそれを伝う雨滴を払いながら、遂に彼女は不運な人間を見つけ、その眼前に飛び出した。けれど──

 

 

「紫苑さん? 良かった、探してたんですよ」

 

 

 その人間は、紫苑を見るなり明るい笑顔を浮かべて、自分が濡れるのも厭わず番傘を彼女の元に寄せた。

 

「ずぶ濡れじゃないですか。やっぱり、様子を見に来てよかった。梅雨で暫く悪天が続きます。行く宛がないなら、ウチに来てください」

 

 紫苑は、逡巡した後に不運のオーラを引っ込めた。その表情には、出鼻を挫かれた釈然としない締まらなさと、負け犬じみた卑屈な微笑みが滲んでいる。けれど──

 

「おにぎりが欲しい。それと、あったかいお茶も! 綺麗な服と、お風呂と、風雨を凌げる部屋と、それから──」

 

 紫苑の口からは、切実な願いが止め処なく溢れ出す。その全てを黙して聞き届けた少女は、にっこりと笑顔を浮かべて答えた。

 

「大丈夫。ちゃんと全部、叶えますから」

 

 

 

 

 

「明香は本当に──優しいのね」

 

 半ば呆れ顔で私を抱きしめる紫さん。一方、紫苑さんは食卓に並べられた軽食を口にして目を輝かせていた。私にとっては普段の食事でしかないおにぎりや粗茶であっても、彼女をあんなに喜ばせる事が出来るなら嬉しい限りである。

 

「お風呂も入って良いよね?」

「ええ、沸かしておいたので入れますよ。着替えは……適当に私の服を着てください」

 

 弾むような足取りで、紫苑さんは風呂場へ向かった。その後ろ姿を見つめて、文さんは閉口している。暫くしてから、彼女は私に気不味そうな表情を向けた。

 

「まさか、本当に貧乏神を連れてくるなんて……正気ですか? 私は恐ろしいので退散しますよ。貧乏が移っては困ります。雛さんに厄祓いしてもらわないと……」

 

 文さんは、荷物を纏めて風のように素早く逃げ去ってしまった。とは言え、それが普通の反応だろうと思う。紫さんは逃げないのかと聞いてみると、彼女は私を抱きしめる力を強めた。

 

「逃げないわよ。明香が不幸になるのなら、私も一緒に不幸になるわ。そして、いつか共に笑い話として懐かしみたい」

「どうせなら、幸せな思い出話にしたいです」

「それもそうね。けれど──」

 

 紫さんは、バツが悪そうに目を泳がせた。

 

「明香の急須、割れてしまったの。値打ち物の形見だったのに」

 

 私は、寝耳に水な話を打ち明けられて呆然とした。けれど、暫くして我に返り、紫さんに問い返す。

 

「怪我はしませんでしたか?」

「ええ、大丈夫よ。破片は集めて新聞紙で包んでおいたわ」

「良かった。手足を切ると大変ですから」

 

 紫さん曰く、紫苑さんに出す粗茶を淹れ終えた途端に、ヒビ割れて崩れてしまったそうだ。きっと、貧乏神の不運に当てられてしまったのだろう。お茶を淹れ終えるまでよく保ったものだと、私は寧ろ感心した。

 

「良くないわよ。大事な形見でしょうに」

「ちゃんと、目に写ってますから」

 

 紫さんが、私の頬に指を伝わせた。すると、水滴が引き伸ばされたような感触がする。それが涙である事に気付いたのは、私の口元に添えられた紫さんの指が、独特なしょっぱさを感じさせたからだ。

 

「これは欠伸ですよ。今日は早起きしたので、眠いのです」

「私もよ。お昼寝日和ね」

 

 紫さんは、私を包み込むように添い寝をして、微かな寝息を立て始めた。考えてみれば、彼女は普段から半日は夢の中にいるような生活をしている。きっと、彼女の方が私よりずっと眠たかったのだろう。

 

「どうして、紫さんは早起きしたのですか?」

 

 紫さんからの返事は無い。すっかり眠り込んでいるようだ。そこで、彼女に聞かれたら顔から火が出そうな台詞を呟いてみた。

 

「私に、会いたかったからですよね?」

 

 何の用事も、他愛も無く、私と会う為だけに紫さんが早起きしてくれたのだと思うと、私は胸が温かくなった。

 

「おやすみなさい、紫さん」

 

 紫さんの頬におやすみのキスをして、私も微睡んだ。降り頻る雨音と、穏やかな寝息だけがする。寝付こうと目を瞑ると、畳の香りがして、湿気て柔らかくなったイグサが肌を撫でるのを感じた。寝返りを打つと、紫さんの腕が私に纏わりつく。

 

「うぅん……」

 

 私は、湯たんぽではないのだけれど。そう困りながらも、紫さんを起こさないように、されるがまま息を潜めた。すると、自分が幼子に捕まったぬいぐるみのように思えて、くすりと苦笑する。

 

「明香ちゃん!」

 

 風呂上がりの紫苑さんが、元気良くやって来た。静かにしてねと、口元に指を当てるジェスチャーで伝えて、私は起き上がろうとする。けれど、彼女は畳に飛び込むように横になって頰を緩ませた。

 

「私も、眠いから昼寝するよ」

 

 笑顔でひそひそと、紫苑さんが呟く。まともな昼食や入浴、そして地べた以外の寝床など、いつ以来だろうかと。彼女の喜色を湛えた表情を見ていると、私まで嬉しくなってくる。

 

「良かった……」

 

 この浮世には、掛け替えの無いものが無数にある。紫苑さんの笑顔も、その一つだろう。これからも、彼女は数え切れない不幸に苛まれ続ける。けれど、一時であれ笑顔になれる幸せが、一つでも多く彼女の人生にありますようにと。

 

「大丈夫?」

 

 咳き込む私を見て、紫苑さんは心配そうな表情を浮かべた。しかし、頭痛と悪寒を感じて、私は身体を丸めて震える。どうやら、見事に体調を崩したようだ。

 

「あゝ……はは……」

 

 私は自嘲した。調子が悪いのに、大雨の中を出歩いたりしたからだろう。紫さんや紫苑さんは、病に罹る心配はないだろうけれど、只の人間というのは、やはり脆いものだなあと思う。

 

「ごめん……ちょっと……休むね」

 

 暫く寝込みそうだと、私は急速に悪化していく体調を感じながら予感した。全身の倦怠感と、鼻や喉の奥が焼けるような感覚を味わい、気持ちの悪い冷や汗が吹き出す。

 

「明香?」

 

 異変を察した紫さんが、私を見て雰囲気を変える。彼女は、私を抱き抱えてスキマを開いた。

 

「あわわ……」

「慌てる必要はないわよ」

 

 慌て始めた紫苑さんを、紫さんは淡白に宥めた。

 

「明香自身の選択の結果よ。彼女だって覚悟の上。貴方に非はないのだから、ゆるりと寛いでいなさい」

「私、ヤケになって不運を解放してたから──ちゃんと医者に診て貰った方が良いよ!」

「なるほど、そうしましょう」

 

 スキマの向こう側の風景が目まぐるしく移り変わり、やがて見知った竹林の風景が写った。永遠亭の付近である。

 

「さあ、行くわよ」

 

 

 

 

 

「一つ、聞きたいのだけれど」

 

 静まり返った診察室に、八意さんの重苦しい声が響く。

 

「空を見て変化は無かった?」

 

 私は、質問の意図をはかりかねながら、診察室の窓から昼下がりの曇天を見た。そこで、八意さんは得心がいったように声をあげる。

 

「あ〜……今日は曇りだったわね。明香の症状は、以前と同様のウイルスによるものよ。衛星トリフネから持ち込まれたそれは、抗ウイルス薬で治療したけれど、根絶はできずに潜伏感染していた」

 

 カルテに淡々と所見を書き込みながら、八意さんは説明を続ける。

 

「つまり、この病は貴方の免疫低下に伴って何度でも再発する。定期的なワクチンの接種で抗体価を維持して、発症すれば抗ウイルス薬で治療しましょう。問題は……症状よ」

 

 八意さんは、言葉を選びながら悩ましげに語る。

 

「このウイルスが引き起こす症状は、発熱、悪寒、倦怠感、そして……進化。貴方が有する能力は、発症の度に発展していく筈よ。これは、不可逆の問題を有している」

 

 八意さんは、例え話をしてくれた。もし、人間が新たな形質を得た時、その存在をどう分類するのかという博物学的な例えであった。その話では、私は蓬莱人同様に人間でなくなっていた。

 

「私たちは、飛行能力を顕著に獲得していった恐竜達の一部を鳥類に分類した。けれど、そうした進化とそれに伴う変化は途方もない世代と年月の中で緩やかに進行していくもので、時代の移り変わりと同じく明確な節目がある訳ではない。けれど、このウイルスは異常な短期間で、次代に継承され得る異質な形質を発現させる。謂わば、強制進化ウイルスね。恐らく、地上人がトリフネ内での進化を加速させる為に人工的に設計したもの。それが、貴方に感染して、しかも異能を進化させる結果になった。奇跡的な巡り合わせよ」

 

 興奮した様子で、八意さんは私の目をつぶさに覗き込んで観察した。彼女は、まるで新種の生物を発見した学者のようだ。

 

「明香の能力は、遺伝子に刻まれて貴女の子孫に受け継がれていき、何れは全人類に普及するかもしれない。昨日の夕飯を想起できるのと同じように、その目に写したものを見返せるようになる。その時、異能は異能でなくなっているでしょう。鳥類が空を飛ぶ事が異常でないように」

「ごほっ……」

「御免なさい。病人にする話ではなかったわね。処方箋を出すから、鈴仙に薬をもらって頂戴。お大事に」

 

 私は、診察室を去ろうとした。けれど、ふと疑念を抱いて立ち止まる。

 

「私の保持するウイルスが、他者に感染する可能性はありますか?」

「いいえ、無いわ。このウイルスは、自らの遺伝子を宿主の遺伝子に組み込んでいる。貴方の神経節等に残存しているウイルスも、自らを複製する際に宿主の遺伝子の一部を取り込んで変化している。今回採取したウイルスのゲノム解析結果を、前回の発症時に採取したウイルスの解析結果と比較して判明したのだけれど……」

 

 八意さんは、受け入れ難いかもしれないと断った上で、教えてくれた。

 

「貴方はある意味で、このウイルスの子孫であり、残存するウイルス達の先祖でもある。もう、このウイルスは他者に感染しない。代わりに、貴方と言う莫大な細胞の塊が、遺伝子の複製を繰り返す」

 

 私は、頭が痛くなるのを感じながら診察室を出た。その後に、鈴仙さんに処方箋を渡して待合室で待っている間、紫さんに聞いてみる。

 

「ねえ、紫さん。人間って何?」

「それは哲学的な問いね。私から言わせれば、人間なんて存在しない。ただ似通った無数の個体があるだけ。なんてね」

「私は、まだ人間だよね?」

「貴女は、雲見明香よ。それだけで十分じゃないかしら。それ以外に、何か欲しいの?」

「う〜ん……」

 

 まあ、細々と悩む程のことでもない。早く薬を飲んで体調を戻そう。私はそう考えを切り替えて、鈴仙さんの呼び出しに答えた。

 

「あ、明香さん。お大事に。お支払いはこれだけです」

 

 私は、その請求額に一瞬硬直してから、財布の中身を根こそぎ取り出して精算した。紫さんが、必死に口元を隠して笑いを堪えようとしているのが見える。

 

「ごめんなさい。人の不幸を笑いたくはないのだけれど……こうまで見事に不運に捕まっているのを見ると、どうしても面白くて」

「……」

 

 何とも、不幸である。まあ、覚悟はしていたけどさぁ……。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。