最近は、時節の移り変わりも激しく
すっかり冷え込んで参りましたが
お変わりなく、お楽しみ頂ければ幸いです。
聖域
私は、ゆっくりと目を覚ました。秋めく早朝は、涼しく快適だ。布団から身を起こしてみると、ふと甘美な香りが庭の茂みから漂ってくる。夏の青臭さに慣れきった鼻は、敏感にそれを嗅ぎ分けた。
「花と果実の香りかな」
実り豊かな季節故か、空気も夏と違って香るものなのだろう。私は、秋の芳香を楽しみながら今日の予定を想起した。それと言うのも、今日はちょっぴり忙しい日になるのだ。
「寝起きか? ユニークな寝癖だな」
縁側に舞い降りたオオワシが、私の頭を見て苦笑する。
「まるで、饕餮様の角のように捻じ曲がっておる」
「ホントだ。髪を乾かさずに寝たせいかな」
私は、オオワシを室内に招く。すると、彼は卓上に飛び乗って毛繕いを始めた。人間の子供程の体躯をしたオオワシが、嘴で羽をゆったりと突いている穏やかな様子は、見ている此方まで気が落ち着く。
「それで、出発は何時だ?」
「直ぐにでも」
「寝癖ぐらい直さんのか?」
お洒落して行く場所でもないと、言いかけて私は口を閉ざす。お洒落は大事だと、豊聡耳様が仰っていたのを思い出したからだ。
「そうだね。少し洒落ていこう」
私は、塒を巻く髪を櫛で解き、荷物を詰め込んだ鞄を背負って用意を済ませた。行き先は、聖域にある浅間浄穢山である。其処には不変を司る神様がいて、彼女ならば私の人間離れを加速させる進化を断ち切る事ができる……らしい。
「しかし、私は八雲紫は好かぬ。あの妖怪は、お前を混沌の中に放り込んで楽しんでいるのではないか? きっと、お前が死ぬ以外ならどんな事になろうと、受け入れる危うさがある」
この旅行は、紫さんの提案である。私が人間でいる為に最も確実な方策だと、彼女は胸を張っていた。 八意さんに頼むのでは駄目なのかと聞いてみると、月の民に近過ぎる立場故に駄目なのだと諭された。
「立場を気にしている場合か? 月の民だろうが畜生だろうが、お前の為を思えば選り好みしている余裕は無いと思うがな」
「紫さんは、月の民に関しては私より詳しいよ。その彼女が駄目だと言うのだから、きっと何かあるのだろうね」
ともあれ、為すべき事は明らかだ。
「さあ、オオワシ。先ずは聖域を目指そう。私が未知の化物になっちゃう前に」
「化物になった方が、何かと便利ではないか?」
「便利かどうかで人生は捨てられないよ」
「不便を楽しむ余裕に満ちているようで何よりだ」
かくして、私たちは余裕綽々と秋めく山へと向かうのだった。
「聖域か。仰々しい名前にしては、存外変哲のないものだね」
私は、妖怪の山の一角にある聖域に辿り着いて周囲を見回した。落葉樹と常緑樹が入り混じっているようで、山のその他の場所と同じく、紅葉した木々が疎に点在している。風に吹かれて落ち葉が舞い、揺らめく枝葉と共に木漏れ日が差したり翳ったりしていた。
「排他的な山姥が他種族を締め出した土地だろう。山にとっては住人が変わった程度だ。景色が変わるものでもなかろう」
「詳しいね」
「私が、幻想郷に何故入り浸っているか忘れたのか? 地上の偵察だ。地上の地政に詳しくなるのが仕事だ」
「詳しくなってどうするの?」
「さあてな? それを考えるのは饕餮様……いや、剛欲同盟員としては、自分の頭で考えるべきだな」
少しの間、オオワシは考え込んでから答えた。
「まあ、友人の役にでも立てば良かろう」
「殊勝だねえ。毎度ありがたいよ」
オオワシと雑談しながら聖域の深部へ進んでいくと、不思議な事に酒の匂いが辺りに漂い始めた。私たちは、二人して首を傾げて匂いの元を辿る。
「彼方からだな」
「山姥達が、宴会でも開いてるのかな?」
するうち、木々の開けた場所に出た。其処には、巨大なバケツのような仕込み桶が安置されている。里の酒蔵で見られるのと瓜二つのそれからは、濃厚な酒の香りが漂っていた。
「これは……煉酒?」
何故、こんな辺鄙な聖域にお酒があるのだろうか。疑問に思って、私は仕込み桶に近づいて見た。それは木製で、古びているが丈夫でしっかりした作りである。直径も深さも3m程あり、足を踏み外して中に落ちれば溺れてしまえるだろう。
「誰かがお酒を作ってるみたいだね」
「不用心だな。いや、他所者など皆無な場所柄故か。少し味見してみよう」
「ダメだよ。お腹を壊すかもしれないでしょ。得体の知れない物を口にするのはお勧めしないよ」
「なんだい、失礼な奴らね。こいつは由緒正しい煉酒で、太古から得体が知れてる代物だよ」
急な声に振り向いてみると、そこには珍妙な格好をした少女が一人佇んでいた。彼女は、如意棒を長い猿の尾で引っ掴んでおり、猿の毛皮を思わせる明るい茶髪を結んでおさげにしていた。その服装は、色とりどりの布地をツギハギにしたもので、有り合わせの布を粗雑に利用したような野生的な印象を抱かせる。頭部には、金色の頭飾りの輪が嵌められていて、西遊記に語られる孫悟空を彷彿とさせた。
「私は孫美天。聖地に住まうはぐれ猿よ。さあ、聖域に迷い込んだはぐれ人間よ。即刻立ち去るか、さもなくば往ね!」
大声で名乗りを上げた孫さんは、如意棒を構えて私を睨みつけたのだった。
「私たちは、聖域の地下に用があるだけです。この土地を荒らしたりはしません」
私は、剣呑な雰囲気を放つ孫さんを説得しようとした。しかし、彼女も幻想郷の住人に普遍的な好戦的気質を有しているらしい。
「私は貴方を追い払いたい。貴方は先に進みたい。万事疎漏ない。ほら、かかってきなさい」
取り付く島もない。孫さんは、今にも如意棒で殴りかかってきそうな様子だ。オオワシも、彼女の所作を見逃さずに警戒を深めていた。
「明香、気をつけろ。彼奴からは、血生臭い畜生の匂いがする。禁忌を破った恐るべき罪禍の匂いだ」
「鼻が効くオオワシだなんて珍しいねー。その通りよ。私は、この聖地の霊を喰らって猿神となった」
孫さんのあっけらかんとした言葉に、オオワシは目を丸くした。
「地獄行き間違いなしの所業だぞ?」
「明日の事さえ分からぬ此岸で、彼岸の事まで想って生きるだなんて、鬼も笑うに違いないわ」
オオワシは、呆れた様子で閉口した。しかし、はぐれ猿に聖地の霊を食らう知恵などある訳がない。恐らく、誰かに唆されたのだろうと、彼は推察していた。
「まあ、お酒でもどうぞ」
私は、荷物から里のお酒を取り出して孫さんに差し出した。なにせ、自分でお酒を作っている人だ。きっと、お酒が好きに違いない。
「これはご丁寧に。美味そうな酒ね」
「この煉酒も、良い香りですね。そう言えば、里の酒場で煉酒がメニュー入りしていたのですが、まだ一度も飲んだ事がなくて」
「それなら、少し味見していく?」
孫さんは、煉酒を柄杓で掬って振る舞ってくれた。白く濁った粥のようなそれは、一見すると甘酒に似ている。口にしてみると、甘酸っぱい風味がしたが、その舌触りは滑らかで、その名の通りよく煉られているようだ。
「美味しいです」
「こいつは、お湯で割っても美味いんだよ」
「それは残念。白湯の持ち合わせは無いもので」
私は口惜しく思った。成程、この濃厚で芳醇な酒気漂う甘口酒を白湯で割ってぬるめれば、飲みやすく甘味広がる美禄となっただろうに。
「それで、どうして人間と動物霊が聖域に来たの? 此処は、余所者には何をしたって構わない無法地帯。余程の理由がないと誰も近寄らない筈よ」
隠す必要もないので、私は孫さんにこれまでの経緯を説明した。すると、彼女は首を傾げて不思議がる。
「理解できないわ。私は、知恵と力を求めて猿神になった。強く賢くならなければ、生き残れないからよ。貴方だって、そうじゃないの?」
孫さんは、私を諭すように言葉を続けた。
「変化が怖いの? 気持ちは分かるけど、変化を拒めば進化は遠のく。そして、淘汰されて消えていくのよ」
「それは違うよ。何せ、月に御座す錦上の民は常しえに変わらず存続している」
「そうなの? でも、貴方は月の民じゃないし、此処は地上でしょ?」
裏表の無い率直な見解に、私は返答できなかった。今の私のままで、人間で居たい。それは、確かに変化を拒む月人然とした我儘なのかもしれない。そう考え込んでいると、私の胸中を察したのか、オオワシが口を挟んだ。
「そうだ。此奴はとびきり我儘な人間なのだ。人間などさっさと止めれば良いものを、未練たらしく拘っておる」
オオワシが、険しい眼差しで私を見つめた。その体躯に比して小さな瞳は、しかし気迫に満ちている。
「人間を超えられる機会は、逃すべきではない」
「簡単にできる決心じゃないよ」
「へえ、まるで昔の私と残無様みたいね」
残無さん? 唐突に聞こえた名前に私は首を傾げたが、オオワシは合点がいったように頷く。
「成る程、お前を唆したのは日白残無か」
「残無様を知ってるの?」
「勿論、地獄の有名人だからな。直接会った事もあるが、まさか猿を唆す程の暇人とは思わなかった」
一拍遅れて、私も理解が追いついた。残無さんは、死者の霊魂を喰らい続けて鬼へと転じた人だ。彼女ならば、聖地の霊を喰らえばどうなるか想像がつくだろうし、孫さんを唆す事も容易いだろう。
「そうか、なら通りなさい。真っ直ぐ進めば、聖域の地下に繋がる洞穴が見つかる筈よ。猿達に案内させても良い」
樹上で枝が軋む音がした。見上げてみると、元気そうな猿達が枝に腰掛けて周囲を見まわし、鳴き声を上げながら一点を指差している。
「構わないので?」
「構わないわよ。だって、面白そうだし」
孫さんは、淡白に答えた。その予想外の返答に、私が呆然としていると、突風が吹いて、樹上の猿達が枝にしがみついた。風と猿とに揺らされた枝葉の隙間から差す木漏れ日が、紅葉した落葉と混ざりあって、暖かく明るい小麦色に染まって見える。
「面白そう……ですか?」
猿達が、風で揺られるのを楽しむかのように、軽い身のこなしで枝から枝へと飛び回っていた。その陽気で呑気な様子と、孫さんの笑顔が、彼女の言葉に偽りがない事を物語っている。
「退屈な日々が続くと、些細な変化も面白くなるのよ。特に此処は、畜生界とは違って平和そのものだから」
酒造りや地上での商売が一段落したら、畜生界の八千慧様の元に戻ろうか考えていると、孫さんはオオワシに愚痴り始めた。曰く、彼女は鬼傑組の吉弔八千慧の部下であるらしく、畜生界の喧騒が恋しいそうだ。
「吉兆? あゝ、あの冷血なヤクザか。物腰は穏やかだが、自分以外の全てを見下している横柄な女だ。何者も逆らえない暴君であろう。あんな者の下につくとは、お前も物好きだな」
「そんなに冷酷な人じゃないよ。部下の面倒見も良いし、意外と仲間想いなんだ。けれど、私がずっと地上に居るから、八千慧様の面倒を見れてないの。以前みたいに無気力な腑抜けになってなきゃ良いけど」
どうやら、オオワシには話が通じなかったようだ。彼は、ぽかんと呆けて困惑していた。けれど、暫くしてから、彼は孫さんの話を受け流して話題を切り上げた。
「そうか。では、私たちはこれで失礼しよう」
「忙しないね。まあ、引き留めはしないよ。さようなら」
オオワシは、先へ進もうと私を急かした。その急な豹変に驚いているうちに、彼は私に憑依して勝手に足を動かし始める。らしくもなく、乱暴だねえ。
「待ってよオオワシ。そんなに急がなくても良いでしょ」
「急ぐともさ。埴安神袿姫の時のように、知りたくもない話を聞かされるのはゴメンだ」
素っ気ない態度や言葉とは裏腹に、オオワシは穏やかな目をしていた。血みどろの闘争を望む畜生達とはまるで違う、老人のような目付きだ。
「なにせ、彼奴の話を聞いてしまえば、きっと吉兆にも親しみを感じてしまうだろうからな」
「良い事でしょ」
「敵同士だぞ」
「敵を知る事から逃げるの?」
私は、少しだけオオワシに意地悪をした。彼に、正論を突き付けたのだ。私の体を乱暴に動かした事への意趣返しである。
「饕餮さんの為を思うなら、敵の情報も大事でしょ。敵を頭の中で思い動かせるぐらい緻密に理解できれば、謀略にも役立つ」
「胸が痛まないか? そこまで詳しく理解できる相手ならば、もう友人にだってなれるだろう。そんな者と争うなど、馬鹿げている」
オオワシの答えに、私は苦笑した。剛欲同盟の理念に従い、争いを避け、敵と手を結び、最後に利益を貪ろうとして来た彼には、結局お人好しな精神が根付いていたのだ。
「痛むよ。だから、争いは嫌い。オオワシと一緒だね」
私は、簡略に答えて聖地の奥地へと自ら歩を進める。オオワシは、何かを答えようと一瞬嘴を開いたが、それきり黙り込んで私に追従したのだった。
「見えてきたね。あれかな?」
暫く進んだ末に目に写った洞窟は、大地に走る亀裂と言った方が近い有様だった。岩盤の隙間が口を開けるように広がっていて、危険な雰囲気が漂っている。
「さあ、行くぞ。心の準備は良いか?」
オオワシは、私に憑依して身体の主導権を握った。地に足付けて進めるのも最早此処まで。紫さん曰く聖域の地下は、人間には立ち入る足掛かりさえない、地下大空洞であるらしい。
「良いよ。行こう」
私が頷くと、オオワシは荷物からランタンを取り出して灯りを付けた。香霖堂で仕入れた電気式の照明で、腰から下げて両手を空けられる優れ物だ。
「洞窟探検だ。ワクワクするね」
「気軽なものだな。命懸けだぞ」
オオワシに嗜められて、私は真面目に洞窟を覗き込む。すると、視界にノイズが走った。目を凝らして見ると、断片的な異界の風景が目に写る。それらの風景は、脈絡のない支離滅裂なもので、都会のビル群や異邦の風車、宇宙ステーションから月の都まで、雑多な情報が渦巻くように混濁している。
「これは……」
何かを伝える為の情報ではないと、私は直感した。強いて言うならば、アルバムを落として不意に写真をばら撒いてしまったような──意図せぬ漏洩。
「八雲紫め……」
私に憑依しているオオワシも同じ風景を目撃したようで、彼は吐き捨てるように紫さんを詰っていた。
「あの妖怪女めが、何が地下に居る神様に頼めだ。そんな簡単な話では済みそうにない。彼奴が私たちに教えなかった秘密はどれだけあるのだろうな?」
「或いは、紫さんも知らない何かが起こっているか、だね」
とは言え、他に道はない。私たちは気を引き締めて、暗闇と幻覚に満ちた洞窟に飛び入ったのだった。