モンゴル高原について
ウマ娘に遍く根源する心象風景がある。
それは遥か平らかな青い草原。脚の運びを邪魔するものは何一つない。ひたすら真っ直ぐに走り続けて、されど途切れることの無い
昼でも夜でも好きなだけ駆け抜け、何時でも疲れたら草へ横たわり、お日様を浴びて、風を胸一杯に吸う。
息を整えたら満たされるまで存分に飯を食って、ぐっすり寝て、朝日が昇ると共にまた駆ける。
ああウマ娘とは、その風景から生まれた生物なのだと心の底に信仰がある。この景色こそ、
目を閉じれば今にもまた蘇るのだ。
「駆けを愛する者は私に続け」
かの人は言って、取り巻くウマ娘たちは跪き問うた。君よ、何処へ行くのですか。
「
彼女は宣言し、皆の先頭を駆け出した。
付いていきたい、付いて行かせて欲しい。君よ、共に走らせ給え──そうして彼女たちは史上空前の《遠駆け》を開始した。
彼女らこそは広大無辺なる草原の覇者。
ウマ娘朝モンゴル帝国。
◆
如何にしてウマ娘朝モンゴル帝国が成立したか。それには一番に人口の要因があげられるだろう。
モンゴル高原というのは厳しい土地である。雨に恵まれず大気は荒涼とし、夏は四十度に迫り、冬は零下三十度を下回った。とても農耕向きの土地とは言えず、古来、人々は羊を追い、獲物に弓を引いて暮らしていた。
ウマ娘たちは、この厳しい土地で、しかし、のんびり平和に暮らしていた。
疾駆すること──彼女らにとって、最も重要な事柄を、モンゴルの平野は存分に叶えてくれたからだ。
一所に定住をしない遊牧生活は、ウマ娘の本能を十全に満たす、理想的な生活スタイルであった。
厳しい土地に適応したモンゴルウマ娘たちは、小柄なものの長距離移動に適した頑強さと、過酷なまでの寒暖差をものともしない忍耐力を備えていた。また、第一の欲求が満たされているためか、穏やかな性格だったとされる。
特筆すべき中世モンゴルの特徴として、ウマ娘の人口比率が高い事があげられる。
本来ウマ娘というのは、人口的マイノリティに属するが、中世モンゴルは一つの例外だった。何故か。
答えは移住者の多さにある。
ウマ娘というのはニンジンが好きである。
当時のウマ娘たちも、多分に漏れない。中華世界からニンジン伝来の中世初期以降、モンゴルウマ娘たちはニンジンに夢中になった。
しかし、畑を持たないモンゴルウマ娘たちは、南方の行商人から買い付ける他、手に入れる手段が無かった。
それ故、モンゴルウマ娘は訪れる商人たちを《喜びをもたらす者》として敬い歓迎し、ニンジンを最高級品として崇めたらしい。
さて、行商人には荷運びの人材が要る。歴史上各地でそうだった様に、荷運びの職にはウマ娘が重用された。
ニンジンを行商に来て、大変歓迎された荷運びのウマ娘は、そこでモンゴルの草原を目にした。
彼方まで続く果てなき草原。好きに駆け回る幸福そうな同族。気ままな遊牧生活──その景色が本能に訴えかけるものがあった事は、想像に難くないだろう。
遠く商いに来たものの、帰りたくないと言い出す荷ウマ娘が続出し、そんな我儘をモンゴルウマ娘たちは快く受け入れた。
移民が増え、更に幸福度が高いため出生率が増える。ウマ娘が増えるからニンジンの需要が高まり、行商人が増える。行商人が増えれば移民が増える──かくしてモンゴルウマ娘の人口は、ニンジン伝来の中世初期以降、徐々に増えていったのである。
移民の流入、同時に思想の流入はモンゴル高原の変質をもたらした。
元々モンゴルウマ娘たちは穏やかで諍いを好まない性格だった。しかし人口増加がモンゴル高原の許容量を越し、彼女らの広い生活空間を互いに侵食する程になった時、事態は急変した。
好きなだけのびのび暮らしていたウマ娘たちは、愛するそれが失われるかもしれないと恐れを抱き、激しい縄張り意識へと繋がったのである。
ウマ娘の増えた当時のモンゴルは、数十の部族単位に別れていた。部族とは、毛並みであったり脚質や気性であったり、何とはなく気の合うウマ娘たちと(自由なウマ娘たちは血筋で結び付く事はむしろ少なかった)、少数の人間の共同体である。
殆どの場合、ウマ娘が族長を務めており、部族の意志決定を担っていた。
以前には、お互い助け合っていた諸部族であったが、以降は部族間抗争が繰り広げられた。モンゴルウマ娘たちの、ただ平野を愛する気持ちは凄まじいものがあり、抗争の激しさも尋常ではなかった。
数十年に渡る流血の時代があり、永遠に混迷が続くと思われたモンゴル高原であったが──遂に全部族を平定するウマ娘族長が現れた。
その名をテムジンと言う。