蒼きウマ娘 〜ウマ娘朝モンゴル帝国について〜   作:友爪

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ポーランドの有翼駆兵について

 国内反乱を抑え、後進らの活躍に伴って、ポーランド王はめっきり老け込んだ様に見えた。

 老境に達した彼の髪は真白く、豊かな顎髭も同じであった。

 体力の衰えから、盛んに行っていた国内行幸も徐々に減った。宮殿内に籠る事が多くなった王の足腰は益々弱り、段差の昇降に御者ウマ娘の手を借りる機会がしばしばであった。

 

「おうさまー」

「おうさまあそんでー」

「おじいちゃー」

 

 かつて、王宮内を駆け回っていたレグニツァ駆士団──そのまた子ウマたちに囲まれて、白髭を引っ張られる姿が見られたらしい。

 ウマ娘に対しては「ほっほっ」と笑い、常に寛大であったポーランド王であったが、自身の跡継ぎ(むすこ)に対しては非常に厳しかったという。

 眼鏡ウマ娘に「決して贔屓せぬ様に」ときつく厳命し、既に宮宰となっていた彼女は、王の言い付けを忠実に守った。

 左手に本を開き、右手に鞭を握り、そして腰に長剣を佩いて行われる《勉強会》は、古代スパルタさながらの厳しい教育訓練であった。

 鞭にしばかれ、ひいひい言いながら勉強する、若かりし王太子の姿があったという。

 

 ポーランド王は西の隣国、神聖ローマ帝国が、跡継ぎ不在のために内乱状態と化した歴史に学んでいた。

 王は貴人の責務(・・・・・)を十分に果たし、正妻との間に二男三女に恵まれ、王朝の継承問題は発生しなかった。

 

 なお、末子である三女はウマ娘として生を受けているのだが──

 

 三女が産声を上げたその日、欧州一のウマ娘愛好家である改悛王は、飛び上がって歓喜した(ヒト間からウマ娘が産まれるのは珍しいため)。

 一晩眠らず十字架に祈りを捧げた翌朝、神に感謝の意を伝えんがため、祝祭と記念レースの開催を大々的に宣言する──政治に私情を持ち込まなかった改悛王の、数少ない権力の私物化であった(結果的に国民は喜んだので、善政の一環とは言われる)。

 後年も三女の誕生日には、神に謝意を伝えるレース兼祭りを毎年開催した。

 そのため、現代ポーランドにおいても、この日は最も名誉とされるレースが開催され、ウマ娘が主役の祝祭日となっている。

 

 さて、宮宰の厳しくも優しみある教育の末、長男は立派な王太子へと成長した。

 稀代の名君である父王に対し《凡庸王》等と言われがちな次王であったが──そもそも、世界史に燦然たる《改悛王》と比較される事自体が残酷であろう。

 

 客観的事実に着目すれば、王権の引き継ぎはつつがなく行われているし、家臣の進言に耳を傾け、自発的に思考し発言の出来る賢王であった。

 二代に渡って仕える諸侯団《改悛王の賢人衆》からも堅実さを認められ、同じ先生(・・)を持つ同門としても関係良好で、国内政治は非常に安定していた。

 

 そしてウマ娘の事を愛し、また愛された。妹ウマ娘(改悛王の末子)の指導も直々に務め、目立った結果こそ出さなかったが「お兄様」と妹に慕われる良きトレーナーであったという。

 上記等々から、次王はポーランド王国黄金時代を立派に継承したと言えよう。

 

 概ねの権力移譲を済ませ、今や()()()と呼ばれる様になった《改悛王》は、安心故なのだろうか、病気がちになってゆく。

 しかし、病床にあったとしても、彼は勉学を止める事は無かった。むしろ晩年こそ、壮絶な人生経験を羊皮紙上に落とし込む、最も活発な時期であった。

 中世随一の学者は、自ら学び得た全てを、可能な限り文字に書き残そうとした。早朝から日暮れまで羽根ペンを走らせ、遂に腕が動かなくなれば、口述筆記で記録を残した。

 最晩年、改悛王はこう記した。

 

『運命とは全く数奇なものだ。

 もし、レグニツァ平原の悲劇が無かったとすれば、あの時の傲慢な若者は、暗君として史書に残されていた事だろう。

 もし、我が御者が水を恐れなければ、こうして天寿を全うする事は無かっただろう。

 もし、あの水害が起こらなければ、王国は精強な駆士団を得る事は無かっただろう。

 運命。それは何時も唐突に現れた。しかし何事が、これ幸福となり、不幸となり得たのだろうか。神の深謀遠慮なる事、暗愚たる我が身に測る事は終ぞ叶わぬ。

 ただ確かに、私は身に起こった全てに感謝して死んでゆく事が出来るのだ。これ程幸せな老人が居るだろうか──』

 

 とある春の日、遂に老王は危篤に陥る。家臣の面々、子孫の面々は彼の床の周りに集まり、激しく涙を零した。

 一番の忠臣であった御者ウマ娘と、特に可愛がられていた三女ウマ娘が、それぞれ左右の手を握った。四十年余の長い治世を全うした彼の腕は、全く疲れ果てていた。

 

 最期の会話が記録に残されている。

 王は深く目を瞑り、苦しみ、うわ言のように繰り返していた。

 

「分からないのだ、どうしても……」

 

 随一の賢者である彼に分からない事が、どうして周りに分かろうか。家臣と子孫たちは、おろおろと涙を流すばかりであった。

 しかし、王は不意に瞼をかっと見開くと、独り驚いた様に、左右の手を握るウマ娘に語りかけた。

 

「我が御者よ、我が娘よ。汝、駆けを愛するか」

「はい、何より愛します」

 

 ウマ娘たちは、素直に答えた。

 すると改悛王は、瀕死の病人であるとは思えない程、大笑いした(・・・・・)という。

 周囲が悲しみの涙を流す中、嬉し涙を流す王は満足そうに言った。

 

「わかる。」

 

 ポーランド《改悛王》崩御、享年六十六──黄金時代を一代で作り上げた彼は、正しく大王(・・)と呼ぶに相応しい人物であった。

 

 改悛王の最期の言葉は、己が運命を大きく転換させたウマ娘朝モンゴル帝国について述べたとするのが有力であるが──諸説あり、結論は出ていない。

 確かな事に、彼は研鑽の果てに、何か一生涯に渡る自問の答えを得たらしい。

 

 稀なる学者として残した彼の研究は大切に受け継がれた。 

 度重なる戦禍にも、子孫たちの懸命な努力により遺失する事無く、欧州史を紐解くための重要な一次資料となっている。

 

 また、欧州一のウマ娘愛好家として、欧州に競バを復興させた功績は、中世当時から文化人として尊敬された。

 旧都クラクフの宮殿跡博物館に立つ、戦車で駆ける姿を象った《改悛王と御者ウマ娘》の銅像の威容は、人間とウマ娘両者にとって、国民精神の拠り所として深く敬愛されている。

 

 

 ◆

 

 

 中世から近世に掛けての《レグニツァ駆士団》の発展は、非常に有名であろう。

 

 王に生命を救われ、駆士叙任を受け、戦場の苦楽を共にした初代駆士団長は、改悛王亡き後、すっかりしょんぼりしてしまった。

 全然覇気を失ってしまったのを、いち早く立ち直った眼鏡ウマ娘(曰く、人は何時か死ぬ。しかし、改悛王の説話を纏めた回顧録の執筆をライフワークにした辺り、深く想う所があった様だ)に激励されるも、とても槍を貫き通す心構えにはなれなかった。

 優秀な後進が育っていた事もあり「家族と静かに暮らすね」と言い残し(子沢山で有名。とても静かな家庭とは言い難かったらしい)、団長座を後輩に譲った。

 

 後を引き継いだ二代団長は、初代に倣い、ポーランド王直々に駆士団長叙任を受けた。

 以降、二代団長はレグニツァ駆士団の更なる精鋭の拡充に努める事となる。

 彼女は、戦で身寄りを無くした所を、初代の行軍中に拾われた子ウマだった。

 頭脳も身体能力も誰より秀でたウマ娘であったが、どうにも臆病な性格で、戦の折は何時も泣き喚き、部下に引き摺り出されていたという──しかし、いざ戦場に臨めば、幾百の戦いで生涯無敗を貫いた。

 歴代団長の中でも最強との呼び声高いが、本人は常に「辞めたい」とぼやいていたらしい。

 

 三代団長は、初代の娘であった。母の武勇伝に憧れて駆士を目指したと伝わる。

 彼女も同じく、時のポーランド王直々に駆士団長叙任を受けた。

 二代とは違い非常に勇猛果敢な性格であったが、理性より情熱が先行してしまう傾向があった。団長就任初期には、無謀な驀進の末、度々手痛い敗北を喫する。

 その代わりであるのか何なのか、団長の様子を心配した取り巻きの部下が非常に優秀に育つ。

 お陰で敗北も激減し、三代団長の時代にレグニツァ駆士団の組織構造は確立された。

 

 この様に、代々団長座が受け継がれていく過程で、レグニツァ駆士団の儀式的(・・・)な側面は徐々に拡大していった。

 その最たる例──駆士団長叙任式では、故事に倣い、全団員が装備を整え()殿()()()()()し、喇叭を吹き鳴らしながら王の間へ向かった。

 辿り着けば、王から問い掛けがある。

 

「そこな麗し、勇ましき君。汝、何者なりや」

 

 団長叙任を受ける者は、跪いて応じる。

 

「我、聖駆士ローランの末裔にして、レグニツァの名を戴く駆士の団、その長を志す者なり。然して、王の剣、王の盾を統べんと欲す者なり。願いの許し得たるが為、我が王の御前に参上仕らん」

 

 王は長剣を抜き、刀身に口付けすると、剣の腹を叙任者の肩に押し当てる。

 

「神の御名、また父祖改悛王の名に拠りて。汝、願う者へ、レグニツァ駆士団長位を授けたり──」

 

 と、団長叙任式を初め、時には国王をも巻き込んだ国事として、様々な駆士的儀礼が増えていったのである。

 

 武具武装にも変化が生じた。

 深紅の服の上から、艶やかな装飾が施された駆士甲冑を纏い、同じく深紅の毛皮の腰巻きを靡かせる──という格好が、揃いの勝負服として成立する。

 最も特徴的であったのが、一対の羽飾り(・・・・・・)を背負っている点であった。

 

 この大きな羽飾りこそが、ポーランド《有翼駆兵》と呼ばれる所以である。

 

 飾りの目的は、投げ縄対策とも、音を出して相手を威嚇するためとも言われているが──詳細は不明。

 単に「格好良いから」で済ませようとする研究者も居るが、まさかそれだけの理由の筈は無いと思われる。

 

 見た目が華やかになったとしても《有翼駆兵》の精強は健在であった。洗練化された訓練によって、より速い機動と、強い衝撃力を可能にさせた。

 非常に目立つ風情もあって、ポーランド軍の切り札にして、象徴的存在となっていくのである。

 

 

 ◆

 

 

 レグニツァ駆士団と対をなす存在にして永遠のライバル──《ベルリン駆士団》がある。

 

 艶やかな姿に変化した有翼駆兵とは対照的に、徹底的に無駄を削ぎ落とし、機能美(・・・)に優れたる銀の甲冑。それがずらりと横列する有様は、ナイフの切っ先を突き付けられた様な畏怖を抱かせた。

 

 レグニツァ駆士団が王直属の組織であるのに対し、ベルリン駆士団は結成当初から独立性の強い勢力であった(ドイツ地域の政治的混乱に拠る)。

 結成直後から、多数の人間と合流し東方植民(・・・・)に勤しむのが、平時の生業だった。純粋な戦闘組織としての枠を超え、一個のドイツ勢力としての性格を持っていたのだ。

 主として東プロイセン地域に進出した彼女らは、自然、ポーランド王国と隣接する事となる。

 

 ポーランド側からすれば、勝手に勢力圏に踏み込まれた感覚である。逆にドイツ側からすれば、これ以上の進出を阻む邪魔者であった。

 必然的に両者の関係は悪化──遂に十五世紀初頭、国境問題を契機として戦争が勃発した。

 両勢力とも、各々切り札である駆兵隊を前線に繰り出し、遂にタンネンベルク(またはグルンヴァルト、現在のポーランド北東部)の地で睨み合いに及ぶ。

 

《レグニツァ駆士団》と《ベルリン駆士団》正面から激突した場合、どちらが強いのか? 

 という命題は、しばしば歴史ファンの口の端に上るが──当時の人々にとっては、まこと現実的な深刻さを帯びた疑問であった。

 何せ、国家の盛衰に関わるのだ。そして、此処タンネンベルクの戦場で、雌雄が決するかに思われた。

 

 両軍は、数時間に渡り睨み合っていたが、中々自分から戦端を開こうとはしなかった。というのも、仕掛けたいのは山々だったのだが──肝心要の駆士団が先駆けを拒んだ(・・・・・・・)のである。

 

「産まれ出づ国に違いあれ、戴く主君に違いあれ。彼我は同じく聖駆士ローランの信奉者たり。彼らに槍打ち貫くは、即ち、己が胸に突き立てるも同然ぞ。かくの如き駆士の忠愛に悖る所業は断じて出来るものでなし」

 

 と、両団共に同じ主張であった。

 人間たちは、にわかに焦り「ではもし、向こうから攻めてきたらどうするのか」と尋ねた。

 駆士団長は問者をじろりと睨み、かかる不安を一笑に付した。

 

「その時こそ、志を喪った無頼の輩、まるで恐るるに足らじ。散々に打ち破って御覧に入れまする」

 

 と、おへそを曲げてしまった。

 頼みのウマ娘がその調子であったので、人間らは戦どころではなくなってしまったのである。

 ウマ娘の行きたくない所には行かない、という感情には強烈なものがある。人間たちは大いに焦った──明暗を分けたのは、その後の対応であった。

 

 ポーランド側は、髪を梳いてあげたり、蜂蜜を舐めさせたりして、何とかウマ娘のご機嫌を取ろうと悪戦苦闘した。

 対してドイツ側であるが、ウマ娘の言い分を聞かず、無理に敵にけしかけようとした──これが良くなかった。

 ベルリン駆士団のウマ娘は、完全に機嫌を損なってしまったのだ。

 

「そんな酷い事を言うなら、もうお家帰る!」

 

 と言い残し、耳と尾をぷんぷんさせながら戦線離脱してしまった。頼みの綱が帰宅(・・)してしまったので、残されたドイツ兵は混乱に陥る。

 一方その頃、懸命なご機嫌取りが一定の成果を上げたポーランド軍である。指揮官将軍は、絶好の好機を逃さなかった。

 

「見てごらん、あっちの駆士団は帰ってしまったよ」

 

 と語りかければ、蜂蜜をぺろぺろしていたレグニツァ駆士団は急激に士気を回復させた。

 

「私たちはやるよっ」

 

 そこからは、全くポーランド《有翼駆兵》の面目躍如であった。

 長槍を前に突き出し、咆哮を上げて集団突撃を敢行する。その縦横無尽の機動力と、突撃の衝撃にドイツ兵はこてんぱんにされた──こうして《タンネンベルクの戦い》は、ウマ娘の気持ちに寄り添ったポーランド軍の圧勝に終わった。

 

 以降も《レグニツァ駆士団》と《ベルリン駆士団》は永遠のライバルとしていがみ合ってはいても、互いの信念の下、頑として矛を交えようとはしなかった。

 故に「どちらが強いか」等という命題は、彼女らの高潔な魂の前には、虚しい空論でしかないのかもしれない。

 

 

 ◆

 

 

 ポーランド《有翼駆兵》の最も著名な戦いと言えば《第二次ウィーン包囲》であるに違いない。

 

 舞台は十七世紀後半。

 テュルク民族の勇、オスマン帝国がオーストリア=ハプスブルク家の本拠地ウィーンを、十五万の大軍を以て包囲した。

 当時のオスマン帝国は、ギリシャからアナトリア、果てはエジプトまでをも一呑みにした異教の大帝国である。

 対してウィーンに居たのは少数の守備兵のみであり、かつてのウマ娘朝モンゴル帝国侵攻を彷彿とさせる絶望感に包まれていた。

 

 オーストリア勢は籠城に徹し、城壁を頼みに何とか持ち堪えていたものの、陥落は時間の問題かと思われた。

 時のオーストリア大公にして、神聖ローマ皇帝は逼迫する戦況に窮し、欧州各国に援軍を要請した。

 そして真っ先に駆け付けたのが、当時のポーランド王と、付き従う《有翼駆兵》であった。

 

 欧州に精強無比で知られる《レグニツァ駆士団》の援軍に沸いたオーストリア勢であったが、しかし、この時駆け付けたのは総勢三千駆(・・・)であった。

 敵十五万の前には些かならず心許無い。正直、大国ポーランドには今少しの頭数を期待していたのだが──という、大公の雰囲気が伝わったのだろう。

 ポーランド王は微笑んで応じた。

 

「そう御心配なさらず。出し惜しみをした訳ではありません。ただ、この数で十分(・・・・・・)だと考えた故なのです」

 

 時のポーランド王は、如何にも文人めいた、物腰柔らかな優男であった。剣など抜いた事も無い様な顔立ちをしていたという。

 彼の言葉に、皆々が容易に頷けないのも無理からぬ事であったろう。

 柔和な笑みを浮かべて、傍らのウマ娘の毛並みを撫でている様子に、欧州各地から参集した諸侯は不安を抑えきれなかった。

 

 王は小高い丘に登り、ウィーン市街をぐるりと一円に取り囲むオスマン軍の様子を見聞した。見渡す限り一面の敵兵──肝が縮み上がる様な大軍勢である。

 すると、彼は細い顎を撫でつけ「これはしたり、多過ぎた(・・・・)」と呟いた。諸侯は、異教の大軍に気圧されたのだと、当然思った。

 

 しかし、言葉の対象は違っていた。

 ポーランド王は丘を下ると、即座に《有翼駆兵》三千に全軍突撃を号令する。

 驚愕している諸侯に、彼は言う。

 

「あれなら、半分でも良かったかな」

 

 主人の命を受けたウマ娘たちは、勇ましい雄叫びを上げた。長槍を突き出し、一気呵成に正面突撃を開始する。

 槍の切っ先が向けられたのは、何と、最も陣容分厚い敵本陣(・・・)であった。

 

 有翼駆兵、三千対の羽飾りが風を切り、唸りを上げる!

 紅緋の腰巻と、槍先に巻き付けられた純白の吹き流しが千切れんばかりに靡く。

 その紅白色は、正にポーランド王国の象徴なり。

 音に聞け、目にも見よ、そして身に刻むが良い。

 改悛王の御代より四百年、磨きに磨きしポーランド《有翼駆兵》の勇姿は此処にあり!

 

 先鋒を駆ける駆士団長が、敵の盾ごと槍で穿ち通したのを皮切りに、有翼駆兵は敵本陣に雪崩込んだ。

 盾隊を一枚破り、まだ止まらぬ。

 二枚破り、まだ止まらぬ。

 三枚破って、未だ止まらぬ。

 遂には包囲軍の大将居座る総本陣に到達せしめた。

 

 並み居る盾隊を尽く食い破り、総本陣で大暴れする有翼駆兵に、オスマン軍は大混乱に陥った。

 総大将をも含めた異教の民は、恐怖の絶叫を上げて、その長槍から逃げ惑った。

 後から遅れてきた欧州諸侯軍が、駆兵突撃の開口させた大穴から攻め寄せると、いよいよ統制が取れなくなった。

 

 いきなり頭部を失った十五万余の侵攻軍に大混乱が伝播する。

 オスマン軍は目撃した。最も守備が厚かった筈の本陣兵が、悲鳴を上げて逃げ惑う様子を。

 そして大多数の包囲軍は、訳も分からない混乱の内、散り散りに遁走を開始した──

 

 結果は、オーストリア・欧州諸侯連合軍の圧勝であった。

 その様子を丘から眺めていたポーランド王は、空いた口の塞がらない諸侯らに向けて、

 

「来た、見た、勝った」

 

 と、古代の英雄に倣い、にこにこして言った。

 

 

 ◆

 

 

 第二次ウィーン包囲の勝因は幾つか挙げられる。

 

 第一に、圧倒的大軍であったオスマン帝国軍は、長期の包囲戦で士気が大きく下がっていた事。

 また、拙速の侵攻であったために装備も十分でない上、数的有利に由来する慢心があった。

 

 第二に、それらのオスマン軍の内情を、ポーランド王が一目で看破した事。

 外見こそ優男である彼は、即位前の王太子時代、何と王国大元帥(ヘトマン)として幾多の戦場で戦果を上げた武人中の武人であった。

 その鋭い戦術眼と、見た目通りの優しい性格でウマ娘からの信頼も厚い、正に軍人国王であった。この戦いの後、欧州の英雄として持て囃される事となるが、にこにこしてウマ娘を愛でる王の姿は、やはりそんな大層な勇者には見えなかったという。

 

 第三に、何を置いても《有翼駆兵》が精強だった事である。

 改悛王に発端するレグニツァ駆士団の力量は、この時絶頂に達しており、その正面突撃に耐え得る軍集団など存在しなかった。

 その勇猛果敢さについて、ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者、世界的権威にして自らもウマ娘、転じて駆兵の歴史にも詳しい女博士は、

 

「つよい。」

 

 と絶賛している。

 因みに、彼女はベルリン駆士号(・・・・・・・)を持っており、実際に当時の甲冑を纏った模擬戦にも参加経験があるというから、説得力もひとしおである。

 

 第二次ウィーン包囲にて絶頂を迎えた、ポーランドの《有翼駆兵》。

 以降の時代は、政治的混乱と、銃火器の更なる発展に伴って、徐々に活躍の場を失っていくが──戦闘集団としての性格は失っても、長い歴史の中に確立した儀式的作法は失われなかった。

 

 現在においても、レグニツァ駆士団長(名誉職)が交代する時には、甲冑を着込み、クラクフ宮殿跡を喇叭を吹いて行進し、改悛王の子孫から直々に叙任を受けるのが習わしである。

 このイベントの際には、世界中から歴史ファンが押し寄せ、ポーランドは大変に賑やかになる。

 一つの観光資源として、今も駆士団は国に貢献している。

 

 そして、人で溢れる国内の警備を務めるのが、ポーランド国軍のウマ娘部隊である。

 国防の一角を担う彼女らは、今でも《レグニツァ駆士団》と同じエンブレムを掲げて国を守護しているのである。

 




満足したので、次回からはモンゴルウマ娘フランス進入編です。
パリは可燃物。
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