先述の通り、パリにおけるモンゴル軍の善行は、ウマ娘女博士以前の八百年間、
そこには複数の虚妄、誤解、陰謀が折り重なっており、一筋縄に説明出来ない。
故に博士による因果関係の読解は至難なのであり、センセーショナルだったのである。
その功績を褒められたウマ娘女博士は言った。
「えへん。」
まあ、ともかくも。彼女の功績に敬意を表しつつ、史上に奇なる東西交流を順に追ってゆこう。
中世ヨーロッパの人々が、世界の形状をどの様に解釈していたかについて、今の我々に最も伝わり易いのは《TO地図》であろう。
円盤型の大地が広がっていて、T字型の大河が大地を三大陸に隔てており、周囲には
上方を東と考え、上半分がアジア、左下がヨーロッパ、右下がアフリカ。
T字の大河が交わる世界の中心には聖地エルサレムが鎮座し、天頂(極東)にはエデンの園が在る。
無論TO図の実用性は皆無だが、そもそも産まれた村で一生を終えるのが殆どの中世封建社会である。
人々に十字教世界観における
十三世紀初頭の欧州は、聖地エルサレム奪還(または強奪)運動──十字軍を通し、東方世界の様相が多少なりとも欧州に伝わってきた時代である。
しかし、エルサレムよりも東方、アジアとなると全く未知の領域であった。
その果てには
それでどうしたかと言うと、彼らは豊かな想像力を駆使して、情報の欠損を補い始めたのである。
ドラゴンやユニコーン等々の幻獣が住む、黄金で造られた都がある、人食い民族が蔓延る、まだまだ色々──誰も真実を知らないのを良い事に言いたい放題であった。
他ならぬ極東人である著者には、何か微妙な心境である。
現代の我々が宇宙人を空想するのと大差なく、中世欧州人はアジアへの空想で心を躍らせた事だろう。
要するに、人々の関心は東へ傾いていた。
さて、そこに霹靂めいて出現したのがチンギス・ハーン率いるウマ娘朝モンゴル帝国であったのだ。
花の都パリに到着した《
初め疑心暗鬼だった人々も、モンゴルウマ娘が悪しき民でないことは直ぐに分かった。
小柄なモンゴルウマ娘たちは、純朴で、心優しく、そして可愛らしかった。
そうなると、欧州人は未知なる東方からやって来た謎の民について興味が尽きない。
舞と演奏で盛り上がる酒宴の席にて、人々は大ハーン(普通に混じって飲み食いしてた)に様々質問した。
「王様は何処からいらしたのですか」
「東の高原からである」
「エルサレムより東方ですか」
「それが何処だか知らないが、ずっとずっと東である」
「では、
「それも何処だか知らないが、高原は我々からして正に楽園の様な場所である」
「悪しき《
「確かに私は《タルタル族》を破り臣従させたけど、そんなに悪い娘たちじゃないよ」
総括して『遥か東方の楽園付近から、悪しき者を蹴散らしながらやって来て、我々を救って下さる偉大な王』という評価になった。
チンギスは、すっかり市民と打ち解けていた。青毛の皇帝には、望めば誰とでも自然に仲良く出来る魅力があった。その力こそ、高原を一統し、偉大なる大ハーンたらしめた源であった。
いつの間にかパリ市民は、敬意を込めて、チンギスを《ジョン様》と呼び始めていた──
ジョンとは誰か、解説をしよう。
中世~大航海時代のヨーロッパでは《プレスター・ジョンの伝説》が一般に広く信じられていた。
伝説の概要は次の通りである──遠く離れた東方アジアに、偉大な十字教の王《プレスター・ジョン》が治める国がある。彼は善き民を慈しみ、悪しき異教徒を打ち倒す。そして、十字教徒苦難の時には颯爽と救いに来てくれるのだ。
ご察しの通り、伝説自体は事実無根の流言に過ぎない。
しかし、パリ市民の主観に立ってみた時──チンギス・ハーンとプレスター・ジョンとは、余りにも酷似していた。誤認するのも無理は無い。
相互呼称の差異について、勿論当人たちも気が付いてはいただろう。
だが、モンゴル側は「西方ではそう呼ぶ事もあるんだろう」と訂正しなかった。モンゴル人は基本異文化に不干渉であった。
欧州側も「東方では違う自称をするのだろう」と深掘りしなかった。欧州人はアジアの事を何も知らなかった。
というより、東西両者の風俗習慣には色々と差異がありすぎて、一々気にしていたらキリがなかった。
両者の交流というのは「腹一杯飲み食いしたら幸せ」だとか「歌って踊ったら楽しい」だとか、人類として違えようも無い、根源的な部分で繋がっていたのである。
相変わらず欧州人はチンギスをジョンと呼んだし、チンギスは呼ばれて返事をした。
そしてタルタルウマ娘だけが避けられて泣いていた。
モンゴル軍は《
つまるところ、パリは虚妄によって炎上し、虚妄によって救われたのである。誰に意図された訳でも無い、奇怪なマッチポンプであった。
ただ確かなのは、モンゴルウマ娘は常に
この様な虚妄や誤解の上に、真実が誤って伝えられる事象が、所謂
とても筆者には判断し難く、歴史学の永遠のジレンマであろう。
上記パリの一件から半世紀後、イングランドの歴史家は以下を記した。
『タタール人の襲来によってフランスの都は炎上した。しかし、聖カルピニの奇跡によって大火は鎮められた。直後、遥か東方からプレスター・ジョンの民が現れて、パリの市民を救済した』
ウマ娘女博士の大どんでん返しまで、八百年間モンゴル軍を
しかし待って欲しい。著者にしてみれば、当時収集し得る限りの客観的事実を擦り合わせた結果、こうなってしまっただけである。
控え目に言って因果関係が意味不明であるし、恐らく著者本人も筆を走らせながら狼狽えていたに違いない。
八百年の長い誤解が生まれてしまった事について、誰それが悪いと責任を問うのは、全くナンセンスである。
誰も彼もが各々の時代で生きており、正しいと思った事を認識していた。結果間違っていたとしても、真実は決して滅びず、もしかすると、ちょっとした拍子に真実が判明するかもしれない。
歴史の大河に一喜一憂するのは、バ鹿げた事ではないか。
だが敢えて、敢えて言わせて頂くならば──モンゴルウマ娘の書記係にはもう少し頑張って欲しかった。
彼女は記す。
『久しぶりにお客さんが一杯でうれしい』