『それは断食行明けの、晩餐の時である。
主と使徒、また従うウマ娘は大層腹を空かしていた。
ベタニアのマルタは、皆のため腕によりをかけ料理を作った。卓には次々と芳しい皿が並べられた。
主が、その日の糧を与えて下さった神に祈りを捧げようとした頃、ふと戸を叩く者があった。
マルタが応じると、そこに丸々として豊満なウマ娘が居て、糧を分けてくれるように乞うた。
このウマ娘を町で知らぬ者は無かった。地方レースで活躍した彼女は、この町の大商人に見初められ、連れて来られた途端、朝から晩までパクパクして止まらなくなった。
商人の屋敷で出される食事に飽き足らず、こうして町の人々に乞うて回っては、追い払われているのだった。
「私たちは断食明けで、とても分けられる食べ物はありません。大方、先生のお優しい評判を聞いたのでしょうが、何でも聞き入れられると思ったのなら間違いですよ」
マルタが、この図々しい同族を退けようとした時であった。奥で見ておられた主が語りかけられた。
「マルタよ。どうしてその人を入れてあげないのですか。今にも飢え死にしそうな、その人の姿が見えないのですか」
皆は驚いた。主の言葉の意味が分からなかったからである。
皆は、身体の形を見ていた。しかし、主は魂の形を見られたのである。
急な客人を、主は自分の隣席に招かれた。そして、手ずからご自分のパンを半分に割き、またご自分の葡萄酒を差し出される。
肥満したウマ娘は、分けられたパンを一口食べ、杯に一口付けた。それで手が止まった。
「先生、どうしてでしょうか。もう一杯で、食べられないのです。不思議な事です」
そのウマ娘は酷く震えていた。
「安らぎなさい」主は、優しい眼差しで怯えた人を宥められる。
「
彼女は両目からそれぞれ一雫の涙を流した。ものも言わず立ち上がるや、直ぐに主の言葉通りにした。
故郷まで走り帰ったのである。町の人や、かの商人ですら誰も後を追わなかった。
翌年、エルサレムで行われたレースに、大差で勝利したウマ娘がいた。その細身が麗しいウマ娘が何処の誰であるか、初めは皆気が付かなかった。
「ただ私は満たされたのです」
勝利の秘訣を答えたウマ娘の声で、皆はようやく正体に気が付いた。
この様に《
──マリアによる福音書より
◆
プレスター・ジョン、もといチンギス・ハーンの心尽くしの饗応によりパリ市民の空腹は満たされた。
文化の違いこそあれ、モンゴルウマ娘の飾り気の無い純朴さは彼らの心を潤した。
当面、生命の危機が去ったのだと気が付いた時、欧州人が次の将来を気に病み出したのは人間の性であろう。現実に街が軒並み焼けてしまって、家財を失ってしまった事に一向変わりは無いのである。
今はモンゴルウマ娘の予備の
遊牧民族たるモンゴルウマ娘は固定の家財というものを持たない。農耕民族の
それでも、お客人が落ち込んでいるのを見ていて、モンゴルウマ娘たちも悲しくなってしまった事は想像に難くない。
彼女たちは歌ったり踊ったりして彼らを元気付けようとした。横に座って「何時までも泊まってて良いんだよ」と肩を叩き励ました(モンゴルウマ娘の決まり文句、社交辞令と本気が半々らしい。感激した中華ウマ娘がよく移住して来たりした)。
モンゴルウマ娘の素直な健気さに、欧州人も慰められた事だろう。
冬が近付いていた。日々迫る寒気は、住処無しの焦燥を掻き立てる様であった。
もしも今、プレスター・ジョンが去ってしまったら凍死は免れ得ない──そんな時節に、
「神父よ。我々は、ここらで冬営しようと思う。そちらの人間さんも一緒になるが、良いだろうか」
「それは……有難い事です。民の不安も晴れましょう」
今やパリ市民代表と化した神父は快諾した。それは本来パリ側の方から懇願すべき内容であって、実は市民から内々に泣き付かれてもおり、どう切り出したものかと悩んでいた所だったのだ。
つまり、ひと冬の間、住居と食料を全面負担しろと言うのだから──フランス諸侯であっても確実に渋る内容を、こうもあっさり提示されたので、神父はむしろ困惑してしまった。
「うむ、それよ。近頃度々相談されるのだ。お客さんが落ち込んでいる様だから
チンギスは一旦話を止めて、天幕内をじっくり回し見た。参集したモンゴル首脳、四駿四狗と指導人連中は、皇帝と目が合うと深く頷いた。
その都度チンギスは耳をぴこぴこさせ、身体を左右にゆらゆらさせた。
「決まりだっ」皇帝は弾かれたように座を立ち天幕の外に躍り出た。
出た所では
「我が君にお願い申し上げます」
「うちの皆のお願いなんです」
「私も」
「僕もー」
千戸長のウマ耳の林が、激しくわちゃわちゃしている。後から出てきた指導人やカルピニは少々怯んだが、大ハーンは呵々と笑った。
「うん、うん。高原の同胞よ、皆まで言ってくれるな。汝の大ハーンから言葉させておくれ」
すると、かかり気味だった千戸長らは直ぐに鎮まった──千のモンゴルウマ娘の鑑となるべき彼女らは、大ハーンに対して心底素直であった。
心地良く澄んだ声で、命令は下された。
「とこしえの
チンギス・ハーンの仰せに、臣下の顔にはみるみる花が咲く様であった。
仰せの通り、千戸長たちは飛び跳ねる様に散らばって命令を伝えた。モンゴル軍の情報伝達は驚くべき早さであった。瞬く間に情報は全軍の隅々にまで共有された。
『オーハイ、オーハイ!』
野営地のそこかしこで、嬉しそうな祝詞が叫ばれていた。
パリ市民にとって、思ってもみない事態はまだ続く。
◆
未だ太陽を臨まぬ薄暗闇の早朝である。
見る影も無く焼け落ちた花の都では、薄暗闇を東方よりの異邦人が絶え間もなく行き来していた。
その小柄なウマ娘たちは、焼けた瓦礫を退かし、建築資材を運び、柱を打ち込んでいる。
数週間前まで無惨な廃墟であったパリは、まっさらな更地となり、次いで真新しい建築物が生えつつあった。
既に冬入りをした中世欧州の曙は凍える寒さであった。
上着すら大火に呑まれてしまったパリ市民はぶるぶる震えるばかりである。
しかし、東方の
衣替えをして、
それもそうである。冬は零下三十度を下回る過酷な高原出身の彼女たちなのだ。今年の冬将軍は何だか優しいな──位にしか思っていなかった。
来年の春までという期限もあってか、モンゴル人はとにかく良く働いた。殆ど飲まず食わずで、未明から夕暮れまでくるくる駆け回るのである(モンゴルウマ娘特有のスタミナがそう見えた)。
無論、パリ側も任せ切りだった訳では無い。大工
そうした両勢力の協力により、町の復興は驚くべき早さで進んでいった。
誰も彼もが《プレスター・ジョンの民》に感謝し崇め奉る──しかし、その中に怪訝な顔をしている人物が一人居た。
プラノ・カルピニ神父である。
勢力間の取り次ぎ役であった神父は、チンギス・ハーン=プレスター・ジョンで無い事に薄々勘づいていた。
故に、分からなかった。縁もゆかりも無い東方よりの来訪者が、何故ここまで親身になるのだろうか。
そこに打算が無い事は、ひと目で分かる。疑る方がバ鹿バ鹿しくなる程に、モンゴルウマ娘は一心不乱に働いていた。
だから余計に分からない。
一体、どうしてだろうか──この日の曙に、遂に神父は直接尋ねた。
台車に建材を山盛り乗せて、よいしょよいしょと運ぶ一般モンゴルウマ娘を呼び止めて、聞く。
「どうして君たちは見ず知らずの人を、ここまで親身に助けるのか」ウマ娘は、神父の深刻な表情を見ると不思議そうに小首を傾げた。
「だって、かわいそうだったから」
何の気無しに答えて、また仕事に戻っていってしまった。その姿は直ぐ他の仲間に混じってしまい、追えなくなった。
目に映る全てのモンゴルウマ娘は、同じ様にせっせと働いていた。
神父は雷に打たれた様であった。
身動ぎ一つ叶わず、立ち尽くしていた。至極簡単な答えだった筈なのに、それが理解出来ず、何度も反芻した。
人身に在って可能であるのか。否、そんな筈が無い。だが、現実にウマ娘は働いている。
何故だ、わからない。
懊悩する男の横顔に、何か暖かいものが当たった。見れば、地平の向こう側に太陽が昇って、光が差すのだった。
カルピニは、一瞬全てを忘れて、払暁を眺めた。
美しい──その景色に気が付いた時、神父は驚きに目を見開いた。喉から絞り出した幽かな声で、暖かいものに尋ねた。
「主よ、お戻りになったのですか」
答えは無かった、ただ万物を照らすのみであった。
瞬間に、生涯の記憶が神父の胸に去来した。
決して裕福な家庭ではなかったのに、家業を継がせるだけでは勿体無いと、送り出してくれた両親。
心から神を信じ、懸命に勉学するうち、ドイツ地方の宣教責任者に拝任された喜び。
情熱に突き動かされ、諍いの絶えない神聖ローマ帝国を奔走するうち、調停役として認められた誇らしさ。
布教に勤しむ傍らに、祝福を授けた子供と、その母親の感謝に満ちた顔。
宮廷・バチカン間を取り持ち、叙任権闘争の調停、平和をもたらした一世一代の大仕事。
世俗の矛盾に何度も突き当たり、自分にはどうする事も出来なかったという無力感。
憧れのバチカンの腐敗を目の当たりにして全てに失望し、信じてやまなかった《神の愛》に疑いを抱いてしまった罪の意識。
同僚の陰謀により聖地を追放された時の虚しさと、ある意味での清々しさ。
そして、苦しい時も嬉しい時も、隣で支えてくれたシスターウマ娘。
全く、それらは神父にとって至極当然の光景である筈だった。
カルピニは、熱く滾るものが腹の底から湧いてくるのを感じた。それは、とうの昔に枯渇したと思っていたものであった。
その熱が腹を満たし、胸を満たし、そして両の眼から、とめどなく溢れ出した。頬の熱さに耐えかねて、神父はその場に膝を折り、大地に手をついた。
「いいえ、違った。あなたは何処にも行っていなかったのですね。
私はあなたに見捨てられたと思っていました。けれど、あなたを見えなくしていたのは私自身だったのですね。
私はあなたを探し彷徨っていると思っていました。けれど、あなたから逃げていたのは私自身だったのですね。
嗚呼、ようやく気が付いたのです。あなたは何時も傍に付いていて下さった。だというのに、私は……」
彼は両腕を大きく開き、天を仰いだ。その方の恩寵を全身で受けるためであった。
「主よ! どうか愚かな私をお許し下さい。もう二度とは見失いません、背を向けません。
そして心から感謝致します。此処にいらっしゃる、あなたの大いなる恵みを一身に受けられます事を。
この夜明けに誓います。私はこの悟りを、一生涯を賭して伝道致しましょう」
プラノ・カルピニは、とある冬の夜明けに、遂に一つの気付きを得たのである。
◆
《プレスター・ジョンの民》が崇敬を集める最中、タルタル族のウマ娘は不遇の極致にあった。
仲間と同じく、否それ以上に頑張って働いているのに、何故だか欧州人はタルタルウマ娘だけを避けていた。
誤解を解こうと近寄ってみても、彼らは悲鳴を上げて逃げてしまうのである。
タルタルウマ娘は寂しさの余り、人形をお客人に見立てた
その日も、部族で寄り集まって「救いは無いのですかぁ」と傷を舐めあっていると、
「救いはあるのですっ」
思いがけず答えが返ってきた。
偶然近くを通りかかった、カルピニ神父お付のシスターウマ娘であった。
とかく何かに縋り付きたかったタルタルウマ娘が、導かれるままシスターの後を付いて行くと、とある教会に辿り着いた。
教会と言っても
晴天の光が直接差し込む教会には、既に人集りが出来ていた。一番奥の、少し高くなっている祭壇で、プラノ・カルピニは人々に説教をしていた。
人々は熱心に話に聞き入っていたが、その時背後からやって来たタルタルウマ娘に気が付くと、やはり恐怖の悲鳴を上げて逃げ出そうとした。
すると、神父は大声で言う。
「叫ばないで。主は仰られました『ウマ娘は兄弟である』と。我々の兄弟を何故恐れるのです」
敬愛する神父に叱られて、人々は口を噤み、幾らか落ち着きを取り戻した。
「私たちも、お話を聞いて良いですか」
一人のタルタルウマ娘が耳を伏せて、遠慮がちに尋ねた。神父はにっこり笑う。
「勿論です。神様は皆に平等なのですから」
そうして、タルタルウマ娘はパリ市民に混じって説教を聞き始めた。
タルタルウマ娘は、当初こそ「皆と仲良く出来たら良いな」位の心がけであったが、神父の話を聞くうちに、どんどん引き込まれて真剣になった。
プラノ・カルピニの弁舌力は、やはり人並外れていた。
この日の説教の内容は《
神父が一通りを話し終えると、あるタルタルウマ娘が仲間を代表して、手と耳を真っ直ぐに上げた。
「神父さま。そのウマ娘ちゃんは、本当はお腹が空いていなかったのかな?」
些か素直過ぎる質問で、欧州人の間には失笑が起こった。しかし、カルピニだけは笑わず真摯に応じた。
「そうですね。このウマ娘が本当に飢えていたのは、お腹ではなかった。
誰からも必要とされない事、愛されない事……それは食べ物に対する飢餓よりも、ずっと苦しい飢えなのです。
このウマ娘は、それに気が付けず、ご飯で飢えを満たそうとした」
タルタルウマ娘たちは、正に自分たちの境遇が重ねられて胸が締め付けられた。
確かにパリに来てからというもの、ご飯は砂を噛む様な味で、全然満たされた心地がしなかったのである。
「しかし、主だけは分かっておられた。故に、このウマ娘を招かれた。自分の皿からパンを割き、自分の杯から葡萄酒を与えられた。町人に冷たくされてきた彼女は、どれだけ嬉しかった事でしょう。
良いですか、人はパンのみで生きるにあらず。隣人に心の糧を分け与える事こそ本当の意味の施しであると、主は示されたのです」
ウマ娘は言葉も無く神父を見つめて、先に挙手した者とは他の娘が、恐る恐る手を挙げた。
「じゃあ、その《
カルピニは、大きく深く頷いた。
途端にタルタル族は一様に涙を流し、お互いに抱擁した。そして口々に言う。
「知らなかった。そんな、そんなに優しい人が居るなんて……っ」
わんわん咽び泣くタルタルウマ娘を見て、欧州人たちは驚いていた。
彼らがイメージする《
彼らは目を見開いて、壇上のプラノ・カルピニという人を見た。この一見して冴えない小太りの中年神父は、本当に《聖なる人》なのかもしれない──誤解を重ねられた哀れなウマ娘たちは、涙でくしゃくしゃになった顔で最後に尋ねた。
「神父さま、教えて下さい。どうすれば、その無くならないご飯を貰えるんですか。友達にも分けてあげる事が出来ますか」
この問いに、神父は言葉に詰まった。
回答に窮したからではない、反対である。
昨日までの自分であれば返す事が出来なかったであろう問いに、今は目の前の迷えるウマ娘に答えられる、無上の喜びのためである。
カルピニは胸の前に十字を切った。「
「心に神殿を建てなさい、それは足に付いて来るから。
神殿を隣人に開きなさい、その人は兄弟だから。
兄弟と共に祈りなさい、神は何時もそこにいらっしゃるのだから」
神殿は足に付いて来る──この教えは、宣教師として長年旅をしたカルピニの集大成にして、教義の骨子でもあった。
そして後に、全世界の駆けを愛するウマ娘に信じられる《十字教カルピニ派》の夜明けでもあったのである。
◆
聖遺物紹介《聖マルタのかわらけ》
冒頭の場面で、マルタが料理を盛り付けた食器セット。
この食器を用いた料理は、何でも絶品になる上、食べても食べても無くならないという伝説がある(曲解感が否めない)。
この食器を巡ったウマ娘たちの
現代では、その一部と伝わる破片が世界各地に点在するが、殆ど真偽不明。
「破片を繋ぎ合わせて復元しよう」と、あるウマ娘女博士が熱心に主張したが、当然却下された。
聖書や福音書には他にも色々とウマ娘に関するエピソードがあって、調べていて飽きないですよね皆さん。