原作キャラは登場しないものだと思ってたのに、ウソでしょ。
魂魄よ、今こそ千里を駆けよ。
──《続・赤兎千里行》宣伝ポスター。
◆
トレーナーはその戸を叩くのに乗り気な訳ではなかった。
戸の向こうに担当ウマ娘が居る。彼女は今日の敗者である。
どうして過ごしているかは分からない。悲しんでいるだろうか、悔しがっているだろうか。
ただ今すぐにでも声を掛けなくてはならない事だけが、はっきり分かっている。
ゴールドシチー。
彼の担当ウマ娘であった。
先刻のレースを思い出す。如何にも惜しい内容であった。彼女の差し足は、今一歩、及ばなかった。
クビ差での二着。
コンディションは悪くなかった。むしろ過去最高の仕上がりと言って良い。ターフに立った彼女の肉体は絞り上げられており、鋭い精力に満ち満ちていた。
しかし負けた、負けたのだ。
何故だかは分からない。実力か、運か、それとも他の某の不足か──トレーナーは、急に担当ウマ娘と話したくて堪らなくなった。
一時でも戸を叩くのを躊躇っていた自分をバ鹿バ鹿しく思った。
口をぎゅっと結び、それから彼女に選んでもらった勝負用ネクタイを、きつく締め直す。
戸を叩いた。
「はい、どうぞ」
芸能人らしい、丁寧な返事である。男は勢い良く戸を開いた。
そんなトレーナーを、尾花栗毛のウマ娘──ゴールドシチーはちらとも見なかった。座って何やら読みふけっている様子であった。
トレーナーは意外に感じた。何にしろ、心乱れているだろうと踏んでいたからである。
「何を読んでるんだ?」
隣の椅子に腰掛けつつ、単純に興味から聞いてみると「ん」と、シチーは冊子を少し横にずらした。見せてくれるらしい。モデル業の関連書籍だろうか。
彼はずいと身を乗り出した。
「う、お……っ」
不用意に覗き込んだ彼は、首を仰け反らせた。背もたれにぶつかって、椅子の足がガタンと音を立てる。
「ビビった」
百年に一人と言われる美少女ウマ娘は、碧眼に悪戯っぽさを浮かべて笑った。
後頭部から倒れそうになったトレーナーも、体勢を持ち直して「このやろ」と苦笑した。
「これ
「うん、本物のルビーイグニスさん」
ゴールドシチーが見ていたのは写真集であった。そこに彼女は
炎の様な赤毛に、同色の勝負服。スラリとした体躯と、勝気な瞳。そして腕には方天画戟を携えて、一直線に駆けて来る。
鬼迫である。
今にも飛び出して、一刀の下に切り伏せられる様な、凄まじい存在感を放っていた。
『
それは、あらゆる創作物で『死』の婉曲表現として使われるモチーフであった。
ルビーイグニス。
94年に歴史ウマ娘映画の金字塔《赤兎千里行》への出演を最初にして最後に、事故で世を去った悲劇の鬼才。
彼女以降《赤兎バ》のイメージは、完全に刷新、塗り潰されてしまうという、ただ一作で他の三国志作品にも多大なる影響を及ぼした伝説の女優であった。
トレーナーは少し驚いた。歴史映画と、担当ウマ娘とが、中々結び付き難かった。
「好きなのか?」と聞いてみると「大ファン」と素直に答えたので、尚更に驚いた。
「女優業ばっかりで注目されてるけどさ、この人、モデルとしても一流だよ」
「そうなのか、全然知らなかった」
「これ絶版でさ、レア物なんだ」
「良く手に入ったな」
「まあちょっと、事務所の伝手で」
シチーは少し罪悪感を感じている様な顔で、再び目線を冊子に落とし、そっとページを繰る(余程傷めたくないらしい)。
ポーズを取るルビーイグニスが、新たに現れた。ぞっとする様な実在感が、それに伴う。
「やっぱり本物は全然違うな」
「どっちも見てる?」
「04年の二作目はドンピシャ世代だしな。そっちから入って、一作目を見た。全然毛色が違って驚いたよ。独特なポーズも多いだろ。よく真似したっけな……でも他人がやっても様にならないんだよなぁ」
「ルビーさんの動きは、全部さり気にやってるみたいだけど、実は手足の角度から目線の位置、尾っぽの置き方まで完璧なんだよ。どこを切り取っても隙が無い。だから独特のポーズでも映える。勉強になるよ」
「へえ、流石プロ目線」
《赤兎千里行》の撮影直後、主演のルビーイグニスが帰らぬウマ娘となってしまった事は有名である。
そのため《続・赤兎千里行》では、代役の顔にCGで彼女の顔を貼り付ける、というまさかの力技で作成された。
しかし、ルビーイグニス本人の圧倒的存在感までは再現出来なかった。その代わりCGを多用したド派手な演出が多用される事になる。
二作目の殺陣では、赤兎の方天画戟の一振で何人も武将が吹き飛ばされる。それは確かに格好が良く映った。
しかし初作の、名も無き一般兵が
「アンタは二作目のラスト、どうだった?」
「泣いた」
「あは、だと思った」
赤兎と関羽の最期の戦《麦城の戦い》までを、二作目は描いている。
子供の婚姻話を持ちかけた孫権に、紅緑の二人(赤兎と関羽)は「ウマの子を犬の子にはやれぬ」と言い放つ。
余りの侮辱に激怒した呉は、奇襲攻撃によって紅緑を追い詰めるのであった。
激戦の最中に、赤兎は息子関平を失ってしまう。ウマ娘は慟哭し、鬼神もかくやと荒れ狂った。
しかし余りに多勢に無勢、二人は遂に進退窮まってしまう。そして互いの武器、方天画戟と青龍偃月刀を以て、最愛の人の首を切り裂き、共に果てるのであった──
「最期にさ、正面から向かい合って、涙を流しながら互いの首に武器を押し当てるシーンがあるだろ。あの悲壮感が凄くて……涙が枯れるまで泣くっていうのは、有り得るんだな。
その時は中学生だったけど、思い返せばトレーナー職に憧れるきっかけになったかも」
ウマ娘は、直情型トレーナーの話へ興味深げに耳を傾けていたが、ふと目線を外して、突き放す様に言った。
「でもアタシ、あれ嫌いなんだよね」
それきり言葉を区切った。耳が垂れて、尾っぽがぴくぴく震えた。
男は黙った。黙って、担当ウマ娘の端正な横顔をじいっと見詰めて逸らさなかった。
ゴールドシチーは、無闇に相棒の感性を否定したい訳ではないだろうと分かっていた。他に何か、伝えたい事があるのだろうと思った。だから、彼女の次の言葉を待っていた。
トレーナーが、自分の突き放す言葉に退かず、それどころか胸を広げて待っている様であったので、シチーは「うざ」と苦し紛れに呟いた。頬が少し赤かった。
それから沈黙があって、やがて観念した様に、ぽつりと語り出した。
「アタシさ……トレーナーと会う前、結構しんどくなる事、あったんだよね」
目線を合わせずに、ウマ娘は言う。
「夜に独りで居ると、自分が誰だか分からなくなって。このまま寝たら、誰にも見付けてもらえなくなるんじゃないかって。怖くて、怖くて、堪らなくなる時があった」
世間では、百年に一人の美少女ウマ娘だ、トップモデルだと囃されるゴールドシチー。
しかし、だからこそ。虚構に固められた空っぽな自分、お人形な自分に苦悩し──満たされた人生を掴み取りたいと願う、等身大の少女の姿がそこにあった。
「そういう時、気を紛らわすために、スマホで映画なんかを観てた。それで見付けたのが、赤兎バ……ルビーイグニスさん」
シチーは慎重にページを捲った。
新しい、目から光を失ったルビーイグニス(呂布への淡い恋が破れた時だろう)が、そこに出現した。
「ひと目で釘付けになった。最初は、超カッコイイって思ったから。こういう風になれたら良いなって純粋に憧れた。
でも、その後、直ぐに亡くなったって、知った」
覚えがあった。ルビーイグニスは、彼が物心付く前に亡くなった女優であるけれども、その非業の死を知った時のショックは世代を超えるものがあった。
それ程に、
「きっとルビーさんは、生きている間ずっと《赤兎バ》として見られていたんだと思う。本人の意志はどうでも、映画が凄過ぎたから。現に私も、初めそう思ったし。
けど、本人はそれで満足だったのかなって考えた。実は、自分が望まないまま、世間のイメージだけ先行して、悩んでたんじゃないかって。
世間の大き過ぎる期待に、虚像に、苦しんでたかもしれないって。
まあ、要するに自分を重ねたんだよ……うわあ、今思うと、マジでおこがましいわ」
シチーは気恥ずかしそうに、手の平で顔を扇いだ。しかし、ここまで独白しておいて中断するというのは、逆に彼女の尊厳が許さない様であった。
「何度か初作を観て、それから二作目を見た。ちょっと違和感はあったけど、面白いと思ったよ。
でも、あのラスト、あれだけが気に食わなかった。赤兎が、ルビーさんが、あれだけ
それからは、もう繰り返し。一ヶ月くらいだったかな。気が狂ったみたいに、繰り返し繰り返し観てた。そのせいで寝坊も酷くなったけど……最後の頃は、全編通しでコマ送りで観てたわ」
「でもやっぱり、どう考えてもおかしいじゃんって思った。具体的に何処が、とかは言葉に出来ねえし、解説とか調べても、何か違う気がした。
とにかくモヤモヤして、イライラして……何より、
ウマ娘は、尾花栗毛をぐしゃぐしゃと混ぜた。
「それから少しして、マネジがルビーさんを特集した昔のインタビュー記事なんかを持ってきた。見え見えのご機嫌取りじゃん。その時はマジでムカついたから記事も読まなかった。
でもさあ、距離をとったらとったで、どんどんしんどくなってきてさ……結局読んだんだよ、インタビュー。
《赤兎千里行》幻のエンディング、アンタ知ってる?」
トレーナーは正直に知らないと答えた。
「マネジが持ってきたの、初作クランクアップ直後のインタビューだったんだけど。その時にはもう続編の構想があったみたいなんだよね。次回作についてルビーさんに尋ねてた。
赤兎は最期の時、関羽と一緒に死ぬ時、どんな顔をしただろうってね」
また、シチーは写真集のページを捲った。
そこに居る彼女は、紅玉を溶かした赤毛を揺らして、方天画戟を肩に担ぎ、振り返った。そして花が咲く様な笑顔で答えた。
「赤兎は笑った。
月下の戦場。
周囲には数多の死体が転がっている。流れる血は川となり、海ともなる。敵味方の区別は、もはや意味を成さぬ。
その只中に、たった二人立つ武人が居た。
鮮紅と深緑の装いは、血に塗れ泥に汚れ、疲れ果てていた。地に突き立てた長柄に寄りかかり、ようやく立っていた。
四面楚歌。
紅緑、既に千を斬り、万をも斬った。その武勇、正に項王を哭かしむる。しかし、更なる呉軍の追撃は刻刻と迫り来る。
守るべき土地を失い、戦友を失い、愛息子をも失った。主君劉備に合わす顔無くして、三国無双の名は地に落ちた。今や精根尽き果つる。この上、何を為すべきか。
紅緑に言葉無く、互いの武器を持ち上げた。それは敵味方に畏怖された、方天画戟、青龍偃月刀。
数多の敵を屠り去った得物を、最愛の人の首に押し当てる。これにて一切を断つ為に。月下の戦場に、二人は見つめ合った。
最期の時、紅緑に何物が去来したか──
「笑ったんだよ、トレーナー」
担当ウマ娘の言葉で、男は此処に戻された。
「泣いたんじゃない、後悔したんじゃない。
ゴールドシチーは冊子を閉じて、俯いた。相棒と反対側に顔を向けた。しかしトレーナーには、彼女の表情がありありと分かった。
「どんなに残酷な運命でも、最期は笑って逝ったんだ。赤兎は、ルビーさんは、苦しんでなんかなかった。
周りにどう思われても、全部受け入れて、
そういうの、凄く、カッコイイよね。なのに、アタシは……っ」
ゴールドシチーは──今日のレースに敗北したウマ娘は、振り向いた。
泣いていた、熱い涙であった。
彼女は立ち上がって、机を両拳で叩いた。美しい毛並みを振り乱し、何度も音高に叩いた。
「畜生、くそ、くそおっ! 笑えねえよ、アタシはまだ笑えない。まだ終われない、何にも受け入れられない。悔しい、悔しい。ああ、ダセェーッ!」
泣き叫ぶシチーの肩を、トレーナーが抱き締めた。彼女の悔しさも、やり切れなさも、全部分かっていた。
シチーは抵抗した。トレーナーの腕から逃げようとした。ウマ娘の平手がトレーナーの顎を直撃して、彼は横に吹っ飛んで倒れた。
それでも尚、トレーナーは立ち上がった。頭を振って、意識を保った。そして、担当ウマ娘の肩を強く抱いた。ゴールドシチーは、大人しくなった。
「怖いよ、トレーナー」
腕の中で、弱々しく涙を流してシチーは呟く。
「アタシは空っぽなまま、お人形なまま、終わっちゃうよ。ルビーさんみたいに、自分を好きになる事なんて出来ないまま、全部が。そうなったら、どうしよう。どうしよう、トレーナー……」
トレーナーは、人間なりに、精一杯の力で抱き締めて答えた。
「シチーが泣くなら、俺も泣く。でも、最期に笑うなら、俺も一緒に笑うよ」
ウマ娘の肩から、すっと力が抜けた様だった。暫し沈黙があってから「うっざ」と腕の中から聞こえた。尾花栗毛の尾っぽが、ふさふさと動いた。ぴこぴこ動くウマ耳が、トレーナーの鼻頭を叩いている。
ゴールドシチーは、今度はそっとトレーナーの胸を押して、密着した身体を離した。
「アンタは笑う」
目の下と、それ以上に紅い頬で、百年に一人の美少女ウマ娘は言った。
「だって、アタシが先に笑うから」
ウマ娘は相棒に、何より自分に誓った。その身体には、今日、敗北する前にも増す闘志が漲っている。
トレーナーは思った。これ以上に美しい《ゴールドシチー》の姿を、他の誰が見れるだろうか──
「今度、一緒に映画を観ようぜ。シチーと、一緒に観てみたいんだ」
やはり彼は真っ直ぐ目を逸らさずに言った。ウマ娘は、ぷいと目線を逸らして答えた。
「ん、まあ、今度ね」
シチーは、頑張って興味が無さそうな台詞を言ったが、他の全てが素直だった。そして、再び写真集を開き、ルビーイグニスを眺めた。
その時、思い出した様に冊子の裏表紙に挟んだA4用紙の束を取り出し、トレーナーに差し出した。
文字がビッシリ印刷されている。
「アタシなりに映画の見所と考察を纏めたやつだから、先に読んどいてよ」
古のオタクみたいだな、とトレーナーは思った。
まだまだ《赤兎千里行》の制作秘話は募集中です。