これは非常に教科書的な表現になるけれども、中世ヨーロッパの封建制崩壊には、主として三要因が関わると言われる。
一つ、貨幣経済の復活。
中世初期においては、古代ローマ帝国の滅亡、フランク王国の分裂──という混迷の時代(しばしば暗黒時代と呼ばれる)を経て、信頼に値する貨幣というものが無くなってしまった。
そのため、経済活動は物々交換にまで後退。農民は収穫作物であったり、日々領主の畑を耕しに出向く賦役という形で、過酷な税金を払っていた。
毎日の労働そのものが税金という訳だ。これでは村を出かける事すら出来ない。
中世欧州の封建制とは、税金によって農民と領主とが固く結び付き、また人民が土地に縛り付けられて成り立つ制度であった。
しかし、徐々に貨幣経済が復権してくると税制も変化した。農民たちは物々交換や賦役ではなく、貨幣で税金を払う様になったのだ。
そこで中世人は考えた。
「自由は幾らで買えるだろう?」
貨幣とは摩訶不思議なものだ。
我々現代人は生来貨幣経済に浸っているから、特別な感覚でないけれども「これは幾らで買えるだろう?」と考えるのは、正に貨幣経済の恩恵なのである。
貴族荘園に縛り付けられるしか無かった農民は、貨幣によって
余剰作物等を市場に売却して貨幣を溜め込んだ富農は、税金を一括先払いして『自由』を購入したのである。
商売で成功した者から、どんどん荘園から流出してゆく。そういう者たちが連合したのが《自由都市》と呼ばれる町だった。
農民と領主の関係希薄化は止まらず、封建貴族の没落もまた不可避であった。
人民を土地に縛り付ける鎖は、今や錆び付き、緩んだのである。
二つ、
中世暗黒時代と言うと、ともすれば何らの技術発展も無かったと思われがちであるが、それは誤解である。
取り分け農業分野では《中世農業革命》と呼ばれる大きな進歩が見られた。
農地に休閑地を挟みつつ、ローテーションで作物を植え付ける《三圃制》の導入。そして、より効率的に畑を耕す事を可能にした《重量有輪犂》の発明である。
この前方から引っ張る車輪付きの新型農具はウマ娘の耕作意欲を刺激したらしく、彼女たちは一層開墾に励んだ。
食料増産に比例する様に、中世ヨーロッパの人口は増加し続けた。そして人が増えれば、土地が足りなくなるのは必定である。
欧州世界の膨張、土地の不足──それらを契機としたのが、聖地奪還を名目にした十字軍運動であり、ベルリン駆士団による東プロイセンへの東方入植であった(後にポーランド王国と衝突)。
折しも、モンゴル帝国によってバチカンの財宝が豪快に
人口の肥大化、そして往来が活性化された中世世界──
十四世紀中葉、チンギス・ハーンの《遠駆け》から百年余。人類は未曾有の
推定死者数2500〜3000万人。実にヨーロッパ人口の三分の一を死に至らしめたのである。
黒死病の理不尽に比すれば、モンゴル帝国の悪夢など可愛いものかもしれない。矢に貫かれるなら分かる、剣で切られたのなら分かる──しかし、疫病は全く因果不明なまま殺されねばならなかった。
貨幣経済の復活により、既に没落しつつあった封建貴族は強烈な追撃を受けた。
彼らの命綱である税金を納めるべき領民が、次から次へ倒れてゆくのだ。
なら税金を高めれば良い──と、事はそんな単純な問題ではない。何もしていなくたってバタバタ死ぬのである。
それより領主が最も恐るるべきは、疫病と苛税に耐えかねて、領民が逃散する事であった。
領民が居なくなった領主など、それ領主に非ず──即ち、彼らは生き残った領民への待遇改善を迫られた。
税金を下げるから逃げないでくれ、という訳だ。農民が大量に死んだ事により、相対的地位が上がったと言うのは、皮肉を通り過ぎて残酷ですらあった。
そうして、益々貴族の没落は加速し、封建制度は根底から揺らいだ。
余談になるが──ペストは人間に特有の疾患であって、ウマ娘が罹患しない事は常識の範囲であろう。
これは単に免疫学上の都合であって、それ以上でもそれ以外でもない。反対にウマ娘特有の疾患も存在している(ウマインフルエンザ等)。
しかし、近代以前の人々の認識角度は異なっていた。
それを見て、信仰篤い中世の人々が、
『ウマ娘は主に聖別された生き物であるからして、死の病を放免される』
と信じたくなるのも、無理からぬ話ではあった。
脆弱な人間さんを哀れみ、地域を問わず懸命に看病にあたるウマ娘看護師の姿も、この説を後押しする。
そうした迷信のために、ペストが蔓延した地域では、
ウマ娘が宿す神聖に縋ろうとする、一種のお守りである。最高級品ともなると実物のウマ毛が植えられており、疫病退散に霊験あらたかだと謳われた(無論の事、もっぱら可愛くなるばかりで、そんな効能は無い)。
黒死病に罹患した中世人の多くは、可愛らしい付けウマ耳をしたまま、肌をどす黒く変色させて死んでいったのである。
さて、同時並行で「人間さんを救いたい」という願いの下、欧州各地で看護ウマ娘の小集団がぽつぽつ形成されていた。
彼女たちは、命の次に大切な毛並みをちょきちょきして、それを植えた付けウマ耳を工作し、病に苦しむ患者に無償で配った(その患者が死ぬと超高額で転売された、許せない)。
この初期の看護団は西へ東へ駆け回り、絶望に暮れていた人間たちを励まし、微かな希望で照らしたのである。
だがしかし。
二十世紀に入り疫学が発展すると、
『看護団がヨーロッパ中を駆け回ったために、むしろ黒死病が拡散された可能性がある』
という論文が発表される。
世界中のウマ娘──特に医療従事者のウマ娘が受けたショックは筆舌に尽くし難い。
先達の功業を誇りに思うからこそ、奮励努力する彼女たちなのだ。茫然自失として、何の仕事も手につかなくなってしまった。
魂が抜けた様な表情で、知らずナイチンゲール女史の肖像の前に集まっては、膝を抱えはらはらと涙を流し動けなくなった。
突然に多数の看護師が活動不能になったため、世界はにわかに
論文発表直後、その疫学博士は世界各地の言語で大バッシングされた。お前には人の血が通ってないのか、と非難されると、
「私に血が通っていようと、いなかろうと、
と自説を断固曲げなかった。
口下手な博士の名誉のために補足すると、中世看護ウマ娘の献身が死を待つばかりの患者の心を救済し、また後の近代的看護団の発展に繋がった事を彼は認めている。そもそも看護ウマ娘が居なかろうが、当時の世相から考えて感染爆発が起こった事は間違いないのだ。
博士が本当に主張したかったのは「看護ウマ娘の活動は感染拡大の一助になったかもしれないが、それは微々たる影響である。それにも増して功績が多大であるのは間違いない」という真逆の旨であって、ウマ娘を非難したい訳では断じてなかった。
しかしながら、論文のテキストは
マスコミの目論見通り、世界中のウマ娘愛好家は激怒した。論文本紙を読みもしない彼らは、博士の頑固頭を非難する記事を多言語で書き連ねた。
あわや学会追放という所まで世論は紛糾し、博士は追い詰められた。
そして、看護ウマ娘は博士の口下手のせいで更に深く傷付いた──と思いきや、実際は真逆であった。
疫学博士の言論を新聞で読んだ看護ウマ娘は、
「たしかに。」
と頷いて、一転立ち直った。
この大旋回に、博士をバッシングしていた人間たちは困惑。
実際、後世の人である筆者にも良く分からない──が、当時を生きた各地の看護ウマ娘の意見を纏めると、大体以下の通りである(我々人間にも分かりやすいよう、筆者による意訳あり、悪しからず)。
『よくよく考えれば、私たちが尊敬する近代看護学の祖、心のママ、超絶偉大な人間さん──フローレンス・ナイチンゲール女史も、看護行為から
もし、あの人が生きていたならば、目尻をきりりと吊り上げて「落ち込んでいる暇があるのですか。ただ冷静に現実を見て、患者と向き合いなさい」と叱咤激励する事だろう。
過去を嘆いた所で、今現実に苦しんでいる患者が救われる訳は無い。ならば、私たちは新しい一歩を踏み出すべきだ』
恐らく、こんな所で大きな齟齬は無いと思われる──ウマ娘が未来に臨む能力というのは、時として人間の想像を絶するものがあると、筆者は常々感じてしまう。
ともかく、メンタルを大旋回させた看護ウマ娘である。次には、件の疫学研究者に「では疫病の感染拡大防止のためには、具体的にどうすれば良いのか」と熱心に意見を求める様になった。
博士の論文の真意を見抜いたのは、他ならぬウマ娘たちであった。博士は学会追放を免れた。
ウマ娘を傷付けたはずの自分が、何故ウマ娘に好かれるのか──と博士自身解せない様であったが、真意が伝わった事はやはり嬉しかった様である。
看護ウマ娘たちの質問に誠心誠意の協力を惜しまなかった。
その後の疫学博士は、社会の公衆衛生を大いに向上させ、
また、時間を経て世論が冷えてくると急速に名誉回復がなされた。
少し前まで「全ウマ娘の敵」扱いされていた博士は、むしろ「世間の批判に折れず自説を貫いた科学者の鑑」とマスコミは称賛した(こんな勝手な話は無いが、博士は特に気にしなかった様だ)。
この一連の悪影響と好影響を総括して、
《ペスト・ショック》
と、二十世紀にあるまじき名前で呼ばれている。
つい余談が長くなってしまった。
さて最後の三つ、《十字教カルピニ派》の浸透。
上記二点が
幸いこの分野では先達の研究に事欠かないため、所謂
次回に続く。