蒼きウマ娘 〜ウマ娘朝モンゴル帝国について〜   作:友爪

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バトゥの西征、コンスタンティノープルの陥落
バトゥの征西について


 122X年、ウマ娘朝モンゴル帝国によってコンスタンティノープル陥落──

 

 

 迫り来る東方遊牧民族に欧州世界が再び激震したのは、チンギス・ハーンの《遠駆け》から二十年。

 即ち欧州諸国が主張する所の、中世ヨーロッパの天王山《ノルマンディーの戦い》にて、英仏連合軍がモンゴル帝国を撃退せしめて二十年後の事件である。

 

 千年の都コンスタンティノープル!

 アナトリア半島とバルカン半島の中間に位置するこの地は、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易の要衝であり、また黒海と地中海を繋げる唯一の出入口と、地政学的に大変魅力的な土地であった。この陸海二つの交差点は古代から中世にかけて、他の西欧都市の追従を許さない圧倒的な大都市として栄華を欲しいままにしてきた。

 そして何より由緒が正しい。コンスタンティノープルとは古代ローマ帝国の片割れ、東ローマ帝国こと《ビザンツ帝国》の首都である──はずだったのだが、実はこの時点では違う。

 千年の都コンスタンティノープルは西欧の侵略者(・・・)に占拠されていた。

 

 120X年、悪名高き第四回十字軍。

 そも十字軍運動とは、月星教徒から聖地エルサレムを奪還する大義名分を負っている。しかし、はっと気が付いた時には 同じ十字教国家(・・・・・・・)であるはずのビザンツ帝国の首都を占領・略奪していたという意味不明な結果に終わった。

 もはや大義も何も無い、ただの侵略であった。

 この暴挙に十字軍の発起人たるバチカンの宗教指導者は激怒する。神の軍団が一体何の真似だ──ところが大分裂(シスマ)して久しい東西教会を統一出来るのではないかという甘美な期待に負けて(105X年、東西教会は相互を破門(・・・・・)に処し、これにより東方教会"正統派"と西方教会"普遍派"の決裂が明白になった)、最終的にはこの侵略を追認してしまった。

 かくて千年帝国の都だった地には十字軍国家《ラテン帝国》が建国され、初代皇帝の座にはとあるフランス諸侯が座ったのである。

 

 当然ながら、侵略された側のビザンツ皇帝は血が滲む様な怒りにわなないた。こんな大理不尽があってたまるか、腹に据えかねるとはこの事だ。おお神よ、西方の悪魔共に神罰を!

 その悪魔と同じ神に祈りつつ、今や十字軍戦士(クルセイダース)が跳梁跋扈する帝都をビザンツ皇帝は命からがら脱出した。

 そしてボスポラス海峡を挟んで東隣(アナトリア半島西部)に亡命政権《ニカイア帝国》を築いたのだった。

 

 なお上記の侵略政権と亡命政権だが、両者とも正式国号は《ローマ帝国》という。

 因みに中東からアナトリア深くまで攻め寄せて来た月星教異民族が立てた国も《ルーム(ローマ)朝》を名乗っている。またドイツ地域には皇帝不在を良い事に独立諸侯の血みどろの舞踏会と化した《神聖ローマ帝国》がある。

 そして四カ国いずれも純粋な意味でのローマを含まない。正に名乗りたい放題だった。これには古代ローマの歴代アウグストゥスも草葉の陰で泣いている、或いは笑っている事だろう。

 

 

【挿絵表示】

 

 図1.122X年《ローマ》の勢力図

 

 

 さて、こうして虎視眈々と帝都奪還の機会を窺うニカイア帝国である。

 しかしやはりと言うべきか、コンスタンティノープルという無二の財政基盤を失ったのが苦しかった。

 常に背後を脅かすローマ(ルーム)朝の存在もあった。異教徒の圧力は東ローマ帝国の宿命とも言って良いだろうが、ただでさえ弱っている所に矢面に立たされては堪らない。ラテン帝国などという意味不明な僭称国家が、世界で唯一正当な《ローマ帝国》を異教徒との緩衝地が如く見なしているのも神経を逆撫でした。

 正当性は十二分、かといって太刀打ちが難しいのが現実だった。雌伏を強いられたニカイア皇帝は三度三度に呪詛を唱えるのを日課にしていたというから、その恨み辛みは推して知るべしである。

 

 ところが二十年余を経ても日々熱心な呪詛は一向に効力を現してくれない。相変わらず西欧人共は帝都コンスタンティノープルを我が物顔で歩き回り、異教徒はちくちく背中を突いてくる。

 時は122X年、亡国の皇帝は既に老境に達していた。死の影は刻一刻と迫ってくる。全てに絶望した皇帝は、遂に禁断の力に手を伸ばした。

 彼の選択について後世の歴史家は述べる。

 

『悪魔憎しの余り魔王に魂を売った』

 

 某日、ニカイア帝国の港から親書を携えた一艘の船が出港した。船は黒海を縦断し、北対岸の国へ届けるべく帆を張った。

 親書の宛名にはこうあった。

 

《ジェベ・ウルス》第三代ハン。

 バトゥ・ハン。

 

 

 ◆

 

 

 黒海北岸から中央ユーラシアまで広がるキプチャク草原は、最古の遊牧民族と名高いスキタイ人の勃興からも読み取れる様に、モンゴル高原に匹敵する豊かな草原地帯である。

 

 ところで、キプチャク草原はチンギス・ハーンが《遠駆け》のついでに通りがかった事で権力的な空白地帯と化していた。

 大ハーンとモンゴルウマ娘たちは、西欧からの帰り道にも、必然この平らか(・・・)になった草原を通りがかる。すると部隊の中からこんな声が上がった。

 

「亡きジェベ将軍と共に在りたい」

 

 往路に命を落とした《韋駄天》のジェベは、戦場での剽悍さも然る事ながら、褒められた物を何でも贈与してしまうという太っ腹な気質もあり、大層部下の信望厚いウマ娘であった。黒海北岸に建立された彼女の墓前に、元部下たちが弔意を示したのも頷ける話であった。

 チンギスはこの申し出を許した。

 

 それとは別口で、キプチャク草原に一目惚れ(・・・・)したというウマ娘も居た。

 彼女たちの多くはパリで夫を得たばかりの、瑞々しい精力と柔軟性に富む若ウマだった。元来の遊牧的性格と、新天地で新婚生活を出発させたいという素朴な願いであった。

 これもまたチンギスは許した。将来有望な若者を手放す事を素直に喜んだ訳でもなかろうが、高原のウマ娘人口増大問題も同時に解決出来る干天の慈雨には違いなかった。

 お互いに「何時でも帰っておいで」とか「何時でもいらっしゃい」とか惜しみ合いながらも、遊牧民らしく最後はあっさりと、モンゴルウマ娘はキプチャク草原に別離した。

 

 以降、所謂タタール人(・・・・・)はキプチャク草原にまで勢力を拡大させた──これを『侵略』と見なすか否かは、時代や立場によってまちまちであるけれども、この場では政治的議論は控えておこう。

 

 一方、故郷の高原に帰ったモンゴルウマ娘は、何をおいても数年ぶりの家族との再会を喜んだ。モンゴル皇帝といえど例に漏れず、高原に残していた三人の愛娘と抱き合って再会を祝した。

 大ハーンの四皇女──このうち末子のトルイはチンギスに(物理的に)くっ付いて来ていたが、上の姉三人は大ハーンに代わって高原を治めていたのだった。

 寡黙だが決断実行力に優れる長女ジョチ、血気盛んだが立法に厳格な次女チャガタイ、何時もにこにこ温厚で優しい三女オゴタイ。

 概ねジョチとチャガタイが喧嘩を始めるのをオゴタイが宥めるという形で、何だかんだバランスが取れた善政が出来ていたと言う。

 

 数年ぶりの再会を祝うのもそこそこに、チンギスは長女を皇帝の天幕(オルド)に呼び出した。うやうやしく跪くジョチに、チンギスは告げた。

 

「大いなる天上(テングリ)の力にて。《韋駄天》ジェベの功に報い、同人へ西の草原を授けるものなり。然れば汝ジョチ、将軍の忘れ形見を婿に取り、早くに行って善く治めるべし」

 

 ジェベ将軍とその指導人には一人息子が居た。遠征先で両親をいっぺんに失ってしまった不幸な忘れ形見である。

 ジョチより幾つか年下のこの青年を婿に取らせ、亡き将軍に代わってキプチャク草原を治めよ──との命令であった。

 これは一介の将軍に対する待遇としては破格と言えよう。チンギス・ハーンが如何にジェベという将軍に信任を置いていたか窺い知れる。

 片や一方的に結婚を決められた長女ジョチは、その表情が見えない程に深く俯き黙していたが、やがて低く応えた。

 

「大ハーンの御下知とあらば、是非もありませぬ」

 

 短く言うや、この無口なモンゴルウマ娘は、すっと立ち上がり天幕を後にした。

 そして命令通り、数日かけて家をまとめる(・・・・・・)と、婿を伴って西へ旅立つのだった。

 

 皇帝専属指導人の耶律楚材(ウルツ・サハリ)は、愛娘が高原を去った事を後になって知った。実は高原に帰還してこの方、各部族への挨拶回りに忙殺されていたのである。

 彼は大いに嘆き悲しみ、今や一切手遅れになった猛反対の言葉をチンギスに投げかけた。しかし青毛の担当ウマ娘は知らんぷりのバ耳東風で、全然受け合わない。

 彼は暫くの間、好きでもない男と無理矢理結婚させられ高原を追い出されたジョチが可哀想だ可哀想だと、うわ言の様に繰り返していた──が、七ヶ月後。

 西の草原から早ウマが駆けて来た。その浮ついた様子の早ウマが言うのには、

 

「ジョチ様、ご出産! 元気一杯のウマっ子です。我が君、偉大なる大ハーンにお慶び申し上げます」

 

 初孫の報告に大ハーンは殊の他大喜びする──が、しかし、七ヶ月後(・・・・)の事だった。正に青天の霹靂。楚材は呆然として、次いで激怒した。

「小僧が、悪党が。あの不敬者の身体を八つに切り刻み狼に喰らわせてやる!」叫び散らしてみたものの、依然一切手遅れであった。

 怒り狂う楚材指導人にチンギスは知らんぷりを貫いていたが、あんまりうるさいので、玉座に肘を突きつつ言った。

 

「我が半身よ、時々不思議でならぬ。お前は私が孕んだ時には、私より早く気付いたくせに、我が娘の事は何も見えないのか」

 

 母にしてみれば、あの寡黙な娘が結婚を命じられた時、吊り上がる口角を深く顔を伏してまで隠さなければならなかった──それ程傍目にあからさまな事が分からない方が不思議だった。

 以降、指導人は静かになったという。

 

 いずれにせよ、キプチャク草原は新しい主と後継を得た。《韋駄天》のジェベ将軍を精神的な初代ハン、実質的な二代ハンをジョチとした広大なキプチャク草原の領域を、

 

ジェベの国(ジェベ・ウルス)

 

 と呼ぶ。そして、ジェベ・ウルス成立と同時に産まれたウマ娘──それが第三代ハン、バトゥである。

 ユーラシア大陸に遍く恐怖をもたらした恐怖の大王、モンゴルウマ娘が尊敬する人物八百年連続第一位、チンギス・ハーン。

 そしてルーシ地域を人類植民以前の姿に回帰させ、死してなおヨーロッパ諸国を絶望のどん底に叩き落とした将軍ジェベを、それぞれ祖母に持つモンゴルウマ娘である。

 

 つまりバトゥ・ハンとは、そんな二人の血脈を我が身一杯に受けたプリンセス中のプリンセスであった。

 そしてキプチャク草原ですくすく成長したこのモンゴルウマ娘が、宿老スブタイを伴って、千年の都コンスタンティノープルを陥落させる事となる。

 モンゴルウマ娘にとって正真のプリンセス、それは欧州人にとって悪夢の血統以外の何物でもなかったのである。

 

《魔王》バトゥ──恐れ戦く欧州人は彼女をそう呼んだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 図2.122X年 ジェベ・ウルスの領域

 

 

 ◆

 

 

『親書を受け取ったバトゥ・ハンは「ならば助けようではないか」と冷たい目の奥を妖しく閃かせた。その微笑みは、世のどんな魔物よりも禍々しいものだった。私は途轍もない過ちを今更に悟ったのである』

 

 122X年、ニカイア皇帝は、禁断の力──モンゴル帝国にコンスタンティノープル奪還のための援軍を求める親書を送った。

 上記は、黒海を渡り親書を届けた大使の手記である。

 

 ジェベ・ウルス(別名キプチャク・ハン国)の首都は、キプチャク草原を丁度中央から見渡せるヴォルガ川下流の草原に在った。サライ、と言う。

 馴染み深い所では、ドイツとソ連が死闘を繰り広げたスターリングラードに程近い土地である。

 

 親書を携える大使がサライに到達した時、バトゥは不在であった──それもそのはず、季節は夏の遊牧期真っ盛りである。

 遊牧期のモンゴルウマ娘は、一度出掛けると、何日も帰らない事がざらである。昼は羊さんを追って一日中走り、夜はふわもこの羊に抱き着いて野宿する。たまに夫の待つ(ゲル)に戻って来て、一晩色々と補給したら再び出掛けるのである。そして、その家自体も頻繁に移動する。

 遊牧期のモンゴルウマ娘を訪ねて行く程、無為な仕事は無い。首都とは言うものの、現代的な政治の中枢といった役割は持たず、冬季を快適に暮らす越冬所、位の意味合いしか無いのだ。

 

 しかし、その辺りの感覚がギリシャの都会人には分からない。「バトゥ・ハンはちょっと(・・・・)出掛けているのでお待ちあれ」と説明されて何ヶ月も待たされる意味が分からない。

 たまたまサライに居たモンゴルウマ娘に異様なレベルの歓待を受けたのにも、最初は気を良くしていたが段々不気味になってきた。

 もしかすると我々を肥え太らせておいて、煮て食うか焼いて食うかの相談をしているのではないか──との疑念に駆られる。冗談の様に聞こえるが、当時は未知の大帝国に対する一般的な見解だったのだ。

 そして親善大使らが本気で体重を気にし始めた頃、バトゥ・ハンはふらりと帰ってきた(というより近くに来たので立ち寄った)。

 

 一度戻って来たとなればモンゴルウマ娘の話は早い。早速バトゥは客人の面会を許した。ニカイア亡命政権の使者は、面会叶った事と、どうやら喰われずに済みそうな事に安心した。

 ハンの天幕に通されて使者はまず驚く。天幕の内装は、隅々まで黄金色の装飾に輝いていたからである。「皆からの貰い物を折角だから飾ってる」とバトゥの説明を真に受けた者は当然居ない。

 言うなればモンゴル地方政権に過ぎぬ国が、これ程の富を積む事に底知れぬ寒さを感じた親善大使一行であった──これがジェベ・ウルスを我が国の言葉で《金帳ハン国》と別称する由来になる。

 

 さて散々待たされた大使は、それも忘れて親書を読み上げた。

 ラテン帝国を僭称する者の不義を非難し、唯一正当な《ローマ帝国》の正統性を訴え、その窮状に自発的(・・・)支援を呼びかける内容である。

 帝都奪還の暁には、キプチャク草原における覇権の正式な承認、モンゴルウマ娘の自由通行権、毎年これだけの貢納金──等々、全く皮算用的な特権の数々を授けると言う(なおこの親書だが、貰い物を大切するバトゥ・ハンの性格のお陰か現代まで原本が伝わっており、中世ビザンツ文化の貴重な史料として保管されている)。

 

 ニカイア大使の記述を参照する限り(ハン)は、これら見返りの乱発を冷徹な瞳で聞いていたらしい。

 しかしモンゴル側の記録では異なる。バトゥは傍らの記録係ウマ娘を指で寄せて、ひそひそ耳打ちしたという。

 

「確か、駆士ローランもローマ何とかの臣下だった様に思う。どうもそれとは違うみたいだけれど、親戚か?」

「さあ……」

 

 古代ローマ帝国の威光も何も知らないモンゴルウマ娘独特の感想だった──とはいえローマが四つに分裂している方が異常事態なのであり、彼女を責めるのは筋違いかもしれない。

 ともかくローマ何とか(・・・・・・)の親戚と言う事で、第一印象は悪くなかったらしい(ニカイア皇帝は聖駆士ローランに感謝すべきである)。そして最も肝要な部分は伝わった。要は『助けて下さい』という懇願なのである。

 困っている人は助けるべし、と母方の祖母に教えられた。

 

「ならば助けようではないか」

 

 父方の祖母譲りの栗毛を揺らしてバトゥはにっこり快諾したが、先方へどの様に伝わったのかは先述の通りである。

 

 その時バトゥは二十前の若ウマだったが、同年代の忠臣が多く居た。多くはモンゴルとフランスの混血である。青い瞳や、尾花栗毛(きんぱつ)を携えたモンゴルウマ娘がキプチャク軍の中核であった。

 豊かな草原で良く訓練されたキプチャク軍は、モンゴル本軍に負けず劣らずの精兵である。若い活力は十分──しかし如何せん経験が不足していた。それはバトゥ当人が最も自覚する所であった。

 その弱点を補うべく、戦の妙を知り尽くした将軍が高原から派遣された。

 

《万バ不当》のスブタイである。

 チンギス・ハーンの遠駆けから二十年を経て、もさもさ駁毛(ぶちげ)はすっかり白くなり、過去の激戦で片目が潰れていたが、未だ足腰の頑健は衰えないモンゴル帝国の宿老である。

 バトゥはスブタイの到着に喜び、その腹に四肢を使って抱き着いたらしい。

 

《大ハーン》チンギス。

《韋駄天》ジェベ。

《万バ不当》スブタイ。

 

 ヨーロッパのトラウマ三点盛りが、更に《魔王》バトゥの統率の下、再び現界したと言えよう。

 キプチャク草原の主は救援(・・)の兵を集結させた。集結地は首都サライより東の黒海北岸──初代ジェベとその指導人、また病で早世した二代ジョチの霊廟である。

 草原各地に散らばるモンゴルウマ娘は、そうなると驚くべき早さで集まった。集まった無数のウマ耳が揺れる前で、バトゥは出陣の儀式を執り行う。

 椀になみなみ満たされた酒の、三分の一を天に振り撒き、三分の一を地に注ぎ、最後の三分の一を自ら飲み干す。大いなる天上(テングリ)、四本足の草原の精霊、己に宿る先祖の御魂に祈りを捧げたのだった。

 そしていよいよ、キプチャク軍は進発した。

 

 世に言う《バトゥの西征》の始まりである。

 

 キプチャク軍の選んだ進路は、黒海北岸に軍を発して反時計回りに旋回するというものだった。二十年ぶりに中世ヨーロッパの大地を無数のバ蹄が打ち鳴らす。

 そして、初めにバトゥの進路に立ち塞がったのがハンガリー王国である。噂に聞くモンゴル帝国が突然侵攻して来た事に、目を剥いて仰天したハンガリー国王は堪らず助けを求める。

 神聖ローマ帝国は、相変わらず内乱に明け暮れており頼りにならない。業腹だが、近頃急に膨張してきて関係が微妙になり始めたポーランド王国の《改悛王》に援軍を求める書簡を送る。

 果たして帰って来たのは、

 

『絶対に行かない』

 

 という建て前も何も無い断固拒絶と『悪い事は言わないから早く道を開けて逃げなさい』という親身なアドバイスが入り混じるという、奇天烈な返書であった。

 何だか分からないが精強と名高い《レグニツァ駆士団》の助けを得られないと知ったハンガリー王は失望し、また憤慨した。それならばと彼は他のバルカン諸国を糾合して、モンゴル軍に立ち向かう。

 

 そして起こったのが《モヒの戦い》である──結果は《ワールシュタットの戦い》の全く再演(リバイバル)であった。

 ハンガリー王国及びバルカン連合軍は、バトゥとスブタイによって完全粉砕されたのである。

 

 例によって守り手の戦記は阿鼻叫喚の様相だが、攻め手の方は『たくさんの人がそのうち居なくなった』程度のものであり、歴史家はもっぱら前者を頼る事になっている──チンギス養子の迷文家シギ・クトクと言い、やはりモンゴル流のびのび(・・・・)記述体制が、ウマ娘朝モンゴル帝国を公平な視点で見る仕事を難しくしている気がしてならない。

 

 コンスタンティノープル攻略のついでに壊滅的被害を被ったハンガリー王国は、以後、改悛王統治下で繁栄著しいポーランド王国に手厚い復興支援を受ける事になる。

 致命傷を負いながらも九死に一生を得たハンガリー王は、不思議な位に親切なポーランド王に感謝する。個人的な手紙のやり取りの中で「あなたを兄と呼ばせて欲しい」という具合であった。

 ついこの間までぎくしゃくしていた関係は雪解けし、これをきっかけに関係を深めた両国が、後世《ポーランド・ハンガリー同君連合》を形成するに至るのだから、歴史の潮流というのは分からない。

 

 




 聖カルピニについての話を締めくくるにあたって、どうしても《バトゥの征西》を書かなければなりませんでした。まあ、どうも、モンゴル帝国史でも面白い所なので遅かれ早かれ書いていたのですけれども……
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