本編とは直接関係無いため読み飛ばしてもらっても構いません。
恋愛話です、珍しい。
《遠駆け》から戻って直ぐ、チンギスは三女オゴタイを内々に呼び寄せた。
自身が不在の間、高原の諸族の様子はどうであったか、羊さんの肥え具合はどうであるか、冬に備えて
何時もにこにこ、のんびり調子のオゴタイは、しかし一つ一つ明白な言葉を使って応えた。チンギスは都度頷きながら高原の平穏を喜び、そして最後に姉妹仲について尋ねた。
「ジョチ姉とチャガタイ姉は、顔を合わせれば取っ組み合いの
オゴタイは答える。
ジョチとオゴタイがウマ耳を寄せ合い、羊さんの毛の触り心地について真剣に話し合っていると、尾っぽをいきらせたチャガタイがやって来て言う。
「ジョチ。相も変わらず辛気臭い面をぶら下げおって、それだから駄目だ。とにかく貴様は駄目だ、駄目だ」
長女は仏頂面で耳を跳ねさせて応じる。
「チャガタイ。この粗雑者めが、今日こそ姉への口の利き方を覚えさせてやるぞ」
それから二人はがっぷり組み合って、転がしたり転がされたりを繰り返す。にこにこ眺めていたオゴタイが、きりの良い所で仲裁に入る。オゴタイが言うなら仕方ないぞ、と二人は素直に離れる。毎度その反復だ──
「姉妹仲が良い事は果報である」
チンギスは座ったまま身体を右に左にゆらゆらさせた。満足するまで揺れてから、肘を突いて、出し抜けに聞く。
「時に、ジョチの孕み腹は如何なる事か」
「お気付きで」
「分からいでか、匂いが違わい。仔細、話せ」
「御意。まあまあ、大した話にも御座いませぬ」
オゴタイはにこにこしたまま、やはりのんびり調子で語り出した。
◆
蒼穹に弧を描く鷹さんを眺めて、今の今まで寡黙を貫いていたジョチがぽつりと言った。
「オゴタイよ、私はあの方が不憫でならぬ。父母を一度に亡くされて、さぞや心細くあろう。誰ぞ名士が一緒になって、後見を務めてやれぬものだろうか」
オゴタイは酒杯を傾ける手を止めて「そうですなあ」と曖昧な返事をした。咄嗟に、姉の真意を掴み損ねたからである。
姉が誰について言い及んでいるのかは聞くまでもない。第一皇女ジョチともあろうウマ娘が、
長女の深刻気な横顔を見つつ、オゴタイは考えを巡らせた。
《韋駄天》ジェベ将軍とその指導人が、遠駆けの最中に落命した事は高原に伝わっていた。皆肩を落として、
将軍には親類縁者が無い、より正確を期するのならば
高原ではさして珍しくない身上である──しかし将軍も亡くなった事で、その忘れ形見の子息は天涯孤独となってしまった。
オゴタイが野駆けに誘われたのは、今朝ほど不意にであった。珍しい事だ。無論、ジョチとてモンゴルウマ娘として駆けを愛している。ただ、この無口な姉は独りで黙々と走る事を好んでいた。
この珍しい誘いを傍で聞いていたチャガタイは「雨が降るな」と言った。そして尾っぽを揺らして付いてこようとするのを「お前は来るな」と拒まれ怒っていた。
これは腹に一物あるに違いない──オゴタイはチャガタイを宥めながら、にこにこ顔で誘いに乗ったのだった。
「誰ぞ名士と言いますと、姉上には心当たりがおありかな」
オゴタイは探る。
「いや、無い」
自分で仕掛けた話の腰を、ジョチは自分でへし折った。それきり無言で酒を飲む。その様子で、オゴタイには万事得心がいったのである。
翌日もオゴタイは野駆けに誘われた。またチャガタイは省かれたので怒っていた。「あの方と釣り合いの取れるウマ娘となると、並々ではいかん」と相談とも独り言とも分からない調子でジョチは呟いた。
その翌日はチャガタイに誘われた。「でもジョチは来ちゃ駄目だ」次女は聞こえよがしに言ったが、当人は素知らぬ顔色であったので、やはりチャガタイは怒った。
そのまた翌日は、再びジョチに誘われた。チャガタイは怒らず、恨めしげな目で見ていた。「何処ぞに良きウマ娘は居ないだろうか」難しい顔でジョチはぶつぶつ言っていた。
オゴタイは笑顔で居るのが辛くなってきた。とにかく全身がむず痒くて堪らなかった。独りで走れよ、と思った。そこで、蒼穹を眺めて煮え切らぬ事をぶつぶつ言っている姉に言葉を挟む。
「そう気を揉まれますな、姉上のご心配も今暫くの事でありましょう」
ジョチは沈黙した、瞳で続きを促している。
「将軍のご子息は指導人として才気煥発、目は鷹さんの様に煌々と鋭く、左右の肩はブルカン岳の猛々しさ、背中は若草が萌える如き精気に満ちておりまする。高原広しと言えど、これに並ぶ男子を中々見かけましょうや。これは私が申し上げるより、幼き頃より共に過ごされた姉上の方が良くお分かりでしょう」
「うん、一々その通り」
「然ればで御座います。この様な不世出の強者、世のウマ娘が捨て置くとは思いませぬ。皆々男子少なきに飢えておりますれば、遠くなきうちに良縁が見付かりましょう」
「うん、そうだ、そうかな、あんまりそう思わないが」
「そうですよ」
「そうかな……」
ジョチのウマ耳はぺたんと頭蓋にくっ付た。構わずオゴタイは続ける。
「ですが今は確かに心細くありましょう。馴染みの深い姉上が行って励ましてやるのが重畳」
「しかしお前はそう言うが、昨今あの方とは疎遠になった。挨拶もろくに交わさない。なのに急に行っては妙に思われるだろう」
「あの人は近々元服なさるでしょう」
「うん、めでたいぞ」
「その祝いで訪ねて行くのは顔馴染みの義理というもの」
「言われてみればそうである、むしろ行かねば失礼だ」
そういう事になった。
さて、彼の元服祝いには様々な高原中から様々な部族から代表が来た。古い名門タルタル族からも来た。勿論オゴタイとチャガタイも行って、何かあれば頼って欲しいと励ました。
すると主役の新成人は「ジョチ様はご一緒でないのですか」と言った。長女がまだ来てないらしい事に妹二人は驚いた。チャガタイは「薄情者だ」と姉を非難した、次女は義理に厳しいウマ娘だった。
遂に三女は笑顔を忘れて駆け出した。
そうして第一皇女の天幕に飛び込んだ時、既に夕方だった。ジョチは天幕内で旋回していた。どれ程そうしていたのか、絨毯にくっきり足跡が付いている。
一方で身なりは整っている。どちらかといえば格好に無頓着なジョチだったが、毛並みは油を塗ってつやつやしており、皇族だけに許される目の覚める様な蒼い
何をしているのか、オゴタイが大声で聞くと、一心不乱に回っていたジョチは初めて妹の存在に気が付いたらしい。普段以上に細い声で言う。
「朝に
「私が昨晩星を読む所は大吉です」
すかさずオゴタイは反駁した。
「私は先程行ってきました、あの人は姉上を待っておられた」
「でも、何と言って励まして良いか分からない」
オゴタイは大らかなにこにこ顔を取り戻した。一周回って戻ってきたのである。
「こう言いなされ。『あなたは素晴らしき男子であります故、直ぐに良縁が見付かる事でしょう。私は陰ながら応援しております』と」
「あなたは素晴らしき男子であります故、直ぐに良えん、わたし、おうえん……チャガタイの言う通りだった。私は駄目だ、とにかく駄目だ」
ジョチは自分の天幕を追い出された。
──さて、元服祝いの日からふた月ばかり経った。
オゴタイは次女チャガタイに酒宴に誘われた。どうやら他にも色々な所から大勢来るらしい。モンゴルウマ娘は宴会が大好きであるから断った者は一人も居ない。
「無礼講だ、飲め、大いに飲め」
言ってチャガタイは豪快に酒杯を干した。また珍しい事だった。(家族以外で)礼節に厳しい姉が、こういう類の宴会を開く事は滅多に無い。
ともかく客人ウマ娘たちは、言われた通り喜んで飲んだ。歌って踊ったりもした。そうして皆が強かに酩酊した時、しかしオゴタイは全然酔っていなかった。多少上気した頬でにこにこしていた。飲んでいなかった訳ではない、単純に酒に強かったのである。
ところが主催者チャガタイは既に前後不覚だった。それを見計らってオゴタイはのんびり尋ねる。
「姉上、本日は随分と上機嫌な様子。さては何か吉事が有りましたか」
「おう、そうそれよ。よくぞ聞いた、おっおっおっ」
「オゴタイです」
「おごたい」
妹は水瓶から一杯すくって姉に飲ませた。すると幾らか正体を取り戻した様にチャガタイは答えた。
「近頃、ジョチの奴めは相撲から逃げるのだ。一昨日で三度連続。遂に観念したと見える、私の勝ちだ」
何の勝負だろうか、とオゴタイは思った。
「ところが執念深い奴の事、観念した様に見せかけて何ぞ企んでいるのやもしれぬ。だがもしや、もしかするとだな」
「体調を崩しているのやも」
「おごたい」
名前を呼ばれたので、オゴタイはもう一杯水をすくってきた。
「だとすれば奴めが哀れだ、ちょっとな。そう思わんか」
「思います」
「お前は優しいからな、そうだろうとも」
チャガタイはおぼつかない足取りで天幕の端まで歩いて行って、そこに掛けられていた布を退かした。出てきたのは、かご一杯のニンジンである。
「見舞いに持って行け。だが、しぶとく壮健であったなら、構わないからお前で食ってしまえ」
「これは見事な、甘そうです」
「もし渡す時でも出処を言う必要は無いからな」
言いたい事を言ってしまうとチャガタイは気絶する様に寝た。ニンジンに掛けられていた布を、今度は姉の腹に掛け直してからオゴタイも寝た。
翌朝、青白い顔で白湯を啜る主催者以下客人を残して、見舞いの品を抱えたオゴタイは早くにジョチの天幕を訪ねた。ジョチは弓と矢の手入れをしていた。全く健康である。
「ご壮健で何より。もしや身体が優れぬのではと、チャガタイ姉が心配しておりましたよ。どうぞ、お見舞にと持たされて御座います」
「これは何とも甘そうだ。あいつめ、偶には妹らしき真似も出来るらしい。ほれ、一本やろう」
「ありがとうございます」
二人はそれぞれニンジンを齧った。本当に甘かった。これを中華から取り寄せるとして幾らかかるやら。
ジョチの態度はふた月前とは打って変わって清々しい。寡黙だがものをきっぱり言い、懐が深い──つまりは元の気性に戻っていた。
そして何だか匂いが違う。初めオゴタイには、その何とも言えぬ円やかな匂いの示す所が分からなかった。
「早ウマが届きましたな。大ハーンのご帰還です」
「うん、三年振りだ。トルイも大きくなったろう。ついこの間までスブタイの腹に掴まってばかりだと思ったが」
「初陣を済ませたと聞きます、聞く所では戦働き大なりと。まだ元服前の子ウマだと思い通しておりましたが、いやはやどうして」
「併せはムカリ国王だそうな。あれには世話になる、四姉妹が全員か」
「礼を言うべきなのでしょうが、ずばり申さば羨ましい。私もトルイが敵の首を掻き切る場面が見たかった。順序があべこべですが、帰還の暁には、せめて盛大に元服を祝ってやりましょうぞ」
「然り」
長女と三女とは共にトルイの姿を想った。青毛に一筋の流星が愛らしい末妹である。帰った時は、立派だ、流石は蒼きウマ娘の末裔よと、うんと撫でてやろう。
両名は暫しほこほこしていたが、オゴタイは如何にも思い出した様に問うた。
「時に姉上。元服と言えば、あの後、ジェベ将軍の御子息の家には行きましたか」
問われた方は、ぐっと黙った後に答えた。
「行った。あの寒空に家を締め出されて、他に何処へ行けというのか」
「これはしたり、お詫びを重ね重ねて」
「良い」
「行って、それで」
「喧嘩になった」
ジョチはぷいとあっちを向いて、そのまま細々語り出した。
時間は元服式に遡る──大ハーンに次いで高原第二位の地位にあるウマ娘が、あろう事か住処を締め出され、とぼとぼ歩いて将軍の忘れ形見の
既に客人の姿も無い、祝辞を言うには場違いだ。それと寒い。随分と逡巡してから「もしもし」と草原の静寂にすら掻き消されそうな声で言うと、しかし、直ぐに家主は顔を出した。
彼は途端にぱっと顔を明るくして、客人を招き入れてくれた。その顔がジョチには太陽の様に暖かく思われた。
時外れの客人は長く沈黙していた。その後に、ようやく言った。頼れる妹に教えて貰った、至る道中何度も口の中で反芻した
「あなたは素晴らしき男子であります故、直ぐに良縁が見付かる事でしょう。私は陰ながら応援しております」
一言一句違えない。胸が裂けそうだった。他には何も言えそうにない。これにて義理を尽くしたのだから、さっさと帰ろうと思った。
しかしこれを聞いた男は、お日様の様に明るかった表情を一転させた。肩を前に出し、眉を吊り上げ、語気を荒らげて言う。
「落胆致しました。そんな話をするために来たのですか。あなたの口からだけは聞きたくなかった」
ジョチはかっとなった。腹の底からぼこぼこ怒りが湧いてきた。それは目の前の男に対する怒りに非ず、何かとても様々な事に対しての感情が怒りに転化されたのだ。
「私がわざわざ出向いてやったのに、何という言い草か」
「それはこっちの言い分です。久々に顔を合わせて言葉をかけて頂いたかと思えば、つまらない事を言う。これでは何のために、こんな夜分まで火を守っていたのか分からない」
「誰が待っててくれと頼んだ」
「でもあなたは、こうして来たではありませんか」
「揚げ足を取るな。不愉快だ、帰るっ」
「ええ帰りなさい。私の心が、まして己の心が分からない人に用など無い!」
遂にジョチは怒り心頭に発し、溜まりに溜まった心の内をぶちまけた。
「たわけが! お前の心も、私の心も、そんな事は初めから全部分かっていたぞ!」
◆
「……それで、どうなった」
悠々肘を肘をついて話を聞いていたチンギスは、何時の間にか身を乗り出していた。オゴタイはにこにこして返す。
「後は何でもないそうです」
「そんな訳があるか」
母親は肘を元の位置に戻し大きく嘆息した。「委細分かった」と告げる。オゴタイが初めに前置いた通り、確かに大した話でもなかった。その割にチンギスは疲れた気がした。
「日ならずして腹が膨らもう。それでなお何も入ってないと言い張るつもりだろうか」
「食い過ぎたと言うつもりやも」
「偶に区別のつかん奴が歩いておるが、ご飯は腹の内を蹴飛ばしたりせん。あの小僧め、昔から目を付けておったが、いよいよやってくれおったわ」
「殺しますか」
オゴタイはちょっと首を傾げた。
「異存あるまい」チンギスは、むん、と口をへの字に険しくした。こわい顔をしているつもりらしい。
「成婚半年チュウひとつ。私は守ったのだぞ、つらかった。だと言うのに我が愛娘を、あまつさえ婚姻前のウマ娘を孕ませるとは言語道断。不敬極まる、破廉恥この上無し。例え八つに刻もうが文句は言わせん」
再び、むん、とする──大ハーンは人を殺す時、こんなに
その方が明解で良いとオゴタイは思うのだが、余り同意は得られない。
「が、ジョチを敵に回すつもりは無い。チャガタイとて姉に与すだろう、あれは母より姉が好きなのだ。高原の平穏を乱すは我が本意に非ず。然らば、亡き将軍の忠孝に免じて、許す」
「ご英断、私は大ハーンに従います」
「しかしだな、私が許したとて我が半身が許すとは限らぬ。今は方々歩いておるが、戻ったらどうなる。確実に奴めを八つ裂きにして狼に喰らわせるぞ。我が半身は高原で一番つよいし、足がはやい。小僧に抗うべくもあるまい」
「そうですなあ」
オゴタイは曖昧な返事をした──そうして議論は、いっそ二人を正式な夫婦にしてしまい亡きジェベ将軍の名代としてキプチャク草原を治めさせる、という形に帰着したのである。
早速、身重のジョチが皇帝の天幕に呼び出され命が下った。第一皇女は表情が窺えない程に深く俯きながら了承した。彼女はすっと立ち上がり、天幕の出口付近に控えていた第三皇女へ、すれ違いざま「ありがとう」と言った。対しては「はてな」と返った。
ジョチは家を纏め、夫ともう一人、三名でキプチャク草原に旅立って行った。
その後直ぐ。皇帝専属指導人の猛反発と、チャガタイが暴れているのを適当にいなしつつ、チンギスは興味深げにオゴタイへ尋ねた。
「あの夜、二人が喧嘩せなんだら、どうする腹積もりであったのか」
「その時はその時、それまでだったという事でしょう。それに……」
「何だ」
「あんな台詞をぬけぬけ言われて怒らん男に、大切な姉をくれてやる了見は御座いませぬ」
大ハーンは大口を開けて哄笑した。オゴタイの両肩を何度も叩く。
「全く感心した。お主は姉妹で一番柔らかそうに見えて、その実、一番図太いわ! 良い、それでこそ大ハーンの娘である」
第三皇女オゴタイは、やはりにこにこ顔でぺこりと頭を下げた。
この娘が、ウマ娘朝モンゴル帝国第二代大ハーン──オゴタイ・ハーンとなるのは、これから二十年を待つ。