第三皇女オゴタイの大ハーン即位の報を受け、コンスタンティノープルの城壁を景気良くぼんぼこ崩していたキプチャク軍は、二百基の
『こんな事してる場合じゃない、帰らなきゃ』
と残る。この急旋回について一説によれば、帝国内の最有力皇女バトゥ・ハンは、かねてより大ハーンの跡目を虎視眈々と狙っており、その野心のバ脚を露わしたのだ──と言われる。
しかしウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者にして、世界的権威、加えて自らもウマ娘という女博士に曰く、
「めでたい。」
との事で、恐らく純粋に誰より早く祝いたかったのだろうと推察している。が、今の所は定説を覆すまでに至っていない。
筆者としても容易に賛同しかねる。バトゥの器量は次期大ハーンを十分窺えるものだった様に思えるからだ──その真意は判然としない。
いずれにせよバトゥは、鎮戍のための『タマ(タンマチ、探マ赤とも)』だけをコンスタンティノープルに残し、草原の世界に帰っていった。
竜巻の如く襲来し竜巻の如く去ってゆく──つまり何時ものモンゴルウマ娘の様子であった。
『タタールのくびき』という言葉がある。
ジェベ・ウルスの跨るルーシ地域から、バトゥの西征先であるバルカン半島──ダキア(ルーマニア)、ブルガリア、ギリシア、コンスタンティノープル等々、先進的な
野蛮なモンゴルの支配下で無辜の十字教の民は塗炭の苦しみを味わう事となり、正に屈辱の時代であった──という旧来の歴史観は実態から程遠かったと、ウマ娘女博士の活躍もあって昨今では知られつつある。
その正体は巨大なモンゴル共同体の中にあった国々が、後にそこから独立する際に創作された物語、
確かに、モンゴル統治下の人々は何時吹き荒ぶとも知れない竜巻の様なモンゴルウマ娘に、常に怯えていたのは否めない事実ではある。
しかし既に筆者が度々述べた様に、モンゴル帝国下の統治は寛容なものだった。改宗を強制する事も、政治を抑圧する事も、文化を押し付ける事も無い。ごく常識的な額の税金を徴収するのみで、後はお好きにどうぞ、である。
それ以上の注意も関心も遊牧ウマ娘には無かった。むしろモンゴル統治下の方が税金が下がって生活が楽になったケースも多かった位だ。
モンゴルウマ娘は、隣の異文化民に「お前と私は違う」等とのたまって、わざわざ虐める程に精神的な暇を弄んではいなかったし、そもそも他者を民族という
モンゴルウマ娘の頭を占めたのは、羊さん、駆け、お客さんで大体全部だった。これらを侵害されると火炎の様に怒る。
戦争の事はあまり考えない。遊牧ウマ娘は素で強いからである。また、考えようが考えまいが死ぬ時は死ぬ
さて、バトゥ・ハンが去り『タタールのくびき』を嵌められた(敢えてこう表現する)コンスタンティノープルでは、若き新ビザンツ皇帝の下にタマ軍が属する形となった。
だが、これはあくまで名目上の形式である。実質はモンゴルに支配されてしまうのではないか──という危惧がギリシア人に重くのしかかっていた。
ところが想定外の、ギリシア人にとっては僥倖であろう事が起こる。元気一杯のタマが、果たしてどういう訳か新皇帝の前では
『
と、ビザンツ帝国の史料に著される。
大いに疑義が残る記述だ。帝国は何かタマの弱みを握っていたとも囁かれるが、真相は歴史の闇の中である。
ともかく復活のビザンツ帝国の官僚らは、この僥倖を最大限に活かす道を選んだ。
即ち、モンゴルの
元より東方教会《正統派》は西方教会《普遍派》と対立していた。それが件の第四回十字軍を契機に、元々抱いていた憤懣を深い忿恨にまで悪化させたのは無理からぬ人心であったろう。
また同じ《正統派》のバルカン諸国にも再三の救援要請を出していたが、ろくに取り合っては貰えず無視されたに等しい。
オリエントから攻め上ってくる月星教徒は埒外である。
モンゴルだけが違った。
助けを求めた途端、バトゥ・ハンは正しく速攻で応じてくれたのだ(帝都自体を軽く吹き飛ばしそうな過剰戦力ではあったが)。確かに恐ろしくはあったが、発想を転ずればこの上ない強力な後ろ盾になりうる。
ビザンツ帝国には長い歴史に伴う威信こそ余りあるものの、実際の武力が欠落していた。その欠落部分に不意にすっぽり収まったのが、不思議な西アジア訛りの言葉を話すタマだったのだ。
そのタマたちは、一般的なギリシア人の視点からすれば粗野で文化的に遅れた蛮民に見えた。だが一方、共に暮らすうちに明るく正直で親切である事も見えてくる。
そういう気質は遊牧民では別段珍しくなかったが、定住民にとっては新鮮だった。荒々しくも温かい、一種の
玉座に就いたまま昇天した父、その跡を襲った《育ち過ぎたニンジン》こと若きビザンツ皇帝もまたタマの懐柔に努めた。
思えばビザンツ帝国は、遥々北海スウェーデンから船でやってきた
異民族の力を駆使してこそ真の《帝国》と言えた(西ローマ帝国はゲルマン人を駆使して滅んでしまったが)。
帝国の官僚はヴァリャーグの先例を踏襲した。即ち、懐柔のためタマに多量の金銀を与えた。
しかしタマたちは「おおきに」と元気良く礼を言うものの、どうもウマ耳や尾っぽの動きから察するに、それほど喜んでいる様に見えなかった。布地や糸といった物品は金銀よりか反応があったが、いまいち手応えが少ない。
これは一筋縄でいかない──プレゼント作戦に頭を悩ます官僚に、岩の様な巨躯の皇帝が野太い声で提案した。
「花園を作ろう」
官僚は困惑した。
この武人然とした皇帝の口から、まるで似つかわしくない単語が発せられたのもそうだったが、第一に意図が掴めなかった。
しかし新皇帝たっての希望という事で腕の立つ職人が招集され、東西交易の中心地コンスタンティノープルに立派な花園が造園された。
伝承によれば、素朴な花から遠い異国の珍しい花まで咲き誇り、また意匠を凝らした庭園が付随された真に見事な花園であったという。
完成したチューリップ畑を眺めた皇帝は僅かに頬の表情筋を動かして満足した。
そしてタマは物凄く喜んだ。
荒涼たる高原に住まう遊牧ウマ娘は、花園はおろか、ちょっとした花壇すら見た事がなかったのだ。
折々の花に尾っぽをうきうきさせながらタマはお花畑を練り歩いた。そして偶に皇帝が姿を見せると、びっくりしてその場を離れ、そして遠くからうっとりした顔で鮮やかな花と無骨な彼の顔を眺めていた。
そして若き皇帝が趣味で作った押し花は、どんな財宝よりもタマを歓喜させ、むしゃむしゃ食べたと言われる。
この花という真逆を以て武力を獲得した功績から、彼は後世《華武帝》と呼ばれビザンツ帝国中興の祖として名を残している。
モンゴル駐屯軍タマと良好な関係を築いて以後、ビザンツ帝国は西方世界に対してはローマ帝国の後継国家として威光を笠に、そして何かとモンゴルの超武力をちらつかせながら外交を展開する事となった。
そして、肝心の大モンゴル本国に対しては徹底的に腰を低くして、まるで第一の子分であるかのように振舞った。
従来悲劇と言われた『タタールのくびき』とは、それを嵌められる側も存外強かに、それ自体己の処世術に組み込んでいたのである。
情けないと言えば情けないのかもしれない。だがしかし命運尽きかけていたビザンツ帝国が、これにより二百年余も延命したのは事実なのだ。
この歴史から得られる教訓は、どんなに泥臭くても出来うる限りもがいてみれば思わぬ方面で道が開ける──といった所ではないだろうか。
何時の時代も生き残ろうと頑張る人間は逞しい。また、そういう人間さんにこそウマ娘は寄り添いたがる。
なお二百年後、モンゴルが衰えたと踏んでビザンツ帝国にちょっかいを出していた《オスマン侯国》が、モンゴルの後裔者《ティムール》にとんでもない目に遭わされるのは、また別の話。