17世紀の初めに短期間トランシルヴァニアを統治下に置いた神聖ローマ帝国は、当時のプロテスタント勢力に対抗するため、トランシルヴァニアにカトリック教徒のドイツ人を大量に入植させた。
カール・ハイゼンベルクの祖先もその内の1人である。
彼自身はプラハの工科大学で近代工業を習得し、ハイゼンベルク家を村の鍛冶屋から技術屋へと昇華させた。
プラハにいれば今よりもよほど良い収入が見込めたはずだが、カールは個人的な利益よりも村全体の利益を優先した。
彼はいずれこの寒村にも近代文明の恩恵が与えられると考えていたからだ。
4年間放置された自動車は見事なまでの不調っぷりを発揮していた。
排気口から軍の伝令兵が使う大型バイクのような音がするのは、恐らく点火プラグが何本かイカれているからだろう。
それでも流石はドイツ製というべきか、1人の男と3名の淑女をちゃんと教会まで運び届けるという偉業を成し遂げた。
おかげで淑女達はこの雪道の中を歩かずに済んだのだ。
教会でオルチーナ様のお嬢様方と別れた後、私はドイツ製高級車に精一杯の励ましを掛けながらハイゼンベルクの工廠に向かう。
オルチーナ様がもう一つの近代文明の力である電話の使用を許可して下さったおかげで、カール・ハイゼンベルクは準備万端の状態で待っていてくれた。
明らかに排気音のおかしい自動車が工廠に到着すると、ハイゼンベルクはさっそくこちらに笑みを投げかけてきた。
「おやおや、ドミトレスクお抱えの運転手様のご到着か!………点火プラグがイカれてる。保守点検はしなかったのか?」
「やあ、カールさん。お久しぶりです。…実は保守を頼んでいたフランチェスカが"大ポカ"をやらかしたもんで。」
「んなこったろうと思ったよ!ドミトレスクの侍女達が、そんな気の回る事をするはずもないからな!…いいか、セバスティアン。人間ってのは本能的に未知のものを恐れるんだ。つまり………」
「侍女達は普段触りもしていない自動車に近づくはずもない……まして保守なんて。」
「まっ、出征してたお前さんを責めるのは酷な話だがな。それじゃ、この可愛い子ちゃんを見てやるとしよう。……ところで、戦争はどうだった?」
「皆が期待してた物とは違いました。ずっと陰惨で…残酷だった。」
「………ロシュまでやられちまうとはな。俺としちゃあ、モローが生きて帰ったのは奇跡だが。」
「あいつはカールさんが思うよりずっとしぶとい男ですよ。」
「そうなのか?」
「ええ。なんというか…一種の才能ですね。事前に危険を察知して身を守れるんです。砲撃に、毒ガスに、狙撃兵。敵があいつに危害を加えようとする一歩先に、モローは対策を取ってるんですよ。」
「ガハハハハッ!あのトロい奴にそんな才能があったとはな!……うん、やっぱり点火プラグだ。セバスティアン、替えのプラグを取ってくれ。」
エンジンルームを覗き込んでいるハイゼンベルクに替えの点火プラグを渡すと、彼は慣れた手つきでそれを交換する。
次いでボンネットを閉じてエンジンを掛けると、ドイツ製の高級車は4年前と同じ力強いエンジン音を取り戻していた。
「さすがカールさん。」
「この程度、序の口よォ。ついでにオイル周りも見ておこう。4年間も運転してないんじゃ、オイルも腐ってるだろうしな。」
彼がオイルを交換してくれている間、私は彼の工廠にあまり好ましからぬ書物が並んでいるのを見て取った。
あるイタリア人が書いた本で、あろうことか社会主義にまつわる書物である。
私がそちらの方を見ている事に、ハイゼンベルクは気づいたようだった。
「安心していい、その男の思想はそれまでの社会主義とは違う…ファシズムってんだ。」
「ファシズム?…社会主義とどう違うんです?」
「社会主義は旧体制のエリート…まぁ、言っちゃ悪いがドミトレスク家の連中みたいなのを…ただ単に殺しちまうわけだが、ファシズムは連中をも抱合した全体主義を掲げている。」
「…………申し訳ないんですが、カールさん。難しくて私には」
「まあ、アレだ。つまりはだな。次の世代では俺やお前のような人間が主役になるってことよ。教養のある中産階級が、な。そこにはドミトレスクの女城主やベネヴィエントの嬢ちゃんもいる。皆が力を合わせて国家を盛り立てていくってわけだ。…そうだ、後で面白いモンを見せてやろう。」
車のオイル交換が終わると、彼は私を地下の作業場に連れて行く。
何事かと構えていると、そこには無限軌道を備えた車両があって、その脇にはアメリカ製の重機関銃が控えていた。
機関銃が控えているのと反対側には、電動鋸まで備えている。
「今回の戦争では機械が重要な役割を担ったんだろう?」
「ええ、はい、まあ。…これは?」
「『戦車』ってヤツさ。西の方じゃあ、こんなのが大層活躍したらしい。」
「こんな物どこで手に入れたんです?」
「機関銃か?………これはだな…ええっと…ドミトレスクのデカ女には話さないでくれよ、秘密裏に仕入れたんだ。」
心配しなくても私はこんな物の存在を報告するつもりはない。
車体のサイズから見ても精々局地戦用というのが関の山だし、そもそも機関銃を取り付けたら発砲の度に何かしらの部品が欠落していきそうだ。
そして何より、私はこの新しい物好きの技術屋から趣味を取り上げるような真似をしたくはなかった。
「……あとは歩兵砲か何か取付けられれば良いんだが…まあ今後の課題だな。」
「敵も無抵抗じゃありません、装甲板も必要でしょう。」
「ふふん、分かってないな、セバスティアン!」
「………?」
「当たらなければ、どうという事はない!」
決して聞いた事はないはずだが、何故か何処かで聞いた事があるような気がした。
きっと気のせいだろう。
満面の笑みを浮かべる技術屋は随分と楽しそうだったし、そのまま楽しい趣味に没頭してもらっていた方が良さそうだ。
オルチーナ様から預かった金で料金を支払って、私は元来た道を戻って行く。
ハイゼンベルクは新しく工廠を設ける際に新しい土地を開拓せざるを得なかったから、村の中心部からは一等遠い場所にある。
道中にはモローの住む小屋もあり、戦前と変わらず、猫背の漁夫は今日もそこで釣りを楽しんでいた。
私は車を小屋の脇に止めて、モローの後ろ姿に声をかける。
「モロー!何か釣れたか?」
「………帰ってきた。セバスティアン、おれたちは、帰ってきたんだ。」
「ああ、そうだ、帰ってきた。」
「やっぱり…ここは良い。戦争の前と変わらない…ここは本当に落ち着く。」
「そうだな。…バスか?」
「うん。今日はもう3匹釣れた。」
「そうか、邪魔して悪かったな。」
モローに手を振って車を発進させると、モローも手を振りかえしているのが見えた。
あの男はやはり"しぶとい"。
帰ってきて次の日には出征前と同じ生活に適応したのである。
我々のいた部隊では、敵の砲撃で精神に異常をきたした奴もいた。
そうならずに済んだのは、我々の幸運か、それとも主のご加護か。
ふと、昨日の晩餐での会話が脳裏をよぎる。
マザー・ミランダは教会堂への立ち入りを禁止したらしい。
流行り病の話は前線でも聞かれたが、まさか知らぬ間に故郷にまで浸透していたとは。
マザー・ミランダの娘さんはまだ幼いし、かの病の致死率は高いと聞く。
羅患して1年持ち堪えるとは凄いものだが、マザー・ミランダも娘さんも無事なら良いが…
彼女は素晴らしい聖職者だ。
村の中心である教会堂のマザーとして、この村の信仰心を支えてきた。
とても慈悲深い、柔らかく温かみのある人物で、私も両親を相次いで亡くしたときには彼女に慰められた。
「ご両親は主の元に旅立たれたのです。いずれはあなたもそこへ行くことでしょう。…ですが早まってはなりません。主の望みは、現世で精一杯生き抜いて善行を重ねる事なのですから。」
あの言葉は今でも何かに挫けそうになったとき、私を支えてくれる。
私と同様に、村人達は彼女を敬愛してやまなかった。
そんな彼女が今は苦境に立たされているのである。
教会堂を封鎖したのは、周囲の人間が心配のあまり彼女たちに近づいて、流行り病が村全体に及ばぬようにするためであろう。
何という自己犠牲の精神であろうか。
マザー・ミランダの精神に感動していた時、私の視界に黒いローブを纏った人物が現れた。
この辺でそんな格好をしている人間はあまりにも少ない。
私はその人物を知っていたし、だからこそ車をその人物の方へ寄せて声をかけた。
「ドナ!…ドナ!」
「………セバスティアン!?…帰っていたのね!」
ドナ・ベネヴィエントは人形を抱え、この雪道の中を自邸に向かって歩いていた。
彼女は気品あるベネヴィエント家の当主で、ベネヴィエント家は代々周辺の職人たちを束ねて、この寒村に数少ない娯楽を提供している。
楽器や人形、それに紙芝居は、過酷な環境で第一次産業に従事する村人達にかけがえのない癒しを与えていた。
「…………その……帰ってきてくれたのは嬉しいけど……………その………」
「それは分かるんだが、ドナ。君のような婦人がこんな雪道を歩くもんじゃない。家まで送らせてくれ。」
ドナ・ベネヴィエントを彼女の邸宅まで送るためにこの自動車を使ったところで、オルチーナ様は怒ったりしない。
それどころかオルチーナ様は、この内向的なベネヴィエント家当主のことをいつも気にかけていた。
彼女は昔から対人恐怖症の気があり、人と話すことがないどころか家から出ることも少なかった。
だからこの雪道を歩いていた事には驚いたし、同時に心配にもなる。
私は彼女を車の助手席に乗せ、再び車を走らせた。
「ゲオルゲ様が出征する前、両親に君の家まで連れて行かれたのが遥か昔に思えるよ。あの時、君のお父上は腹話術で私達を楽しませてくれた。」
「…………うん………懐かしい…」
「ちょっと!可愛いお人形ちゃんを無視するってどういうつもり!?」
明らかにドナとは異なる声色が聞こえたので、私は驚いて助手席を見やる。
そこには彼女の父上が拵えた『アンジー』という人形がいて、ぱちくりとした可愛らしい目をこちらには向けていた。
ああ、すっかり忘れていたな。
彼女もまた、父上譲りの腹話術の名人だった。
「やあ、アンジー。元気そうでなによりだ。」
「コッチはアンタが心配で心配でたまらなかったけどね!ロシュやイシュトヴァンは死んじゃったっていうし…」
「彼らは…残念だった。でも私は戻ってきたじゃないか…約束した通り。」
「………ええ。」
今度はドナが応える。
私と彼女はそれぞれの父親が友人であったために、幼い頃から知遇を得ていた。
そのおかげで、私は彼女と"まともに"顔を合わせて会話できる数少ない人間の1人となれたのである。
私は知っている。
今はベールに覆われている彼女の素顔を。
その整った顔立ちと、透き通るような肌…それに優しい瞳を。
彼女は本来は極めて感受性豊かな…詩的な雰囲気さえ纏う女性であった。
出征前、私は彼女の自邸へ向かい、戦争に行く事になったと伝えた。
その時彼女は普段下ろしているベールをたくし上げ、その悲しげな表情でこう言ったのだ。
「………行かないで」、と。
だが出征手続きは既に済んでいた。
私は必ず戻ると約束をし、そして幸運にもその約束を果たす事ができたのである。
「…それで、何でまたこんな雪道の中を?」
「雪は綺麗だから…………変かな?」
「いや、変じゃないとも。素敵な考えだ。」
確かに少し変わってはいるが、決して奇妙という意味ではない。
彼女は感受性豊かな人間故に、私が"ウンザリ"と感じるような村の雪化粧でさえ魅力的に捉えたのであろう。
その感受性が、彼女を酷く内気な性格にしてしまったのかもしれないが。
ただ、普段外を出歩かず、さらには雪に覆われた道のために、少し迷っていたに違いない。
彼女のローブにはうっすらと雪が積もっている。
悪い事は言わないから、早く家に帰って身体を温めた方がいい。
ドナを家に送り届け、再び教会へと向かう。
やがて教会に近づくと、教会周りの墓地に人だかりができているのに気づいた。
その外側にベイラの姿を認めた私は、車を降りて、彼女に何事かと尋ねる事にする。
「ベイラ、これは一体何の…」
「セバスティアン!墓地が荒らされてたの!…なんて心ない事を!」