「狼…?」
「はい、オルチーナ様。昨日私が撃ったのは狼です。」
「散弾銃の直撃を受けて逃げて行く狼だなんて…よほど運が良いのね。」
オルチーナ様の後に続いて、私は教会墓地の"現場"に向かって行く。
そこにはすでに人集りができていて、オルチーナ様の身長を持ってしても、その視察のためには何人かの村人を動かさねばならなかった。
昨夜の吹雪はそれなりのものだったが、狼がその場に残した多量の血痕まで覆い尽くすことはできなかった。
腰だめで撃った割には、散弾の多くは狼の体を捉えていたようで、外柵には狼のものと思わしき銀色の毛がこびりついている。
ただ、残念なことに足跡の方はぼんやりとしか残っていない。
それでも、オルチーナ様が結論を下すには充分な材料だった。
「この時期に狼がここまで降りてくるなんて話は聞いたことないけれど、可能性がないわけではない。村人達には施錠をしっかりと行うように伝えておきましょう。」
「かしこまりました。」
「よくやってくれたわ、セバスティアン。…それにしても、狼が墓地を掘るだなんて…」
「私も驚きましたよ。…でもあれはたしかに狼でした。」
「あなたを信じるわ。散弾を撃たれて平気な人間なんて、私くらいじゃないかしら。」
人集りを形成していた村人達は声をあげて笑った。
確かにオルチーナ様の体格なら散弾ごとき弾き返しそうな雰囲気さえある。
オルチーナ様と私はその後、ここまで来るのに使用した自動車に乗ってドミトレスク城へ帰還した。
「あなたには感謝してもしきれない。今日はゆっくりと休みなさい。」
「ありがとうございます。」
オルチーナ様は昨日おっしゃってくださった通り、本日休養を与えてくださった。
昨夜は結局朝まで見張りをしていたから、私としては少しばかり眠ろうかと思っている。
だから自室に戻ると、その考えを実行に移すことにした。
私はベッドの上に寝転んで、目を閉じる。
心地よい疲れと、問題を解決できた達成感が睡眠欲を助長した。
………
……
…
おっと、いかん、眠りすぎた。
目を覚ました時、窓の外はもうすっかりと暗くなっていた。
恐らくは出征以来溜まっていた疲れを一気に放出してしまったのだろう。
こんな寝坊なんて子供の時以来だろうか。
ふとベッドの脇を見ると、サイドテーブルにサンドウィッチが置かれているのに気がついた。
その横にはメモがある。
『随分と疲れてるようね。お腹が空いたら食べなさい。………それと、ちゃんとお風呂にも入ること。』
筆跡には見覚えがあった。
それは間違いなく、オルチーナ様の直筆だ。
なんてこった、仕えている女主人に情けない呆けたような寝顔を晒してしまったに違いない。
しかしながらオルチーナ様もオルチーナ様で叩き起こしてくださっても良かったのに…いや、あの素晴らしい女性はきっとそんな真似はしない。
例のフランチェスカは事ある度に粗相をしでかすので、オルチーナ様に忠告されているところをよく目にする。
だが、それでもフランチェスカがオルチーナ様を慕っているのは、彼女の人格に惹かれてのことだろう。
いつかフランチェスカがかなり適当な掃除をやった。
オルチーナ様はフランチェスカを呼びつけて、激しく叱るのかと思ったが、そうではなかった。
あろう事か、この女主人は手袋を嵌めて、フランチェスカに掃除のやり方を教え始めたのである。
フランチェスカには、それがかなり"こたえた"ようだった。
自身の仕事を、その給料を支払っている人間にやらせてしまった恥ずかしさから、フランチェスカは掃除の手を抜く事がなくなった。
………ちなみに、オルチーナ様が掃除した部屋は、他のどの侍女がやっても同じようにはならないほど完璧だったらしい。
オルチーナ様は間違いなく、"やり手"の領主であった。
年に一度ブカレストからやってくる中央の役人達は、まずオルチーナ様の身長に気圧されて、次にその美貌の虜になり、最後にはその巧妙な話術に惑わされ、自分達が持ってきた要求を断られたことを気にもかけていないかのように笑顔で帰って行くのである。
正直、村人達はゲオルゲ・ドミトレスクよりも彼女の方を評価している。
そして、その美貌には誰もが思わず見惚れてしまう。
この村で最近流行っている冗談は、オルチーナ様を見かけるといつも脱帽をして挨拶している男の話だ。
それによるとその男はオルチーナ様に見惚れるあまり、家内の機嫌を損ねないよう、脱帽して挨拶するフリをしているというものだった。
きめ細かな白い肌と、透き通った青空のような碧眼。
そしてプックリと膨れた唇を赤の口紅で染め、短めの艶やかな黒髪に、上品な物腰とスタイルを見れば、世の男なら誰でも振り返る。
私もこの前の抱擁の事を未だに忘れられないし、恐らくこの先棺桶に入るまで忘れることはないだろう。
サンドウィッチで空腹を満たし、使用人の浴場で身体を清めた後、私はオルチーナ様の感極まるお心遣いに感謝を述べるため、服装を正して彼女の執務部屋へと向かう。
時刻はもう午後10時。
明日の朝でも良いかと思うような時間だが、オルチーナ様は大抵の場合日付が変わるまで領主としての御執務に当たられている。
それに明日は自動車を使用するかどうかもお聞きしていない。
サンドウィッチの脇のメモにその事柄が書かれていない時点で、おそらくは明日も自動車は使われないのだろうが。
感謝の気持ちを伝えにいったところで、追い返されることもないだろう。
執務室の前で、私はもう一度自身の身だしなみを整える。
そうして、執務室のドアを3回ノックした。
「オルチーナ様、セバスティアンです。お部屋に失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」
ドアは微かに空いていて、中からは明かりが漏れている。
だがお返事はなく、私はもう一度ノックした。
またしてもお返事がないために、恐らくオルチーナ様もお疲れのあまり明かりを灯したままお休みになられたのだと、私は思った。
仕方がない、お礼を言うのは明日の朝にしよう。
このまま部屋に入って、机に突っ伏して寝ているオルチーナ様にそっと毛布を掛ける妄想が頭をよぎったが、私はそんな真似が似合う美男子ではない。
第一、理由はなんであれレディのお部屋に勝手に立ち入るような人間は、それがどんな美男子であろうと不躾というものだ。
私はその場で回れ右をする。
そしてその場で凍りついてしまった。
振り返った先にはオルチーナ様がいた。
まず、彼女のあられのない姿に目を疑う。
大きく胸元をはだけさせたバスローブ一枚という、一地域の領主としてはあまりにも無警戒な姿は、この時間に誰かに出くわす事を考えていなかったことの証左だろう。
ただ、オルチーナ様の執務部屋の近くには彼女専用の浴場があり、またこの時間に彼女を尋ねるような人間は決まった時間にやって来る侍女だけだったろうから、この場合責句を受けなければならないのは私の方である。
しかし、彼女が抱えていたの。
それは侍女であれ、お嬢様方であれ、誰にも見せたくなかったに違いない。
赤い液体の入った大きな瓶で、私はそれに見覚えがある。
…あまり思い出したくはない記憶の中に、それがあった。
前線、砲弾、機関銃、死、傷、そして病院。
それは間違いなく輸血用の血液であり、オルチーナ様の口元には、赤黒い液体の跡がある。
「……………オ、オルチーナ様…」
この村には印象の良くない噂話があった。
ドミトレスク家は実は吸血鬼の血を受け継いでおり、今も人の血を飲んでいると。
私はこの光景を見るまで、それは大昔にドミトレスク家とこの地を奪い合った他家が流布した宣伝だと思っていた。
しかし、決して見られたくはなかったであろう光景を見られたオルチーナ様は、私の方へと迫ってくる。
「…………見てしまったのね。」
「い、いえ、私はッ…断じて、オルチーナ様!」
「いいえ、見てしまった。本当はこんな事したくはなかったけど、見られた以上は仕方ない…残念だけど………」
私は後退るが、オルチーナ様は歩みを止めない。
その大きなお身体は確実に私を追い詰め続けている。
やがて、私まであと数歩もない所まで迫ると、その腰を屈めて、今まで見たこともないような冷徹な表情を私に近づけた。
それはまるで、吸血鬼が獲物の生首に牙を立てんとしているようだ。
「………お、お許し」
「話しましょう、ドミトレスク家の秘密を。」
……………あ、そう来ます?
…………………………………
「血液疾患?」
「ええ、セバスティアン。あなたは知っていると思うけど、ドミトレスク家はこんな体裁でもハプスブルクの末席よ。彼らがどうやって勢力を拡大してきたかは教えたと思うけれど?」
私は暖炉の前のソファに座り、対面の貴婦人と会話をしている。
彼女は今度はちゃんと寝巻きに身を包んで、輸血瓶を片手に、少しばかり遠い目をしてこちらに語っていた。
オルチーナ様に引き取られた後、彼女から受けた教育を思い出す。
まだまだ子供だった頃、この聡明な貴婦人が教えてくれた欧州の歴史を。
ハプスブルク家は政略結婚によって、その領域を広げてきたのだ。
「政略結婚で領地を拡大してきたからには、その維持のためには血縁を保たねばならなかった。だから自然と近親婚が多くなったの。」
昔々に見た、カール5世やマリー・アントワネットの肖像画を思い出した。
確か彼らの下顎は、他の王族にはない特徴を帯びている。
確か…ああ、そうだ…それも近親婚を繰り返した結果だったか…そういえば、ゲオルゲ・ドミトレスクとオルチーナ様も、遠くはない親類同士だったはずだ。
「ウィーンの連中はドミトレスク家に大した領地を与えなかった癖に、遺伝的な欠陥だけは残していったわ。その一つは私の身長。もう一つは血液疾患。後者は私達より遥か以前の先祖にも見られた。そこで、様々な手段を試した結果…"コレ"にたどり着いたわけ。」
オルチーナ様は輸血瓶を軽く掲げて見せる。
そしてそのままグビッと飲むと、「クィ〜ッ!」という声を漏らした。
風呂上がりの麦酒感覚で血液を飲むのもどうかと思うが…
まあ、今彼女が"素の顔"を曝け出しているのは私を信頼してのことだろうと思うことにする。
「ゲオルゲがコレラで死んだのも、きっとそれが原因でしょう。将軍が兵士達の前で血液の経口摂取なんてできない。だから持病にコレラが重なった…頑丈なあの人も、2つの病には勝てなかった。」
「その…隠れて摂取したりできなかったのでしょうか?」
「あの人はドミトレスクの名を再び挙げようと頑張っていた…逆に言うとそれしか頭になかったの。領地も領民も、私たちのことさえ傍に追いやって。全ては家名のためにって必死だった。そんな彼が万一のリスクで家名を穢しかねないような事をすると思う?」
「ご自身の命よりも家名を?」
「そういう人なのよ、ゲオルゲは。結婚式はウィーンで挙げたけど、参加者達は陰で私たちのことを"没落貴族"だと呼んでいた。私でも気づいたのだから、ゲオルゲも気づいたんでしょう。あの人はその事が、何にも増して我慢ならなかった。」
「………」
「だからあの人は陸軍の将官になれたのよ。自分の命よりも家名を守って死ぬ事を選んだ。………でも、私は…そんなことよりも無事に帰ってきて欲しかった。」
「………」
「だってそうじゃない?…この村が嫌いなわけではないけれど、私たちは所詮"田舎貴族"よ。領地だってこの村一帯くらいのもの。ウィーンの連中なんて放っておけば良かったのに………」
「ウィーンの人間は傲慢ですから。」
「………ふふっ。ありがとう、セバスティアン。」
私の思うに、オルチーナ様もまた、モローと同じく孤独を抱えていた。
彼女は夫の亡き後、自身の娘達だけではなく、この領地と村人達をも守らねばならなかった。
ルーマニアは既にハプスブルクの手を離れていたが、今度はブカレストの役人達と戦わなければならなかったのだ。
その事実は彼女に孤独な戦いを強いてきた。
ウィーンの連中に鼻先で笑われ、"没落貴族"と呼ばれても。
それでも彼女は、この村を守ってきたのである。
「………分かってはいると思うけど、この事はどうか口外しないでちょうだいね?領主が人間の血液を飲んでいると知れば、村人達が私をどう思うか。」
「ええ、勿論です。オルチーナ様が私にこの事をお話になられたのは、きっとご信頼の証でしょうから。このアッペルフェルドは決して裏切りません。」
「あなたで良かった、セバスティアン。他の者なら村から追い出さなければならないところだったわ。」
「それでその…余計かもしれませんが…その血液は………」
「ああ、これ?何人かの侍女に特別の報酬を支払って調達しているわ。怪しい物ではないから安心して。」
「あの………言いにくいのですが、その侍女達にはご注意ください。出征前にフランチェスカがこう言ってましたので。…曰く、『オルチーナ様は些細な粗相をしでかした侍女を地下牢に幽閉して生き血を啜ってる』と」
「もう!あの子ったらッ!!女優になれるわね!…確かに地下牢で採取してるのは事実だけど…」
「地下牢で?」
「ッ…あのね、セバスティアン!私はこう見えてここ一帯の領主よ!こんな真似表立ってできるわけないでしょう!?」
「それは………まあ、確かに」
「………でもまあ、それもフランチェスカで良かったわ。あの子の言う事なら、他の侍女達も信じはしないでしょうし。…今日はありがとう、セバスティアン。」
「お礼を言うのは私の方です。お心遣い本当にありがとうございます。」
「気にする必要はないわ。…あなたも大切な"家族"なんだから。」
オルチーナ様に引き取られた日の記憶が蘇る。
『安心なさい、セバスティアン。今日からは私達があなたの家族よ。』
突然目頭が熱くなり、私は涙を堪えた。
この城は私の"家"でもあったのだ。
そして、"家"は私を待っていてくれた。
その事が、なによりも嬉しく感じる。
「あらあら……レディの前で涙を見せるのは、お葬式の時だけにしておきなさい。」
「は、はい、オルチーナ様…」
「今日はもう休んで…ああそうだ、明日の朝伝えようと思ったのだけれど、午後から自動車を使うわ。」
「…どちらまで?」
「ベネヴィエント家の邸宅まで。驚くかもしれないけれど、ドナの方から招待してきたのよ?」
オルチーナ・ドミトレスクの外見がゲーム本編と異なるのは、まだ"感染"していないからということにしておいてください私はそうしました(ニホンゴフジユウナノカナ?)
あと身長の件は設定をねじ曲げました(おい)