トレーナーになることにした。3年契約で   作:とくめい

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アグネスタキオン

『トレーナーになるのであれば、担当ウマ娘を決めなければいけませんね』

 

 緑の帽子が揺れて、目の前にバインダーが置かれた。中を捲ると、ウマ娘ごとに各種データがファイリングされている。現段階での身体能力や人格診断結果、または練習レースのタイム、着順、1着順とのバ身差等、諸々。

 ぺらぺらと捲っていると、出るわ出るわ名馬の名前の数々。

 JRA賞最優秀短距離馬であるサクラバクシンオー。デビューから12戦、最多連続連対記録を持つダイワスカーレット。笠松から中央に移り、平成三強とも呼ばれた芦毛の怪物オグリキャップ。……相変わらず時代がバラバラだが。

 

「? この子たちはいずれもデビュー前の筈ですが、よく御存じですね?」

「おおぅ、シンボリルドルフもいるのか。と来れば、もちろんナリタブライアンもいるし。マヤノトップガンもいるじゃん。阪神大賞典が見てみたいもんだな」

 

 こりゃ日本競馬界のオールスターだなあと資料を流し読みする。いずれも競馬史界に名を遺した優駿ばかりだ。中には知らない名前もあるが。――いや、何でこの流れでハルウララがいるんだよ。

 あえてか?あえてなのか?確かに人気馬ではあったけどさー。それでいうとレッツゴードンキなんかもいたりする?いない?

 

「……あのー?」

「心配無用ッ! あの人は昔から集中すると人の話を聞かないッ!」

 

 たづなさんが何やら疑問の声を上げているが、よくまあこれだけの逸材が集まったもんだと嘆息する。

 これだけの名バがいて、そしてその知識を持っていて、彼女たちを活躍させてやらないなんてのはそれこそ嘘だ。この資料は借りてもいいのか? と聞くと、俺の為に用意したものだから持って帰ってくれて構わないとのこと。

 そこまで言われては、もはや俺にやるべきは決まっていた。

 

「……ま、何とかなるでしょ」

 

逆にこれで育成失敗しようもんなら、トレーナーの腕が悪いとしか言いようがない。

 

 

 

 『トレーナーバッジがない以上、今日時点で出来ることはない。次週の選抜レースまでには用意しておく』と伝えて、彼は理事長室を後にした。扉が音を立てて閉まると同時に、秋川やよいは満足げに大きく頷いた。

 ふふん! と扇子を勢い良く開いて、横に立つたづなを見上げる。

 

「重畳、重畳! 3年後のURA設立を前に、彼の力は必須だからな!」

 

 理事長!と書かれた独特な扇子で自分を扇ぎながら高笑いをする彼女は、これまでの苦労を眼下に浮かべた。突如大学院から姿を消した彼を見つけるのにも時間が掛かったものだが、こうして実をなした今、全ては些末事と言えた。

 

「あのぅ、理事長。私は彼について詳しく知りませんが、少なくとも今まで、研究機関以外に所属していたことはないのですよね?」

「肯定! 彼は小学校卒業後、12歳で単身アメリカに渡り、飛び級での大学入学! その後もSumma Cum Laude……最優秀生徒として卒業し、そこからは大学院での研究を行っていたと聞いている!」

 

 いわゆる神童、ギフテッドという奴だな! とやよいは高らかに笑う。

 兄同然の親戚が日本を離れた時は大層寂しかったものだが、それでも彼の地でのあの人の活躍を思えば誇らしい気持ちが浮かぶものだ。きらきらとした瞳でテレビニュースに流れる彼の姿を追いかけていた日々が脳裏に蘇る。

 しかし、とたづなは心配そうに頰に手を当てた。

 

「もちろん、優秀な方だというのは存じておりますけど……いきなりトレーナーとして担当を持つのは難しいのでは? 彼も言っていたように、他の新人トレーナーさんのように養成学校で経験を積んできた訳ではありませんし」

 

 正論だった。

 彼はあくまでトレーナー資格を有しているだけで、専門的な訓練を受けていたわけではない。何せウマ娘の訓練には特別な知識や経験が必要となる。そう簡単に事が運ぶとは、どうしても思えなかった。

 たづなが心配している点は、当然、理事長であるやよいも考慮済であった。

 その上で『全く問題なく』彼がトレーナー業を勤め上げてスターウマ娘を育成し、ついでに理事長としての自分のタスクも一部負担してくれないかなー等と考えていた。秋川やよい、久しぶりに逢えた親戚のお兄ちゃんに掛かり気味。ワクワクよーいドンだ。

 

「問題ないと思うがっ。……とはいえ、たづなの言い分も理解はできる、か」

 

 カチ、と扇子の閉まる音。

 

「結論ッ! 先の彼の発言では、少なくとも彼の担当が決まるのは次週の選抜レースの結果を見てから、ということになるなっ? であれば、それまで私が直接彼への指導を行おう!」

「り、理事長が直々に、ですか?」

「良案! 私であればウマ娘のことも、このトレセン学園のことも承知している!」

 

 いかにも良いことを思いついた! とばかりに笑みを深める彼女に、たづなは頭を抱える。いつも通りと言えばその通りだが、何とも突飛すぎる。

 まあ、彼女がトレセン学園内のトレーニング施設を視察したり、時にはウマ娘やトレーナーとのコミュニケーションを取っているのは周知の事実なので、確かにその延長……と捉えることは出来るかもしれないが。

 これは暫く大変な日々が続きそうだなあ……と、いつも通りの諦観を覚えたたづなは、そういえば、と疑問を口にした。

 

「何だか彼、デビュー前の子たちのこともよく知っていたようですが……理事長から何かお話されましたか?」

 

 

 

 やたらと広いことを除けば、トレセン学園の作りは大学キャンパスに近いように思えた。敷地内中央には学舎が建てられ、それを囲むようにウマ娘達の走行コースや施設が全体に並んでいる。

 トレーニングセンターと言えど、毎時のようにレースの訓練をしているわけではない。年代で言えば中高生の年ごろの子供たちが集まっているわけで、教育施設としての役割もこなしている訳だ。

 現在時刻は昼前の11時過ぎごろ。時刻的には一般授業が行われている筈だ。一部の教職員やトレーナーがぽつりぽつりと歩いているばかりで、ウマ耳を垂らした少女たちの姿は全くない。

 

「あっちが芝で、ダートはこちらと。で、トレーニング施設と、プールと食堂と……」

 

 あちらこちらと徒歩で歩くには広すぎる敷地に、せめて自転車ぐらいは用意しようかと考える。

 ただ、今、生徒の姿がないのは都合がいいと言えた。

 早ければ次週には担当に付くかもしれない以上、校内施設は今の内に把握しておかなければならなかった。とはいえ、俺に見られたい子がどれだけいるか……という問題もあるが。ま、トレーナーが付かずにデビュー出来ない子達もいるくらいだ。極々一部の『トレーナー側が』競い合うぐらいの逸材でもなければ何とかなるだろう。

 とりあえず暫くの間はどんな子だろうと基礎トレーニングになるんだ、コースも距離適性も一旦は考えずに、汎用的なトレーニング内容を練っていかないとな。

 そんな考えごとをしているのが悪かったのか、校舎の曲がり角部分で軽い衝撃が俺を襲った。肩への軽い痛み。思わず腰を落とす。

 見ると、栗毛が跳ねていた。

 へえ、と思わず声を出す。白衣を着たウマ娘は初めてだ。

 懐かしい恰好をしているな、と思った。

 あちらの大学にいた頃は男も女も、彼女のように白衣でうろつく輩が多かったものだ。

 

「おっと失礼。少々考え事をしていたものでね」

 

 懐かしい瞳だ、とも思った。どろどろに濁りきった赤い瞳はエゴイストのそれで、問題児の香りしかしなかった。

 

「いやなに、こちらの不注意だとも。特に怪我をした訳でもなし、気にしないでくれ」

「そう言って貰えると助かるね……新人の職員君かな?」

「つい30分程前にここのトレーナーになった者だよ」

 

 一般採用ではないが。

 ほう、と軽い喜びの色を含んだ声が聞こえた。

 

「なるほど、なるほど。――部外者であれば流石にどうかと思ったが、トレーナーであれば問題ないか」

「なんて?」

「いやなに、すこぅしばかり、君に協力してほしいことがあるんだがね」

「協力? ……論文でも書いてるのか?」

 

 彼女の瞳の色が一段と深くなったような気がした。

 

「うんうん。いやなに、健康な成人男性のサンプルが丁度欲しかったところなのさ。実証結果がまるで足りなくてねえ……」

 

 用件を改めれば、つまりは彼女が進める実験に被験者となってほしい、とのことだった。

 まあ、学者が研究に協力者を求めるのは珍しい話じゃない。

 俺だって大学に在籍していた当時は人間もウマ娘も男も女も老いも若きも、そこら中から引っ張ってきてはデータを採集していた訳だし。逆に、校内で研究協力したことだって何度でもある。

 確かに、彼女のようなウマ娘に取ってみれば人間男性のサンプルは限られているだろう。時間がない訳でもないし、協力するのはやぶさかでもなもないのだが……

 

「協力って、具体的に何をするんだ? 長時間拘束されるようなものでなければ問題ないが」

「うんうん! そう言ってくれるか! なあに、1時間もあれば終わるさ」

「具体的には?」

 

「私が作った新薬の臨床薬理試験だが」

 

「すまない、昼から用事があったことを思い出したよ。機会があればまた会おう……止めないでくれないかな」

「待ちたまえよ」

 

 踵を返して全速力で走ったつもりだったが、2秒もしない内に肩を掴まれていた。ウマ娘特有の筋力で掴まれていれば僧帽筋がイカれてもおかしくないのだが、意外に人間として常識的な力での掴み方に留まっていた。

 

「まあまあ聞いてくれよ、モルモッ……トレーナー君。確かに私が作ったとは言ったが、安全性については十分配慮しているさ。何の問題もないと言っていいね――データ上は」

「IRB(Institutional Review Board)は立ってんのか?」

「はーはっは……何故研究の邪魔になる外部委員が必要になるんだい?」

 

 頭のネジがぶっ飛んでるのか、そもそも締まる仕組みではないのか。

 天下の中央トレセン学園は、どこに出しても恥ずかしい科学者を抱えているようだった。

 

「倫理観をドブにでも捨ててきたのか?」

「科学の発展には最も不要と言っていいものだねえ」

 

 臆した面もなくけらけらと笑う彼女は明らかに異常者だった。自分のやりたいこと、調べたいことの為なら何を置いても優先してしまう類の生粋の研究者だ。

 

「断言するけど、アメリカで俺が見てきた研究者を含めて、君が最も狂っているよ」

 

 彼女を一般の人間として扱うのであれば、国内身分的には高校生に当て嵌まるはずだが、少なくとも精神の狂気性に限れば一端の科学者と言えた。

 そんな俺の口をついた言葉はもはやただの悪口だったが、俺の発言は少しばかり彼女の興味を引いたようだった。先ほどまでの狂気的な面を少し下げて、ふむと顎に手を当てた。

 

「米国で研究をしていたのか? 君、トレーナーじゃないのか?」

 

 少し訝しげにこちらを見る彼女に、つい先ほど印を付いたばかりの書類を見せてやる。

 

「資格は持ってるし、雇用契約も済んでるさ。……バッジは今ちょっと持ってないけど、理事長決裁が済んだ雇用契約書ぐらいならあるぜ」

「ふむ……ん、んんん? あれー? 秋川って君、あの秋川か? アメリカのどの大学にいた?」

「――大の院だが。ああ、秋川っていうのは理事長と同じ苗字だが、遠縁の親戚ってだけで……」

 

 何だか言い訳めいたことを口にしていると、彼女の両腕が一気に俺の両肩を掴んだ。先ほどまでの動きを止めるだけのそれではなく、一歩も動かさないぞという気概を感じる。

 ふ、ふふふふっ!……と不気味な哄笑が聞こえる。ギラギラとした瞳が俺を貫いているが、このまま両腕を付け根から引っこ抜くつもりだろうか。

 狂気の赤い瞳をそのままに、彼女の白衣がはたはたと揺れるのが目に入った。チラ見せするつもりだった筈の雇用契約書は彼女によって取り上げられ、舐め回すように観察されている。

 

「トレーナー任期が3年ということは、少なくともある1人のウマ娘がトゥインクルシリーズを終えるまではこの学園にいる訳だ、君は」

「まあ、そうなるな」

「それで今は、育成ウマ娘の目星を付けに来ているということかな?」

「いや、それは来週の選抜レースを見て決めるつもりだったが」

 

 今はただの校内見学でしかない。と伝えると、そこで彼女はようやく俺の肩から手を放してくれた。

 

「それで? レースの優勝者でもスカウトするつもりかい?」

「出来ればね、そりゃ今後のトレーニング次第とはいえ、素質も大事だし。他のトレーナーもいるだろうし、どうなるかは分からないけど」

「トレーナーにとっては実績も必要、ということか」

「なにが?」

「ふぅむ、面倒だが、仕方ない……私も出るか。それで問題ないね?」

「いや、なにが?」

 

 独り言のようにブツブツ呟いていた彼女はやがて、にやりとした笑顔を浮かべて、契約書に書かれた俺の名前を指でなぞった。怖いからやめてほしい。

 

「そろそろこの日本ウマ娘トレーニングセンター学園を退学になる頃かと思っていたンだが、ここで君と共同研究が出来るなら、多少の不便不都合を飲み込めるってことさ、ドクター秋川?」

 

 ドクター、と呼ばれるのは明らかに久しぶりだった。そしてここでようやく彼女が俺の名を知っていることが分かった。

 確かに在学当時はそれなりに名前も売れたし、幾つかの論文は機関紙に載っていたこともあるが……彼女からすると子供の時分の話じゃないのか? よく知っていたもんだな。

 

「ああ、何だ。俺の論文でも読んだか?どれも5年以上前に発表されている筈だが、意外に勉強熱心なんだな?」

「そりゃもちろん読むさ。近年のウマ娘の生理学、解剖学、基礎運動学……いずれも革新的な視点からの研究とその結果は実に興味深かったさ」

 

 日本翻訳でも読んだのかと思えば、しっかり原著に目を通したさ、とのこと。翻訳者の知識レベルで正しい内容になっているとは思えないからねえと笑っており、その点においては大いに同意する。そうだろうと笑って返される。

 何とも久しぶりにする会話だ。この5年間は酒と煙草と博打しかしていなかったから、学術的な話など縁遠いものになっていたのだから。

 

「というか君の研究範囲を聞いていなかったが、俺の専攻分野に絡んでいたのか?」

「――ウマ娘の可能性の果てを追いかけているのさ、私は」

 

 濁った瞳をギラギラと輝かせて、彼女は大きく身を引いた。白衣がはためいて、裾口からは色とりどりの試験管を覗かせていた。

 確かに可能性の果て、という言葉には少し心を惹かれるものがあった。

 例えば人間のスプリンターはごく限られた区間を時速45kmで走ることが出来る。しかし……理論上の限界は時速64km程度までなら、人体は耐えうると考えられている。

 俺にはスプリンターの才能どころか走る才能さえないのだから、この理論を実験することは出来ない。だが、ウマ娘たる彼女が、その身をもってどこまで限界に近づけるのか、限界を超えられるのか……という点には、興味がないといえば嘘になる。

 

「君には是非、その共同研究者になってほしいのさ――ないし被験者に」

「モルモットになる気はないが」

「えー」

 

 えーじゃないが。

 しかしまあ、どうせ誰かの担当にはならなきゃいけないんだ。

 

「来週の選抜レース、楽しみにしてるよ。別に一着になれと言うつもりはないけど、――可能性の切れ端ぐらいは見せてくれよ」

「はーはっは! その方が難しいんじゃないのか、君!」

 

 確かにそうかもな、と笑い合って翌週のこと。

 彼女――アグネスタキオンが2着ハッピーミークに3馬身半差を付けて圧勝したのを受け、俺と彼女は職員室で専属トレーナー契約を結んだ。




研究とか競馬とか大体エアプです

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