トレーナーになることにした。3年契約で 作:とくめい
メイクデビューを終えてしばらく、タキオンには当面のレース出走予定がなかった。
次走をホープフルにした時点で、年末まで表に出る機会がないのは折込済だけれど。
よってここ最近は俺も彼女もトレーニングに精を出していた。
と言っても、今から行おうとしているのは走り込みでも、筋トレでもなく、座学だが。
俺がトレーナー室の前方に立ち、タキオンが座って講義を聴く形を取る。
意外……と言うべきではないが、レースに勝つには頭脳が必要だ。レースの展開を読む力や、勝負の駆け引きのタイミング、あるいはベストポジションの取り方……など。受験勉強のように知識が必要される訳ではないにせよ、思考能力を求められるのは当然のことだった。
あらゆる場面で結局、バ鹿では勝てないのだ。
もちろん、トレセン学園でも一般の中高等学校に該当するレベルの授業は行われている。単純に知識を深める意味合いだけでなく、前述の通り、ウマ娘の思考レベルを引き上げ、より高度なレースを行えるようにする。という目的の為だ。
「トレーナー君? いや、確かに私も頭脳トレーニングが必要であることは承知しているが? …その背後にある、夥しい数の教本類はなにかな?」
「心配するな、タキオン。ちゃんと解っているさ」
「分っていない気がするなあ」
とはいえ、学園レベルの授業はアグネスタキオンという俊才には些か退屈過ぎるようだった。
まあ、気持ちは分からないでもないにせよ、だからと言ってサボって実験されるとトレーナーとしては望ましくない。そういうのはG1を獲って周囲が何も言えなくしてからにしてくれ。
「問題レベルはちょうど、タキオンの頭脳に合わせて作成しているさ。まあ、つまり学園の授業みたいに寝る暇はないから安心してくれ。さて、講義開始だ」
「いやトレーナー君、別に私は進学したい訳では……」
「講義中だぞ、静かに」
「……はい」
「――文中ツルゲーネフの『他人を有効に罵りたければ、自分の欠点を相手のこととして並び立てればよい』……という言について一つの理解を述べてみるなら『自身の耐えがたい弱点を見つめ得る者は、あらゆる人間が持つ苦悩を弁え得る。よって他者の弱点を痛烈に指摘できることに繋がる』訳で――」
「L-グリセルアルデヒドは分子内に不斉炭素原子をひとつ含む炭素数3の単糖であるが、その立体配置を次のように示すとき……」
「6世紀から7世紀にかけてユーラシア大陸東部では相次いで大帝国が生まれ、大陸東西を結ぶ交通交易が発達した。この大帝国時代に大陸中央部から東部に及んだイラン系民族の活動と、それが同時代の中国文化に与えた影響だが……」
「xy平面上で原点を極、x軸の正の部分を始線とする極座標に関して、極方程式r=2+cosθ(0≦θ≦π) により表される曲線をCとする。Cとx軸とで囲まれた図形をx軸のまわりに1回転して得られる立体の体積について……」
4科目を1時間で叩きつける圧縮授業後、どこかぐったりしているタキオンを次に連れてきたのは学園内の室内プール。全天候で全コース利用できて、おまけに飛び込み台まで付いた優れものだ。
「おーい、タキオン。身体がしっかり伸びきってないぞー」
トレセン学園の体育の授業にも使用される長さ50mのプールは、授業時間外であれば自由に利用することが出来る。それを単に娯楽として泳ぎに興じる者もいれば、持久力強化の一環としてトレーニングも取り入れる者もいる。
当然、俺もタキオンも水遊びに来ているわけではない。今後のレースに向けての筋力・体幹・心肺機能の向上を見込んで、わざわざ人の少ない午前中にプール施設まで来ている訳だった。
そして、俺が特に着目したのはトレーニング中の怪我のしにくさだ。
地上と比べると、水の中では浮力の影響で重力が小さくなる。
つまり当然、身体に掛かる負荷も小さくなると言えた。
泳ぐことはあまり得意ではないのか、それなりの時間を掛けて往復を終えたタキオンがプールの
「はぁ、ふぅ……なあ、何もフォームまで気にしなくていいんじゃないか? これは、あくまでスタミナ強化のトレーニングな訳だろう?」
「化学もスポーツも、正しい手順を踏んでこそ正しい結果が得られるものだぞ。ほら、残り10往復。きっちり泳いでくるように」
時間がないぞーと囃し立ててやると「私が求めるのは陸上での速さであって、水中で限界を超えたいわけじゃないんだけどな!?」などと喚いてから、渋々水中に戻っていった。
「そういうわけで、今日も朝からトレーナー君の訓練が特別厳しくてねぇ。疲労回復に糖分を求めるのは当然のことなのさ。分かるだろうカフェ君」
来週の併走訓練について事前に打ち合わせがしたい。としてトレーナー室に呼び出されたマンハッタンカフェは、得体のしれないものがあったとでもばかりにタキオンのティーカップに視線を向けていた。
室内のソファーに深く持たれ掛かるようにした彼女が、ドボドボと個数も確認せずに角砂糖を琥珀色の液体に落とし込んでいく様を、ドブを見るような冷えた視線が刺している。
「……それが、紅茶に溶けきらないほどの砂糖を入れている言い訳ですか?」
「理由と表現してほしいなぁ」
明らかに飽和状態を超えた紅茶の水面量が上がっていく中、マンハッタンカフェは見るに堪えないとばかりに自身の手元にあるコーヒーカップに口を付けた。タキオンのトレーナーが用意してくれたそれは、思っていたよりも、しっかりとした甘味とコクが感じられた。
間違ってもインスタントの味ではないのは確かだ。
「……おいしい」
思わず感心したような声を出すと、彼女のトレーナーが小さく笑った。
「ああ、それは良かった。タキオンから君がコーヒー党だと聞いてね。普段はインスタントか缶コーヒーで済ませるんだけど、今日は特別、自宅から豆を挽いて来たんだ」
「……やっぱり。スプレモですね?」
長い前髪の隙間から、いつもより柔らかい視線がトレーナーを捉える。
彼女の周囲には、コーヒーの苦味を好むウマ娘は少なかった。
「お、わかる? アメリカに居た頃はよく飲んでいてねえ、懐かしくなってこっちでも買ってしまったよ。まあ、うちの担当には不評だけどね」
ちらりと栗毛を見る。
彼女はガリガリと音を立てながらティースプーンをかき回していた。
「君らの嗜好は否定しないが、紅茶の香り高さと比べると、どうにも興味が惹かれないねえ」
そういうセリフは、カップ底に溜まった砂糖を混ぜている時に言わないでほしい。
じろり、と金色の瞳が呆れたような視線を向ける。
「……太っても知りませんよ」
「なぁに、他の部分で調整すれば訳ないとも。なあトレーナー君?」
地獄のような糖分の塊に口につける直前に、にこりと笑みを浮かべて頷く。
誰が調整すると思っていやがる。
「タキオンがそういうなら、昼食用のフルーツサンドはなしにしようか。食パンでも齧っとく?」
「――おっと、誤って紅茶に砂糖が入りすぎてしまったようだ。砂糖の摂り過ぎは身体に毒だからね、勿体ないがこれは処分しようかな」
「よろしい」
冷蔵庫から本日の昼食を出してやると、一転して態度を改めるタキオンに頷く。
一連のやり取りをぽかんと見ていたマンハッタンカフェは、いつもの無表情な顔に少しだけ驚きの色を滲ませていた。
そして、嬉しそうな顔で苺のサンドイッチを頬張るタキオンに、何とも言えないような視線を向けている。
「……まさか、タキオンさんの食事まで用意されているんですか?」
「最近はトレーニングの負荷を高めているから、かな。補食の意味も込めて、一部の食事はこちらで用意するようにしたんだ」
毎食ミキサーで済まされては困る、という側面もあった。
栄養素的には問題がないとしても、アスリートとしては噛む力――すなわち咬合力が鍛えられないのは由々しき事態だ。
歯を食いしばることで運動野に刺激が伝達され、そして骨格筋の反応に影響を及ぼす。
とある実験では、歯の食いしばりそのものが数パーセントもの筋力増大に繋がったとされるデータまで上がっている。
つまり、噛む力は運動能力上で非常に重要なファクターであり、日ごろの食事でも意識していかなければならない。食材をミキサーに掛けて流し込んで終わり、とする訳にもいかないのだ。
「――それに、例えばレース中に姿勢のバランスが崩れたときには、抗重力筋が作用して姿勢を元に戻そうとする訳だけど、それには咀嚼筋も関わっていてね。つまりバランス能力と咀嚼筋には強い関係がある訳で――って。ちょっと専門的な話になってしまったか」
つい、いつものタキオンとの会話のように接してしまった。
見れば、理解が及ばなかったようにマンハッタンカフェは目を白黒させていた。
ごめんごめん、と軽く謝ると、彼女はどことなく納得したような顔つきでこちらを見る。
「あ、いえ……何となく、あなたがタキオンさんを担当している理由が分かったような気がします。……ちょっと、タキオンさんに似ていました」
「お互い理屈屋ではあるからなあ」
細かく言うなら俺が理論を重視するのに対して、彼女は実践ベースで動く傾向ではあるのだが。
まあ結局、手綱を引かなければならないのは俺の方だということなんだけど。
マンハッタンカフェとそんな話をしていると、ふと彼女の前髪に隠れた視線が、残りのサンドイッチが入ったバスケットに伸びていることに気付いた。
「もし昼食がまだなら、君も食べるか? フルーツサンド、少し多めに作ってしまったんだけど」
「……いいんですか?」
ちらちらとフルーツに視線が行きながらも、遠慮しているのか、マンハッタンカフェはこちらを見上げて戸惑っている。
「コーヒーとの相性は悪くないと思うぜ。というか、甘ったるい紅茶に甘いフルーツサンドを合わせてる奴がイカれているんだが」
「なあ、聞こえてないと思ったら大間違いだぞ――え。いやいや、残りは私のお代わりじゃないのか?」
「トレーナーさんにそう言って貰えるなら……いただきます」
「んん? カフェ? なあ、カフェってば。君、私の友達だろう? 何で無視するんだい? ちょっと、そのバナナの奴は私まだ食べてな……」
「美味しい……この生クリーム、口当たりがいいですね」
「あー!?」
タキオン、うるさいぞ。
「いやあ。マンハッタンカフェみたいに味が分かる子がいると、作り甲斐があるなぁ」
「……あの、カフェでいいです。私、そう呼ばれることが多いので」
「そうか? 確かにちょっと長いけどな。またいつでもコーヒーを飲みに来てくれていいよ、カフェ。茶菓子も用意しておこう」
「……ふふ、ありがとうございます」
「トレーナー君? あれ、私にはトレーナー室には入るなって言ってなかったっけ? 君の唯一の担当ウマ娘の私にそう言ってなかったかな?」
だってお前、この間やめろって言ったのに室内で実験してたじゃん。
「以上のように、最近は訓練期間としています。トレーニング詳細は先ほどの報告書にまとめているので、確認ください」
週に一度の業務報告とは別に、今後の予定について考えを聞きたい……ということで呼び出された理事長室では秋川やよい理事長と、たづな女史が待ち構えていた。
紙ベースにまとめた直近の活動録をぺらぺらと捲るたづなさんが、ふぅむ……と内容をさらっていく。要旨を一通り確認したのか、資料を閉じてこちらに向き直った。
「随分、トレーニングの強度が高いですね。この内容ですと、通常であればシニア級の生徒達がこなすものと同レベルに見えますが……」
「彼女のポテンシャルの高さからすれば十分耐えうると判断しています。ま、もちろんトレーニングに帯同した上で、怪我には重々注意していますけどね」
「……なるほど」
最も怪我を引き起こしやすい走力トレーニングは普段はフォームチェック程度として、室内での訓練を基本としている。
当然、忘れない程度に併走訓練や模擬レースには出すようにしているが。
そんな俺の回答に得心が行ったのか、やよい理事長が元気よく椅子から飛び出してきた。
「納得! あなたがあのアグネスタキオンを担当として連れてきた時は驚いたものだが、上手くやれているようで良かった!」
理事長の一声に、確かに。とたづなさんが同意する。
「彼女のことは我々も悩んでいました。……あのままだと、進退問題にもなりましたから。担当トレーナーさんが付いて安心です」
そういえば、当初出会ったときのタキオンは退学を検討している節があった。あれほどの素質を持ったウマ娘がデビューもせずに退学となれば、控えめに言っても競バ界の損失だ。
理事長やたづなさんもそれが分かっていたのだろう。
本心から安堵したように胸をなでおろしている様が見て取れた。
そんな会話もそこそこに、理事長がこちらをみて扇子を開く。
「本題!」と書いていた。
わざわざ用意したんだろうか。
「ふむ、アグネスタキオンは一緒ではないのか?」
「トレーナー室で不貞寝してます。必要なら連れてきますけど」
えぇ……とでも言いたげなたづなさんを他所に、秋川やよい理事長は鷹揚に頷いた。
大きく息を吸うと、こちらに不敵な笑みを浮かべた。
「要望っ! がある!」
命令でも提案でもなく、要望と来た。
続きを促すように黙っていると、彼女が報告書に指をさす。
「僅か一ヵ月の内に、あなたは無事に1人のウマ娘をデビューまで導き、そして新バ戦を1着で通り抜けた! まさに名トレーナーと言っていいだろう!」
「言い過ぎだと思うけど」
メイクデビューを終えただけだというのに、偉業でも達成したとでも言わんばかりの褒めようだ。
いや、もちろんデビューが出来ない子もいれば、中々勝てないまま、未勝利戦にしか出れずに引退する子たちが大勢いることも分かってはいるけど。
「それは、タキオンの脚あってのもので……」
「謙遜っ! は、不要! 少なくともこの学園内に、アグネスタキオンをデビューまで連れて行くことのできたトレーナーは他に居ない!」
相性の問題じゃないかなあ。と思いながらも、話の続きを待つ。
「そこでだっ! 端的に言えば、君に頼みたいことがある!」