原神短編集 作:物書き。
空は、何度も困難な壁を乗り越えてきた。
どんな強敵でさえ冷静に対処出来た。
そんな空でさえ、今日は緊張していた。
「…よし。」
空の目の前の建物は往生堂。
死者を埋葬し、魂を黄泉へと送る儀式を担う場所。
空はそこに、もっと言えばそこの七十七代堂主の胡桃に用事があったのだ。
「こ、こんにちは〜…」
「ああ、旅人か。」
そう言って空を出迎えたのは鍾離。鍾離は凡人と言うにはあまりにも博識であるし、モラに関してかなりルーズではあるが、凡人である。
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私は名乗る程の者ではありません。
本日の午前はいつもと変わらず胡堂主や鍾離先生と御一緒していましたが、午後には璃月を魔神オセルから救ってくださったモンドの栄誉騎士が往生堂を訪ねて来ました。
彼は何か堂主様に用事があるご様子。
確か今彼女は執務室で書類仕事をしているはずです。
その旨を彼に伝えると、ひとつお茶を用意して欲しいとのこと。
私としたことが完全に失念していました。
サッと公子様からいただいた茶葉を使い、お茶を煎れました。
彼は嬉しそうに笑顔を見せ、お茶を持ち執務室の方へと歩みを進めました。
「すまない、俺にも一杯貰えないだろうか。」
「承知しました。」
「しかし、旅人が彼女を訪ねて来るとは、珍しいものだな。」
「左様。」
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名乗る程の者ではありませんさんから受け取ったお茶を零さないよう慎重に運ぶ空は、遂に執務室の扉の前に辿り着いた。
途中から徐々に歩みが遅くなり、それと反比例するかのように心臓の鼓動は早くなっていた。
軽いノックを4回。空はテイワットでノックのルールが通用するのか分からないため、かなり遠慮気味に叩き、弱々しいノック音が廊下の静寂に吸われた。
「はぁーい!」
扉の向こうから、胡桃の声がくぐもったように聞こえてきた。
空が扉の取っ手をガチャリと回すと、ギギ、と遠慮がちにドアが開かれた。
「鍾離せんせー、私、今はまだ仕事中だよ?」
振り返らずに手を振りながら声を出す胡桃。
ドアのマナーに関しては何も言われていないようだと少しだけ安堵した空。
ただ、それが胡桃と会う時の緊張を解してくれたわけでもなかった。
「先生じゃなくて俺だよ、胡桃。」
空は少し、ほんの少しだけ声を震わせながら呼びかける。
「うぅえっ!」
そして自分の想い人に声をかけられた胡桃は、突然のことに動揺して立ち上がり、椅子はガタッと音を立てて倒れる。
「あ…えっ、と。ごめん…」
「い、いやいやいやいやいや、大丈夫大丈夫!き、気にしないで〜…うん…」
「えっ…とね、とりあえず、これ、お茶を…」
「あ、うん!ありがとね!」
どこか気まずい空気が流れる中、空は意を決して胡桃に呼びかけた。
「えっ…と、胡桃…?」
「な、なにかな?」
「今月の15日、空いてるかな〜…と、その…」
「うぇ…う、うん。えーっと、空いてるけど…」
「朝から…デー…かけない?」
「も、もちろんだよ!あなたなら大歓迎だよ!」
「そ、そっか…じゃあ、15日の朝の八時半くらいに…往生堂の前で…大丈夫?」
「う、うん!大丈夫!」
「分かった。ありがとね。」
「し、しっかしねえーっ!つ、遂に私にも春が来ちゃったかー!てへへっ!」
「そ、そうだね…」
少し照れくさそうな胡桃と、それを見て苦笑いする空。
空は軽く胡桃と別れの挨拶を交わしたあと、部屋から出た。
ドアがパタンと閉じられた音が、彼がいなくなった静寂を引き立たせた。
(これって…デートのお誘いって…やつ、だよね…)
掌に収まったお茶は冷めきっていてたが、それとは対照的に、胡桃は抑えていた熱が自身の顔に帯びていくのを感じていた。
そのお茶を胡桃は嚥下する。
湯のみに触れていた彼の体温は既にないが、火照った顔は未だに熱い儘だ。
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パタン、とドアが閉まる音が響く。
ふぅ、と無意識のうちに浅くなっていた呼吸を元に戻す。胸の当たりが緩むんだように感じられたが、未だに心臓は窮屈さを訴えるように強く脈打っている。
(…ひとまず、嫌がられてはなかった…かな?)
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7月15日の朝八時。
空はもう既に往生堂の前まで来ていた。
どこかソワソワとしていて、編んできた髪をしょっちゅう手櫛で整えていた。
なお、パイモンは公子に押し付けてきた模様。
そしてそのソワソワとしている空を影から見つめるのが七十七代堂主の胡桃である。
(んふふ…緊張してくれてるのかな?)
少しの間眺めていた胡桃がそろりそろりと空の背後に迫った。
「おはよーっ!今日はよろしくね!」
ガシッと空の肩を掴む胡桃。
「おっ…はよう、胡桃。」
軽く飛び上がるように返事をする空。
「ふふ、驚いた?」
悪戯っぽく笑いながら言う胡桃。しかしそれになかなか返事を返さない空。
それを怪訝に思いつつ空の方へ目を合わせる胡桃は、
空の透き通る様な琥珀色の瞳が自身の服装を見ていることに気づいた。
「えっと…空?」
「あ、ああ…その、胡桃…似合ってるね、それ。」
「えっ…あ、ありがと!」
唐突に褒められた胡桃はしどろもどろといった様子で感謝の言葉を述べる。
「胡桃はどこか行きたいとこある?」
そう空はいいながら胡桃の手を指を絡めるように握り、軽く引っ張るように歩き出した。
「えっ…」
唐突に掌に与えられた熱と情報が、そのまま血液を辿って伝播するように体を循環した。
「おまかせで…おねがい。」
普段の様子とは打って変わって、胡桃はしおらしく返事をした。
胡桃が全身に感じている熱さが、夏の所為では無いことは確かだった。
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璃月のとある雑貨屋。
女性用の化粧品から香水まで、男性用の身だしなみ用品や、子供でも買える値段の玩具などを取り扱っている、今の璃月では少し珍しい大衆向けの雑貨屋だった。
しかし、だからこそカップルや夫婦が多くいるこの店。
「うわ、カップルだらけだね…」
「そ、そうだね…うん。」
「これって、私達もそういう風に見られてるのかな?」
胡桃は言葉だけはいつも通りの揶揄うような言い方だが、頬には朱が差した儘だ。
「っ…まあ、そうなんじゃない?」
含羞む胡桃に見惚れていたこと、周りからカップルとして見られているという意識が、空を強ばらせた。
「と、とりあえず、なんか欲しいのあるか探す?」
少し恥ずかしい空気を吹き飛ばすように空は胡桃に提案した。
「そうするねっ!」
胡桃はあちらこちらへと歩き回り、寸刻も落ち着いた様子を見せなかった。
やがて胡桃は手毬の前で立ち止まった。
その様子を見た空は胡桃の目を忍んで店員から包みを受け取り、その包みを素早くバッグにしまったところで、胡桃から声がかかった。
「えーっと…この手毬を買いたいな〜なんて…」
先程よりも頬は紅潮し、耳まで真っ赤になっている胡桃。
「うん?別にいいけど…なんで?」
「と、とりあえず買いたい!」
「わ、分かったよ…買う、買うから…」
どこか強気の胡桃に押される空。
「え、買ってくれるの?」
「…だってまあ、誕生日だしね。」
「…覚えてて、くれたんだ。」
胡桃は嬉しさと恥ずかしさが半分ずつの様な靨笑を浮かべた。
どこか儚げなその笑顔に空は見惚れて、平衡感覚を失うような、夢を見ているような軽い浮遊感を覚えた。
「まあ、ね。じゃあ、買ってくるよ。」
「私はここで他のも見てるよ!」
「うん。」
(…来年には、手毬を私が投げてたらな、なんてね…。)
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太陽の高さが本日最高高度を達成し、璃月中が食事のいい匂いで包まれ始めた頃。
胡桃達は万民堂へと歩を進めていた。
「鍾離先生ですら香菱がいる時は万民堂がいいと絶賛してたからね…」
「えーっ!あの人岩とか齧ってそうなのに!」
「流石に失礼だよ、胡桃。」
「そ、そうだったね…」
「あとで鍾離先生に謝っときなよ?」
「う、うん…」
暫く歩いていると、万民堂が見えてきた。
「香菱、こんにちは」
「おー!2人ともこんにちは!もしかしてそういう関係…?」
「ち、ちが」
「そうだよ!いいでしょー!」
空が否定しようとするも、ふんす、といった様子が似合う顔で胸を張る胡桃。
「あー、やっぱり!朝からずっと手を繋いでたもんね!」
「「えっ」」
「じゃ、注文は何にするか決まったら教えてね〜!」
「朝から…見られてたの?」
「そうかもしれない…」
そのままお互いは恥ずかしさでメニューも何を頼んだかもうろ覚えの状態でただ料理を待っていた。
「はいお待たせ!」
そう言って香菱が持ってきたのは四方平和を空の方に、と万民堂水煮魚にエビ蒸し餃子を胡桃の前に置いた。
胡桃が無意識でも自分の好物を頼んでいるのは、流石と言うべきか。
「「いただきます。」」
とりあえず気まずい雰囲気の儘に食べ始める2人。
「空?あーん!」
「えっ…」
「あーん。」
「ふーたもっ…」
胡桃は無理やりエビ蒸し餃子を空の口に突っ込んだ。
空はよく味わうように咀嚼したが、羞恥と歓喜の所為でどこか他人事になってしまった味覚は、仄かに効いている生姜とぷりぷりなエビの食感を捉えることが出来なかった。
「どう?美味しい?」
「お、美味しいよ。」
しっかりと喉に通してから返事をする空。
そのまま胡桃は食べ進めていたところ、空から声がかかった。
返事をしようと顔を上げると目の前には空の細い手と、差し出された蓮華。
「なぁむぐっ…」
なぁに、と言おうとするも、口を開けた瞬間に口に入れられたそれは、胡桃を動揺させるのに十分な刺激だった。
胡桃は急いで咀嚼し、嚥下する。抗議してやろうと空に目を向けるが、
「ふふっ…仕返しだよ。」
そう言ってにっこりと目を細める空に、胡桃は目を奪われてしまった。
まただ、と思っても無駄なこと。胡桃の心は張り裂けそうな程の温かさで満たされ、胸が苦しくなる。心臓を空に抱きしめられているような錯覚に陥る。
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昼食を食べたあと、向かった場所は春香窯。
ここは香膏を取り扱っている店で、送仙儀式の時にで空は1度訪れている。
店主の鶯は胡桃を見つけたかと思うと、空には外で待っている様にいい、店の中へと胡桃を連れて行ってしまった。
「ふふ、あの子を落としたいんやろ?」
「え、えっと…は、はい…」
胡桃は恥ずかしがるも、鶯に全て見透かされているようで、認める以外の選択肢はなかった。
「なら、どの香膏がええ?」
「いや、そんな簡単に決められないって…」
「ふうん?じゃあ、これでも買っていき?」
そう言って鶯が差し出したのは金屋蔵嬌の香膏。
「えっ…と、それは…?」
そう胡桃が聞くと、鶯は囁くように胡桃に伝えた。
それを聞いた胡桃は、羞恥に締め上げられた。
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胡桃が戻ってきた時には、既に15時を回っていた。
そこから2人は手を繋ぎながら、璃月に近い絶景スポットを数ヶ所巡った。
「…綺麗な景色だね、空。」
「…うん。」
「詩を作るのに、ピッタリな景色だよ!」
「…それと、今日はありがとうね。」
「…胡桃が楽しめたのなら良かったよ。」
日没前の霄灯の様な寂寥感のある橙色が2人の顔を照らし、影を伸ばす。
「…私、まだ帰りたくないよ。」
「…なら、塵歌壺に移動しよう。」
そう言って空はバッグから塵歌壺を取り出す。
2人は吸い込まれるように塵歌壺へと入っていった。
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「こんばんは、旅人さん。申し訳ないんですが、今一部屋しか使えなくてですね…」
「えっと…それはどうして?」
「…その、クレーさんが…」
「な、なるほど…」
「ま、まあ仕方ないから!一緒の部屋で過ごそう!」
「胡桃、泊まる気?」
「も、もちろん!」
そう言って画閣朱楼へと入っていく2人。
中はかなり散乱している様子で、屏風が敗れていたり、机が壊れていたり、床に大きめの穴が空いていたりと、散々な様子だった。
それでも修復できるというのだから、マルの力は凄いと言うことが分かるだろう。
「…とりあえずお風呂とキッチン、寝室は無事だから、簡単なご飯作ってる間に風呂はいってきなよ。」
「でも服が…」
「俺ので良ければ貸すけど…」
「それ着る!」
「わ、分かった。じゃあ、行ってらっしゃい。」
「はーい!」
空は今更ながら拙いことをしたのでは、と感じる。好きな人を家に上げ、風呂にも入れる。そして自分の服を着せる。
もはや言い逃れできないほどだ。
ひたすら無心で料理を作り続ける空と、風呂場で悶々としている胡桃が、そこにあった。
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あのあと、胡桃がのぼせてしまったり、何も考えずに料理を作りすぎたせいで困ったり、その料理を約1時間半かけて食べさせあったりと、なかなかに濃い時間を過ごした。
空もお風呂に入り、さっぱりした頃。
「…ああ、そうだ。これを渡さなきゃ。」
「ん?どしたの?」
「はい、これ。」
そう言って空が差し出したのは雑貨屋で受け取った小包。
「え、なんだろう?」
丁寧に胡桃は包装を開けると、枝の先に鮮やかな紅色の梅の花が咲いているようなデザインの簪が出てきた。
「えぇーっ!こ、これ!こんなのどこで買ったの!?」
「朝行った雑貨屋で、だいぶ前からオーダーメイドしてたんだ。」
「え…ありがとう!ありがとう!」
「気に入って貰えて嬉しいよ。それと、誕生日おめでとう、胡桃。」
「うぅ…大好きーっ!」
そう言って胡桃は空に抱きついた。その反動で空はベッドの方へと倒れる。
空は服を着たあとの少し汗ばむような、お互いからする石鹸とお湯の匂いが混じるじっとりとした空気を全身で感じていた。
胡桃の普段見れないような可愛らしい赤みがかった頬と、水気がまだ少し残った濡羽色の髪から漂う色気を感じて、余計に体温が上がるような錯覚に陥る。
「えーっと…そろそろ、寝ようか、胡桃。」
「そっそそ、そうだね!ご、ごめんね!押し倒しちゃって!」
「だ、大丈夫。じゃ、じゃあ俺はソファで寝るから…」
「いやいやいや!私が帰りたくないって言ったから!」
……
そのままお互いが譲らない不毛な争いが数分続いた。
「そこまで譲らないなら一緒に寝る!そしたらちゃんとベッドで寝る!」
「え…」
「それ以上は譲れない!」
「え、わ、分かったよ…とりあえず電気、もう消すよ?」
「う、うん…お、おやすみ…」
そう言ってもぞもぞと胡桃と空は同じベッドに入った。
胡桃からの甘い匂いを、打ち切るように空は背を向けて目を閉じた。
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(そういえば、胡桃は簪をプレゼントすることの)
(そういえば、空は璃月での手毬に込められた)
((意味を知らないんだろうなぁ…))
『璃月風土誌』第1巻より
ーー手毬ーー
璃月では、婚儀の儀式の場で、花嫁は手鞠を賓客たちに投げる風習がある。その手鞠を受け取るものは向こう一年の幸運に恵まれるという。
ーー「金屋蔵嬌」香膏ーー
特殊な品種の霓裳花を使った手作り香膏。
甘くて夢にあふれた、若い女の子が好きそうな香り。