オリジナルキャラクターのみの出演なので今回は0話的なポジションとして投稿してます。
2021/07/25:一部修正。
2022/02/20:タイトル修正。
#prelude:僕にできること
一言も発さないのは、傍に話し相手が誰もいないとか、そんな絶妙に寂しい理由からではない。集中しているのだ。今使っているのは、二百グラム用の防曇袋で、その小さな口にこれまた小ぶりなミニトマト(こう言うと社員には白い目で見られる)を素早く、丁寧に詰め込んでいくことは意外に苦労するものだ。
年季の入った計量器の表示板が二百四の数字を映して、それを確認した律夏は緑の結束テープで袋の口を閉じた。
「ふう…」
思わず細い息が漏れる。いや、これくらいで疲れたりするはずはないのだが、計量器の反対側に置いてあるミニトマトの箱には、目がちかちかするくらいの赤色が広がっていたのだ。
律夏は、その中の一つを親指と人差し指で摘まんで背後のゴミ箱に投げ捨てる。トラックか何かの運搬時に、衝撃で果実同士がぶつかって割れてしまったのだろう、ほのかな紅の雫が垂れていた。
それを目にした瞬間、どくん、と鼓動が鳴った気がした。同時に、ぞわりと背中に悪寒のようなものが走る。
――嫌なこと、思い出したな。
その鼓動を皮切りに、心臓の刻む律動はだんだんと速度を増していく。一拍、また一拍が鳴るたびに、脳裏に
襲いくる精神的動揺を表に出すことなく、両眉に皺を寄せ、薄目を開いたままで作業を続けた。
♬
ふいに訪れた出来事が、思わぬ形でこれからの道を左右してしまうことは、往々にしてある。例えばそれが後の大切な人との出会いであれば、道は明るくなるだろう。そして、それが大切な人との別れなら、その人とのこれからはきっと、簡単に搔き消されてしまうのだろう。
半年前、若葉家に届いた凶報は、律夏と彼の家族の未来を、大きく変えた。
アルバイト終わりの律夏が歩く先を、明滅する道灯りが照らしている。
午後十時、膨大な量の
あのとき、一番ショックを受けたのは母に違いない。それを知らせる電話を受けて、暫く呆然自失としていた彼女は、それでもやるべきことをすべて終え、そして倒れてしまった。今は、自律神経系の失調に陥って床に臥せっている。
もうすぐ同居することになるだろう妹は、花咲川高校への受験に無事合格して、病床の母によく付き添ってくれている。かつての町を離れるのだから、大切な友人たちとの別れもままならないはずなのに、だ。
――このままじゃ、ダメだ。
律夏の掌が固く握られて拳をつくると、小さく震えた。
家族がバラバラになっているという焦燥感は、それこそ半年前からあったものだ。
心労に日々やつれていく母親を見るのは辛かった。心配させないように無理をして、痛みを隠すように振舞う彼女をどのように救えばいいのか、それをずっと考え続けてきた。
これからどうなってしまうのか、その不安を抱えながら受験期を過ごす妹を支えてやれなかったことが悔しかった。実力のあるあの子のことだから、もっと上の進学先を目指せたかもしれないのに。
――これ以上、大切な人を傷つけないままでいたい。
――これ以上、後悔したくない。
その願いが日に日に大きくなっていることを律夏は自覚していた。だから、持っているものを捨ててまで、家族を守ろうと決めたのだ。
胸中で渦を巻く情熱の激しさに助けられて、忘れかけていた決意を思い出すことができた。
家路の方から、春の強い向かい風がびゅうう、と通り過ぎていった。
♬
「ようこそ、新若葉邸へ」
「お、お邪魔します。――っていうか、急に話ってなに?」
三月二十七日の昼、旧若葉邸の残りの荷物を引き払ってやってきた妹の
兄妹の再会に僅かながらも顔を綻ばせた(実際は、律夏は旧宅にもほとんど毎日出入りしては家事をこなしていたのだが)凪紗は、着いて早々情緒の欠片もない様子で出迎えられたことに、どこか胡散臭そうなものを見る表情を向けた。途端に律夏が怯む。
「ああ、すまん。とりあえずあれだな、手洗いして、部屋を案内しよう」
身内ながら、機嫌を損ねたときの彼女の目線の冷たさといったら手厳しいというほかない。転がしてきたキャリーケースを預かって洗面所の方を指さす。一部は革張りのレトロなもので、彼女はいたく気に入っている。粗末に扱ったりすれば氷漬けにされてしまうだろうから、十分に注意してリビングの奥へ運んで行った。
「結構広いね。部屋もちゃんとしてるし」
自分の後を追いかけて、脱いだ上着をハンガーに掛けながら凪紗が予想外といった表情を浮かべながら呟く。サイドテールを解いてから耳にかかる髪を捩じって、バレッタで軽く留めていた。
「曲がりなりにも有名企業だし、これくらいどうってことないんだろ」
新たな住居は、父親の勤めていた会社の同僚が、律夏たちの暮らしを心配して用意してくれたらしかった。マンションではあるが、家賃の心配がなくなったことは大きい。
「もしかして、それ関連だったりする?話って」
「そう」
短く答えると、凪紗の表情が硬くなることが分かった。花咲川高校への入学を目指して勉強していた受験期は、必然的に律夏はそのサポートと、新たな暮らしの準備を整える方へ回らなければならなかったけれど、無事に合格を果たした後は、そうも言っていられない。否、
今まで先送りにしてきた問題を解決するときが来たのだと、少なくとも
「取り敢えず、着替えたらどうだ。何か淹れておくから」
「……分かった」
感情を読み取られないように、凪紗にあえて明るく提案をする。
開け放していた窓から、緩やかで冷たい風が吹き込んできた。
♬
「改めて、花咲川への合格おめでとう」
「……ありがと」
あまりにも質素だった新居では、凪紗の持ってきた音楽プレイヤーですらインテリアとして映るくらいだった。
流行りの音楽の中でも、落ち着いた曲調を選んでいるのは
初めはそんなふうな、なんでもない話からだったと思う。片手で持ったマグカップを傾ける凪紗は、両目でしっかりとこちらを見つめる――半ば睨んでいるように見えるくらいだった。
それでも、臆さず伝えたい。
「お前は頭良いからな。学力的には余裕があったと思う。それでも、毎日そっちの家に帰れなくてすまん」
「大丈夫。もう高校生だし、寂しいとかないよ」
「ホントか? 一人で眠れたのか?」
「馬鹿にしてる?」
ジト目の圧力がさらに強くなるような気がして、「してない」と返した律夏は、これ以上の
「……まあ、とりあえずその手の心配はなくなった。だから、新しいことに目を向けなくちゃいけない」
砂糖も何も入れない紅茶に口をつける。湯気が立ち上り、ちょうど向かいに座る凪紗の表情を分かりにくくした。
「凪紗、高校では何をするんだ?合唱部は…」
「まだよく考えてないから、詳しくは見てからにするつもり。来週の入学式のあとに部活紹介あるし」
「そうか」
また一口。香りと温もりだけが、口腔に広がっていく。
そして、こちらが口を開く前に、「それに」と、凪紗が零した。
「兄さん一人だけに、
「……」
沈黙がリビングを支配する。きっと、お互いに話の中身が予想できているからだろう。
母がいなくなったこの家を守り、支えるには兄妹二人の協力が必要なのだ――たとえそれが、互いの高校生活の青春とかけがえのない時間を棒に振ってしまうものだとしても。
凪紗が言いたいことは、暗に伝わっていた。
でも。
――本当にそれでいいのか?
そうだ。
黙ってそれを受け入れるわけにはいかないのだ。
そうでなければ、あの凪紗がこんな諦めたような笑顔を浮かべる筈がない。だから――
「家のことは、心配するな。
「え…?」
「全部、俺がやる。だから、お前は高校で、本気でやりたいと思えることを見つけろ」
「いや、だから」
「まあ、これを見てくれ」
そう言って、傍の戸棚からチャック付きのクリアファイルを取り出す。中には、いくつかの銀行の預金通帳が入っている。
「これ…えっ、何」
「こっちに来てから毎日、バイトしてきた。部活辞めたこと、知ってるだろ」
「え、でも、それは新しい家の準備のためじゃ」
「それもある。でも、後のことを考えると、それだけじゃダメだと思ったんだ」
自分なりの、これからに向けた覚悟の証明だった。
現実的な話をすれば、この家を含めて、受けることのできる補償が、母親の入院費や凪紗の将来を完全に賄うものではないとも考えられる。
満ち足りた生活を支えるための苦労が身に沁みて理解した。それでも諦められなかった。
「我慢しながら高校時代を過ごさないでほしいんだよ。たくさん学ぶこともあるけど、その分、たくさん遊んで、たくさんの経験をしてほしい」
「……っ」
凪紗の瞳が、途端に潤んでいくのが見てとれる。お金を――つまるところ自分の生活を保障されて安心したからではなく、それよりもむしろ、肩を震わせて自分を見上げるその様は、どこかこちらを咎めるようなものを感じさせた。
マグカップを置いてから席を立って、こちらに近づくと、無言で顔を律夏の胸に埋めた。
「……バカ。本当に、バカっ」
「馬鹿とはなんだ。そりゃあお前と比べたら頭の出来は多少は悪い自覚はあるけど」
「違うよ。……兄さんが、水泳を辞めてまで辛い思いをする価値なんて、私にない」
「そんな訳ないだろ。……妹なんだから、お前は」
律夏は、あの夏の日からそれまでの律夏でいることを捨て去った。期待されていた水泳部のエースの座を降り、転校で人間関係をリセットし、余った時間を全て、アルバイトに費やすようになった。
失ったものは大きい。けれど、経験に学んだことも、確かにある。――現に、こうして静かに涙を流す妹の未来に少しでも貢献できたのなら、それだけで満足できた。
「この現実は苦しいけど、だからこそよい将来を迎えるために努力しなきゃならない。勉強だけをしていればいい今までとは違って、自分で考えて、やりたいことを見つけるんだ」
「うん」
涙滴を拭って、深く頷く凪紗。強い子だな、と彼女の頭を繰り返し撫でながら思った。
スピーカーから流れる優しいピアノの音に乗せた歌声が、小さいけれど確かに、二人を包み込んでいたのだった。
♬
「……さて」
胸元の彼女の嗚咽はしばらく続いたが、次第にその状況に恥ずかしさを覚えたのだろうか、「もう大丈夫だから」と温もりとともに離れゆく頬に赤みが差していたことを、律夏は触れないでおいた。
「まだ言ってないこと、あるの?」
妹の双眸が、不安げに瞳を揺らしながらこちらを見据える。律夏は、それが杞憂であることを伝えて打ち消そうとした。
「いや、これはまあ、雑談みたいなものだ」
「ふうん…なら、いいけどさ」
「さっき言ったことに関連して……高校でしたいことを見つける、っていう話題なんだけど」
「ああ、それね。考えるのはとりあえず見てから、って言ったんだっけ」
「そう。高校に一年間通って、俺なりに気付いたことがあるんだよ」
「気付いたこと?」
無自覚なのだろうが、凪紗が首を傾けると、一緒に髪が揺れ動くのが可愛らしい。
それはともかく、その疑問に答えるようと、律夏は口を開いた。
「俺たちは、高校でも勉強を続けないといけないだろ?」
「あー、まあそうだろうね」
凪紗は天才肌だ。
昔から、目につくものに触れては、そのすべてでいい成績を残してきた。
勉強はその最たるもので、一つ上の律夏が試験勉強で悩んでいた問題を一目で解いてしまったこともある。だから、それに対しては歯牙にもかけないといった反応を、凪紗は見せたのである。
「じゃあ、その理由は?」
「え、そりゃあ大学入試とか就職とか…」
「その後、勉強が役に立つ機会はあるか?」
「……もしかして、だから勉強とかやる必要ないって言いたいわけ?」
質問に質問で返した凪紗は、そんなものは詭弁であることを既に知っている。だからこそ、論理を先取りして、結論の行き着く先を予測する。
駄々っ子を相手にするような面倒くささが伝わってくるが、生憎律夏が主張したいものはそうではなかった。
「違う。勉強は必要だ。ただ、それが人生における一過程にすぎない大学入試に、というだけで」
「……つまり?」
「勉強は必要だから、俺たちは毎日机に向かって授業を受ける。だけど、そこで得られる知識は役に立たないかもしれないだろ? 本当に大事なことは、勉強を通して、勉強の仕方を掴むことなんだ」
「なんか哲学っぽいこと言ってるけど……」
律夏は、なかなかに面倒な物言いを自覚しながら苦笑した。
学校の設置する目標を、人生に必要な知識や技術の取得とするなら、勉強以外で得ることのできる経験もまた、学校の勉強と同じように重要なのではないか、という思いを、律夏は抱え続けてきた。
学生の本分は勉強、という言葉は至言かもしれない、しかしことこの天才少女にとってはそぐわない。
ならばその枷を外し、たくさんの経験を与えてくれるものを自分自身の感性でもって探し当てる、という新たな課題を与えてやるのが兄の役目ではないだろうか。
「言いたいことは理解できたけど……まさか兄さん、学校でもそんな
「こんな訳の分からない話に付き合ってくれるのはお前くらいしかいないよ」
「まったく……」
至極真面目な表情をした律夏を、凪紗はやれやれといった呆れ顔で眺めていた。それでも、伝えたい気持ちは伝わったらしい。
彼女は、小さく笑っていた。
「分かった、見つけてやりますよ。ここでしかできないこと」
「本当か」
「何で兄さんが疑問形なの……まあ、私も最近は持て余し気味だったし」
そう言って、そっぽを向いてから考え込む仕草をした凪紗。しばらくして、不安げな呟きが漏れた。
「……見つかるかな、やりたいこと」
「急ぐ必要はないだろ。まずは部活紹介を見て、目についたものを片っ端から見ていけばいいんだから」
「……うん」
彼女は天才肌である。だから、彼女が辿る思考をなぞるだけでは意味がない。何かを彼女に与えようと思うなら、現状の視点を変えて話す必要があるのだろう。
「案外、近くにいる人が見つけてくれるかもしれないぞ」
「それって……誰?」
何か、含んだような律夏の言葉に、凪紗は答を求めようと問いかけた。
けれど、それが誰であるのか、すでに出会っている人間なのか、実際は分からないままだ。言えることとすれば――
「お前の隣に立てるような人間だよ」
律夏は、努めて平然とそう告げるのだった。