「
放課後、いつもの蔵練を始める前に、有咲がそう切り出した。
たえの言った『私を震えさせて』という挑戦状に立ち向かうため、香澄と凪紗率いるバンドメンバーの四人はクライブでの演奏をすることに決めた。
とはいえ、まだ結成して日も浅いバンドが披露する曲目を決めかねていたのだった。
「きらきら星は? ほら、この間みたいに」
「地味じゃね?」
「まあ、この間はすぐに弾けそうだから、ってことでやったんだし、時間があるならもっと豪快に行きたいよねぇ」
たえほどの演奏レベルを持つ者にとっても、SPACEの要求するレベルは高いらしい。そうなれば、ここはもう少し派手で難易度の高い曲に挑むべきだと、凪紗は考えていた。
「あ、あの、よかったらこの曲はどうかな……?」
思い当る曲を音楽プレーヤーの中から探していると、りみがおずおずと手を挙げて、スマートフォンを差し出した。
「りみりんオススメの曲? タイトルは『私の心はチョココロネ』……?」
独特のタイトルセンスはりみのものだろう。そうなれば、必然とこの曲は彼女によって作られたものになる。
有咲もそれに気付いたようで、りみを見つめる目を大きく開いた。
「えっ、もしかして牛込さんが作った曲!?」
「う、うん……昔、お姉ちゃんと作った曲なんだけど、あんまり難しくないかなって……」
りみは、お姉ちゃん──つまりゆりとの共同制作を明かした。グリグリのギターボーカルを担当するだけあって、その辺りの技術はやはり卓越していると言っていいだろう。
「すごいよ、りみりん! 聴かせて聴かせて!」
香澄がそうせがむと、りみは少し恥ずかしそうにしながら、通学鞄からイヤホンを取り出す。しかしながら、耳は二つしかないため、三人では聴けないことに気付いた。
「あ、じゃあそのまま流そうか」
「ふぇっ!?」
凪紗が再生ボタンを押すと、ギターパートと一緒にりみの歌声が響いてくる。
「おー……りみの声と相まって、すっごい可愛い」
「うん、悪くないじゃん」
「ひゃああ! 音出さないで~っ!」
一説には、録音した自分の声は普段と違って聞こえるらしい。りみも御多分に漏れず、林檎の色をした頬で再生を止めようとしている。
香澄は香澄でそんなりみへ「この歌すっごい可愛いよりみりん! と」興奮気味に話しかけていて、その混沌ぶりにため息をつく有咲に苦笑するのだった。
翌日は朝から練習である。
りみに用意してもらった楽譜が、香澄と凪紗、有咲にそれぞれ手渡される。
「これ……コードの音階だけ書いてあるってことは、覚えなきゃだね」
「TAB譜の方が良かったかな?」
「TAB譜?」
首を傾げる香澄。凪紗も聞きかじった程度の知識なので、りみに師事を仰ぐ。
「押さえる弦とフレットが書いてある譜面なんだ。このコードだと、4弦の5フレットを押さえて……」
「「4弦の5フレット……」」
赤のランダムスターと、翡翠のグラデーションがそれぞれに音を立てる。
香澄と凪紗の間ではそれほど腕前に差があるわけではなかった。音楽の知識は中学時代に合唱部で活動していた凪紗の方が上回るが、お互いにギターはお互いに初心者の域を脱していない。
「次は1弦の7フレットかな……? あれ、違うかも?」
りみはベーシストとしてのそれなりの経験があるようだが、ギターとは勝手が違う。
「おい、いつになったら練習始められるんだよ?」
しびれを切らした有咲がそう訊いてきた。
それもそうだ。楽譜をいちいち見て、どこを押さえるのかを確認しながらではとてもではないが合わせて練習することなどできない。
一同にはギターの演奏技術が高い人間が必要だった。
「香澄」
示し合わせたかのように、香澄がこちらを向くのと目が合った。どうやら、考えていることは同じらしい。
「うん! 呼ぼう、ギター上手な人!」
♬
「こんにちはー」
まとわりつく香澄に構わず、背負っていたギターを下ろしたのはたえだった。
「……何で挑戦状を叩き付けてきた張本人を呼ぶんだよ?」
「まあ、花園さんをドキドキさせられればいい、ってことだからね」
胡乱な目線を敢えて気にしないことにする。
実際、ド素人そのものだった香澄を、補習期間中にあれだけ上達させたのは、香澄自身のやる気だけでなくたえの技術に依った側面もあるのだろう。つまりは、それほどの実力を彼女が持っているということだ。
たえは、りみから楽譜を受け取ると、それにざっと目を通してから、
「有咲、アンプ借りるね」
とだけ言って準備を始めた。
「えっ、う、うん……」
有咲は名前呼びされた経験が少ないのだろう。ぽっと朱に染まった頬を見逃さなかった。
そんな彼女を差し置いて、話題の渦中であるたえは、おもむろにピックを使って弦を弾いていく。少しの淀みもなく、完成されたイントロが奏でられていく。
凪紗たちは、目線が引き付けられるような、驚嘆ともいえる面持ちでそれを聴いていた。
「おたえ最高!」
「うん、すごい!」
「すげー……」
三者三様の反応に、たえは少し照れたような表情を見せる。
凪紗も香澄たちに続いて、「もう一回いいかな? お手本にしたいから、
「あ~、また間違えた」
「でも、押さえ方良くなったよ。ギター弾いてる人の手になってた」
「ホント!? えへへ、だって!」
そう言いながら自分の手指を見せてくる香澄。「わかんねーよ……」と半目で呆れる有咲の言うように、女の子らしい細い手指が見えるだけだった。
「……もっとギタリストらしいのは、凪紗だけど」
「えっ?」
香澄に注目していたら、たえが音もなく目の前に移動していたことに気が付かなかった。
たじろいだ隙にぎゅっと指を握られて、じっと眺められる。たえの高めな身長も相まって、気圧されているような感覚に陥った。
「……本当に初心者?」
「う、うん。合唱部に入ってて、音楽はやってたけど。ギターはコードを少し知ってるくらいかな」
「ピッキングが安定しててすっごい聴きやすいよ」
「ほんと? 嬉しいな」
とはいえ、そのような威圧の意図はなかったようで、指をふにふにとされながらお褒めの言葉を頂いた。
たえの手は、自分のものより少し大きくて長い。体格差も多少はあるだろうが、やはりギターに向いている手なのだろうなと思った。
「それにしても、おたえちゃんギターすっごい上手だね……!」
「ありがとう。小学校の頃からやってたからかな」
そう言いながら自分のギターに触れるたえ。お小遣いを貯めて買ったと言っていたそのギターは、凪紗のものとは違って、一面が艶のある群青色に彩られていた。
その言葉通りに捉えれば、長い時間をギターに注いできたのだから、その実力も十分なものだと考えられる。
それだけに、彼女が未だにバンドを組んでいないというのが不思議だった。
「花園さんって、バンドは組んでないの?」
「うーん、あんまり考えたことなかったな。ずっと一人で弾いてたし」
「SPACEでバイトしてたら、そういう話って出てくるもんじゃねーの? それだけ上手だったら」
有咲の言葉に、たえは目を伏せて答える。
「……バイトしてるからこそ見えるものってある、と思う」
「? どゆこと?」
香澄はそれが何を示しているか分からずに、首だけでなく身体ごと傾けて疑義を表したようだが、凪紗は何となく、理解できたような気がした。
つまりは、りみのときと内情は似ているのだ。
「それ、ちょっと分かるかも……」
凪紗の予想通り、りみが言った。
「近くで見てるからこそ、レベルの高さとか、バンドを組んでる子たちがどれくらい本気なのか、全部分かって……それでも、オーディションに受からないバンドもあるんだよね」
たえは頷く。
彼女が数々のバンドを通して見ているのは、現実の冷たい側面だった。それはどんな努力や希望も打ち砕いてしまうくらいに峻烈なのだ。
バンドを組むというのは、
──香澄とは真逆だなぁ。
いつだったか、有咲は『香澄が二人いる』と言った。普段の突拍子のない言動を見ていれば、それは間違いでもないのだろうが、バンドやライブを見て抱いたのは、真逆の感情だったといえるだろう。
片や、シビアな現実をじっと見据えているたえ。
片や、きらめく夢のステージを追いかける香澄。
理想と現実、静と動、そしてギターの赤と青……ただの邪推だろうけれど、なにもかもが対照的だと思わずにはいられなかった。
「……ね、花園さん」
だからこそ、凪紗は願った。彼女を知りたいと。
「たえでいいよ」
「分かった。じゃあたえ、私たちと、バンドやろうよ」
「「「……え?」」」
疑問符が周囲の頭上に浮かぶ。
ただ一人、香澄だけが目を輝かせているのだった。
♬
「へえ、結局サンドイッチにしたんだね」
数日後、最後の合わせ練習から戻ると、律夏が台所で明日のクライブの差し入れを作っていた。卵やハムの定番ものから、ブラウン食パンを使ったサーモンサンド、いちごサンドまで色とりどりである。
「明日の朝、クラブサンドなんかも作って持っていくから。市ヶ谷さんには連絡したか?」
「もちろん。おばあちゃんも楽しみにしてるって」
「楽しみなのはライブの方だろ?」
一通り作り終えたのだろうか、律夏はそう言うと小さくカットしたサンドイッチを丁寧に冷蔵用のタッパーに詰めて、エプロンを外していく。
「俺も楽しみだな。どんな所なんだろう」
「場所を楽しみにしてるの?」
「まあ、この都内一等地で蔵なんてそうそうないだろうしな。もちろんライブも期待してる」
悪戯っぽくはにかんで、「緊張して本番でとちるなよ?」とからかう律夏に、「緊張なんてしないよ」と言い返す。
実のところ、人前で演奏する機会は滅多にないので少しだけ緊張しているのは内緒だ。
でも、ここで緊張なんてしていては、文化祭はおろかオーディションすらも危うくなってしまう。ここは慣れのためにもクライブをしっかり成功させたいと、凪紗は密かに決意していたのだった。
「……楽しめてるみたいだな、バンド」
ふと、律夏は麦茶のピッチャーを取り出しては、そんなことを訊いてきた。声のトーンは低いけれど、それは安堵の表れだと、凪紗は経験則として理解していた。
「うん。兄さんのお陰で……だから」
足元を見る目線を上げて、自分よりもずっと背の高い律夏の瞳を射貫くほど見つめて、言葉を紡ぐ。
それは宣言にも近いような、強い感情の発露だった。
「私、きっとみんなをドキドキさせてみせる。思いを乗せた音を届けて、私が見ている世界を伝えたい」
律夏は、目をぱちくりとさせていたかと思えば、ふふっ、と小さく笑って、
「その意気だ」
と返したのだった。
「む、何その反応」
「いや、昔の凪紗が聞いたらひっくり返りそうだなと思って」
「うぐ……」
普段は言いくるめられることなどないのだが、こればかりは彼の言うことが正しい。
有咲やりみ、たえをバンドに引き入れる中で、香澄の考え方が伝染したのだろうか、キラキラや、ドキドキという言葉を知らず知らずのうちに多用していることに気付いて押し黙った。
「し、仕方ないじゃん。花女のみんなは魅力があるっていうか……知りたい、って思える子が多くて。中学の時みたいに、周りと競う必要がないっていうか」
そんな風に言い訳がましく弁明してみる。
実際、凪紗からすれば、嫉妬も、虚飾も必要とせず、自分に誠実に向き合うことのできる人種が花女には多いように感じていた。そんな環境が、自分は好きだとも思った。それは紛れもない事実なのだ。
「それも本当のことだろうな。でも、一番の理由は違う」
「一番の理由?」
「それは、凪紗が成長していること──変われたんだろう。みんなとの出会いを通して」
「成長……できたのかな」
コップを傾け、律夏はそれに力強く首肯する。
「自分では気付かないのも当たり前だろうな」
「そんなもの?」
「ああ。毎日、夕飯を一緒に食べているときの話題を聞いて、リビングでギターの練習をする表情を見ている側からすればよく分かるよ」
「そ、そんなに分かりやすいかな……」
言われてみれば思い当る節しかない。
凪紗は、律夏の言葉に反射的に灯った心の火の熱を制御しようとしながら、またもや頷く彼にとぼけるふりだけをしておいた。
「……なんか恥ずかしい」
「当事者からすればそうなんだろうけど、見ている方はその成長を喜ばしく思うものだよ。──勉強以外にも、大切なことがあっただろ?」
ふと、妙に聞き覚えのある単語が耳に入った──入学前、初めて訪れた新居で彼が口にしたことだ。
恐るべき予測能力に驚愕の色を浮かべて彼を窺ってみれば、「俺は予言したんじゃなくて、信じただけだよ」と返されるので、凪紗は、自分の反応が分かりやすいというのはどうやら本当のことらしいと悟った。
「……明日、楽しみにしてる」
ぽす、という音を立てるように、律夏の掌が少しの間髪に触れた。父が亡くなってからというもの、
二人の間には言葉がなかったけれど、凪紗は、それが彼なりの激励であることを何となく理解していた。
「おう」
拳を掲げて、男らしい言葉で応えてみると、律夏はそれを微笑みとともに一瞥して、掌を離し風呂場の方へ歩いて行った。
五月にはまだ早い、確かな熱の余韻が残っていた。