『私、きっとみんなをドキドキさせてみせる』
昨日、凪紗ははっきりそう言った。宣戦布告というか、選手宣誓というか――ともかく、強い意志の籠った語気であったことは間違いない。
花咲川での新たな出会いによって、凪紗の考え方は変化したようだ。
他者との関わり合いの中で期待することを捨てた過去のことを思うと、その変化は律夏にとって喜ばしいものであった。だからこそ、そのように彼女を変えた少女たちが気になったのだ。
「――はぁっ、はぁっ……!」
「大丈夫か」
都電早稲田駅を降りて神田川方面に向かった兄妹は、クライブの開催場所である市ヶ谷家へと歩みを進めていた。
五月の日差しは暖かいが、大きな歩幅でずんずんと進んでいく兄を追いかける凪紗にとっては、突き刺さるようなそれが不快な熱を運んでくるようだった。
「速過ぎ……もうちょっとゆっくり歩いてよね」
「ああ、すまん」
凪紗も一通り以上の運動が出来るとはいえ、無尽蔵の体力を誇る律夏についていける訳ではない。ギターを背負って歩いていては尚更だ。
恨みがましい視線が注がれるとともに、持っていたペットボトルの水を奪い取られた。
「俺の水……」
「っぷは……!ふう、生き返った」
そもそもの原因は自分が凪紗のことを考えずに早い歩調で歩いてしまったことなので、別に憎たらしいだとか、なんて勝手な奴なんだ、などとは思ってもいない。
口元を拭って、「さ、行くよ」と急かす凪紗を一睨みすると、お返しだと言わんばかりの得意げな笑みが返ってきたのだった。
♬
「……おっ、もうみんな着いてるみたいだね」
市ヶ谷家に続く胸突坂は急勾配の階段が続き、早々に凪紗の体力が尽きた。
一時は彼女をおぶって行くことも考えたが、もう高校生の彼女にとってはこれ以上にない屈辱だろうと思い、ペースを落として向かうのだった。
大きな敷地には力強い瓦屋根と白壁が続き、その入り口では三人の女の子――恐らく凪紗のバンドメンバーなのだろう――がこちらに手を振っていた。
「凪紗ちゃん、おはよっ」
「おはよう、りみ。有咲と紗綾も」
「おはよー」
「おー」
三者三様の挨拶を交わす彼女たちは仲が良いのだろう、淀みなく会話が弾んでいく。
それを一人外れた所から眺めていると、思い出したように凪紗が「そうだ」と言ってこちらを向いた。
「紹介忘れてた。こちら、うちの兄です」
「おい……」
正直な話、放っておかれるにしてもこれはないだろう、と思っていたところなので、凪紗に非難めいた目線を送ると、「ごめんごめん」とおどけた調子で返される。
「あはは、凪紗ってば」
そう言って笑うポニーテールの彼女は、例の友達のうちの誰なのだろうか。まだ顔と名前が判別しきれていない。
ひとまず自己紹介をしておくことにした。
「どうも、若葉律夏です。妹が随分お世話になってるみたいで」
「いえいえ。いつも凪紗には助けられていますよ。うちのパンの売上とか?」
「パンの売上……ひょっとして、やまぶきベーカリーの」
「あっ、そうです!私、山吹沙綾っていいます」
どうやら件の山吹家長女が彼女らしい。面倒見のよさそうな、どこか大人びた落ち着きが印象的だった。
「よく来て下さっているんですか?」
「うん。初めは商店街の買い物ついでだったんだけど、すっごい美味しくて。デニッシュもいいけど、最近はチョココロネとか菓子パンも――」
「そうですよねっ!!」
「うおっ」
突然、自分と沙綾の間に割り込むように聞こえてきた声に驚きが漏れる。思わず隣を窺えば、なにやら黒髪の少女が興奮冷めやらぬ様子でこちらを見つめている。
「沙綾ちゃんちのチョココロネ、すっごく美味しいですよね!この間も、ココアパウダーの比率を変えてもっと美味しくなってて――!」
「そ、そうなんだ」
どうやらチョココロネの話題が琴線に触れたらしく、彼女の口からは次々にやまぶきベーカリー秘伝のレシピについての考察が述べられていく。
凄まじい観察眼とその勢いに呆然と舌を巻いていると、見かねた凪紗から助け舟が出される。
「りみ、その辺で。兄さん固まってるから」
「あっ……ご、ごめんなさいっ」
我に返った彼女――バンドの加入の件で、凪紗に相談を受けた子だ――りみは、先程の勢いをそのまま謝罪に変えて頭を下げてくる。
つまりは、チョココロネに懸ける熱意は本物だということだろう。やまぶきベーカリーはきっとこの先も安泰だ。
「ま、まあ美味しいのは本当だから」とフォローを入れて、持ってきた紙袋を彼女に広げて見せた。
「パンが好きなんだったら、これ、丁度良かったかも」
「このカゴ……サンドイッチですか?」
「うん。チョコはバナナサンドに塗ってあるんだけど、数が少なかったかな」
「い、いえ!めっちゃ嬉しいですっ」
「ライブ終わったら、沢山食べてね」
テンションが上がっているのがすぐに分かるくらいに、りみはチョコバナナサンドに期待してくれているらしい。それなりの時間を掛けて作った甲斐があるというものだ。
「すっごい……律夏さん、料理も出来るんですね」
「まあ、成り行きで覚えたというか……そうだ、具材に生ものを使っているから、早めに冷やしておきたいんだけど……」
「そっか。有咲、お願いできる?」
そう言いながら、凪紗は家主(代理)である三人目の少女、有咲の姿を探した。しかしながら、例の金髪ツインテールが見つからない。
「あれ?」とキョロキョロ視線を彷徨わせていると、苦笑いした沙綾が「あっち」と指を差して教えてくれたようだ。
「……なんで隠れてんの?」
「いや……その」
当の彼女は門の柱に身を潜め、そこからひょっこりと少しだけ顔を出してこちらを覗いていた。
律夏と目が合うと、飛び上がったように驚いて身を隠す。
「……なあ、もしかしなくても俺のせいか」
「あ、あはは……ちょっと人見知りなだけですよ」
凪紗に問うたつもりが、沙綾にフォローされてしまった。その凪紗はといえば「まあ、そのガタイに怯えてるんじゃない?」と底意地の悪い笑みを浮かべているばかりだ。
「私、有咲にこれを渡してくるよ。香澄とたえを待ってて」
「りょーかい」
「……市ヶ谷さんによろしく」
「まあ、危害は加えないよって言っとく」
「俺はクマかなんかか」
ため息交じりのツッコミにうざったいウインクを一つ残して、凪紗は有咲の方へ向かっていく。
「ふふふ……凪紗ちゃんと律夏さん、すっごい仲がいいんですね」
「そう見える?」
「はい。凪紗って、クラスではこんな感じじゃなくて、もっと大人っぽいっていうか……学級代表なのもあるけど、みんなのまとめ役だから」
「へぇ……」
りみと沙綾の言葉は意外なものだった。
中学時代も同様に、凪紗が学級委員に推薦されることは多々あった。しかしながら、周りとの精神的な年齢差を苦に思っていた彼女がそれを受け入れることはなかったのだ。
同級生の目にも大人に映る彼女は花咲川でも変わらない。それならば、変わったのは彼女の方なのだろう。
目を細め、頬が僅かに緩むのを自覚しながら、律夏は有咲の手を引いて駆けていくその後ろ姿を見守っていたのだった。
「おーい!」
「お、来たな」
そして、ふと聞こえてきた声の方を向いてみれば、りみや沙綾に手を振りながら駆けてくる女の子の姿があった。
何かを背負っているようだが、もしかしなくてもギターだろうか。
「もしかして、あの子が……」
「はいっ、香澄ちゃんです」
りみの言葉に、その彼女が例のバンドを始動させた本人だと知って、律夏はなるほどと改めて近づいてくる彼女を眺めていた。
「さーやー!」
「わ、分かった分かった……」
出会いがしら沙綾に飛びつく彼女にはエネルギーが溢れているようだ。恵の妹や、妹の話をするときの生徒会長に似ている節がある。
それに驚いていると、苦笑したりみが自分を紹介してくれた。
「えっと、香澄ちゃん、こちら凪紗ちゃんのお兄さんだよ」
「えっ、本当!?」
「本当本当。若葉律夏です。妹がいつもお世話になってます」
「いえ!戸山香澄です!今日はライブ楽しんでいってください!」
香澄の弾けるような笑顔は、裏を感じさせない。やはり凪紗には新鮮に映るのだろうが、
律夏は、その答えをライブで確かめることにしたのだった。
♬
その後、
音響機器を経験のあるりみが担当し、有咲は自分のキーボード、そして凪紗と香澄は先輩ギタリストたるたえの確認を受けている。
蔵とはいえライブはライブだ。五人にはただならぬ緊張感が流れているように思えたが、翻って、それを見守る律夏たちは和気藹々とした歓談に興じていたのだった。
「もしかして、律夏くんって水泳やってたりする?」
「ええ。こっちに転入するまで続けていました」
「やっぱり!私、去年の都大会に出たんだけど、そのときに泳いでる君を見たと思うんだよね」
「本当ですか」
「うん。戸山さんもその時にいなかった?」
「あ、はい。1500mでしたよね?中等部は先輩の応援と見学だったんですけど。あんなに長い距離、きれいなフォームを崩さずに泳ぎ続けているのがすっごく印象に残って…… 」
ゆりが話題を振った少女を戸山さんと呼んだのは、彼女が香澄の妹であるかららしい。
ついでに部活も同じ水泳部だということで、特に律夏のフォームに感激したという彼女――戸山明日香を加えて話は盛り上がった。
「――それで、律夏くんはもう水泳はやらないの?」
「……そうですね。少し事情もあるんですが、家事やバイトのことを考えると」
わずかに回答に詰まった律夏に「なるほどね」とだけゆりが返す。彼女がどこまで察したのかは分からないが、ともかくありがたい配慮だと割り切っておくことにした。
「家事……そういえば、お姉ちゃんから聞いたんですけど、ライブ終わりのお昼ご飯のためにサンドイッチ作ってきてもらったって、もしかして律夏さんのですか?」
「一応ね。具材が皆さんの好みに合うか分からないんだけど」
「凪紗ちゃんが運んでるところに偶然会ったんだけど、すっごい美味しそうだった。ライブの終わった後も楽しみ」
「すごい……お姉ちゃんの対極みたいな人だ……」
「あまり期待しすぎないでくださいね」と返しつつも、姉に失礼な感想をこぼす明日香に苦笑する。
考えてみれば、隣に座る二人を含め誰かしら姉妹がいる。そのあたりの事情がこの和やかな雰囲気に繋がっているのかもしれない、などと思っていた。
「でも、結構人数がいるよね。サンドイッチ、足りるかな?」
「大丈夫ですよ」
その声に振り向けば、ゆりの発言に答えるように、沙綾が後ろの階段から降りてくる。有咲の祖母もその後をついてきていた。
「紗綾ちゃん、椅子、ありがとうね」
「いえ。こちらこそ大人数で押しかけてしまってすみません」
ベーカリーでの接客などで慣れているのだろうか、彼女はそんな会話を済ませると、持っていた
「よ、いしょ。サンドイッチが足りなかったら、私の家から持ってきたパンも食べてください」
見れば、背負っていたバッグの中からパンの入った紙袋が取り出される。好物のデニッシュもあったので、残ったらありがたく頂こうと画策した。
「うわあ、美味しそう……!」
「律夏くんのと食べ比べできるね」
「流石に本職には太刀打ちできません」
両手を挙げて降参の意を示すと、「あははっ」と三人の笑い声が返ってくる。凪紗から話を聞かされたときはどうなることやらと不安だったが、存外に彼女らとの会話は滑らかに続きそうだった。
律夏のそんな安堵をよそに、紗綾が何か思い至った表情で、バッグからさらにもう一つ、大きな風呂敷の包みを取り出した。
「そういえば、市ヶ谷さんのおばあさんもお弁当を作ってくれたんですよ」
小花柄の風呂敷は年季を感じさせる色合いである。古臭さを感じないのは、この家や蔵が立派な屋敷であるからだろう。
市ヶ谷家は、少なくとも遡れば相当な名家であることに間違いはないだろうと身震いする心持であった。
「若い子向きの味付けじゃなかったかもしれないけれど……大丈夫かしら」
「いえ。凪紗も、以前頂いたときはとても美味しかったと言っていたので」
「あら、そう?それならよかったわ」
有咲の祖母である万実が、律夏ににこりと微笑む。その明るさに、場の雰囲気がさらに和んでいくのを感じた。
彼女とは、先日アルバイト先で知り合っている。勤務中、効率化のために導入されているセルフレジで困っているところを目撃したのだった。
「今日はお店、大丈夫なの?」
「ええ。シフトが入るのは大体平日なので」
そんなやり取りの傍ら、「どこのお店なんですか?」と挟み込まれた沙綾の質問に答える。
恵の実家たる北沢精肉店、そしてその斜め向かいのやまぶきベーカリーを通るように、都電方面へ商店街を数ブロック歩いた青果店だと告げた。
「
「軽作業はバックヤードで済ませることが多いからね」
大きな驚きを隠さない沙綾に苦笑をもってそう返す。
彼女との会話は、どこか彼女自身の気遣いが見え隠れしている。少し大げさな反応も、打てば響くようなやりとりも、決して嫌味に受け取られないようにと
それはなぜだろうか。
「沙綾ちゃん、その椅子で大丈夫かい?」
「はい。気を遣って頂いて、ありがとうございます」
万実にそう言って、沙綾は、律夏たちの座る四人掛けのソファの隣に置いたスツールに腰を降ろし、そこから準備の整いつつあった凪紗たちを眺めていた。
眩しいものを見つめるように細めた目が、律夏の心に残り続けるのだった。