「──こんにちは!」
歓談から一転、静まり返った地下室に、香澄の弾けるような声が響いた。わずかに震えをはらんだ、しかし力強い声だった。
「戸山香澄です! クライブに来てくださって、ありがとうございます!」
彼女と凪紗に引っ張られるように、三人が頭を下げると、「有咲ーっ!」と万実の声援が掛かって、鍵盤に手を置いて運指を確認していた有咲が慌てた。
くすっと小さく声が漏れた観客席とは裏腹に、バンドメンバーの一同はやはり緊張の面持ちだった。律夏にとって、凪紗のそれ自体が物珍しく、笑いをさらに助長してしまった。
「今日はおたえと……さーや、あっちゃん、ゆりさん、律夏さん、おばあちゃんをドキドキさせます! してくださったら嬉しいです!」
一通りの前口上に、律夏たちは拍手で迎えた。
香澄は、右隣のりみと顔を見合わせ、そして頷くと、りみの操作したドラム代わりの打ち込み音源が流れ出す。メンバー全員の表情がさらに引き締まり、それがライブの始まりを意味していた。
「──いきます! 『私の心はチョココロネ』!」
彼女らにとっては、きっとそれは一瞬だったのだろう。何よりも密度の濃い時間の流れが、そこにあるように感じられてならなかった。
万実やゆり、明日香は体を揺らし、旋律の流れに身を委ねるように聞いていた。
律夏は、弦を
きっと、
しかし、ふと、横目に見た沙綾の表情が目に入って、それもすぐに元に戻った。
「──やった! 最後までできた!」
「まじヤバかった! ほんとヤバかったって!」
「でも、楽しかった!」
「うん。頑張って練習してきて、よかったって思えたよ」
どんなこと対しても、無気力でろくな練習すら必要としなかった彼女とは思えない言葉が並ぶことに、つくづく驚かされる。
「でも、勝負じゃなかったんですか?」
「そうみたいだね」
たえをバンドのメンバーに引き込んでいたことに気付いた明日香に、沙綾が笑う。
「だって一緒に弾いた方がドキドキするから! ねっ、おたえ?」
きらめく瞳でそう答えた香澄。仲間との協調、そして奥深い音楽の世界が彼女たちを夢中にさせているのだと思い知った。
それは、香澄に問いかけられたたえも同じようで──
「香澄、凪紗、りみ、有咲っ」
「わ、お、おい──うわああああ~っ!」
あまりの勢いで駆け寄ったたえに、有咲が悲鳴を上げる。それも気に留めないくらいの興奮を溢れさせるようだった。
「自分の音に、きらきら輝いたみんなの音が重なって……バンドに本気で向き合う気持ちが伝わってきて、すっごいドキドキした」
「おたえ……! おたえもキラキラしてたよ!」
どうやら、
しかし、やはりキラキラドキドキなるものはよく分からなかったようで。
「出た、香澄語」
「完璧に言語化できるようになったら、香澄マイスターになれるよ」
「私ワイン扱い!?」
香澄の反応に周囲がどっと笑い出す。
笑顔の中心にいる凪紗の表情と、その外側にいる沙綾のそれとを見比べるように、律夏は注意深く見つめていた。
♬
「んー! ライブのあとのサンドイッチおいしー!」
「いっぱい種類あるね……あっ、これチョココロネ!」
「おばあちゃんのたらこおにぎりもおいしいよ」
ライブ演奏というのは意外にも食欲を誘うらしい。それが女子高生特有のカロリー無視理論だとしても、あれだけ力のこもった演奏のあとでは、彼女らを止める者はいない。
周囲の目を気にすることなく大騒ぎをする香澄たちにゆりは苦笑し、そして明日香は「律夏さんとゆりさんを見習ってほしい……」とため息をついた。
「まあ、兄弟姉妹は家それぞれだからね」とゆり。本人はもちろん、りみを見ていれば姉妹仲が悪くなるとは到底思えないので、これについては彼女の言う通りだと頷く他ない。
「ゆりさんや律夏さんみたいなお兄さんお姉さんがいて、りみさんと凪紗さんが羨ましいです」
「そうかな? 別に
「
彼女の明るさは、凪紗にとってはある意味道しるべとなってくれた部分はあったのだろうが、あまりの光度に妹はうんざりしているらしい。
苦笑いでそこまで言って、明日香も香澄も同じ
「あっ、私は明日香で大丈夫ですよ」
「私もゆりで大丈夫。兄弟姉妹がいると、苗字で呼ばれてもどっちか分からないよね」
「……分かりました」
慣れない。
思い返せば、恵とも名前呼びでやり取りをしたことがない。生徒会ではひかりがいるが、彼女へは
えも言われぬむず痒さに襲われながら二人の名を呼ぶ。その度に底意地の悪い凪紗の笑顔がこちらを覗いていたのは言うまでもない話であった。
「これ」
「えっ?」
バンド少女たちの容赦ない略奪によって、律夏のお手製サンドイッチはすぐになくなってしまった。
香澄垂涎のBLTサンドをあっさり譲ってしまった沙綾へ、律夏は自分のイチゴサンドを手渡した。
「折角だから、ベーカリー側から見た感想を聞きたくて」
「ふふっ……厳しいですよ?」
律夏の手からそれを受け取ると、沙綾はおもむろにぱくついた。
「んんっ! 美味しい……!」
「よかった」
反応は良好。無事に女子高校生の味覚感性について行けているらしいと安堵する。
「食べておいて何ですけど、律夏さんは大丈夫ですか?」
「食べたくなったら自分で作るから」
そう言って、遠慮の欠片もなく食べつくしてしまった凪紗(たち)の非礼を詫びた。
「だ、大丈夫ですよ! みんなそれだけライブでお腹空いてたってことだし……!」
両手を振って否定する彼女は、誰よりも人の気持ちを考えることに長けているのだろう。それは容易なことではないはずだ。
──それだけ他人を慮れる人間が、なぜ
彼女の座るスツールの隣に腰掛ける。凪紗たちの笑い声に満ちた喧噪を背に、律夏は訊いた。
「……山吹さんは」
「沙綾でいいですよ。うちにも弟と妹がいるので」
どうやら先ほどの会話を聞かれていたらしい。多少の気恥ずかしさを押し殺して「……沙綾ちゃんは」と言い直した。
「凪紗たちのこと、よく見てくれているみたいだね」
「いえ! こちらこそ、凪紗にはいつも助けられてばかりなんですよ! さっきはパンの売り上げなんて言いましたけど、香澄にしっかりブレーキを掛けたりして、みんなのまとめ役になってくれるっていうか」
「牛込さん……りみちゃんからも聞いた。本当に、前の凪紗を考えれば信じられないよ」
「そうなんですか?」
「ああ。中学生の頃のあの子は、今よりもっと口数も少なくて、家で友達の話をしたことなんて一回もなかったくらいで」
「全然想像できない……」
驚きを深める沙綾に頷いて、「それだけ、沙綾ちゃんたちに出会って変われたってことだと思う」と続けた。
「……ふふ」
「?」
「律夏さん、すっごいお兄ちゃんしてるな~、って思いまして」
「……そうかな」
「とっても」
そう言われてしまうと、客観性に文句をつけることはできないので、「そっか」とただ受け入れるしかない。
自分で思うくらいにもやたらと神妙な反応になってしまったので、沙綾は「そうですよ」と笑っていた。
「沙綾ちゃんも
「あはは。そうかもですね」
「……何か、わけがありそうだね」
「分かりますか?」
沙綾は何も言わなかった。
多分、当たり前のことで、それなりの事情があって、初対面の人間に語ることではないと判断したのだろう。──ちょうど、律夏にとってのそれと同じように。
それが悩みであるならば、可能な限り力になりたいと思った。解決することが、結果的に凪紗のためになるのなら、猶更のことだ。
「”お姉ちゃん”であることが嫌になったとか?」
「……嫌、だからどうなるわけでもないんですけどね。でも、そういう感じではないですよ」
「そっか」
独り言のような返事ののち、思考の海に潜る。言葉通りに捉えるなら、彼女個人の心の揺れ動きが、直接の原因になっているわけでないということだ。つまりは、沙綾ひとりでは
一つだけあった心当たりが脳裏をよぎった。しかし、きっと沙綾は口外していないだろうから、それが本当の理由であるならば、この場でそれを無闇に言い当てることは、大きな不信感を与えかねない。
そうであるならば、為すべきことは何か。
「……少し、分かった気がする。もし考えた通りなら、それはずっと、これからも抱え続けていく問題だ」
「……そう、かもですね」
予想は的中しただろうか。それは措くとして、この状態の彼女を放っておけない。
「これが事実かはともかく、悩みは誰かに相談してほしいって思うよ」
「……ありがとうございます」
視線を僅かに落とした沙綾を見て、律夏は後悔した。
あまりにありきたりな言葉──頑張れ、応援しているから、などというのは使い古された常套句で、しかし意味ばかりが肥大化しているような感がある。
常に頑張っている人が今以上に頑張ることなんてできない。
誰かに相談できるような悩みなら、もうとっくに解決している。
沙綾の表情は、それを伝える疲れ切った笑顔そのものだった。律夏は、自分のいかなる言葉も気休めにしかならないことを悟った。
姉として、兄として、近い境遇に置かれているのにも関わらず、手を差し伸べられないことをもどかしく思う。けれど、自分はどれほど彼女のことを理解しているのだろうか。
氷川紗夜の問題に触れたときと、何が違ったのだろうか。
「……沙綾ちゃんは、その悩みを解決したいと思ってる?」
「どう、なんでしょうね。
彼女は解決を望まなかった。
大きな停滞の渦にあって、いつしか歩むことを諦めてしまったなら、凪紗たちの演奏を聴いたあの表情に説明がつく。
身動きの取れない事情があって、そのために自分の求めるものから手を放した。結果、周りは良い状況になったが、空っぽな心が満たされないままだった。
そんな自分が許せなくて、必死に抑え込んで、あるべき姿を貫いているのが、今の沙綾なのだろう。
それでも、渇きが潤いを求めるような本音を押し殺してなどいられないのだろう。そうでなければ
そんなものを見せられたら、何もせずにはいられないのだ。
「……もし、誰かに打ち明けるとするなら」
事実、沙綾と自分の距離はまだまだ遠い。それはつまり、分厚い心理的な隔壁の存在を意味しているし、そうかからどんな金言至言を叫んでも彼女の心に響くことはないだろう。
氷川紗夜は、同じ境遇にある人間に救いを求め、自分の糧にしようとした。だから、そのような距離のことを考える必要がなかった。
翻って、山吹沙綾は救済を必要としない。そこに敢えて踏み込むためには、その主体が自分のような人間ではならないと結論付ける。
「凪紗を
「え……?」
律夏の不自然な言い様に戸惑う顔色が返ってくる。
「た、”頼ってやって”って……どういうことですか?」
「あいつは中学で友達付き合いがうまく行かなくてね。誰かに頼ることも、頼られることもなかったから」
一つ、沙綾について思うことがあった。
配慮、遠慮、気配り──どれも沙綾が見せたことだ。それはいつも誰かのために行われている節がある。だから、彼女を動かすためにはこうすればよい。
「言葉の通りだよ。俺は妹に、大切な経験をさせてやりたいと思っている。それが沙綾ちゃんの助けになるなら尚更」
「でも、凪紗に迷惑じゃ……」
「悩みを相談してもらうなんて経験、あいつはないと思うから。多分喜ぶと思うけど」
「そ、そうなんですか……」
若干妹の名誉に傷をつけているような気もするが、この際なりふり構っていられない。必要ならあとで
「まあ、それは冗談だとしても、凪紗は迷惑だなんて思わないよ。家で話をよく聞くけど、いつもバンドか沙綾ちゃんの話ばかりだから」
「本当ですか?」
「ああ。それに、身内贔屓に聞こえるかも知れないけど、凪紗は相談相手になれる以上の器量があると思ってる」
思考と、沙綾の反応を覗うことに集中していた意識を外へ向ける。
気が早く、次回のライブ──おそらく文化祭だろう──のことについて楽し気に語らう五人の中で、香澄とともに話題を引っ張る凪紗が目につく。変化の中途にある彼女にとって、沙綾の問題に踏み込むことはさらなる成長の起爆剤となることを信じて疑わなかった。
ならば、自分のなすべきことはただ一つとばかりに、律夏はその事実の一端を告げるのだった。
「