Girls Code×Boys Tone   作:瀬田

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#18:心に穴が空いた(ガールズサイド)

「ふっふーん……」

 

 クライブから数日明けて、花咲川学園の一年教室。黒板にでかでかと書かれた『文化祭実行委員』の横に名前を書かれている少女が、たっぷりの自信を表情に滲ませる。

 

「実行委員になりました、戸山香澄です!文化祭いぇーい!」

「「いぇーい!!!」」

 

 クラスの盛り上がりようを抑えるふりをして、しかし一番の期待感を隠しきれないところが彼女らしい。隣でそんな彼女に苦笑を浮かべる学級委員の凪紗である。

 

「出し物は……キラッとしてて、シュッとしてて、可愛いのがいい!」

「何だそれは……」

 

 ある意味予想通りの言動に、凪紗が額に手をやると、クラスメイトから笑い声が上がる。

 独自の世界観(カスミワールド)を持つ彼女を御すことは、自分だけでは手がかかりそうだ。

 

「……とりあえず、出し物の前に副委員長を決めようよ」

「え?あ、そっか。凪紗は?」

「私はもう学級委員だからね。……というより、香澄の手綱を一人で握り続けるのはちょっと」

「私、もしかしてウマに見えてる!?」

 

 即席コントに教室は爆笑の渦……とまではいかないが、そこそこの盛り上がりを見せている。バンドではなくお笑い芸人の方が向いているかもしれない。

 

「――まあ、それは冗談として。副委員長を指名しようよ」

「えーっとお……」

 

 ぐるり、クラスの端々まで見渡す香澄の視線の後を追いかけて、やはり彼女の方を向いて止まった。

 

「あっ、さーや!」

「へ?」

「やっぱりそうだよね」

 

 圧倒的な母性――もとい包容力は、クラスの中でも沙綾が抜きんでていることは、皆が納得するところである。

「い、いや、私は……」と微妙な反応を示す彼女の周りで、「まあ沙綾だよね」だとか、「香澄をなんとかできるのは、沙綾しかいない!」と賛成の声が上がる。

 そんな雰囲気に押されて、これ以上の抵抗は無駄だと悟ったのか、「わかった、いいよ」と香澄の指名を受け入れたのだった。

 

 凪紗は、その表情が含むものを読み取ることができなかった。

 

 

     ♬

 

 

「はあ?香澄が実行委員!?」

 

 木漏れ日の眩しいいつもの昼休み、六人から話を聞いた有咲の表情はすこぶる訝しげだった。

 

「……大丈夫か?」

「ええっ、なんで!?大丈夫だよ!学級委員は凪紗だし、副委員はさーやだし!」

「なんだ、凪紗と山吹さんがいるのか。なら安心だな」

「ええっ!私と二人で反応違う!」

 

 香澄と有咲の間で繰り広げられるこんなやり取りも、もはや日常茶飯事だ。その一方で、りみが「最初のクラスのみんなと同じ反応してる……」と複雑な笑顔で呟いた。

 

「それで、A組はなにやんの?」

「うちのクラスは喫茶店だよ。()()のお店のパンを出すことになったんだ。と言っても、パンを押してくれたのは牛込さんだけど」

 

 「へえ」と興味深そうな有咲の視線が注がれる。りみは「沙綾ちゃんちのパン美味しいから~」と満足げだ。

 それよりも、凪紗はそんな提案が他ならぬりみからなされたことを、意外かつ好ましく思っていた。これもバンド活動を通した成長ということだろうか。彼女も着実に変わっているということだ。

 

「ナイス発案、りみ」

 

 そう言って彼女にサムアップを贈ると、照れたような笑みで「ありがとう」と返ってくる。小動物的雰囲気と相まって非常に可愛らしい。

 

「……」

 

 ――ふと、その隣の沙綾から向けられている視線に気付く。

 

「?沙綾?」

「い、いや、なんでもないよ」

「そう?」

 

 首を傾げる。向けられていたのはほんの一瞬で、そこに込められている意味に心当たりもなく、凪紗はそれ以上の追及をやめた。

 代わりに、とばかりにツッコミの我慢ができなさそうな()()に許可を出すとする。

 

「……有咲、ツッコんでいいよ」

「許可されなくてもツッコむけど……鳥がいるんですけど、おい」

 

 理解不能とばかりに、有咲がこらえきれず指を向けたその先には、新メンバーたるたえの姿があった。なにやら鳩を集めている事実だけは見て取れる。

 

「沙綾ちゃんちのパン美味しいから~」

「有咲も食べる?」

「落ちてんじゃねーかそれ!」

 

 目ざとくやまぶきベーカリーのパンを発見したりみはきっと素でこれを繰り返している。可愛いと思った。

 一方で、有咲の代名詞とも言える鋭いツッコミを誘ったたえは末恐ろしい逸材である。これが素なら天才と言ってもいい。

 

「――ね、みんな、ちょっといい?」

 

 ふと、そんな彼女が愛用のギターを持ち上げて、五人の視線を集めた。

 

「どうしたの、おたえちゃん?」

「みんなに聞いてほしい曲あるんだ」

「曲?おたえ、弾いてくれるの?」

 

 目を輝かせた香澄が身を乗り出す。ギタリストとしては見逃せず、そんな彼女に続くように、肩越しから顔を出してたえの指遣いに注目した。

 

「……」

 

 弦だけを(はじ)く、純粋な音色が響いた。これなら凪紗や香澄でも問題なく弾けるだろう。

 だけど、凪紗にとってはどこかそれが特別なものに感じられてならなかった。

 

「何の曲?」

「朝、お風呂で思いついたの」

「おたえが作ったの!?」

 

 おたえは朝シャン派なのか……などと思う暇もなく、りみや有咲から感嘆の声が聞こえてくる。それは凪紗も同じだった。

 作曲センスのあるメンバーがいるだけで、急に活動がバンドっぽく見えてくる。となれば、これを活かさない手はないだろう。

 

「……そうだ!」

 

 香澄も同じことを考えたのだろうか、頭上の電球が光を灯したのが見える。

 

「あ、もしかして香澄も思いついた?」

「え、凪紗も!?」

「な、なんだなんだお前ら」

 

訝しむ有咲に、凪紗は「じゃあ言ってよ」と香澄にサインを出す。なんだかしたり顔で了承した香澄はそれを口にした。

 

「この曲、文化祭でやろうよ!」

 

 

     ♬

 

 

「――では、一回目の会議を終了します」

 

生徒会長の言により、実行委の最初の集会が終幕を迎えたのを、凪紗は教室の窓越しに確認した。夕影を背中に受けて、多くの委員たちが扉から流れ出した。

 

「……あら、あなたは」

「?」

 

ふと、凛とした声が自分を呼び止めたのに気付く。目を向ければ、それは生徒会長に同行していた風紀委員長のものであった。

 

「あっ、氷川先輩」

 

アイスグリーンの涼し気な髪色は、まさに怜悧な彼女のイメージにふさわしい。

 

「こんにちは。もう委員会は終わってしまったけど……」

「あ、はい。香澄と沙綾を待っていたので」

「その二人……ああ、同じくクラスだったわね」

 

振り返ったその先には、完全燃焼とばかりに黒煙を上げながら突っ伏す香澄に、苦笑する沙綾の姿があった。

 

「……すみません、また香澄がご迷惑を」

「実行委のルールがあると思うので、私は構いませんが……それとは別に、風紀委員として必要であれば指導するつもりです」

 

溜息をつく紗夜。自分はともかく、この間のギター事件ではこっぴどく叱られたので心象は悪いだろう。早期に挽回を図らなければ指導の対象となってしまう。

 

「そういえば、兄が文化祭の件でお世話になっているんですよね。それこそ、ご迷惑をおかけしていませんか?」

「いえ。そもそも、当校の文化祭を手伝いに来てもらっているので……まあ、一つあるとするなら、あのやけに達観したところでしょうか」

「あー……なんというか、あれは生まれつきっていうか……」

 

思った通り、律夏は生徒会でもその哲学者(口達者)ぶりを発揮しているらしい。頭の痛いところである。

 

「語彙力が豊富、という意味では、若葉さん――凪紗さんに通じるものがあるのかしら」

「そうですか?」

「この間の中間試験での成績のこともあるけれど、話していて淀みがないと言えばいいのかしら。お二人とも、伝えたいことが正確に伝わってくるように言葉を選んでいるわ」

「あ、ありがとうございます……」

 

ふっ、と緩められた紗夜の目線は、力強く鋭い彼女の印象とかけ離れて柔らかく、凪紗は思わず目を引き付けられてしまった。

それは、どこか律夏が自分を見守るときのそれに似ていたのだった。

 

「……凪紗さん」

「は、はい」

「あなたはお兄さんを尊敬していますか?」

 

凪紗は、紗夜の問いに意図を見出すことができなかった。それでも、答えを明確に口にすることはできる。

 

「……はい」

「そうですか」

 

一抹の気恥ずかしさを感じながら小さく頷いた。それに対して、紗夜は薄く瞑目するのだった。

 

「あっ、凪紗ーっ!」

 

活力溢れる声が自分を呼ぶ声が聞こえた。立ち直った香澄がこちらに気付いたのだろう。

 

「呼び止めてしまってすみません。それでは、私は行きますね」

「い、いえ。お疲れ様です」

「お疲れ様。今日は文化祭の準備でお兄さんや志哲の方の応援に来てもらいますので、少し帰りが遅くなると思います」

「分かりました」

 

そう言って、礼儀正しくも会釈をして去っていく紗夜。こちらもそれに返して、彼女を見送る。

飛び込んでくる夕焼けの中で、その背が儚いほどに小さく見えた。

 

「……あれ、氷川先輩?」

 

教室から出てきた沙綾が訊く。

 

「そう。ちょっとお話してて」

「凪紗、知り合いだったっけ?」

「香澄が星形ギター学校に持ってったときに一緒に怒られたでしょ?」

「うぐ……そうだった」

「そんなことがあったんだ……何の話してたの?」

「えーと……兄さんが生徒会に入っててさ。花女にも手伝いに来るらしいから、その打ち合わせのことを伝えておいてほしいって」

「えー!?律夏さん生徒会だったの!?」

「諸事情でね。さ、早く帰ろ?」

 

あの質問のことで口を滑らせたくもないので、驚く香澄に荷物をまとめるように促して話を逸らす。

 

「……沙綾は荷物、大丈夫?」

「――あっ、そうだった。忘れてた」

 

ぽかんとしている彼女の表情が、やたらと不自然に見える。昼休みのあの視線とそれが重なって、教室に戻っていった沙綾を眺める凪紗は、その思いを強めたのだった。

 

 

     ♬

 

 

「企画書は香澄がなんとかするとして……沙綾のおうちは大丈夫そう?」

 

 校門前、今日は用事があるという香澄との分かれ道で、凪紗は訊いた。

 

「うん。家の手伝いもあるから、遅くまではできないけど……私も頑張るよ」

「さーや……! ありがとぉ~」

「うわぁ!? ちょ……!」

 

 飛びつくいつもの癖に苦笑する。実際のところ、学級委員の仕事で香澄の面倒を見られないこともある以上、沙綾(副委員)の存在は凪紗にとっても頼もしいものであった。

 

「私も手が空いたら行くよ。一人にさせておいてたら書類が香澄語だらけになっちゃうからね」

「ひどーい! でもありがと凪紗!」

「どうどう」

 

 抱擁の矛先が向いてきたので宥めて往なす。胸元に擦りつけられる額と、左右に揺れる星耳がくすぐったかった。

 

「香澄、もう時間じゃないの?」

「え? ……あっ、そうだった、急がなきゃ! 凪紗は?」

「やまぶきベーカリーに寄っていくよ。兄さんから明日の分買っておくように言われてるから」

「そっか! じゃあ、律夏さんにもよろしくね! 私、ぜひ来てくださいって連絡してるから!」

「いつの間に兄さんの連絡先を……」

 

 クライブの後、イチゴサンドのクリームを頬につけたまま宣伝活動に励んでいた香澄の姿が思い起こされる。彼女は行動力の塊だ。

 

「じゃあ、また明日! ばいばーい!」

「「じゃーね……」」

 

二人がそう言い終わらないうちに、香澄は都電方面に駆け出していく。猪突猛進とはこのことだろう。

 

「あ、あはは……もう見えなくなっちゃった」

「学校終わりにこの体力、流石としか言いようがないね」

 

 エネルギーの擬人化のような存在がこの場を去って、凪紗と沙綾はどっと疲れが出たように肩を落とす。思わず目が合うと、笑いがこみあげてきた。

 

「……私たちも行こっか」

「そうだね」

 

 

 

 花女の前の通りにしたがって北へ歩くと、やまぶきベーカリーのある商店街へ続く。

 香澄や凪紗は都電沿線の住まいなので、徒歩で帰宅する沙綾たちに合わせて帰路を歩くことが多かった。

 

「……ふふっ」

「どうしたの?」

「ううん。喫茶店のこと、お父さんに言ったらすっごく張り切ってて」

「……あはは。でもオッケー出してくれてよかったよ」

 

 不意の話題に、凪紗は自分の体が固くなる感覚があったが、それを表に零さないように努めてそう返した。

 彼女は事情を知らないのだから。

 

「いつもお店の手伝いを頑張ってるから、こういうときは全力で協力してくれるんじゃないかな」

「そうかな? もう慣れてるから、そんなに大変だって思ったことはないけど……」

「パン屋さんって、朝早いんだよね。何時くらいに起きるの?」

「私は焼成の手伝いと品出しだけだから、大体五時くらいかなぁ」

「それでも早いよ……私朝弱いから、絶対起きられない」

「あはは。なんか意外かも」

 

 沙綾から見た私は、やはりそういう風に見えているのだろうか──笑みを零す彼女を眺めて、そんなことを思う。

 彼女と出会った、入学式の光景を思い出す。

 

「沙綾はしっかり者のお姉ちゃんだね」

 

 天真爛漫な香澄と接するときも、クラスの皆をまとめるときもそうだ。

 いつだって、彼女は見守るような、温かくて優しい目つきをする。

 

「……そんなことないんだけどね」

 

 だけど、今だけは、その温度が感じられなかった。

 季節に似合わない冷温が、心臓の鼓動を早めるのが分かった。

 

「……今日、もしかして体調悪い? なんか、いつもの沙綾と違うような気がする」

 

 そう感じたのは、これが初めてではない。

 昼間に感じたあの目線と同じだ。こちらを窺うような、どこか透明で無機質なあの目線。力が篭っていないような、ともかく、普段の沙綾にないものであったことには間違いない。

 一抹の不安が脳裏をよぎり、凪紗は沙綾の表情を覗き込むようにして訊いた。

 

「ううん、大丈夫だよ。……でも、確かに()()()()私じゃなかったかも」

「それは……どうして?」

「気になることが、あったから」

 

 凪紗の問いかけに対して、沙綾は間をおかずに受け応えた。

 予想に反して、気丈な振る舞いを見せる沙綾に安堵したものの、その表情はひどく固く、凍りつくようだった。

「凪紗」

 

 立ち止まって、今度は沙綾が問いかける。燃えるような夕陽の熱量を厭わないくらいの冷や汗が、ゆっくりと背筋を下る心持ちだった。

 

「凪紗のお母さんに、何かあったの?」

「……っ!」

 

突如として持ち出されたソレに、凪紗は散瞳を隠すことすら出来なかった。

ーーなぜ、彼女がそれを知っているんだ。

 

「誰に、聞いたの?」

「……律夏さんから」

 

彼女の解答は、考えてみれば当たり前の話ではあった。若葉家の事情を知る者で、沙綾にソレを教えられる者は兄しかいない。

 

「クライブの後にね、言われたんだ。『同じ事情を抱える者同士』だ、って」

「……?」

 

恐らく、母のことが律夏を通じて沙綾に知られている、もしくはその一端に彼女がたどり着いていることは確からしく、凪紗はなぜそのような()()()をしたのか、兄に対する疑念を拭えないまま、衝撃の余韻を一身に受け入れようとしていた。

 

――その一方で、沙綾の言葉が解釈できない。

 

「え、っと。兄さんがそう言ったの? 沙綾に?」

「うん。律夏さんは、もう分かったみたいで――凪紗に相談してみたら、って」

 

()()()ですらも噛み砕いて教えてくれるはずの沙綾からは、まるでこちらのことを意に介さないかのような独白が続く。

彼女の示すことはなんだ。律夏は何を把握しているのだ――

 

「同じ事情、ってことは……沙綾」

「うん。私も、なんとなくわかるんだ」

 

病床にある母の事実を沙綾が知っていて、それが凪紗《自分》と同じだと分かっているのなら。

 

――兄さんも、とんでもないことを考えるな。

 

凪紗は密かに舌を巻きつつも、帰り次第彼を問い詰めようと画策するのであった。

 

 

 

「……それで、兄さんが家事を引き受けてくれたんだ」

「…… 」

 

()()を打ち明けていくにつれ、沙綾の目が見開かれていくのが分かった。これだけの内容なのだから、無理もない。

これを口にするべきなのか、という逡巡は確かにあった。しかし、小癪な兄の裏工作によって、我が家の事情のほとんどを沙綾に知られている以上、彼女側の事情と引き換えにしてしまうのが正解だろう、とどこか冷静さが勝った。

母の病状を話す以上、父のことも隠してはおけなかった。

 

「そ、んな……」

「お父さんのことは、私もまだ折り合いをつけられていないけど……まずは、お母さんが元気になってからだと思って」

 

悲しむ暇もなく、受験勉強やその後の高校生活がやってきたという理由もある。だが最も大きいのは、母親の入院を機に変わってしまった兄の存在だろう。

 

「だから、律夏さんはバイトをしてるってこと?料理が上手なのだって……」

「まあ、お金の面は私もよく分かってないけど……余裕はある、と思う。だから、自分の進学とか、自立のためなんじゃないかな。……あと、私のため」

「凪紗の?」

 

首肯して、入学前の話を思い出しながら一つ一つを語っていく。

沙綾は神妙に聞き入っていた。

 

「香澄と出会って、バンドに出会って……私がやりたいことを決めたら、兄さんは全力で応援してくれた。自分で考えて、最後までやり抜くために私を助けてくれた」

 

歩んだ道の途中、振り返ることはあっても、積み上げた全てを投げ出して行き戻ることはない。

ましてや、やり直しなど効かない青春時代だ。どれだけ強がっても失ったものは確実に存在する。

 

「ただ一年、早く生まれただけで――」

 

言葉に溢れるほどの激情を、握る拳を震わせて顕示した。存外の痛みに思いの深さを改めて自覚していた。

 

「律夏さんには……お兄さんには、好きなことをしてほしい、って思う?」

「うん。でも、そのためには私の好きなことを犠牲にしなくちゃいけないから」

 

律夏はそれを嫌った。たぶん、世界で一番嫌った――だからこそ、言える決意があった。

 

「その分、私がやりたいことを、夢を叶えるんだ」

「……」

 

沙綾との間を、温度を取り戻した風が吹き抜けていく。

 

「教えて。今度は沙綾の番」

 

今にも吹かれ飛ばされそうな脆さをさらけ出した彼女の手を、しっかりと掴んでそう言った。

じっ、とその瞳を見詰める。凪紗の髪色とよく似た、海色のそれに輝きはなく、深い水底が見通せないように、複雑な感情がせめぎあっていることを感じさせた。

 

「……っ」

 

視線は交差しない。したがって、熱が伝わることもない。想いを分かち合うこともない。

 

沙綾の瞳は冷めきっていた。

 

凪紗は、最後まで彼女の言葉を信じて縋るように待ち続けた。彼女や香澄たちと出会えたことで、それまでの自分では得難い感情――数少ない本物の思いを手にすることができたのだから。

それでも、無情にも、沙綾に受け止められなかったように見えて、拒絶されたように見えて、揺らぐ心を抑えきれなくなっていた。

 

「……ごめん」

 

確かに繋いだ手が離れる。いつの間にか、そこにあった温もりが消えている。

凪紗は、心の中に風穴が空くような気持ちで、力なくその腕を垂らし、冷たい陽を見上げることしかできなかった。

 

 

 

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