「……って、今日話したいのはこんなことではありません!」
「あ、そうですね。結構フレーバーの話盛り上がってしまったので、つい」
「そ、それに関してはきっかけを作った私にも責任がありますが……」
糾弾するつもりが、次第に声のトーンが控えめになった紗夜に苦笑する。
どうやら彼女はバジルの香りとフレーバーが好みらしく、漏れなく律夏の脳内レシピ帳に記載されていった。
「もう外も暗くなってきましたし、残りは帰りながらか、また今度にしましょう」
「私からは、もうありません。興味深い意見を聞けたので。……今度は、若葉さんのお話を聞く番です」
「それなら、帰り道にしましょう。送っていきますよ」
「そうですか」
てきぱきと片付けを進める手際に風紀委員の片鱗を見出しつつも、従うようにその背を追っていく。
今日はギターを持っていないようだが、凪紗といい、どう見ても華奢なその体躯にあのサイズの楽器が背負えるというのも、少し驚きであった。
街灯の火が煌々と二人の行く先を照らしている。
自転車を押して歩きながら、昼間に劣らない喧噪の商店街へと向かう途中、紗夜が口を開いた。
「それで、さっきの校内では何を見つけたんですか?」
「ああ、それが――」
自分の反応が完全に悟られていることに苦みの混じった笑みを浮かべつつも、律夏は詳らかに語りだす。
花女の文化祭ライブのこと、それを喧伝する凪紗や香澄たちのバンドのこと、そして沙綾の名を載せたフライヤーのこと――
恐らく、自分と同じように家庭を支えるべく奮闘しているのだろう彼女のもつ悩みについて触れると、紗夜にもその深刻さが伝わったようだった。
「なるほど、本来ならば予定にない――メンバーにすら加わっていない山吹さんの名が書き込まれているというわけですか」
「言っておいて何ですが、これは沙綾ちゃんや凪紗たちには秘密で」
「まあ、風紀委員としては適さない行動かもしれませんが……聞いたからには、できる限りの協力をしますよ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、律夏は近づいてくる商店街のアーケードに目を向ける。あの数区画向こうでは、きっと今も沙綾がその仕事に励んでいるに違いない。
「それにしても、戸山さんの行動力にはいつも驚かされます。今回に関しては少々身勝手な気もしますが」
「沙綾ちゃんと、何かしらの会話があったのではと思うんですが……」
香澄とはクライブ後に連絡先を交換しているが、むやみにこちらから連絡するというのは、妹の交友関係に干渉しているようで気が引けるので、それを確認する手段は凪紗から聞き取りを行うしかない。
クライブといえば、ライブ終わりのランチタイムに沙綾と交わした会話を思い出した。
「そもそも、若葉さんはなぜ山吹さんの事情を知ったのですか?」
「凪紗たちがバンドの結成をきっかけに、ライブの予行演習のようなものをしたんです。それに呼ばれた時に、同じく誘われていた紗綾ちゃんと話を」
「随分と仲が良いのですね」
「い、いや、そんなことは……」
まさか「貴方のところに比べれば」などと言えるはずもない。
思わず狼狽すると、紗夜は「……すみません、これでは嫌味に聞こえますね」と嘆息する。
そんな彼女の懊悩を見ていると、凪紗とは険悪な兄妹関係に陥ることもなくここまでやってこれていることには感謝しなければならないのかもしれない――そんな風に律夏は思った。
「まあ、
「……そういうものでしょうか」
凪紗と、彼女の友人たちに関わる機会が増えたことで、抱えるものが
香澄と有咲、りみ、たえ――そして沙綾というように、凪紗を通して律夏は彼女らを知り、時に悩みを解決してきた。
そうしたことに対して、最後まで責任を持ちたいのだ。
「あくまで俺個人の考え方ですよ」
「人のことを言う資格はないのですが……背負い込むものが大きすぎるのでは?」
「背負い込むのに十分な背中の広さを、持ち合わせているつもりです」
同級生と比べてそこそこ背の高い紗夜でも、律夏の冗談めかした表情を見上げなければならない。恰幅や体躯ならば言わずもがなである。
「比喩の話でしょう。……と言っても、なぜか納得できてしまう自分がいます」
「光栄です」
「褒めていません」
鋭い指摘を、忘れることなく一刺ししていく紗夜はどこかくたびれているようでもあった。
五月も末に差し掛かり、次第に強まってきた陽光とその熱に精気を奪われているのだろうかと、律夏は見当違いな心証を残していた。
「……それを信じるとして、若葉さんは凪紗さんのために、山吹さんの問題を解決したいと考えているのですね」
「そうですね。できる限り、沙綾ちゃんの意思に沿う形で」
「意思に沿う、ですか。山吹さんは、お母さまの体調を心配されて、ベーカリーを手伝っているんでしたよね。もし凪紗さんが山吹さんをバンドに勧誘することを望むとするなら、その両立は不可能だと思いますが」
「もっともだと思います。おそらくですが、凪紗はそれを願うでしょう」
口にしつつ、帰宅後のことを考える。
凪紗たちの間では、何かしらの動きがあるに違いない。沙綾が何らかの行動を起こす可能性もある。
彼女にヒントにもなる情報を
そうなれば、きっと凪紗は沙綾を求めるだろう――自分の隣に並び立つ存在を、彼女は欲していたから。
「なら――」
紗夜は鋭い視線をもって問い質す。
凪紗の願いと、沙綾の置かれている状況の打破の両方を叶える方法を。
それを実現するだけの覚悟を。
「……一つ、氷川さんにお聞きしたいことがあります」
「えっ?」
どれだけの煩悶に苛まれてもなお、立ち上がろうとする彼女に訊きたいことがある。
救いを求めるその手を伸ばしてくれた彼女にふ問いかけたい思いがある。
「――俺は、少しでも氷川さんの力になれたでしょうか」
♬
「ただいま」
商店街を抜けた先の江戸川橋駅で紗夜を見送ると、律夏は自転車を北の家路へと走らせた。
新居といいながら、最初に自分が引っ越して半年以上が経っていることをなんとなく実感しながら、玄関のドアを引いた。
「……っ、おかえり」
暗い部屋の奥から、細く掠れた声が流れ聞こえた。凪紗のものだろう。
律夏は咄嗟に、彼女たちの間に何かがあったことを悟った。
「電気、つけるぞ」
「……ん」
ばち、と音を立てて、電球色の温もりが部屋を包み照らした。それに晒されて、制服のままの凪紗の赤く腫れた涙目が視界に映る。
それに対して、何も言えることはなかった。
「風呂、予約してるはずだから。先に入ってこいよ。その間に晩飯の準備しとく」
「わかった」
何でもないように振舞って、しかし鼻をすする声を漏らしながら、寝間着を取りに部屋へ戻っていった凪紗。
その背を見送りながら、手早く食事の準備に取り掛かる。
作り置きしておいた鶏肉の炒め物を温めつつ、余った野菜とコンソメを鍋に放り込んでいく。もはや慣れてしまったレシピの一つだ。
しかしながら、どうしても律夏はその手際が粗雑になりつつあるのを無視できなかった。
「くそ……」
ざくざくと音を立てて野菜を切っていく包丁の手が止まる。切れ味が悪いわけではないけれど、切りにくい。
『同じ事情を抱える者同士、きっと通じるものがあるはずだよ』
沙綾にその言葉を投げかけた時点で、覚悟はしていたはずなのだ――山吹家の内情に踏み込み、関わる覚悟を。
そもそも、体調を崩した
それなら、何を間違えたからこの
凪紗はなぜ泣いていたのか。
短い息を吐いて、宙を仰ぐ。
照明の暖色はどこか血の通っていない無機質さで、否応なく現実を突き付けるように眩く尖っていた。
「上がったよ」
一通りの料理を作り終わり、それらを盛り付けた皿や食器を並べようとしていたとき、凪紗が扉から姿を覗かせた。
まだ目の腫れが治まっていないところを見ると、しばらく泣いていたのかもしれない。
「おう。それじゃ座っててくれ」
手前側のいつもの席に促すと、凪紗はこくりと頷いてダイニングチェアに腰掛けた。
彼女の体格もあるが、大きめで暗い色の椅子に体を収めるその姿が、いつもより小さく見える。
「お茶、あったかいのと冷たいのと」
「あったかいの」
「了解」
ここのところ暖かな日が続くが、ひょっとしたらと思って訊けば、その通りの答えが返ってきた。
気持ちが落ち着くのならば、それもよい。
電気ケトルのスイッチを入れて、こぽ、こぽと音を立てる様子に無言で目を向けていたら、凪紗の方から口を開いた。
「……沙綾から聞いた。兄さんのやろうとしてたこと、大体分かったよ」
「そう、か」
当初律夏が考えていた通りに事は運んだようだ。
一か月ほど前の出来事で、律夏は山吹家の内情を知った。おそらくそれが外に漏らしてよい情報でないことも理解していた。
その対象に凪紗をも含んでいる以上は、一切の解決を彼女に委ねることが唯一の方法であり、結果的にそれが凪紗の成長にも繋がると考えていた。
クライブでの会話で確信を得た律夏は、そのきっかけとして、
「でも、ダメだった」
「……そうか」
凪紗は、自分の動きを沙綾との会話で読み取って、問い――考えるまでもなく、
そして、沙綾に迫ったのだろう。
それでも、ダメだった。
「打ち明けてくれるかなって、たとえ虚勢でも『大丈夫だよ』って言ってくれるかなって、思ってた。沙綾の思いが分かるだけで十分だったのに」
掴んだはずの手が離れていったことを、凪紗は克明に語った――二人の間にあった温もりが霧消する瞬間を、その恐怖と戦いながら――。
思いが通じ合うということを、皮肉にもあのライブで信じることができた凪紗は、それが単なる夢だったのではないかと恐怖し始めているのだろう。
スープから立つ湯気は、しかし凪紗の表情を隠すのに至らなかった。
「……すまん、勝手に動いた俺のせいだった」
「謝らないでよ。私もそれに乗っかったのは事実だし」
気丈にもこちらを気遣う姿勢を見せた凪紗。普段を含めて珍しいといえばそうだった。
「だけど、それでも気になるの。……なんで、言ってくれなかったんだろうって」
「……」
これには二の句が継げなかった。その通りだったからだ。
不信感を与えないために、あの時点で初対面だった沙綾の家庭事情を言い当てることをしなかったのは彼女にも理解してもらえるだろう。
しかし、凪紗に対してはどうか。
「沙綾のお母さんがうちと
「……その通りだな」
――思い返せ。先に動いたのは俺の方だろう。
律夏はそう応えると、内心で反射的にそう叱咤した。
山吹家のことを知って、千紘のことを知って、沙綾の表情を目の当たりにして会話を交わして、それでも凪紗にその事実や自分の考えを伝えることはしなかった。
それはなぜか。
時を同じくして、凪紗も視線でそう問いかけている。
「俺の覚悟が足りなかったからだ。踏み込んだときに覚悟していたはずなのに――妹の交友関係に干渉するとか、自立のためだとか理由をつけて、本当は俺が一番恐れていた」
一息にそう言って、律夏は瞑目した。
自分でもここまで拗れて、捻くれていると呆れてしまう。あれだけ方策を練り、思考を積み重ねた末にこのザマである。
結局、紡いだ言葉は虚栄の塊であった。上辺だけを衒って、臆病な本心を取り繕って覆い隠すだけに過ぎなかったのだ。
「恐れていたって……何を?」
「俺じゃ役不足かもしれないって……凪紗の思う通りに動いたほうが、結果的にうまくいくと思ってた」
たくましく、諦めることなく努力を重ねる紗夜を見て、自分の対照的な立場を、律夏は理解していた。
否、理解したかったのかもしれない。紗夜のように強くなく、また特殊な立場にある自分が、今のままで許される理由が欲しかったから。
努力したことが意味を成すなんて、大概は幻想だろう。それでも、紗夜になら可能かもしれない。そうあってほしい。
自分では叶わなかった夢の続きを、紗夜や凪紗が見せてくれるかもしれない。そう信じていたのだろう。
「傍で見ているだけに慣れてしまってたんだな」
導出した結論を噛み締めて、律夏は苦々しさをその表情に浮かべた。
改めて謝ろうと、凪紗の座るダイニングの方を振り返ると、その先に彼女の姿はなかった。
「凪紗? ――っ」
咄嗟に湧き出した奇妙さに反応する間もなく、凪紗はいつの間にか至近距離まで身を移し、律夏の想像とはまったくかけ離れた色を顔に浮かべていた。
「そんなこと、ないよ」
「え……」
「そんなこと、ない。私だけじゃ、香澄たちと――沙綾と出会えなかった! お父さんのギターにも、SPACEにも!」
答えを失った律夏に、凪紗は思いを溢れさせていく。
「ここに初めて引っ越してきたときに言ってくれたこと、覚えてる。勉強だけじゃない、嫌われないようにただ過ごしているだけじゃない――私が本当にしたいことを見つけるために、兄さんはたくさん手助けしてくれた。支えてくれた――っ!」
ああ、情けない。
ここまで妹に言わせてしまっている――どこかに置き忘れてきた自信と、代わりに拾ってきた臆病さのせいで。
決めたはずなのだ。彼女が夢を見つけ、それを叶えられるようにすることを。
「私を、救ってくれた!」
その言葉、その威力は、律夏の錆びついた心を再び動かすのに十分な熱量を持っていた。灼かれるような思いは気恥ずかしさを含んでいたかもしれないが、それよりも、かつて手にしていた熱情を確かに呼び起こした。
ここまで来て、中途半端ではいられないのだ。
覚悟を決めろ。
そう、心に強く命じた。
「ありがとう」
そう言って、凪紗の頭に掌を遣った。
「……うん」
右に束ねた彼女の深く青い髪が揺れる。どこか満足げに律夏の手の動きを受け入れつつ、恩愛に満ちる微笑が浮かべていた。
「……改めて、悪かった。今度からは、考えていることを全部言うようにするよ」
「うん、許す。……っていうか、私もごめん。いろいろと考えてくれてたの、気付けなかったよ」
「いや……」
凪紗の願いを果たすことは、巡って自分のためでもある。だから、謝らなくていい。
それを伝えようとして、しかし凪紗は全て分かったような表情で、「それでも」と付け加えた。
「敵わんな」
「言わなくてもわかるって、これくらい。……さ、ご飯にしよう? 泣いてお腹空いちゃった」
――本当に敵わないのは、その優しさと温かさだよ。
律夏は彼女に応じつつも、内心でしみじみとその想いを深めていた。