Girls Code×Boys Tone   作:瀬田

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#21:カワルミライ(ガールズサイド)

「……それで、ここからどうしようかな」

 

 凪紗は独り言のように零して、向かいに座っていた兄へ目を向けた。

 

 沙綾についてたくさんのことが分かったものの、そのほとんどは律夏の考えによって得られた情報だ。

 彼なりに考え、できるだけ介入しない形に──自分が行動を起こしやすいようにと仕組まれた枠組みを作り上げていたことが分かって、凪紗はその驚きを深めていたものの、同時に何も言わずに悩み続けていた彼に対して寂しさを覚えていたのだった。

 

 だから、彼の考えや思いを引き出すように言葉を紡いだのだ。

 

「まずは俺が知っていることを整理するよ」

「うん。教えて欲しい」

 

 約束通り、律夏は茶碗を置いてそう言ってくれた。言葉を耳が捉えて、湧いて出た安堵の気持ちが心を弛緩させるのが分かった。

 

「実は、入学式から少し経ったときにベーカリーに行ったんだけど。ちょうどその時に千紘(ちひろ)さん──沙綾ちゃんたちのお母さんが倒れこんでたのを見たんだ」

「えっ……大丈夫なの!?」

「もともと貧血気味らしい。病気か体質かは分からないが、一刻を争うような深刻な状態ではないって聞いた」

 

 その後、ベーカリーの臨時店員として一通りの仕事を純や沙南とこなしたことも含め、凪紗にとっては衝撃だった。

 

「それ、沙綾には?」

「口止めしてある。それが伝わると、凪紗に対する負い目みたいに感じると思って」

「確かに……沙綾なら、もしかしたら」

 

 献身的に家族を支え、ときに香澄たちの相談役となる彼女にとって、そのようなことは友人の兄に迷惑をかけたと映るかもしれない。

 多くの友達に頼られる沙綾であるからこそ、誰かを頼りすぎたり誰かに負担をかけることを嫌うように思える。

 自分と同じく、家族の事情を知られることを考えれば尚更だ。

 

「沙綾ちゃんがベーカリーや家のことを積極的に手伝うのは、ただ長姉として面倒見がいいだけじゃない。そのあたりの事情があるからじゃないか」

「クライブの後に話してたのは、こういうことだったんだ?」

 

 律夏は首肯して、湯呑を傾ける。

 彼が沙綾に言った『同じ事情』というのは、このことだろう。とすれば、ベーカリーでの出来事と、あの会話で沙綾の考えの大枠を掴んだということになる。

 

 推理力とでもいうべきか、何らかの勘が冴え過ぎているという他ない。それだけに、抱える思いもあった。

 

「……今度からは、絶対教えてよね」

「ああ。……すまん」

「ご、ごめん。私も言い方悪かったかも」

 

 存外に落ち込んでいる律夏が珍しいので慌てる。

 実際のところは、彼も十分に考えたうえで、敢えて()()()()ことを決めたのだろうと思う。理由はどうあれ、なんでも教え込んでしまうことは自立性の面でも危うさを感じずにはいられない。

 それくらいのことは凪紗も気付いていた。

 

 滞留した気まずさを振り払うように、白米を掻き込んで嚥下する。勢いがよすぎてむせてしまったが、気にしない。

 

「けほっ.まあ、それは置いておいて……他に知ってることはある?」

「ああ。一つ確認しておきたいんだが……今組んでいるバンドには、沙綾ちゃんを引き入れるつもりなのか?」

「えっ?」

 

 唐突に話を切り出した律夏の言ったことを理解するのに、少し時間がかかった。

 バンドではそのような話は出ていないとなんとか返すと、彼がそばに置いてあった携帯から何やら探して、その画面を見せてきた。

 

「今日の放課後、花女で文化祭の打ち合わせをしていて、これを見つけたんだ」

「なに、これ?」

 

 鮮やかな配色で彩られ、その中央でとてつもない存在感を放つ星が位置する紙が壁際に貼られている。窓から見えている日暮れ際の景色は確かに花女のものだ。

 律夏がそれを拡大していくとともに、そこに書かれた文字が見えてくる。

 

「『初ライブ頑張ります!! ぜひ観に来てね』……って、しかも私たちの名前まで?」

「知らないのか?」

「うん」

 

 思わず大きく頷いてしまうが、よく考えなくともそれが自分たちのライブを知らせるチラシだと分かる。

 そして、律夏がスワイプした先──星の頂点と中心に書かれたメンバーの名前に、沙綾のものがあったことに気が付いた。

 

「さっき聞いたのはこれを見て、ってことかー……」

「凪紗が知らないということは、これを貼ったのは他のメンバーってことで、しかもそれは……」

「うん。間違いなくヤツだ」

 

 律夏にもヤツ、というのが誰を指しているのかがなんとなく伝わったようだ。企画書そっちのけで、まず手につくことから仕上げてしまったあの子(香澄)のことだろう。

 

「相変わらずすごい行動力だな……それにしても、なんで他のメンバーは気付かなかったんだ?」

「たぶん、今日家に戻って貼ったんだと思う。何か用事があるって言って、先に帰っちゃったから」

「なるほど……」

 

 ううむ、と絵に描いたように唸る律夏。

 連絡先を聞いてはライブのことを喧伝して回っていることも含め、そのエネルギーはどこからやってくるのだろう。

 

「ともかく、香澄ちゃんは沙綾ちゃんをバンドに引き入れたいと思ってるってことだよな。凪紗はどうなんだ?」

「私? うーん……すぐには分からないけど……」

 

 りみといい、有咲といい、たえといい、偶然に出会ってから次々にバンドに加入したのは、香澄とともにあの()()()()を経験したSPACEのライブ以来だ。

 沙綾と初めて出会ったのは、香澄と出会ったのと同じタイミングだから、すっかり忘れていたのだろう。

 もしかしたら、沙綾が自然にそういう流れにしようとしていたのかもしれない。

 

「……でも、入学してからずっと一緒にいて、相談に乗ってもらっているうちに、沙綾がいるのが当たり前になっていたのは確かなんだ」

 

 今ではそれを疑いもしないほどに、沙綾と仲良くなれたと思っている。あの頃と比べて、知っていることはたくさん増えた。

 ──それでも、知らないこともあった。

 

「……そうだね」

 

 凪紗は小さく呟いて、その思いを再度、噛み締めた。不思議そうな顔をした律夏にその瞳を向けて、口を開く。

 

「私、ずっと本当の友達が欲しかった。誰にでも裏表があるのは分かってる。それでも、大好きなところも嫌なところも隠さないで、思ってることも全部伝えられるような、そんな友達が」

「……」

「もし、バンドをやることで、香澄やみんなみたいに──音楽のキラキラとドキドキを通して、もっとお互いを知って、仲良くなれるなら、私は沙綾がバンドに入ってほしい!」

 

 心から、絞り出すように──叫ぶような物言いは、たとえ情けなく求めるだけの所信表明だったとしても、律夏はそれを黙って聞いてくれていた。

 背筋が伸びるくらいの真摯な眼差しが嬉しくて、頼もしくて、誇らしくて思わず泣きそうになった。

 

「……よし、それなら、やろう。今度こそ、間違えないように」

「うんっ」

 

 ──ありがとう、兄さん。

 

 言葉を届けるのは、全てが終わってからにしようと思った。今は言う必要もないくらい、きっとこの気持ちが伝わっていることを確信していたから。

 未来が変わっていくその瞬間を、鼓動が教えてくれていた。

 

 

     ♬

 

 

『本格的に行動を起こすとして──凪紗、一つだけ、絶対にしないといけないことがある』

『? ──あっ』

 

 沙綾との間に残した(わだかま)りを解消し、彼女をバンドに加入させる。そのための協力を律夏と確かめ合って、一通りの家事を済ませた後、再び彼は言った。

 素朴な疑問から首を傾げかけて、それが凪紗にはすぐに判った。

 

『……もしかしなくても、お父さんとお母さんのこと、だよね』

『ああ。沙綾ちゃんがその事情を知っている以上は、確実に』

 

 元々、その情報を引き換えに沙綾を動かしたのだから、当然だ。事情を知る彼女をバンドメンバーとして迎える以上、香澄や有咲たちにもこのことを告白しなければなるまい。

 

『俺が勝手に動いてこうなっていることは理解しているつもりだ。すまん』

『ううん。どっちにしたって、いつかは言わないといけないことだったから』

 

 いつか、まだ、と散々引き延ばして、今まで誰にも言ったことはなかった。

 自分の中ですら整理がついていない父の死、そして今も心を引き摺っている母の病状について打ち明けることは、凪紗をひるませ、その決意を揺るがせるのに十分だった。

 

 香澄は、みんなは、どう思うだろうか。驚きや悲しみにその表情を歪めるかもしれない。ひとたび泣いてしまえば、同じように泣かせてしまうかもしれない。

 心配や迷惑を掛けたくない──同じ立場に立って、沙綾の気持ちが痛いほどに理解できる──だけど、それでも、と思う気持ちもある。

 

『.厳しいようなら、俺が』

『ううん。言うよ。私が言わなきゃ、意味がないんだ』

 

 震える掌をもう片方で押さえる。沙綾もこの苦しみに耐えてきたのだから、自分が乗り越えられなくてどうする。

 律夏はそんな自分をじっと見つめていた。この葛藤が、きっと彼には伝わっている。

 

『──それなら、こういうのはどうだ』

 

 顔を上げると、彼は一つの提案をした。

 それを聞いて、思わず笑みが零れてしまう。

 

『ふふっ……過保護すぎるよ』

『でも、それなら言えるだろ』

 

 本当にずるいなぁ、と思いつつ、凪紗は頷いた。

 

     ☆

 

 文化祭は梅雨入り前の六月初週の土曜に行われる、というのが伝統らしい。それに続いて羽丘、学期明けに志哲の順に行われるという話を、学級委員の集会で生徒会長の鰐部七菜から聞いたことを思い出す。

 

 夏の到来を感じさせる日差しが、厚手の制服に籠る熱を増幅して不快になることが多いこの季節だが、今日はどこかうすら寒さを感じさせるくらいだった。

 

 ──緊張しているんだな、私.

 

 一年前までと比べれば信じられない心の変化だ。友達のことで一喜一憂して、挙句の果てには(心配性の)兄を巻き込んでしまうなんて、想像もしていなかった。

 それほどまでに、自分にとって()()()()の存在が大きくなっていたことを、凪紗は感慨深くも認めていたのだった。

 

「あっ、凪紗ーっ!」

 

 すっかり葉の緑に染まってしまった桜並木を抜けるころ、歩いてきた坂道の入口から自分の名を呼ぶ声が聞こえて振り向く。

 視界に入ったときには、すでに彼女は空中に。

 

「おっはよーっ!」

「うわあぁあぁ!?」

 

 身長差というのは理不尽なもので、どう動いたところで自分を影で覆った彼女を回避することはできそうにない。

 ゆえに抱きとめるときには腰を入れて──

 

「ぐぉおお……」

「? すっごい声出してるけど.どうしたの?」

「体重掛けすぎだ、バカ!」

 

 突進によって勢いづいた彼女を抱えて後ろに倒れないようにすることは、つまり不可能なのだ。

 それでもアスファルトに後頭部をぶつけることがなかったのは、必死の抵抗と言わんばかりの踏ん張りと、追いついてきた有咲が香澄の後ろ襟を引っ張ってくれたからである。

 

「し、死ぬかと」

「あはは、ごめんごめん」

「はあっ、はあっ……ったく、朝っぱらから殺人現場に遭遇したくねえっての。しかも母校で」

 

 命の恩人は息を切らしながらも自分を救ってくれたらしい。

 実際のところ、香澄との身長差はさほどあるわけでもなく、もちろん体重差もほとんどない(おかしいことに)ので、ただ凪紗は朝から猛烈な抱擁と温もりを得ただけだった。

 

「今朝も有咲と一緒だったんだね?」

「うんっ。聞いてよー、有咲が今朝『文化祭の準備は出席単位とは関係ないから』とか言って休もうとしててさー」

「ええ……」

 

 微妙な目線を向けた先で、有咲はそっぽを向いている。

 

「練習には行くって言ってるだろ。私いなくてもクラスの出し物とかできるし。そもそも何やるか知らないし」

「文化祭興味ないの!? 信じらんない!」

「う、うるせー! 大体、準備とかめんどくせーだろ」

 

 有咲が視線を向ける先では、多くの生徒が入場門のアーチの製作に取り掛かっている。確かに地道な仕事であるし、少し前の自分なら主に関わる人間という点で面倒に感じていたことの一つだ。

 

「まあ、分からなくはないけど……」

「ええっ!? 凪紗も!?」

 

 驚愕する香澄に「ほれ見ろ」と返す有咲だが、一緒にされたくはない。

 

「そんなことより、香澄に確認しておきたいことがあるの。準備が始まる前に」

「えっ?」

 

 きょとんとして頭上の疑問符を浮かべる香澄と有咲に、凪紗は似つかわしくないくらいの真面目な目で問いかけた。

 

 

     ♬

 

 

「これのことなんだけど」

 

 一年生廊下に貼られた一枚のチラシを指さして、凪紗は訊いた。

 

 鞄を置きに先に教室に入ると、未だに沙綾の姿はなく、少しだけほっとしてしまった。しかしながら、今日には話をしなければならないから、その覚悟に力が入るのが分かった。

 ついでに引き連れて廊下に出たりみとたえは、有咲と同じようにぽかんとそれを見上げていた。

 

「りみりんの描いた絵、可愛いでしょ〜? あっ、あとバンド名は有咲が考えたんだよ!」

「あっ、ほんとだ。可愛い……って、そうじゃなくて」

 

 彼女の言う通り、上部の香澄の絵を始めとして、デザインを手掛けたであろうりみが紙で口元を隠して照れている。有咲も同様に、赤ら顔で視線を逸らしていた。

 Poppin' Partyというバンド名はなかなかにセンスを感じるし、自分も好むところなのだが、まず確認したいのはそこではない。

 

「ここだよ。この名前のとこ」

 

 凪紗が背伸びをして指をさした名前──沙綾の名に、全員の耳目が集まった。

 

「沙綾? 沙綾もバンドメンバーに誘ったの?」

「おい、それ聞いてねーぞ」

 

 事情を知らないたえのぽかんとした表情と、じとっとした有紗の目線が突き刺さって、しかし香澄はきょとんとした顔を保っていた。

 

「あれ、言ってなかったっけ?」

「少なくとも私には言ってねーし、この感じだと凪紗も花園さんも知らないみたいだぞ」

「か、香澄ちゃん、私も知らない.かも」

「りみ、これ()いたんじゃなかったの?」

「えっと.私が()いてた時にはまだ名前を載せてなくて」

 

 たえの鋭い質問によれば、りみはメンバーの名前を書き入れたわけではないらしい。となれば、星形の頂点に沙綾の名前を書き加えた犯人はもちろん彼女だろう。

 ぐるり、四人からの訝しげな視線が再度香澄へと向けられる。

 

「……えへへ」

「なに照れてんだよ!」

 

 後ろ髪に手を当ててはにかむ香澄は、まるで舌でも出して「てへっ」とやりそうな勢いだった。

 即刻、猛烈なツッコミをかます有咲と凪紗は同意見だったが、それではこの場の収拾がつけられないと考え直し、「こほん」と一つ、咳払いをして全員の注意を引き付けた。

 

「香澄、ひとつ確認したいんだけど、それって沙綾に確認したことなの?」

「え? まだだけど.沙綾なら、入ってくれるかなって」

「悪びれもせずによく言えるな……」

 

 長い溜息をつく有咲は朝から疲労が積み重なっているようだ。彼女への労いはひとまず措くとして、凪紗は、昨晩律夏と話したことを思い返す。

 この際沙綾をメンバーに加えることについての賛否は問わなくてもよい。というより、自分自身彼女にバンド(Poppin’ Party)へ入ってほしいと思っているのだ。

 

 それよりも、今優先すべきはそのための方策──要は沙綾への対応だろう。

 

「沙綾はまだ来てないよね?」

「え? う、うん。沙綾ちゃんの席、何もなかったから」

「そっか。それなら一旦このポスターを剥がそう」

「ええ!? せっかく作ったのに!?」

「メンバーに沙綾の名前を入れている以上はね。先に沙綾に確認を取らないといけないし、もしだめだったら嘘を書いてることになっちゃうから」

「沙綾、入ってくれないのかなぁ」

 

 先ほどから核心を突いた言葉の多いたえだが、凪紗にとっては好都合だった──言わずもがな、彼女の抱えている事情を説明できるチャンスだからだ。

 

「そのことなんだけど──」

「あ、あの!」

 

 言いだそうとして横槍が入る。何事かと話しかけられた方へ視線を向けると、そこには一人の少女が立っていた。その表情は何を伝えているのだろうか──、期待からくる高揚感と、不安の色を織り交ぜたような、とにかく印象的なものだった。

 

 

     ♬

 

 

 前髪をアップさせて額の上でまとめた髪型は、確かポンパドールと言ったか。何にせよ、明るい性格が伝わってくる彼女は、海野夏希というらしい。

 ライブを告知するポスターを見て話しかけたということで、これが沙綾でなくてよかったと、凪紗はひとり安堵していた。

 

「って、市ヶ谷さん?」

「え……!?」

「ちょっと意外。市ヶ谷さん、バンドやるんだ?」

「え、いや、その……成り行きで」

 

 キョドりがちな有咲に苦笑する。おそらくクラスメイトなのだろうが、彼女がB組でうまくやっているのか、個人的にはとても気になるところだ──不安、という意味で。

 

「私もバンドやるんだ。だから、このポスターを見て気になっちゃって。みんな、どの楽器(パート)なの?」

「はいっ! 私──あっ、戸山香澄はギター!」

「なぜに三人称……私も。若葉凪紗です」

「花園たえ。二人と違ってボーカルじゃないけど、私もギター」

「え、えっと。牛込りみ、ベース担当ですっ」

「……市ヶ谷です。楽器はキーボード」

「なるほど。だから、沙綾を選んだんだね」

「え?」

 

 五人そろって呆けた表情を向けると、夏希にもそれが伝わるようだった。彼女が言ったことが一瞬理解できず、凪紗は問い直す。

 

「沙綾を選んだって……えっと、沙綾のことを知ってるの?」

「え? あ、うん。……中学の時に、一緒にバンドを組んでたんだ。私がギターボーカルで、沙綾がドラム。──だから、てっきりそれであの子をバンドに誘ったんだと思ったんだけど」

「.っ」

 

 凪紗の背に、冷たいものが流れ落ちるようだった。

 

「さーやがドラム?」

「.やっぱり戸山さんたちには話してなかったんだね」

 

 凪紗を除いたバンドメンバーの困惑は深まるばかりだったが、それを説明するだけの心の余裕がなかった。

 過去にバンドを組んでいた、ということは、今は組んでいないということでもある。疑うまでもなく理由があって、それは律夏が語ったものと一致している。

 

 だとすれば、沙綾をバンドへ加入させるのは至難の業だ。

 

「……凪紗?」

 

 今、この思考は香澄たちのものよりも先へと進んでいる。それだけに、たえがひとり深刻な表情を浮かべる自分へ不思議そうに訊いてきたのも無理もない。

 考えなければならない。するべきことはなにか、伝えるべきことはなにか──

 

「昨日.沙綾と少し話をしたんだ。海野さんが考えていること、多分分かる」

「ほ、本当!?」

 

 思いのほか、強い反応を見せる夏希にりみが飛び上がるように驚いた。

 

「あ、ご、ごめん。……昔のこと、沙綾が他の人に話しているところを見たことなくて」

「……? 昔のこと?」

 

 お互いに主要な言葉を口にすることを避けているので、首を傾げる香澄の困惑はもっともだ。凪紗としては、そのあたりの事情を話すのは一度夏希の許可を得てからの方がいいだろうと考えられたが、それを視線で伝えると、彼女は何も言わずに頷くだけだった。

 

「…….全部、分かりやすく説明するよ。沙綾の話も、私の話も」

「?」

 

 きっと、これから口にすることを予想できる者はいないのだろう──だからこそ怖い。どれだけの戸惑いを与えてしまうか、どれだけの哀情に心を染めてしまうかが分からないからだ。

 不器用に紡いだ言葉が、正しく交わし合えるとは限らない。間違うことへの怯えが、沙綾のあの瞳を見て生まれてしまった。

 

 ──だけど、今は一人じゃない。

 

 祈るような思念はただ、あの子の手を取るためにあった。歩き始めた自分たちの隣に、あの子がいてくれたら──そう祈っていたのだ。

 勇気をくれる人がいる。隣に立ってくれる人がいる。それが支柱となり、凪紗の決意を揺るぎないものにした。

 

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