「……と、いうわけで」
花女文化祭の最終確認を含め、生徒会の仕事を終えてもまだ日は高かった。印刷した教師用の日程表を数部、ホチキス留めし終えた律夏は、こぢんまりとした窓辺からそれを認めたのだった。
風には確かな温度が宿っていて、季節が動き出すその瞬間を教えるようだった。
「これでひと段落かぁ。……めっちゃ疲れた」
「まあまあ。
「そうですね。今回は特に大規模になりましたから──改めて、いろいろと助けて頂き、ありがとうございました」
「ふふっ、お互い様だし、まだ本番も始まってないよ~」
生徒会にはいつも以上に和やかな雰囲気が漂っていた。その原因の一端を、律夏は知っている。
「氷川さん、少し丸くなったというか、優しくなったよね」
「そうか?」
机上でくたびれていたはずの恵が、気付けば背後に回って声を忍ばせて尋ねてきた。
彼女が変わったのは間違いない。それが生徒会室の平均気温を上昇させるように作用していることにも疑いようがないが、
「そうだよ。……まあ、仕事では厳しいのかもしれないけど」
「ああ。だからそれが信じられなかった」
ひそひそと話を続けていると、何やらもの言いたげな目を向けられていることに気付く。
「何を話していているのですか」
「ヒェッ……何もないでしゅよ.ねえ、若葉?」
「……そうだな」
「あやしー」
言い逃れのための弁明を行おうとも考えたが、この際それは恵に任せるべきだろう。律夏はおもむろに、通学鞄とその隣の紙袋をまとめて立ち上がった。
「って、もう帰るの?」
「ええ。少し、やらないといけないことが」
ひかりの双眸を捉えて短く答える。何が伝わったのか、それともこちらが分かりやすいのか、彼女は「なるほどね」と訳知り顔を浮かべていた。
「なるほど、ってどういうことですか?」
「分かんないのー? 若葉くんがこの真剣な顔するときは、大体妹ちゃんが絡んでるに決まってるでしょ」
にやにや、というよりはニタニタが正しいかもしれない。そんな表情を自分に向けていたひかりの弁は、悔しいながらも当たっているので言い返せない。
うぐ、と声が漏れそうになるのをすんでのところで堪えて、しかし何と答えればよいか、思考を彷徨わせている自分を彼女は例の意地悪い瞳に映していた。
「え、そうなの若葉?」
「はぁ……上原さん、その辺りにしてください。あまりプライベートを詮索するような会話は不適切です」
「えー。紗夜ちゃんも気にならない?」
「それを聞き出したとして、得られるものなどないでしょう」
「若葉くんの面白胸キュンエピソード」
「……まだこちらの生徒会長との確認事項が残っています。行きますよ」
「わ、分かった! 分かりましたから引きずらないで!」
断じて面白胸キュンエピソードなどを持ち合わせていないし、作る予定もない。紗夜はそれを聞いて若干硬直していたようだが、まさか興味があるとでもいうのか。
ともあれ、厄介な追及をかけたひかりを追い出すことに一役買った紗夜は、喚くひかりの襟首を勢いよく引っ張り上げながら生徒会室を出ていくようだ。
「……結果、後で聞かせてください」
すれ違いざま、二人だけにしか聞こえない声が、律夏の耳に残っていた。
「えーっと、若葉」
「まあそういうわけだから、戸締りは頼む」
「どういうわけなのかさっぱりだけど……今度、僕にも聞かせてよ」
「ああ、全部終わったら話すよ」
恵に頷いたところで、ポケットの震えに気付く──アンロックしたところ、それは凪紗からの連絡を知らせるものだった。
その内容を頭に入れ、今後のことを組み立てながら紗夜たちの去った戸へと手を掛ける。
「──頑張って」
「おう」
言葉を背に受け、それにしっかりと応じると、何故か勇気をもらった気がした。
♬
「こんにちは」
「おお、若葉くんか。いらっしゃい」
うぐいす色のエプロンは、日々の業務に鍛えられた亘史──沙綾たちの父親だ──の恰幅の良さを際立たせていた。
商店街の賑わいに反して、ベーカリーに入ると客の姿はなく、彼だけが出迎える。きょろきょろと店内を見渡すと、その理由の一端が分かった気がした。
「ごめんな。ついさっき常連さんの女の子が大量にパンを買って行ってしまったものだから」
「いえ。確かに頂こうかなとは思っていたんですが、今日はそれ以外にも少しお話したいことがありまして」
「話……かい?」
亘史が不思議そうに首を傾げたのも、無理はないと頬が緩んだ。
「今日、凪紗たちがこちらに伺うかと思います。そのことで」
「ああ、文化祭のことだね。小さいパンとか、新しい種類のパンの試作と、エプロンの採寸をする予定だよ」
「はい。どうも妹が無理なお願いをしたようで、すみません」
軽く頭を下げると、亘史は笑い出した。
「いやいや、全く問題ないよ。近隣の学校に協力するのも商店街じゃ珍しくないからね。斜め向かいの北沢さんのところもそうだったから」
「そうなんですね」
これには少し驚いた。恵の実家──北沢精肉店の協力も得られるというのは、秋に文化祭を控える志哲高校としても心強い。昨年の文化祭の出展情報をあとで確認しておこうと心に留める。──自分もすっかり社畜根性が根付いてしまったものだ。
とはいえ、本題はそこではない。律夏は努めて姿勢を正して、亘史へと向き直った。
「……どうしたんだい? そんな改まった顔をして」
「もう一つ、大切なお話をさせて頂きたいんです。凪紗と、沙綾ちゃんに関わることで」
「沙綾に?」
「ええ」
小さな頷きの間、頭の中で、これまでの凪紗との対話が逡巡していく。
凪紗の思い、凪紗たちの夢を、絆を──それを受け止めた自分が、どこまで支えてやれるのか。憂いに反して、胸中には確かな焔が宿っているようだった。
すべては、約束を守るために。
「──沙綾ちゃんは、過去に音楽をやっていたんですか?」
♬
僅かな沈黙が支配した二人の空間で、亘史の眼が鋭く細められるのが判った。
『どうして、その話を?』
そう訊いてきた彼の視線は、射竦めるような、と形容して申し分ないほどのものだった。──まあ、当然だろうな、とも心中で呟く。
きっと沙綾はこの話を外で──それも、自身の心の外で──漏らすことを望まないどころか、忌避するだろう。
市ヶ谷家での一件は、ほとんど同じ立場にある自分にしか感じ取れないような形で、そのような沙綾の煩悶が零れ出たものだったと考えてよい。
それだけに、自分が沙綾の──拡大解釈すれば山吹家の──事情について、何か不当な方法で知り得たと亘史には捉えられているのだろう。
『それについてもお話しさせて頂きたいです。ただ、話が長くなりそうなので』
『……分かった。店はもう閉めてしまうから、奥で話そう』
疑いの色を残したまま瞑目して、亘史はリビングの方を指差した。
それがようやく訪れた最後のチャンスだと悟って、握る掌に力を籠めていた。
☆
「それで、聞かせてもらおうか」
コーヒーを淹れたマグカップを自分に手渡した亘史は、どかっと椅子に腰掛けた。
「ありがとうございます」
一口啜ると、舌下に深いコクを刻む。律夏はそれが、ベーカリー特製のものなのか、自分に対する不信故のものなのかが気にかかったが、最早些細なことと隅に追いやった。
「……沙綾ちゃんと初めて会ったのが、先日凪紗たちがお友だちのお宅をお借りして開いた演奏会だったんです。そのときに見せた表情が、どうも気になって。少し話をさせてもらいました」
「まさか、あの子が話したっていうのか?」
「いえ……」
驚嘆ぶりは、やはり沙綾の秘める思いの強さを感じさせる。亘史はもう、触れられないのだ。
そして、彼は歯切れの悪い言葉に訝しんだようだった。大方、具体的な会話もなしにどのように聞き出したのかを問うている。
やはり、ここで話しておかなければならないようだ。
「沙綾ちゃんが見せた表情、というのが、自分にも理解できたんです。誰かの大切なものを守ろうとするあまり、自分の心の中にある想いが、色褪せていくことに気がつかない」
やや婉曲的な表現は、きっと他人に届けるには向かない。──だが、こちらに惹き付けられることを、律夏は知っていた。
「千紘さん──沙綾ちゃんたちのお母さんのご病気のことは知っています。だから、沙綾ちゃんのあの表情は、お母さんを──家族を支えたくて、そのために自分の気持ちに目を瞑って、それでも音楽を諦めきれない、辛さの表れだったんじゃないかと、そう推測しました」
凪紗たちの見せた演奏──その背後にあった夢と絆の眩しさ、そしてそのステージに立てるはずだった自分を隔絶させる大きな距離。
まさに、沙綾にとってそれは遠い音楽だったのだろう。
脈打つ鼓動を鎮めることの難しさも、切なさも、律夏の同感できるところであった。
「ずっと知らないふりをして、だけど内心では押さえつけてきたのではないでしょうか」
「……」
沈黙の肯定ののち、亘史は俯いた。顔は見えないが、やるせなさを湛えていることなど、言うまでもなかった。
しかし、一旦それを受け止めきると、今度は反対に、彼から尋ねてきた。
「だが、それは推測でなく想像に過ぎないだろう。そう考えた根拠は何故だい?」
「俺も──俺と凪紗も、同じような境遇にあるからです」
「同じような?」
「ええ。一年前に父を亡くし、それからずっと、母が入院をしているんです」
亘史の双眸が、次第に見開かれていく。それが不信の誤解を氷解させるものと信じ、矢継ぎ早に語っていく。
「俺は転居に際して、志哲へ転入しました。大学進学を見据えた学費と、家計のために部活を辞めて、今はアルバイトをしているんです」
そのことに後悔などはしていない、と付け加える。
「妹はこの春から花咲川へ通うことになっていましたから──それを保証するための、出来る限りの選択だったと思っています」
事実、危機的ともいえる状況下で動けるのは自分しかないという自負があった。既に進路を決めていた凪紗に合わせる形で可能な生活を実現する──それが、兄としてできる最良の決断だった。
「それでも──好きだったのものを断ち切るときの痛みは、残り続けるものですから。沙綾ちゃんの心情は、理解できる」
情けないことに、未練がましい自分がいる。
夢の中であの水中の世界に体を潜らせる感覚に溺れることもあれば、ふと目にした浜辺の風景画に心が躍ることもある。
つまりは諦めきれないのだ。覆りようのない結論が、どこかで覆ることを祈ってしまう。
蔵で、そんな想いを湛えた瞳を見た瞬間、渦巻く情熱との葛藤を汲み取った瞬間、苟も、沙綾の代弁者たる資格を持ち合わせていると思ってしまった。
このような表情をさせてはならないと決意してしまった。
「ここまでのお話は、すべて一つのお願いをするためです。──沙綾ちゃんを、凪紗たちのバンド活動に加えさせて欲しい。そのためのお手伝いを、させて頂けないでしょうか」
溢れる感情の発露として、勢いよく、律夏は平伏するように頭を下げたのだった。
「君は……」
呆然を精悍な顔立ちに留めた亘史の目線が固定されていた。
律夏はゆっくりと顔を上げて、そこに先程のような疑念が認められないと結論づけた──正確には、その残滓のようなものがわずかに滞留していたのだが。
その解消は、彼女たちに任せるとしよう。
「──こんにちは!」
覚悟や決意の裏返しともとれるような、潑剌とした声が、凛と響いた。
♬
「……あ、兄さん」
「おう」
買い物帰りだったのだろうか、短い応答とともに一瞥した凪紗の隣には千紘、つまり沙綾の母親の姿もあった。
「あら、いらっしゃい律夏くん」と自分に向けられた声色とその目元には、仄暗い翳りを感じさせたことが、凪紗の行動による結果だということは、そのさらに後ろから店内へと足を踏み入れた香澄たち他メンバーからも分かる自明の事実だった。
「お邪魔しています。凪紗からお話をさせてもらった通り、亘史さんにも同じ話を」
わずかな会釈をして、凪紗の言が真実であることを示し、彼女と出した結論であることを強調する。
それが伝わったのか、「用意周到だね」とでも言いたげな亘史を除いて、全員の表情は俯きに影を帯びざるを得なかった。
もたらされる沈黙は発言に枷をかけるようだったが、裏を返せばこちらに注目が集まりやすいという意味でもある。
当事者はあくまで凪紗だ。律夏は彼女へ続き──決着をつけるべき本題へ踏み込むことを促した。
「兄が沙綾のお父さんにお話したのと同じように、私も香澄たちにウチの事情を教えました。沙綾をバンドに迎え入れる以上、その難しさも知っていないといけない。沙綾の抱えている苦しみを知ろうとしなければいけないからです」
「ああ。律夏君からは、まさにそのとおり」
「私たちの話は、まずこの問題を解決してから詳しくお話しようと思いのですが……お父さんも、香澄たちも、それでいいでしょうか」
「ああ、大丈夫だよ」
「私は──」
香澄がそこで初めて口を開こうとして、しかし言葉が見当たらないことに気づいたのだろうか、そこで止まってしまった。
「……優先順位、ってのがあるからな。文化祭、そっちのクラスは山吹さんがいないと始まらないんだろ」
「そうだね」
有咲の助言は実に冷静で、話の淀みを解消した。しかしながら、その表情は複雑なままだった。
色々な感情が綯い交ぜになっているのだろう、と律夏は推測した。出会ってまだ二ヶ月しか経っていない友人ではあるが、その胸に秘めていた壮絶とも言える体験を、なんともないように差し出されて、はいそうですかと納得できる訳もない。
どこかでこの解れを繕う機会が必要だろうが、それは今ではない──やらなければならないことが、今はある。
「目下の問題は、沙綾を引き入れるという方針についてのご両親の了承と、その手段についてです。ひとつ目について、お父さんは──」
ちらり、凪紗が彼を伺った。
「まだお返事いただいていませんでしたね」
「そう、だね……」
亘史は、千紘に何かを目線で伝えていたようだった。それが確認の意であることは見て取れたが、同意や肯定ととれるかといえば、難しそうだ。
「了承を頂くとすれば、その手段について理解してもらう必要があるんじゃないか」
割り込むようではあるが、そのように告げると、凪紗は「それもそっか」と納得顔であった。沙綾の両親も、「それを聞けるならば」という表情だ。
凪紗も決意の強さのあまりその辺りを忘れていたのだろうか。こう言っては何だが、ここ数日、彼女の人間らしい部分を覗くことが多くなった気がする。
「沙綾がメンバーになるとして、その障害はおそらく、ベーカリーや家事の負担がお母さんに向くことだと思うんです。人手が足りないだけで、何をするにしてもすごく大変ですよね」
「そうね.私も、できる限り沙綾には沙綾が楽しいと思うことをしてほしいのだけど、私が無理していては、沙綾も納得できないだろうし」
情けないのだけどね、と呟く千紘。その眼には少なからず痛みが浮かんでいる──親としての悔しさや、自分を責める思いがあるのだろう。
実際、律夏自身も母親が入院を避けられなくなったときに覚悟した以上の負担を背負うことになった。一般的な家事や、アルバイトなど当面の生活資金繰りのこともあるが、とにかく時間がないのだ。
準備がほぼ必要なかったとはいえ、受験期間の凪紗に手伝ってもらったことも珍しくなかった事実を、律夏は不本意ながら認めざるを得なかった。
「沙綾の気持ち、とてもよくわかるんです。私は、受験期から兄に家のことを任せっきりにしてしまっているから」
花女での高校生活へ、彼女の背を押し出したのは他ならぬ律夏自身だ。だから、その憂いは無用のものだといえる。親としての立場で沙綾を送り出した亘史たちも同じ思いを抱えているのだろう。
それでも、彼女たちからすればやすやすと割り切れるものではないのだ。
「兄だから、ただそれだけの理由で、私は支えてもらっています。そのことに情けなくなって、兄がすべてを投げうってまで支えるに値するものなのか、今だって、自分を疑っています。でも、そのおかげで、私は何にも変えられない経験と出会いを手に入れることができたんです」
凪紗は振り返って、香澄たちを強く見つめた。俯いた面々の視線が持ち上げられるようだった。
「凪紗……!」
「入学式の日、香澄と出会えたのも、きっと偶然じゃなかったんだと思う。兄さんが言ったこと、今なら分かる」
それから、彼女はあの日自分が伝えた言葉を繰り返した。隣に立てる存在を、そしてそれが導くものを、しっかりと見つけたらしかった。
「私は決めました。兄さんの覚悟に応えることを。そのためには、沙綾にこのバンドに──Poppin Partyに入ってほしい。私たちにはあの子が必要だって、心の底から誓えます」
亘史の躰がわずかに震え、千紘の瞳が潤んだように見えた。沙綾に対する思いが生半可なものではないと証明できただろうか。
思いをさらけ出し、覚悟をぶつけた。後は、それを可能にする方法だけだった。
「だから──兄さん、お願い。私たちに力を貸して」
「ああ」
右手が凪紗の両掌に包まれる。それを握り返すように、思いの熱量を伝えて、頷いた。
そして、決意の眼差しを振り向けるのだ。
「亘史さん、千紘さん。俺を雇ってもらえませんか」
あとになって顧みれば、それはきっと溢れる激情に駆られて、などと苦笑するのだろう。
それでも、このとき律夏は努めて平然とそう告げるのだった。
その瞬間に吹いた風は、わずかな色を帯びていたのかもしれない。