「それはダメ!」
叫びとともに、入口の扉が開く。その場のほとんどが視線を奪われるなかで、兄だけは、
「さ、さーや!」
「沙綾……」
《Poppin’ Party》の面々は一様にその名を零して、見たこともない表情を浮かべた沙綾に驚きを滲ませていた。
あの沙綾が、肩で息をするように焦るところを見たことがない。──言われてみれば、それも不思議な話だ。
いつだって、見守るようでいた彼女は、おそらく一歩退いていたのだろう。夏希が教えてくれた、過去への恐怖や後悔が、彼女をきっとそうさせていた。
一度はすれ違ってしまった彼女の抱えるものは、あのときの自分には大きすぎた。それは覚悟に足りるものではなかった、という意味で。
それでも、もう一度チャンスを掴んだ今なら──。凪紗の胸中には、確信が生まれていた。
「沙綾、この間は、何も知らないくせに訊いちゃってごめん。沙綾の気持ち、今では理解してるつもり。……それでも、これが私の答えだよ。私は、他の誰でもない、最後のメンバーに沙綾を迎えたい」
「っ……! だからって……!」
沙綾の言いたいことは、自分がよく分かっている。
──こんな身勝手が許されていいはずがないんだ。
「うん。でもそう思うんだ。だから、二人できちんと話をしたい。今度はちゃんと、分かり合いたいから」
沙綾に向けた返答は、同時に香澄たちメンバーをわずかに動揺させてしまったらしい。「お、おい」と有咲が口を挟んでいた。
「大丈夫、四人にもきちんと説明する。兄さん、お願いできる?」
「ああ」
至って短く応える律夏は頼もしい兄貴だった。お互いの意志とそれに対する信頼が融け合って、繋がっている気がした。
それを証明するように、凪紗が視線を送ると、それに彼が頷いて、おもむろに紙袋を開いていた。
「もちろん、考えもなく無理にお願いしているわけでないんです。お手伝いだからと言って実力や経験のない以上、足手まといになってはいけませんから」
中から取り出したのはパンだった。
クライブのときに用意していたサンドイッチや、新たにレシピから学びなおしたバターロールが、亘史や千紘の前に並べられていく。
「実際に仕事を始めてみないと分からないことも、当然あるかと思います。その分の学習は欠かさないつもりです」
焼き具合から成形まで、素人の凪紗からすれば完璧だといえるレベルだった。もしかすれば、兄はその方面の才能があるかもしれない。
絶句する面々を眺めながら、凪紗はそんな思いを抱えていた。
「わっ、すごい! この前よりお店のパンみたいになってる!」
「チョココロネもあるよ!」
「見て、うさぎのしっぽパン。お兄さん、食べてもいいですか?」
「いいよ。全部食べちゃうと、これから見てもらう分がなくなっちゃうけど」
沸き立つメンバーのおかげで、少しは場が明るくなったのかもしれない。事実、完成度としてはそれに足るものだろう。
苦笑していた律夏が、ふいにこちらを一瞥した。きっと、「行ってこい」の合図だろうと思った。
「沙綾。部屋に行ってもいいかな。そこで」
「……分かった」
勢いに呑まれたのか、渋々ながら了承した彼女のあとに従っていく。流し目で、送られる視線に応えながら歩く──香澄たちには「任せて」を、律夏には「行ってくる」をそれぞれに伝えるのだった。
♬
案内されて入った沙綾の部屋は、彼女の性格をよく表すような落ち着きに溢れていた。
夕焼けの眩しい西側の間取りにもかかわらず、凪紗にはそれが、どこか色褪せて見えたのだった。
「広い……というかおしゃれ」
「……」
実のところ、新居たるマンションにあてがわれた自分の部屋は少しだけ狭いと感じるときがある。贅沢の言えない状況だとはいえ、羨ましいと思ってしまった。
そんなことを口にしてみるも、沙綾からの応答はない。無視というよりも、言葉を考えているようだった。
「……凪紗は、怖くないの?」
「怖い?」
「誰かに頼って、全部任せっきりにして……もし、無理していたらって」
それが誰のことを想像してのことか、すぐに見当がつく。過去の千紘であり、未来の律夏なのだろう。
「あのときの私、母さんが倒れるまで気づかなかった.自分のことばっかりで、周りが見えてなかったんだ」
「ぞれくらいに熱中してたってことじゃないかな。《CHiSPA》にいたときの沙綾、すごく楽しそうにしてたって夏希ちゃんも言ってた」
「っ……! だからだよ!」
叫ぶように絞り出された声の大きさに、身体がわずかに跳ねたのを自覚する。凪紗は未だ彼女とは遠い距離にあることを悟った。
「凪紗には分かるでしょ! 私、みんなに迷惑かけてまでバンドできない!」
激情に触れ、根底にある想いの深さを感じる──いつだって思いやりに溢れていた彼女は、誰かを傷つけることに、誰よりも恐れていたのだろう。
夢を見る香澄を、
「私の代わりに誰かが損して──そんなの……っ」
「できるよ」
「できない!」
「できる!」
水かけ論といえば聞こえは多少はいいだろうか。傍から見れば子供の言い合いにしか聞こえないだろう。それでも、沙綾がずっと隠していた思いを伝えてくれたことに、凪紗は場違いなくらいに昂っていた。
沈黙に平静を取り戻して、もう一度語りかける。
「沙綾は優しいね。自分のことより家族を大事にしてる。──私なんかよりずっと優しい」
「.さっきも言ったじゃん。怖いだけなんだよ。家族に、律夏さんに迷惑をかけてまでバンドなんてできない。それに、今さらやるって言ったって、《CHiSPA》のみんなに何て言えばいいのか、分からないよ」
溢れる涙を隠すこともなくなって、沙綾は首を横に振った。
光から目を逸らして、憧れに惑うまぶたを閉じたまま自分を責め続けていれば、それでいいと彼女は言う。それが贖いだとばかりに叫ぶのだ。
「兄さんはバイトとして雇ってもらおうとしてるんだから、迷惑なんてことないよ。それに、そう決めたのは兄さんで、頼んだのは私なんだから」
「同じことだよ。それだって、凪紗のためにしていることでしょ。凪紗はそれでいいの?」
「それでいい……っていうより、そうしたい。兄さんが支えてくれる気持ちを信じて、それに応えたいって思う」
「っ.」
千紘や亘史の前で言ったように、沙綾の気持ちは正直に言って理解できる。つい弱気になってしまう自分がいることも事実だ。
だけどこの場では、沙綾の前では、共感しない。したくない。
──あの日香澄と感じた情熱に、嘘をつきたくないから。
「沙綾と二人で帰ったあのとき、訊いたよね。『兄さんには好きなことをして欲しいって思うか』って。
その通りだよ。もしお父さんの事故が起きていなかったら、私が夢を諦めて、二人でぜんぶ半分こにしてたら、兄さんにはきっと、たくさんの素敵な友達と思い出ができていたんだろうなって、今でも思う。でもね──」
視線を上げ、沙綾を見つめる。潤んだ瞳が、はっきりとこちらを捉えていることを確認しながら、凪紗は続けた。
「私が、夢とそれを叶える仲間を見つけられることの方が、大事だったみたい」
バカなんじゃないかと思った。お人よしに過ぎるんじゃないかと──自分が、妹というだけで、そこまでできるものなのかと疑った。
でも、それはまぎれもない真実だった。まるで父と母が与えてくれるように、律夏はそれくらい自然なことのように、夢に続く未来をくれた。
「それに甘えてしまうなんて、情けないかもね。でも、そのおかげで決心できたんだ。今まで諦めていたことも、いっぱい挑戦できるようになった。……それに、香澄と、りみと有咲、おたえ、沙綾に出会うことができた」
花女になら、何かがあるかもしれないと思った。その予感は当たっていた。そして、兄はそれを叶えてくれた。
こうして真っすぐに思いをぶつけることができる本物の友達がいるのだから。
「ねえ、沙綾。私は叶えたいんだ。兄さんが託してくれたものに見合うだけの夢を。その隣に、沙綾がいて欲しいって思う」
気が付けば自身の頬にも熱いものが流れている。
必死に頭の中で組んでいた論理が融解してぐちゃぐちゃになっていく。所詮は感情が優先される生き物だなと、客観的に見つめる自分がいることに笑えてきて、沙綾からすればかなり奇怪な表情だったと思う。
「なんで凪紗が泣くの……」
「だって.! 苦しいって、知ってるから! たくさんの気持ち、堪えてきたんだよね。ずっと蓋をして、知らないふりをして──」
ついさっき、共感はしないなんて言ったのがもう嘘になってしまった。
夢の与える苦痛や恐怖を、この短い間に経験してきた凪紗でも分かってしまう。共感できてしまう。
「私は沙綾と一緒に居たい! 痛みを分かち合えるだけじゃない。いつか夢を叶えて、お父さんやお母さん、兄さんに返せるようになりたいから!」
「……っ」
そこからはもう、憚ることもなく泣いた。泣き腫らした。というのも、笑おうとしたり、気持ちを鎮めようとしても、流れ出てしまうのだ。
本能が抑えきれなくなって、どうしようもなかった。目の前の沙綾に縋ることもなく、ただ子供のように一人で泣いていた。
次第に沙綾が折れて、「わ、分かったから……!」とハンカチを差し出したのは、その少し後のことだった。
♬
「……それで、解決したのか」
「……」
「凪紗?」
「ああいや、その.」
答えのない自分に少し焦っている様子が、背に受け止める律夏の声色で分かる。普段から達観してばかりの彼にしては珍しい一面を見てやったと、実際に見たわけでもなく凪紗は一人そう思っていた。
自分の代わりに答えた沙綾の目元も少し赤くなっているが、この夕暮れ時には気づかれないくらいだろう。
「凪紗、お兄さんだったら大丈夫でしょ?」
「いや、というか誰に見られるのもちょっと」
「私は見ちゃったんだけどな……」
凪紗は泣きすぎていた。そのせいで瞼は沙綾以上に赤く腫れて、香澄をはじめ下の階にいた友人たちや沙綾の父母には見せられなくなっていたのだった。
「まあ、それならそのままでいいとして。……沙綾ちゃん、こっちは俺が雇ってもらうことについては、了解を貰ったよ。後は沙綾ちゃんがどうしたいか、になる」
「それは……」
沙綾は未だ迷っているようだった。説得には全力を尽くしたつもりだが、それも当然かと思う。それだけ、彼女にとっては重要な決断なのだ。
「さ、沙綾!」
そんなとき、香澄が声を上げた。
「私、沙綾とバンドしたいよ。一緒にキラキラドキドキしたいって、沙綾とならそう思うから!」
真っすぐな本音に、りみと有咲が続いていく。
「……私も。新しいメンバーが入るなら、知らない人より山吹さんの方が気が楽だし」
「私も! 沙綾ちゃんとできたら、すっごく嬉しい」
「みんな……」
その場の誰も嘘をついていなかった。──それは正確に言うなら、建前や耳障りのよい体裁だけの言葉ではなかった。それが分かって、やはり凪紗は、この出会いが導いてくれた道を進んできたのは間違いでないと思えた。
「沙綾」
「おたえ?」
「はい、これ」
呼びかけたたえの両手にはさきほどのうさぎのしっぽパンがあって、彼女はそれをおもむろに沙綾と自分へ差し出した。
「え、ええっと……?」
「沙綾も凪紗もきっとお腹空いてると思って」
「この流れは何か一言言うところだっただろ……」
言葉よりも行動で自分たちを元気づけようとしたのだろうか。それが律夏の作ったパンであったことは措くとして、凪紗と沙綾は苦笑交じりに受け取るのだった。
「んんっ、すごくもちもちで美味しい.!」
「そうよね。律夏くん、これも独学なの?」
「ええ。レシピ本を何冊か、学校の図書室で借りたんです」
答える律夏の隣では、それってすげえ絵面だな、なんてツッコミを構えそうになっただろう有咲がいた。見た目と異性なのが相まってか、クライブでは極度の人見知りを発揮していた有咲だったが、少しは慣れただろうか。
衝動と戦う有咲を見ていると、手元にマグカップが差し出される。
「……この通り、律夏君の腕前は確かだ。もし沙綾が心配しているのなら、今まで沙綾に任せていた仕事は律夏くんに頼むことにするよ。そのうえで、好きなことに挑戦してみたらどうだ」
「父さん……」
「今まで、沙綾はお父さんとお母さん、純と沙南のためにすっごく頑張ってくれた。その優しさを、もっと自分に向けて」
千紘が言う。
沙綾の憂いの直接の原因になっていた事実に対して、彼女は悩んでいたのだろう。凪紗にとっての問題──母親の事情にも重なることだった。
「沙綾はひとりじゃないよ。香澄ちゃんたちも、律夏くんもいる。純も沙南も、沙綾に守ってもらってばっかりじゃないよ」
その言葉に、いつの間にか沙綾のもとへやってきていた二人が頷く。
「おれ、もう泣かないから。手伝いだってもっとやる」
「さーなも!」
「……!」
遊びたい盛りの純たちが迷わず放った言葉が、今まで、二人がどれだけ沙綾に支えられてきたかを示していることを理解して、凪紗は彼女の献身の深さに心を震わせた。
彼らと同じように、私も支えられていたのだと思った。
そして、その言葉は、沙綾の怯えを取り除くに充分であるようだった。
「……なんか私、全然だめだね」
目尻を拭う仕草の裏側には、先ほどとは違って笑顔があった。
二、三度小さく頷いた彼女は、それを隠すことなく、
「ありがとう。……私、またやってみる」
と、確かに言ったのだ。
☆
そこからは早かった。
「ほんと!? ……やったあああ~!」
そんな香澄の叫びをきっかけに、《Poppin' Party》の面々はとりどりの喜色満面を浮かべて跳ね回った。
その中の例外──有咲は安堵からか長い溜め息をつき、それは凪紗も内心では同意できるところだった。
「それなら、文化祭を見に行く準備をしなくちゃ。みんなのバンド演奏はいつからなの?」
「えっと、何時だっけ?」
実のところ、まだ詳しいプログラムについては決まっていなかった。知っていると言えば、その決定に携わっている委員の香澄くらいで──。
「香澄?」
「え、ええーっと……いつだったかなあ……?」
メンバーがジトっとした視線をを向けられ、分かりやすく目を泳がせる彼女に、思いついたように律夏が鞄のなかを探り始めた。
「確か……あった。これ、当日の予定表だから確認してみよう」
「え、なんで持ってるの──ああ、生徒会か」
口をついて出た言葉の通り、きっと兄は生徒会の準備で手に入れたのだろう、香澄が失くしたものと同じプリントがその手にあった。
「香澄ちゃんから聞きましたけど、律夏さん、生徒会に入っているんですね」
「うん。下世話だけど、内申目的もあるからね」
りみの言葉に苦笑交じりに答える、その裏側にいろいろな苦労や悩みがあったことは、凪紗も知るところだ。自分がこの道を選ばなかったなら、それも無用のものだっただろう。
良くも悪くも、自分の選択が律夏に大きな影響を与えてしまうかもしれない──そう考えた凪紗は、文化祭にかける思いを新たにしたのだった。
♬
「……まさか、あんなに上手く行くなんて思わなかった」
「そうだな。まあ、
「あれだけ、って……もしかして、聞いてた?」
「……」
「ちょっと! 聞いてたの!? 答えてよ!」
暮れなずむ町の中、自転車を押して帰路を歩く律夏の背を必死に追いかける。全部聞こえていた、なんて言われてしまえば、夕日のせいにできなくなるくらいの赤面ものだ。
「それはそれとして、文化祭の準備はあれで済んだのか?」
あからさまな話題転換で誤魔化される。それには騙されまいとする自分もいるが、そこはメンバーに確認して、あとでたっぷり問い詰めればいい。──嘆息して、そう考え直すことにした。
「……ひとまずクラスの方でやれることはやった、って感じかな。バンドの方は香澄が曲を作ってるから、それを待つって感じ」
「曲を作る? ──初心者って言ってたのにすごいな」
「いやまあ、正確には作詞だけどね。曲はおたえがイメージしたのを私と形にしてる」
沙綾を新たに加えた《Poppin’ Party》のメンバーは、文化祭の企画書作りの一環で、当日にクラスへ配るエプロンやパンのメニューの調整を行った。これでクラスの出し物は問題ないとして、目下の課題はバンド発表の方である。
それを言うと、「お前も初心者だろ」という目を向けられて、それから遠いどこかを見つめる目で「そういえばお前だったな」と、意味深に告げられる。
「どういう意味か分からないけど……お前なら何でもこなせる、みたいな意味だったら違うからね。結構苦戦してるし」
「へえ。そんなものなのか」
律夏は意外そうな声色を背中越しに向ける。久々に眺める彼の背が大きく見えて、ふと足が止まる。
それを訝しんでか、律夏も同じように動きを止め、身体をこちらへ翻した。
「……でも、
「どういうことだ?」
「兄さんが、あの決断をしてくれなかったらこの時間はない……あの提案をしてくれたから、この時間があるんだよ」
入学前、変わり行く生活のなか、守りたい自分を守ろうと決断をした。
沙綾と距離が遠くなりかけたとき、手を離すまいと、必死に考えてくれた。
──それだけの想いに、報いたかった。
「ありがとう」
言葉で全てが伝わるとは思っていないけれど、だからこそ、流れる涙にも意味がある──震えながら握る手も、温もりを求めようとするこの気持ちも。
咄嗟に背に腕を回した律夏に引き寄せられて、押しとどめていたものが決壊したように溢れだした。
「それを言うのは、全部終わった後じゃないか」
「だって……っ!」
言い返そうにも、嗚咽ばかりで言葉が上手く纏まらない。それに、こんな泣き顔を衆目に晒すわけにいかないという心もあった。
「……ちょっと意地悪すぎたな」と言った律夏は、留めていた自転車の荷台へ乗るように促した。
「掴まってるついでに顔、隠せるだろ」
言葉通りにして、日の落ちる住宅街を走る自転車の揺れに身を任せる。心地よい風の中、真っ黒の学ランに顔を埋めていると、周りが見えなくなった分、素直になれる気がした。
それが彼なりの詫びであることに気付くのは、もっと後になってからのことだった。
あと3話くらいで1章が完結します。
続章はもうちょいシリアス度を下げていきたかったりするけど、無理だろうなぁ......