「――私は、他の誰でもない、最後のメンバーに沙綾を迎えたい」
凪紗がそう言い放って、沙綾を見つめた。その気迫は見る者みなを気圧すようで、彼女の視線の先にいた沙綾が少したじろいでいたようだった。
きっと、彼女も思いは沙綾と同じなのだろうと、律夏は薄々感付いてはいた──それを自身の覚悟に資した凪紗と、夢を見ることを諦める理由にした沙綾で、選んだ道が変わってしまっただけで。
それでも、沙綾の選択を責める権利などどこにもなかった。それは、家族を支えることの重大さと使命感を抱え続ける律夏としても共感できたからだ。
──それでも、本当はどこかで納得できていない思いもまた、共感できてしまう。
「──二人できちんと話をしたい。今度はちゃんと、分かり合いたいから」
それも当然と言えば当然で、そこまで干渉しようとしていた自分の浅薄さ──凪紗に言わせれば「お節介焼きで心配性」らしいが──を一人苦味ある笑みで圧し潰していたところで、凪紗が振り向いた。
「大丈夫、四人にもきちんと説明する。兄さん、お願いできる?」
組み立てられた流れに沿って、
彼女もきっと、緊張している。
だから、精一杯に応えよう──こちらは任せておけと。
律夏は短く、そして深く頷くのだった。
♬
「……ええっと」
凪紗たちが沙綾の自室へと向かっていくのを見届けると、呆然とする面々──沙綾の父母、そして香澄たちバンドメンバーの困惑が一気に広がっていく。
その中の一人、りみがおずおずと声を上げた。
「凪紗ちゃんの言ってた説明って、もしかして……」
その言葉の先をりみは遠慮したようだったが、律夏としてはしっかりと触れておく必要があると感じた──そこに踏み込んでこそ、これからのバンドが成り立つのだから。
「ああ。ここに来る途中、凪紗からも説明があったと思うけど.うちの事情について、凪紗は改めて皆に知ってほしいと思っているから」
凪紗ではなく、
そこに律夏自身の意志がなければならないと考えたのだ。
「凪紗から聞いたんですけど.その、お父さんが事故で亡くなって、お母さんが入院をして──そのあとのお家のことを、律夏さんに任せているって、本当なんですか」
それを訊く香澄の表情は曇っていた。若葉家や先のことを考えたうえでの不安や、このことを出会ってから黙っていた凪紗に対する不信も、僅かながら汲み取れた。
「それは本当のことだよ。今回、沙綾ちゃんをバンドに引き入れるにあたって俺がその代わりになろうとしていることも、その一環──みたいなものだと思ってくれればいいかな」
「でも、それって──」
それは、ただの自己犠牲ではないのか。
言葉に差異があっても、香澄は、本当はそれを問うていたことに気が付いた。自己犠牲よりも、自傷に近い何かではないのかと。
有咲や、その後ろで話の推移を見守る千紘と亘史も、それが分かっているようだった。
自分の置かれている状況が、周囲から見てどう受け取られているかは認識しづらい。主観と客観の大きな乖離を埋める方法を考えなければならなかった。
「……皆が高校に入学したときは何を考えてた?」
「えっ?」
きょとんとした表情に変わりゆくのを確認してから、言葉を続ける。
「色々あるとは思うけど──入学式の日に考えたり、感じていたこと。市ヶ谷さんはどう?」
「わ、私!? そ、そうですね……」
「有咲ちゃんって、確か入学式の日はお休みだったんじゃ……」
「わあぁ! そ、それ言うなって!」
「そうだ、あの日、有咲って新入生代表の挨拶だったじゃん!」
「な、なんで知ってんだよ……」
部屋の隅で存在感を消そうとしていた彼女を狙撃すれば、とんでもないストーリーが飛び出した。
騒ぐ彼女らに苦笑し、その理由を促す。
「まあ、事情は色々あるんだと思うよ。なんで休もうと思ったの?」
「そ、それは……新学期だし、また人間関係やり直しだし.面倒だったので」
「えー!? 新しい友達できるし楽しいじゃん!」
「皆が皆お前みたいにコミュ力あると思うなよ!」
「有咲、それなんか悲しいね」
たえの感想が有咲を冷静に捌く。もっとも、それを聞いていたりみも「少し分かるかも」といった表情だ。
「人によって感じ方は分かれるけど、入学式は新しい環境への入口なのは間違いないと思うんだ。高校生活をどう始めるか、それを決めることが一番大事だと、俺は考えてる」
一同がはっとしたように律夏の方を向く。
「経緯はどうあれ、凪紗は香澄ちゃんたちとの出会いでそれをバンド活動という形にした。そこで感じたものが、何よりも代えがたい体験だったから」
ライブハウスからの帰りに見せた凪紗の表情を、今でも克明に覚えている。しばらく見ていなかった、期待の輝きに満ち溢れた瞳を、律夏は忘れない。
それを零れ落ちてしまわないようにすることが自分の役目だと、そう決めたことも。
「凪紗にとって、この三年間はかけがえのないものになると思う。それは皆との出会いがあってこそで、俺はそれを──自分の残りの時間と引き換えにしても、支えたいと思ったんだ」
やり方はきっと他にもある。家事を分担し、お互いがお互いを支えながら生活を送ることもできる。
だけど、そこにあの瞳の光輝はないのだろうと、律夏は直感した。
「俺のやっていることが正しいかどうかは分からないけど.少なくとも、後悔はしていないよ。俺自身、この選択をした以上は、未来に向けてできることを積み重ねて──凪紗が負い目を感じなくて済むようになりたいと思ってる」
「律夏さん……」
律夏の独白を、いつの間にか皆が聞き入っていた。ふと、わずかな沈黙の中から有咲が声を上げた。
「……私には、よく分からないです。なんで、そこまでできるのかって──」
その場の対応を見る限り、きっと彼女は聡明なのだろうと思った。その率直な感想ももっともだと思う。
瞑目し、努めて柔らかに答える。
「それは、きっと俺が
どこまで突き詰めても、結局はそこに行き着く。誰にでもこうするわけでもなければ、仕事を肩代わりするのだって厳密に言えば沙綾の為ではない。
妹であり家族である凪紗のため──ひいては、役割を果たすべき兄としての自分のため。
迷いなく、今はそう言える──どこまでも真っすぐに響いたその覚悟に、香澄たちは頷く。
ひとまずは納得してもらえたらしいと、律夏は内心で安堵を滲ませるのだった。
♬
ベーカリーの朝が早いことは、よく知られているのではないか。
そもそも、パンの製造自体が長い時間を要するのだから、八時には開店するやまぶきベーカリーへは夜明け前への出勤となることは予想がついていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう!」
遠くの空に朝日が昇りきらず、ようやく動き出そうとしている店内はまだ少し暗かったが、亘史の元気な声が飛んできた。
事前に受け取っていたエプロンを身に着けると、律夏は彼の作業する厨房の隣に立った。
「今日は初めてだからね。捏ねから焼成までは一通り僕がやっているものを見ていてくれ。状況に応じて、手伝ってほしいことを指示するよ」
「はい」
ミキサーで生地を捏ね、それを成形し、オーブンで焼き上げる工程は律夏自身も体験して身についているとはいえ、流石に本職の腕と手つきには敵わない。
前日に決めたメニュー通りに休むことなく作業を進めていく亘史に必死に食らいつきながら、その手順や気付いたことを記憶していく。
「……いやあ、バイトの子を雇うのは初めてなんだけど、作業しているところをみられるのは落ち着かないね」
「す、すみません。集中していたものですから」
「ああ、いや。それは気にしなくていいんだけどね」
手を大きく振って、こちらの詫びは要らないと伝える亘史は、浮かべていた苦笑を改まった表情へと切り替えて捏ね続ける。
「実のところ、僕も悩んでいたんだ。妻も体調が不安定なのは確かなんだけれど、沙綾に頼り続けることは──あの子の自由を奪ってしまうことは、本当は避けたかった」
生地を薄く延ばしながら、誰にも聞こえない呟きを零すようだった。律夏もそれに答えることはない。
「沙綾が音楽を辞めてから、店や家事を手伝うようになって、妻も僕も、とても楽をさせてもらってきた。だけど、沙綾が心から楽しそうに笑う姿を見なくなったんだ。店に友達を連れてくることも減った」
彼は「情けないことだね」と言いながら、生地の形を整え、素早くベーグルの形に巻く。手さばきとは対照的に、重苦しげな表情が浮かんでいる。
「沙綾ちゃんはきっと、家族のために正しい選択をしました。それが自分の夢に目を瞑ってのことだったとしても、それ以上にご家族のことが大切だったんだと思います」
「そう思ってくれていると信じているよ。それでも、だからこそ後悔してしまうよ。もっと早くに手を打っておくべきだったとね」
凪紗の話からすると、沙綾がバンド活動を辞めたのは中学生の頃だ。それが何年前なのかは分からないが、亘史からすれば、失わせてしまった時間は大きいのだろう。
父が亡くなって、まだ一年が経っていない。この時間をどう捉えるかは自分次第であるように、亘史や千紘にとっての沙綾の時間に対する感覚もまた、その喪失を大きく映すのだろうか。
「ご両親の立場からすれば、後悔は大きいものになるのかもしれません。ただ──」
ただ、これだけは言える。
「俺が感じるように、家族のために、父と母のために使う時間を無駄だとは思わないと──沙綾ちゃんは感じているはずです」
大切な人を、その人との生活を失うことは誰でも恐れるものだ。
それと引き換えにする何かがあったところで、構うことではない──沙綾はそう思うことのできる人間だっただけだ。
それの何が悪いというのか。
「……本当に、家族思いの子ですね」
「ああ。自慢の娘だよ」
そう返した亘史の表情は、少しだけ軽くなっていた。
♬
「──それでは、若葉さんがアルバイトとして雇われることで、山吹さんの問題を解消したのですか?」
「まあ、端的に言えばそういうことですね」
文化祭前、最後の打ち合わせ。
スケジュールの読み合わせ中、ふと紗夜にこの件のことを報告すると、自分の態度が平静すぎたらしく、しばらく目を丸くしていた紗夜が我に返って、大きな溜息をついた。
「はぁ.正攻法で解決できると思っていた私が甘かったのでしょうか」
「正攻法って.」
この問題の正攻法があるならば是非ともご教授頂きたいところなのだが、ともかく自分の取った手段は搦手のようなものだったらしい。
「あなたとの会話は、スムーズですが疲れるときがあります」と零した紗夜は、当日用の対応マニュアルを一ページ進めた。
「一応、アルバイトの許可は取ってあります。左門先生に」
「ああ、あの」
「呼んだか?」
「うわっ」
ぬっと現れた彼はいつのまにか生徒会室へと侵入していたらしい。忍者も驚きの潜伏力だった。
「急に話しかけないでください」
「氷川、それはいくらなんでも言葉の暴力ってやつが過ぎるぞ」
「まあ、不躾かもしれないですが妥当ですね」
これに対して本当に理解できないといった表情を浮かべるので、ますます紗夜の溜息が深まる。──否、
「少し話が聞こえてな。アルバイトの件なら了解したぞ。あの通りはよく通るが、求人なんか募集してたか?」
「妹の伝手で少し」
「成程.ま、色々と入用なんだな」
それから横目でちらりと紗夜と自分を眺め見て、はたと納得したように意味深な表情だった。
「なにか勘違いされてませんか?」
「違うのか?」
「ありえません」
「おい若葉、お前こんなこと言わせておいていいのか」
「勘弁してくれ……」
望んだ未来だとはいえ、こうなるとは想像していないものだ。
凍えるような気迫の持ち主と、それを意に介さない鈍感教師に挟まれて、律夏は思わずとほほと息を吐くのであった。